JO7TCX アマチュア無線局

せんだいSD550  山岳移動運用 

ベランダ小発電の試み(2)

2013年01月27日 | 東北大震災


 大地震などによる停電対策として、一昨年、ベランダでのソーラー発電およびバッテリー蓄電を導入しました。停電になった時にノートパソコンや固定電話に個別に100V供給できればよいとの考えでした。いわゆるポータブル電源。鉛シールドバッテリー2個(33Ah、105Ah)は満充電しても自然放電してしまう。そこで、5Wソーラーパネルから常時給電し、いつも満タン状態にしておく。実際、たまに電圧を測ってみると、12.9~13.2Vを維持してくれます。いざという時は、これにインバーターを取り付け、100V機器を使う。

 これはこれでよいのですが、せっかくのバッテリーなので、普段から何かに使いたい。でも使ってしまうと、ソーラーで満充電するには、5Wではあまりにも非力。ということで、今回、新たに30Wパネルとチャージコントローラーを導入してみました。


左が5W、右が30Wパネル


 家全体の配電を換えて供給できるような装置なら別ですが、独立型の小発電の場合は使う目的を明確にした方がよいようです。パネルだけ大型にしても、持て余してしまう。今回は、固定で使っているモービル無線機(FT7800)をソーラー発電だけで駆動することにしました。自分の場合、ホームでワッチしたり、たまに交信したりするのは夜間や朝方なので、消費した電力を日中にソーラー発電で戻してやる、その程度のパネルでよいだろうと。

<パネル>
タイプ:多結晶シリコン
定格出力:30W
開放電圧:約21.6V
短絡電流:約1.83A
最大動作電圧:約17.28V
最大動作電流:約1.74A
寸法:縦41.3cm×横67.8cm×厚さ2.6cm
重量:約3.4Kg



<チャージコントローラー>
定格電圧:12V/24V(自動認識)
最大入力電流:20A(12V時240W、24V時480W)
入力電圧範囲
12Vシステム時にソーラーパネルの最大動作電圧が14V以上~19V以内




 パネルもコントローラーもごく一般的なものです。両方で15000円程。コントローラーは液晶が付いており、バッテリー電圧、充電電流の表示が可能で、いちいちテスターで測らなくともOKです。また各種電圧設定も可能。自分は、充電完了電圧14V、放電停止電圧11.5V,放電電圧14.0Vに設定しておきました。






 これらを33Ahのバッテリーに接続。配線は、バッテリー、ソーラーパネル、FT7800をそれぞれコントローラーの端子に差し込んでネジで締めるだけです。赤いランプが点いてソーラーパネルから給電されているのを確認。電圧表示は14.1V。念のためテスターで測ってみるとほぼ同じ数値となりました。電流は0.8Aほどしかありませんが、パネルの角度を微調整すれば少し改善するかもしれません。

 コントローラーの作動は問題なし。さっそくFT7800の電源を入れたところ、電圧表示14.2V。正常に起動してくれました。夜間は12.8Vまで下がりますが、問題なし。この状態で10Wまで送信可能で、気になるノイズもありません。




 これで電力会社に頼らなくとも、VUについては運用可能となりました。もちろん短時間の使用に限られますが。自分の使い方であれば、これで十分なようです。




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USB充電器と追加ソーラーパネル

2012年12月24日 | 東北大震災


 仙台の冬は日照時間は短いものの、晴天の日が多く、窓辺に降り注ぐ太陽エネルギーを使わない手はありません。

 ソーラー予備バッテリー700-BTS006+秋月電子の3Wソーラーパネルの組み合わせでは、約7時間ほど、つまり、朝8時から午後3時、ちょうど1日で満蓄電されることがわかりました(晴天の場合)。夜、帰宅後、携帯2台に充電すると、蓄電ランプが1~2個消えます。1日の蓄電量に対し使用量は1/3程。他に使い道はないか探してみたところ、USBエネループ充電器というのがありました。100Vコンセントから充電する替りに、パソコンなどのUSB端子からエネループに充電できるようにした機器です。


 品番 NC-MDU01


 単3または単4を2本づつ充電できます。4本セットできるタイプを探したのですが、ないようです。我が家では、数年前からほぼすべての乾電池をエネループに切り替えており、わりと消耗が早いのがCDウォークマン(音が良いので未だに使っています)、RF-U700Aで、これに加え移動運用などの際のハンディ無線機。携帯に充電してもなお有り余る電力を使い、時間はかかりますが、2本ずつ気長に充電できるようになりました。


 ついでに、出張用として700-BTS006の純正追加ソーラーパネルを2枚購入してみました。2枚で本体のソーラーパネルとほぼ同じ大きさになります。Max240mA。満蓄電は晴天で10時間程でしょうか。折りたためるようになっており、コンパクトに収納できます。新幹線に乗車中の窓際とか、ホテルに着いてからとか、会議中とか・・・、2枚程度の追加でさほどの違いはないかもしれませんが、いろいろ工夫してみたいと思います。


本体に重ねて収納可



 震災の後に始めたベランダ小発電の方は今も細々と2台の鉛バッテリーに蓄電し続けています。停電になった時に、たとえ数時間であってもノートパソコンでテレビが見られる、またファックス電話機が使える、その程度でよいという考えで、あくまで緊急な停電に対する備え。一方、普段からどう太陽エネルギーを活用するか、というと、今のところは、携帯や電池の充電にとどまっています。この二つを効果的に結合して、日常的な活用の幅を広げつつ、非常時の備えにもなる、そんな手作りシステムを思案中です。






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ソーラー予備バッテリー

2012年12月09日 | 東北大震災


 出張中に大きな地震が発生すると、まず必要なのは情報の入手です。12月7日の地震の時は、たまたまスマートフォンを持った同僚が一緒で、すぐさまニュース情報を得ることができました。自分のケイタイは通話とメールのみなので、スマートフォンの威力というものを実感しました。ネックはバッテリーのようで、実際、その同僚のスマートフォンも途中で電池切れとなり、アウト。さらに自分のケイタイのバッテリーも怪しく・・・これはかなり不安になるものです。
 

 そんなわけで、持ち運びが楽なソーラー予備バッテリーを購入してみました。

 商品名 ソーラー充電器 700-BTS006
 主な仕様
 ・バッテリー:リチウムポリマーバッテリー 容量:4000mAH
 ・定格入力 DCジャック:DC5V 1000mA  ソーラーパネル:DC5V 300mA
 ・満充電目安時間ソーラー:16時間 USB給電:5.5時間
 ・定格出力:DC5V  2.1A
 ・サイズ:W91.5×H171×D25mm 重量:225g


本体、付属品一式 カラビナ、吸盤も付属


 薄くて軽いので、出張で持ち歩いてもさほど苦にはならないと思います。LEDライトが付いており、非常時に役立つかもしれません。ついでにAMラジオも付いていれば・・・。出力はUSB端子5Vのみ。携帯電話、スマートフォン以外にも、デジカメ、ワンセグテレビなどUSB給電のものなら何にでも充電できます。ソーラーパネルの場合、晴天なら16時間でフル蓄電できるそうで、パソコンからUSB蓄電できるケーブルも付属しています。ただし、給電用のケーブルはいっさい付属していないので別途購入する必要があります。


給電はUSB 5Vのみ

蓄電状態を4段階で表示  前面にLEDライト



 さて、この手の予備バッテリーは、特にスマートフォンが普及してからは急増してきたようで、多くの種類が出回っています。その中でこれを選んだ理由はと言いますと、追加のソーラーパネルを増設できる設計になっているのです。追加パネルは別売されており、最大で8枚増設可能とか。その際のフル蓄電に要する時間は5.5時間。

 そこでひらめいてしまったのです。以前、秋月電子から買って、持て余していたソーラーパネルを増設してしまおうと。
パネルの仕様は
・最大出力3W  最大出力時電圧6.0V 最大出力時電流500mA


右が3Wタイプ

 これ1枚で純正の増設パネル8枚分の大きさがあります。たぶん最大出力も同程度。値段は純正パネルの約1枚分。電圧が6.0Vと高めではありますが、これはあくまで晴天かつベストな角度を付けた状態での話で、天気や角度によっては5V前後をキープできるのでは?

 さっそくパネルに逆流防止用ダイオードとミノムシクリップを取り付け、バッテリー本体の増設プレート(アタッチメント)につなげるようにしてみました。


逆流防止ダイオード

曇天、窓際で計測

追加パネル用プレート(付属品)にミノムシクリップで接続



 今日は曇天、電圧計で測ってみると5.4V前後。フル蓄電まで何時間かかるか、計測してみるとことにします。


 このパネルを持ち歩くわけにはいきませんが、日中、これで急速?ソーラー蓄電しておき、出張や外出の時には、本体のみカバンに入れておく。そんな使い方なら良いのでは?



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アウターライズ地震

2012年12月08日 | 東北大震災


 3.11以来、必ず来ると言われて恐れていた地震が、昨日発生しました。三陸沖を震源とするM7.3のアウターライズ地震。これが本震なのかどうか。3.11の時もその二日前、3月9日に大きな地震があり、それが前触れであったわけです。「大震災の規模を考えると、M8のアウターライズ地震が発生してもおかしくない」(地震調査委員会)とのこと。

 
 地震発生は午後5時18分。ちょうど盛岡に出張中で、これから新幹線に乗って仙台に帰ろうかという時でした。同僚のスマートフォンがけたたましく緊急速報。その数秒後、大きな揺れが続き、長いなと思っている間にもさらに大きく揺れ始め、これはただ事ではない、と直感しました。3.11の時は、ここからさらに2段、3段の揺れが続いたのですが、今回は、そこまでいかずに収束してくれました。盛岡市震度5弱。停電もなし。仙台の職場に携帯で連絡を取ろうとしても、まったくつながらず。しばらくして、職場の方から電話がかかってきました。仙台市青葉区は震度4。いったん切って、すぐにまたこちらからかけようとしたところ、やはりつながりません。発信はできませんが、タイミング次第で受信はできるようで、3.11の時と違って、少しは役に立ちました(ソフトバンク)。

 駅に着いてみると、点検のため新幹線、在来線とも運行停止。それから長い時間待たされ、盛岡駅を発車できたのは午後9時過ぎ、仙台着は11時でした。


 さて我が家のマグネット式地震予知器はどうであったのか? 実は、しっかり作動しておりました。12月4日に北側の部屋の4号機のマグネットが落下。そして、当日(12月7日)の朝、南側の部屋に設置してある5号機のマグネットが落下しました。これは朝に気付いたので、落下自体は深夜かもしれません。5号機の作動は珍しく、過去2回しかありません。今回は3回目。なので、不吉な予感はあったのです。そして案の定・・・。ただし、複数の予知器が同時または連続的に作動したわけではありません。8台ほどある他の予知器は作動せず。このあたりが、不思議でもあり、不確かでもあり、今一つ確信に至らない理由です。


マグネット地震予知器 5号機 球形の磁石が久々に落下



 いづれにしても、「磁石が落ちる」という現象自体が不吉な感じを与えてくれることに、この予知器の意味があるように思います。また今回は、地震対策を総点検してみるよい機会になりました。家具固定具の点検、充電、データバックアップ、備蓄品の補給、などなど、とりあえずできることをしておきました。



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津波記録DVD

2012年06月16日 | 東北大震災


 これまで先人たちは、津波の恐ろしさを石碑や絵図に残して伝承してきたわけです。この石碑より海側には家を作るな、と。岩手県宮古市のある地区は1896年と1933年の2度の三陸大津波に襲われ、昭和大津波の後、住民らが石碑を建立。その後は全ての住民が石碑より高い場所で暮らすようになり、今回被害を免れたのだとか。宮城県内にも主なものだけで20ほどの津波石碑があるとの話ですが、残念ながら言い伝えは守られませんでした。

 明治三陸津波の絵図をみると、それは恐ろしい光景が描かれています。沿岸部では、ときどきこれらの絵図の展示会などを開いて、具体的にイメージしてもらうよう啓蒙していたようです。でも、絵図そのものにインパクトはありますが、先祖が描いた古い絵としてとしての記憶しか残らないのかもしれません。


 今回の大津波では、地震から津波到達まで30~40分程あったこと、日中で明るかったこと、ビデオ機器の普及、報道各社が空から撮影したこと、などで、大量の映像が残されました。個々人が撮影した貴重な映像なども日の目をみるようになってきたようです。

 震災直後から出版されていた写真集に加え、1年が過ぎたころからDVDを数多く見かけるようになりました。他県ではどうかわかりませんが、宮城県内では普通に書店に並んでいます。ほとんどが地元テレビ局の編集発売によるもので、いくつか購入してみました。

 内容は、地域ごとの震災・津波映像、津波の難をぎりぎりで逃れた人たちの証言、各地の津波到達データなど。地震による停電のため、テレビを見られなかった人のために、発生直後からのニュース映像が収録されたものや報道されなかった映像、地元の人がとらえた様々なビデオ動画が収録されたものもあります。


仙台放送、気仙沼ケーブルネット、東北放送のDVD



 その中のひとつに、南三陸町に到来した巨大津波の一部始終をとらえた映像がありました。海面がみるみる上昇し、ついに堤防を乗り越えたかと思うと、ものの数分で民家の2階まで押し寄せ、さらに数分後には屋根まで水没、もはや町は見えません。かろうじて5階建て病院の上部が残るのみです。気が付くと、町全体が大海原と化し、初めからそこに海があったかような異様な光景に。ここまでものの十数分。そして今度は一気に引き波が始まる。海がまたしても移動し底が現れてみると・・・、つい先ほどまであった町並みは跡形もなく・・・。

 これは報道カメラマンではなく、町の人が高台から撮影したもののようで、所々に溜息や叫び声が混じり、その場の空気感まで伝わってきます。この撮影者が、ビデオカメラを持って避難したこと、そしてそのカメラがちゃんと充電されていて数十分の動画撮影ができたこと、しかも冷静なカメラワークを可能とするだけの経験があったこと、などによりこれだけの映像が残されたということでしょう。


 これら津波の実像を見るにつけ、あらためて、その圧倒的な破壊力、恐ろしさが実感されます。先祖の言い伝えはダテではないのだ、ということも。そして人の営みのはかなさも・・・。このまま安穏としてよいのだろうか、などと自分の身の振りまで考えさせられてしまいました。想像を絶する自然の脅威。映像の力は大きいです。




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旧雄勝町大須地区

2012年05月06日 | 東北大震災


 今は石巻市となった旧雄勝町。硯石(スレート)の産地として有名で、東京駅のレンガ駅舎の屋根にもこの辺りのスレート石が使われています。町の中心部に硯の展示館がありましたが、津波で壊滅状態となりました。

 震災前、何度か雄勝町大須集落の民宿に泊まったことがあります。大須は、湾内ではなく、外海に面していて、日の出を見ることができるのです。民宿の屋号も日の出荘。海の真ん前というロケーションが気に入り、何度かお世話になりました。

 何度目だったか忘れましたが、集落を散策していると、小学1~2年ほどの女の子が人なつこく話しかけてきて、「家で昆布作ってるよ」といって、案内してくれました。

「工場なの?」
「うん」

 付いていくと、そこは民家の敷地にある作業小屋で、中では父親らしき人がとろろ昆布作りの最中でした。乾燥させた昆布を、専用の機械にかけると、面白いように絹状のとろろ昆布が出来上がります。出来立ての昆布を食べてみたくなり、「いいですか?」と尋ねると、この人も人なつこい表情で、「食べてみて」と言ってくれました。

 これが縁となり、とろろ昆布は毎年、このAさんから直接買うようになりました。店ではないのですが、電話で注文して送ってもらうこともあります。

 震災後、数ケ月してやっと電話がつながり、状況をお聞きすると、「数軒が波に持っていかれたが、大須は大丈夫」とのことでした。その数軒の内の1軒が民宿日の出荘だったのだそうです。「道路が復旧したら行ってみたい」と告げると、「いや、がけ崩れもあって、しばらく危ないから後でいい。落ち着いたら昆布は送る」とのことでした。

 それから1年、やっと今回、大須を訪れる機会を得ました。跡形もなくなった町の中心部を過ぎ、かつて立派なスレート家屋が建ち並んでいた明神地区も土台のみを残して、何もありませんでした。大須地区へは細い車道を山越えします。所々崖崩れがあり、応急的に復旧されていました。

 たどり着いた小さな集落は、依然と変わりなく細い路地に密集したままの家並みを留めておりました。ちょうどお祭りの日で法印神楽が奉納され、子どもたちで賑わっていました。港まで降りてみると、日の出荘のあった場所は、舟置場に変わり、漁協の建物は鉄骨だけ残して、残骸をさらしていました。大須は、湾ではなく外海に面していたこと、集落が雛段状にせり上がっていること、などから大きな被害は免れたようです。


大須の家並み

祭りのハイライト法印神楽(重要無形民俗文化財)


 Aさんとも再会を果たすことができました。道路の寸断で震災直後から「陸の孤島」になり、避難所に住民が食料を持ち寄って何とかしのいだのだとか。「やっと祭りができるようになった」と嬉しそうに話していました。とろろ昆布の生産も再開したそうです。少しずつでもこの雄勝の地に活気が戻ることを願うばかりです。



大須への途中にある桑浜小学校(廃校) 天然スレート葺き



<硯上山(けんじょうさん)>

 この日のもう一つの目的は、雄勝町のシンボル的存在でもある硯上山(標高520m)での無線運用。この日は、福島の局との特小実験を兼ねて登りました。相手局の移動地は吾妻小富士1707m。カシミール3Dでは見通し距離134km。成功すれば、当局にとって新記録樹立となったはずでしたが・・・。残念ながら、交信成立とはなりませんでした。とぎれとぎれに相手局の変調は届いていたのですが、双方の風が強く了解度が著しく下がったこと、吾妻小富士側の濃霧の影響等々で、交信できないまま、信号自体が入らなくなってしまいました。超ローパワー10mWの世界は容易ではないです。


硯上山山頂


山頂より雄勝湾と中心部


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仙台の地学

2011年12月30日 | 東北大震災


 今年ほど「人間も自然の一部」と感じられた年はなかったように思います。3月11日と4月7日の地震で仙台中心部も震度6の揺れを観測しました。2年前の栗駒山の地震の時もすさまじい揺れを感じましたが、今回はその比ではありませんでした。

 そろそろ来るだろうと思われていた津波も予想を超える形で現実のものとなりました。



 ふとXの蔵書を眺めていたら、『新編 仙台の地学』という本が目に留まりました。地学団体研究会仙台支部編集で昭和59年発行。教科書の副読本だったのかもしれません。扉をめくると、400万年前の仙台付近の復元図が載っていたのですが、これを見て、驚いてしまいました。なんとその当時、今の仙台中心部は完全に海の底だったのです。



 たまに移動運用に出かける蕃山(萱ケ崎山)が岬で、その隣の権現森は島になっています。南に太白山が今と同じかわいらしい姿で描かれています。かつてこの山は海からよく見え、船乗りたちの灯台代わりだったそうで、山頂には貴船神社が祭られてあります。この絵をみるとそれがよくわかります。北に目を転じると、七ツ森が海に突き出て、栗駒山あたりからは噴煙が上がっています。我が家は?というと、ちょうどクジラが潮を吹いているあたりです。

 今回の津波でここまで広範囲に水没したわけではありませんが、「水は昔を覚えている」ということがあらためて実感されます。移ろうのは人の世に限ったことではありませんね。何百万年という歴史の過程では、地球の圧倒的なエネルギーによって自然も地形も刻一刻と姿を変え、人もそのダイナミズムに翻弄されて逃れることはできない・・・。その後、陸地が隆起し、広瀬川の固い段丘の上に、今から約400年前、仙台の町が築かれたわけです。伊達政宗公の時代も津波があったそうだから、海から約10km離れた城下中心部に海水が押し寄せることはなかろうと踏んでの町づくりだったのかもしれません。今更ながら政宗公とその洞察力に感謝です。でもさすがに、地下深く巨大な活断層が眠っていることまで知っていたかどうか・・・。


 さて、このブログも開設して3年数か月が過ぎ、なんとか今日まで続けることがことできました。石の上にも三年といいますから、来年は何か報われることもあるのかしれません。今年は、3月の震災をきっかけに、地震予知とか防災とかQRPとか、それまであまり気に留めなかったことにも関心を深くしました。これからどんな方向に興味が向くのか自分にもわかりません。月3~4回、書き留めたいテーマが見つかった時だけ書く、というスタンスでこれからも続けていければと思います。この一年、お付き合いいただき、ありがとうございました。



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災害のリスクヘッジ

2011年05月28日 | 東北大震災

 いつか来るのではないかと恐れていたことが現実となって、あっという間の2ヶ月半が過ぎていきました。千年に一度とか、数百年に一度とか、諸説あるにしても、自分の人生において、こういう災害と巡り会わせてしまったことの仕儀について、なんらかの形で気持ちを整理する時間は必要なのだろうと思ったりもします。これだけの災害が起こったのだから、もうしばらく何もないだろうと考えたくなる気持ちもわかるし、今回のことは次の災害への前触れに過ぎず、これから何が起こっても不思議ではない、と考えるのもわかります。

 原発にしても地震後数日の内に3基がメルトダウンになっていたそうだから、今起こっている本当のことをリアルタイムに知らされることはないのだ、ということだけはわかりました。最近は仙台ですら、原発事故や震災の報道が少なくなっています。自分も震災直後の異様な緊張感は消え、原発のことだけ頭から離れない、という状態が続いています。一定の緊張感を維持し警戒し続けるというのは常人には難しいことで、「災害は忘れた頃にやってくる」と言われるのももっともだと思います。報道が少なくなると、行政や専門家と言われる人たちが知恵を出し合って、何か良い方向に向かっているのでは?などと何の根拠もなく楽観的に考えたくなるのですが、現実はまったく逆のようです。

 これから起こりうる地震に関連した災害リスクを挙げてみると、仙台周辺に限っただけでも、
 1)M8クラスの誘発地震の発生と女川原発からの放射能もれ
 2)福島第一原発の冷却化の失敗
 3)長町利府断層による直下型地震の発生
 4)蔵王(活火山)の噴火、などなど。

 どれも勘弁してほしいわけですが、特に過大というわけでもないと思うのです。

 長町利府断層は仙台市中心部の東側を南北に走る断層で、我が家からわずか数百メートルの距離です。2千8百年以前に活動し、活動の間隔は推定4千5百年とか。自分が生きているうちは大丈夫かと思いましたが、今回の巨大地震でバランスが崩れてしまったのでは?などと、心配し始めるとキリがありません。蔵王に関しては、1867年(慶応3年)と1895年(明治28年)に噴火があり、山頂の御釜が沸騰、火山泥流や広範囲の噴石が発生した記録があります。

 これまで特に調べもせず、意識することもなく暮らしてきたのですが、震災を機に、過去の災害ということにも関心を持つようになりました。いろいろなことがあって、多くの人が亡くなり、そしてたくましく生き残る人がいて、自分もその子孫の一人なのだ、などと見知らぬ先祖の壮絶な苦労に思いをめぐらせてみたり・・・。ほんの少し歴史をひも解いてみただけでも「災厄は常に隣にいる」ということがひしひしと伝わってきます。

 さて、今回の震災でありがたかったのは、宅配の復旧と同時に、関西や九州にいる知人が食糧や物資を送ってくれたことです。日本全体が災害に見舞われればアウトですが、各地に分散して親戚や知人がいるというのは、それだけでリスクヘッジなのだと思いました。古くからの地元商店や農家をもっと大切にしなければとも思いました。地産地消、歩いて買い物ができることのありがたさも身にしみました。平成の大合併の影響で行政の手がまわらない過疎地域が多いとも聞きます。言われているように、集積とか集中とか大型化とか、そういうことに突き進み過ぎたのかもしれません。分散、小規模、少人数でも成り立っていける世の中の方が様々なリスクに対応できるのでは?素人ながらそんなふうに思えてきました。


 昨日、NHKで気仙沼市の大浦という集落のことが報道されていました。地震直後の津波に加え、船の重油などで大規模火災が発生し、全滅に近い状態となりました。情報が途絶え、完全に孤立した中、高台の数軒の家に、逃げ切れた人が避難し身を寄せ合って過ごしたそうです。そのうち、長老の記憶を元に、山の沢から水を引き、薪とドラム缶で湯を沸かして、寒さを凌いだとのことでした。食糧は自家栽培の野菜や冷温貯蔵していた魚までありました。想像を絶する悲惨な状況にもかかわらず、何だか楽しそうに暮らしているのです。「なあに、昔の生活に戻っただけだよ」と。



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災害時の情報確保

2011年05月01日 | 東北大震災


 震災では3日間の停電を経験し、日頃いかに電気に頼りきっていたかということを痛感しました。そして停電すると一気に情報不足に陥ることも。テレビにしてもインターネットにしても、あふれるほどの映像の中で過ごしていると、これらが一挙に消えてしまうこと自体に不安を覚えてしまうようです。

 ラジオからは被害の様子が淡々と聞こえておりました。後で聞いた話しでは、停電で映像を見られない被災地の人の不安をあおらないようにとの配慮から、事実のみを伝えたのだとか。

 ラジオを聴くという習慣がないこともあり、余震が続く中、長野でなぜか震度6とか、さらに静岡、続いて秋田??などと、思いもよらぬことが伝えられ、不安は増幅するばかりでした。何が起こっているのかよくわからないまま、新しい事実が音声のみで伝えられるというのも怖いものです。

 今回のことで、電源と情報の確保の大切さを再認識しました。できれば予備を含めて複数の手段を確保しておくことが望ましいわけです。

 そこでまずは情報。手始めにノートパソコンで地デジを見られるようにしてみました。停電になっても、付属のバッテリーで2~3時間、視聴できるはずです。USBの外付けチューナー。ヤマダ電気で特売していたものを衝動買いしてしまいました。フルセグとワンセグの両方を見られるタイプです(アイオデータGV-MVP/HZ3)。



 わずか5×3センチ程の小ささ。これをUSBポートとアンテナ線の間に挟むだけで、地デジが視聴できます。こんな小さいチューナーでよいのであれば、あの大きなテレビは何が入っているのか?不思議な気分になりました。実際、映してみたところ、十分過ぎるほど精細な映像でした。番組表をダウンロードして簡単に録画もできてしまいます。バスパワーなので、電源はパソコンバッテリーのみ。ネットの情報では、OSとの相性などトラブルも多いようですが、当局の環境(win7 64bit)では問題ありませんでした。

 当初は、乾電池で作動するハンディ型のワンセグテレビを考えたのですが、震災後ということで売り切れでした。入荷も未定。誰しも考えることは同じようです。今回の震災で痛感したのは、事が起きてからでは買えないということ。あっという間に店から消えてしまいます。防災用品にしても電池にしてもそうです。普段は店の隅で、見向きもされず肩身の狭い扱いを受けているものばかりなのに・・・。

停電になるような大きな地震はしばらく来ないかもしれない、多くの人がそう考え始めた時こそ、備えを進めるチャンスかも、そんなふうにも思えてきました。

 そんなわけで、情報確保の選択肢は一つ増えました。でも、テレビ漬けはよくありませんね。あくまで災害用ということで、これを機に、普段からラジオ生活に慣れておくのも良いのでは?


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東北大震災その6

2011年04月17日 | 東北大震災


 震災からちょうど1ヶ月の4月11日、我が家にもやっと都市ガスが通り、風呂に入れるようになりました。4月7日の最大余震で再び停止になったところもあり、全面復旧は今月いっぱいかかるそうです。

 当地は、もともと宮城県沖地震が20年以内に99%発生するということでもあり、2年前に栗駒山の地震もありましたので、精神的にも物的にも備えは進んでいた方だと思います。我が家もここ数年、家具の固定とか水の備蓄とかをしてきたのですが、思いのほか早く、しかも予想を超える巨大地震に見舞われてしまいました。今思うと、あれをしておけば良かった、これをしておけば良かったということは多々あります。今回の災害を通して、有効であったもの、こんなものがあれば良かったと思ったものなどを途中経過でまとめてみました。


 《家具固定》

 我が家は鉄筋コンクリートの集合住宅の3階で、床はフローリング、天井はコンクリート(一部板天井)、壁は壁紙が貼ってあるだけというごく一般的な作りです。大型の書棚、タンス、食器棚は床との間にはさむ隙間マット、天井との間に突っ張り棒、さらに壁との間にガムロック(粘着固定具)と、3重に固定しておきました。

 書棚の中で本が崩れていましたが、棚そのものは動いた形跡はありませんでした。食器棚の中に滑り止めシートを敷いてその上に食器を重ねていたためか、中の食器も無事でした。ただ、台所の吊り棚に置いてあった醤油差しが倒れて、垂れてしまいました。しばらく醤油のにおいが充満。液体モノは要注意です。

 冷蔵庫は、大型のガムロックで壁に固定しておきました。ドアが開いたり、中のものが飛び出したりということはありませんでした。他のお宅では冷蔵庫が倒れたり、倒れなくとも中が散乱したそうです。

 電子レンジ、テレビについては、ベルト式のガムロックで壁に固定。こちらも無事でした。

 無線機は、机自体に粘着ゲルマットを敷いた上で、FT450とIC910の下にもゲルマットを敷いて乗せていました。無線機は無事でしたが、その上に置いていた時計とローテーターのコントローラーが床に落ちました(幸い故障なし)。アンテナは被害なし。

 全体として、すべての固定具がそれなりの性能を発揮してくれたと思います。

〈網状の滑り止めマット〉
 食器の下などに敷いておいたのですが、たいへん効果ありました。サイドボードの上とかスピーカーの下とか、いろいろ使えます。ロール状で売っています。安いしお勧めです。

(ガムロック)
 我が家のメインの粘着固定具。少し高価ですが、ネジが効かない石膏ボードにも有効で取り付けが簡単です。様々なタイプがあるのですが、その中でT型やL型は内部応力が働くため、剥がれが発生しやすいです。我が家では十数個使っており、自然に剥がれていることが何度かありました。使うならT型やL型とベルトで連結するタイプ(内部応力なし)を組み合わせた方が安全です。これに限らず、固定具は付けて終わりではなく、時々点検が必要と感じました。
 

 《照明器具》

 強い地震が来ると自動的に点灯する装置(コンセントに常時差し込んで蓄電しておくタイプ)が3個、もともと備え付けられています。震度5程度の余震の度に点灯してくれます(昼でも)。この他、居間にLEDランタン1台。各自にマグライト1本ずつ。トイレなど家中どこに行くにも真っ暗なので、各自1本用意しておいてよかったです。ロウソクは余震で倒れそうになって危ないという話しを聞きました。街全体が停電なので、とにかく真っ暗で、夜の行動はできません。夕食も明るいうちに準備を済ませて、食べてしまう。夜は何もすることなし、早めに寝る。数日の原始生活を体験しました。
  

 《調理、水、食糧》

 普段から鍋料理に使っているカセットガスコンロ1台。カセットボンベは15本くらい買い置きがありました。都市ガス再開まで持つかどうか不安だったので、電気が復旧してから卓上型IH調理器を購入しました。ボンベ不足の心配がなくなり、大活躍してくれました。ただ、動作音(ファンの音)が思いのほか大きく、災害時以外は余り使いたくないです。

 水はペットボトルの保存水を備蓄していました。その後は、マンションの貯水タンク(1Fに設置)の蛇口から給水を受けました。3階でよかったです。上の階のお宅は水を運ぶのにたいへんとのことでした。洗い水を省くため、食器にラップを敷いて、汚さないように使いました。水洗トイレは風呂の残り湯。もし風呂桶が空だったらキツかったと思います。

 地震後3日くらいは助けが来ないので、その分の食糧を備蓄しておくように、などと行政のパンフに書いてありますが、3日分くらいならどの家庭でも冷蔵後に入っていると思います。今回、想定外だったのは、宮城県丸ごと一気にモノ不足になって、買うに買えない。何も売っていないという状態。震災後、1〜2週目あたりは本当にどうなるのだろうと心細くなりました。精神安定のためにも、長期戦に備えた米の備蓄は必要と思いました。そのうち、宅配便が動き出して、県外の親戚からたくさん送ってもらいました。ありがたかったです。広域災害では経済そのものがストップするということを想定しておく必要があると思いました。


 《暖房》

 3月なので鉄筋とは言え、寒かったです。普段はエアコンとパネルヒーターなので電気に頼っています。5年前の灯油が少し残っていたのを使い切り、その後はカセットコンロや登山用のコンロで暖をとりました。電気に頼りすぎるのはよくありませんね。たとえ普段は使わなくとも他の暖房手段を確保しておくことをお勧めします。


 《情報 電池》

 はじめの3日間、唯一の情報源はラジオでした。ほぼつけっぱなし状態でしたが、電池交換しないでも大丈夫でした。テレビが見られるようになってからも、朝晩、ラジオを聞くことが多くなりました。いまだ電池交換せずに済んでいます。すごい省エネです。ラジオのありがた味が身にしみました。でも震災直後こそ映像で状況を確認したいというのが本音で、ワンセグテレビ(携帯電話に付いているのではなく、電池で動作する単体のもの)があればと思いました。

 いづれにしても電池があっての話なので、普段から備蓄の必要を感じました。半分はアルカリ電池、半分はエネループなどの充電式で良いのではと思います。持ち合わせはありませんでしたが、携帯電話用の手回し充電器とかソーラー充電器なども良いでは?

 ファックス電話は停電だと電話機能も使えない。以前のいわゆる黒電話を捨てずにおけばよかったと後悔しました。


《地震前兆》

 これだけの巨大地震なのだから、何か前兆があったのではないか、異変は無かったのか。モグラやミミズがはい出してきたとか、変わった雲が数日前から出現していたとか、特殊な電波伝搬がみられた、とか・・・。困ったことに、何の前兆も異変も感じませんでした。満月でもなかったし、月が赤くもありませんでした。ただ、後で聞いた話を一つ。その人は渓流釣りの名人と言われる人なのですが、地震の前日、いつもの岩手県宮古市の川に釣りに出かけたところ、一匹も釣れず、そんなことは人生で一度も無かったことだったそうで、何か異変を感じて帰ってきたら、翌日、地震に見舞われたのだそうです。自分のまわりで、それらしい話はこれだけです。こういう大きな地震の後には、そう言えばこんなことが・・・と後付けの話がぞろぞろと出てくるのが常ですが・・・。
 




 仙台の中心部は、ほぼ震災前の状態に戻りつつあります。地下鉄やJRは一部のみ運行ですが、モノ不足はだいぶ解消され、ガソリンスタンドの行列もなくなりました。

 桜も満開になりました。鶯もにぎやかにさえずっています。窓から見える風景は震災前と何も変わらず、3月11日以降に起こった出来事は何だったのだろうとの思いにかられてしまいます。でも、目の前を流れる広瀬川の下流、たった3~4キロ先には、見渡す限りの無惨な光景・・・それが現実です。

 M8クラスの余震の可能性もあるとのこと、しばらくは警戒モードを続行することにします。



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東北大震災その5

2011年04月10日 | 東北大震災


 先日、石巻市に支援に入った時に、こんな話を聞くことができました。

 「ときどき津波警報が鳴っても、本当に津波が来たことはなったし、来てもたいしたことはないと思っていた。今回もほとんどの人は家の2階に上がった程度で、避難はしなかったと思う。実際、第一波はそれほどでもなく、しばらくして何事もなかったように水が引いていったので、外に出歩いて、川の様子などを見に来る人もいました。そこに第一波とは比較にならないほどの大きな第二波が押し寄せて流されてしまった」

 別の人も、第一波よりも第二波以降に被害が大きくなったと話していました。


 こんな話も聞きました。

 「狭い入り江の三陸沿岸と違って、石巻は大きな湾内にあるので、波が高くならないと思われていた。これまでも三陸には何度も津波が来たが、石巻ではさほどの被害はなかった」


 津波は大胆不敵なだけでなく、油断を誘ったり、執念深くもある・・・。人間だれしも自分だけは大丈夫と考えがちですが、災害というのはそういう隙を突いて、不意打ちしてくるもののようです。変化自在の海水の動きを予測することなど不可能というほかありません。一説によると、津波は「陸地への海の一時的な移動である」と定義されるそうです。ビデオ映像を見ても確かにそんな印象を受けます。波というより海ごと移動するのだからそのエネルギーは尋常ではありません。


 石巻市門脇町。日和山公園の下から日和大橋までの広大な地域に、かまぼこ工場や民家が所狭しと並んでいたのですが、見渡す限りの壊滅状態となっていました。南三陸町と同じで、民家などは土台ごと無くなっていました。石巻の波高は7~8メートル程だったそうですが、それでもこの有様です。



日和山から見た門脇町地区


中州方面


マンガ館周辺



 津波はいつかまた来る。それは地球の都合なので致し方ありません。津波にしてみれば、そこに入り江や低地があったから流れ込み、そして引いていった、それだけのことです。でも、日本海溝の正面に日々暮らす者としては、この激烈な自然現象と折り合いを付けていくしかないわけです。


 今回は日中午後の発生でしたが、明治三陸大津波は午後8時頃、昭和8年三陸大津波は午前3時頃、チリ津波も第一波到来は午前3時過ぎだったそうです。夕食を終わって床に就く時間、そしてまさに寝込みを襲われての襲来だったことになります。暗闇の中、いったいどれだけの人が逃げることができたのか・・・。


不意打ちに備え油断しないこと
一刻も早く高台に逃げること
何かを取りに引き返えしたりしないこと
第二波、第三波がより恐ろしいこと


石巻の惨状を見ると、これらの言伝えを改めて肝に銘じるしかありません。






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東北大震災その4

2011年04月02日 | 東北大震災


 地震から3週間が過ぎました。3.11地震当日から丸2日、停電によりテレビが見られなかったことは以前に書いた通りです。今、地震直後からの津波報道やビデオ映像をYouTubeで見ています。


 幼い頃から聞かされてきた津波の話というのは要約すると次のようなものでした。

 「地震の後、急に潮が引いて、海の底が見えるほどだった。魚が飛び跳ねているので、みんなで手づかみに夢中になっていると、突然、目の前に壁のような波が迫ってきた。灯台を超える高さで、一気に襲いかかってきた。逃げる途中で何かを取りに引き返した人はみんな呑み込まれてしまった。津波が来たら他の人には構わず逃げなければならない」


 考えてみると、津波というのは話として伝承はされているのですが、その実像は見たことがありませんでした。わずかにスマトラ津波の時の映像がありますが、観光客が撮影したものが多く、断片的でしかありません。また、津波が去って壊滅的となった被害地の写真は過去に多く残されていますが、そこに津波そのものは写っていないわけです。

 今回の東北地方太平洋沖地震では、地震発生から津波到達まで約40~50分あり、報道機関が総力をあげて撮影したこと、日中であったために地元の人もビルや高台からビデオ撮影していること、などから津波の全容と一部始終をとらえることができたのだと思います。この結果、単なる話ではなく、津波の実像を様々な角度から映像で見ることが可能となりました。これはすごいことで、ここまで克明に記録されたのは人類史上初めてのことだと思います。

 YouTubeで見たその映像。ずっと頭に刷り込まれていたイメージとはかなり違う姿が映っていました。

 堤防を乗り越えた海水は、はじめは家と家の間の道路沿いにスルスルと這ってきて、高い波が一気に襲いかかるという感じではありません。むしろ海面上昇という感じです。普通の高波ならそのあたりで引いていくわけですが、引くということがない。後から後から押し寄せ、同時にぐいぐい水嵩を上げていく。まさか家の屋上までは来ないだろうと油断していると、ものの1~2分で上がってしまう。なおも容赦なく水量は増え続け、気づいた時には町全体が水没状態となる。この時点まで引くということがない。しばらく満水状態を保った後、一気に引きが始まる。引き潮のスピードは圧倒的で、わずかに残っていた家屋も瓦礫ごと海の彼方に持ち去られてしまう。南三陸町や陸前高田市など三陸沿岸の町は、みなこんな様子が見てとれました。

 「用心深くて大胆不敵」「容赦なし」「非情」。月並みですが津波の様態を見て浮かんだのはこんな言葉です。話に聞いていた「家に何かを取りに戻った人はみな呑みこまれた」というのもわかる気がしました。はじめはサラサラと忍び寄ってくるので、人を安心させてしまうのでしょう。映像を見ていて、何か邪悪な意思でも持っているかのようにさえ感じました。

 もう一つは、仙台平野を襲った津波。三陸と違って、砂浜が続く穏やかな海岸線で、仙台から一番近い海水浴場もあってなじみの深い地域です。この映像も衝撃的でした。津波というのは水というイメージがあったのですが、映っていたのは押しつぶされた家の残骸や車、油、ガラスなどを巻き込んだ瓦礫の塊。これが時速50キロのスピードで移動するのだからひとたまりもありません。海沿いの集落を呑みこんだ津波は、今度は川をさかのぼり、堤防を破壊して田畑に流れ込み、みるみると覆い尽くしていく。数十キロにわたる巨大で凶暴な生物が襲いかかっているかのような不気味な映像。この世の地獄としか言いようがありません。逃げ場はなし。近くに高台もないため、多くの人が車で逃げたようですが、渋滞が起こって車列ごと呑まれたケースもあったとか。

 このあたりには知人が何人か住んでいて、後で無事とわかったのですが、2階まで浸水して屋根に乗って助かった人、家の1階が水没したものの柱が持ちこたえて2階で助かった人、車で逃げ切った人、様々です。映像を見ていると、よくそんなことで助かったものだと思ってしまいましたが、地震の直後、少しでも早く高いところへ避難したかどうかが明暗を分けたということでしょう。


 ある研究者によると、三陸沿岸部においては「津波35年周期」というのがあるそうです。

1896年 明治三陸大津波 死者約2万2千人

その37年後
1933年 昭和8年大津波 死者約3千人

その27年後
1960年 チリ津波    死者122人

その51年後
2011年 東北地方太平洋沖地震 死者不明数万人

 必ずしも35年間隔ではありませんが、30年から50年に一度は、大津波が襲来していることになります。チリ津波から51年ですから、35年より16年も過ぎていたわけです。「想定外」と言われても、やはり違和感を持ってしまいます。

 今回は、津波の恐ろしさ、その全貌が映像に残されました。内陸6キロまで到達したそうで、浸水地域の範囲やその地点での波の高さもわかってきたそうです。堤防を作れば何とかなるなどと浅はかな考えは捨て、少なくとも水没範囲内に町を作らないという以外に守るすべはないのでは?まして原発など・・・。大津波は数十年に一度、必ず来たし、これからも来る、その猛威の前に人間は無力、つくづくそう思います。



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東北大震災その3

2011年03月27日 | 東北大震災


 3月9日  午前11時45分 震度5弱 三陸沖 M7.2
 3月11日 午後2時46分  震度7  三陸沖 M9.0

 今思うと、3月9日の地震が警告を発してくれたのかもしれません。それを警告と受け取って備えを再点検しておけばよかったのですが・・・。

 頭のどこかでは、近いうちにこういう地震が来るのではないか、それは30数年に1度、規則正しく発生する宮城沖地震ではなく、もっと大きな、日本海溝が総崩れするような恐ろしいことが起こるのではないか、という不安はあったのです。

 1142年前の869年7月13日に今回と同じような地震があって、仙台平野が津波で水没したという記録(貞観地震)。そして約1000年に一度の間隔で巨大津波が発生しいているとの研究。実はこれらの知識は、仙台の少なからぬ人が震災前から知ってはいたと思います。地元の新聞でも取り上げられたことがあり、地震関連の書籍などでも紹介されていました。1000年に一度の巨大地震。そんな不安が現実になってしまったわけです。

 冒頭の警告以外にも、2年前の岩手・宮城内陸地震(震度6強)、2003年宮城県北部地震(震度6強)、1998年の長町利府断層の深部地震(震度5弱)と10年ほど内陸地震が続いて、いよいよプレート型の巨大地震が来てもおかしくないということだったのかもしれません。

 そんなわけで「想定外」という言葉を耳にするにつれ、少し違うのではないかという思いはあります。

 さて、地震から2週間が過ぎました。仙台中心部は、相変わらず数少ないガソリンスタンドに行列をつくっています。コンビニの一部は時間限定で開店。ダイエーの行列は短くなりました。スーパーの棚は必要なものは何もなし。ヨドバシカメラやヤマダ電器は照明を抑えて開店。懐中電灯、乾電池は売り切れ。卓上IH調理器は品薄とか。牛丼チェーンは吉野家と松屋は閉店のまま。すき屋が開いていたので入ってみたらご飯がなく、牛皿とお茶のみ販売だそうです。昼時になると、あちこちで弁当を売る店が増えてきて、何とか昼食にはありつけます。こういう時は、全国チェーンの店は弱く、地元の小さい商店が強みを発揮するようです。我が家の近所にも荒町商店街というのがあって、なんとか野菜などが手に入ります。


コンビニ張り紙


 宅配便は復活しました。ただ、中心部は個別に届けるけれど、それ以外は集配所に取りに行くのだとか。自動車道が通れるようになって、物流も改善しているはずでが、当分は津波被災地向けに重点的に配送するということだと思います。当然のことです。

 市ガスも復旧し始めました。我が家も明日か明後日には風呂に入れそうです。

 無線の方はときどきワッチしていますが、モービル局がガソリンスタンドの情報交換をしている程度。VUは震災後、ほんとうに静かです。




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東北大震災その2

2011年03月21日 | 東北大震災
 昨日、避難所支援のため気仙沼、南三陸の現地に入りました。テレビの報道でわかっていたつもりでしたが、実際、被災の現場を見て「町ごと壊滅」というその通りの光景に言葉を失ってしまいました。

≪気仙沼≫
 一関方面から気仙沼に入りました。JR気仙沼駅あたりまでは特に被害はなく、いつもと変わらぬ街並みがありました。市役所のある商店街に入ると泥と瓦礫が目立ちはじめ、メインストリートの七十七銀行あたりからは街の様子が一変。木造家屋はすべて全半壊状態で、いたるところに木片などの瓦礫が散乱。船着き場は桟橋のコンクリート柱だけが海から突き出ていました。船は乗揚げ、車は無残に横転。このあたり、寿司屋や居酒屋がたくさんあったのですが、跡形もありません。


メインストリート

かつて交番や飲み屋街のあったあたり

気仙沼女子高方面

リアスミュージアム、魚市場前

南気仙沼駅近く


 魚市場周辺まで行ってみました。さらに被害が大きくなり、ホテル観洋(気仙沼)の下や河北新報社屋あたりは流された家屋や船舶、車、瓦礫が積み重なり、その上に泥が覆いかぶさるという状態ですさまじい様相を呈していました。そこから先、南気仙沼駅へは瓦礫で道がふさがれ、行くことはできませんでした。話を聞いたところでは、このあたりから南の海岸線に沿って被害が大きくなっているとのことでした。





湾内には火災で黒焦げになった大型船がそのまま何隻も放置されていました。



≪南三陸町≫
 国道45号線は使えないため、いったん一関方面に進み千厩から宮城県側に山越えし、国道398号線を使って南三陸町に入りました。南三陸町に近づくと、童子山や惣内山が左手に見えてきます。入谷集落を過ぎたあたりから、道路の両側に瓦礫が現れてきました。海から3kmほど奥まっており、ここまで津波が来ているとは考えてもいませんでした。


入谷地区周辺

 意表を突かれて瓦礫の中を走ると、志津川(南三陸町の中心地)の異様な光景が目に飛び込んできました。避難所にもなっている志津川中学校の坂から街の全貌を見渡すことができましたが、はるか先の海まで荒涼とした泥と瓦礫のみ、建物の痕跡すらありません。わずかに病院の残骸が残っているのみでした。JR志津川駅も、その隣にあったスーパーも、よく利用したタクシー会社も、山の帰りにお土産を買った海産物屋も、何もかも無くなっていました。


津波前はここに志津川の町がありました

 かつてのメインストリートまで行ってみると、役場は跡形もなく、鉄骨だけ残った防災センターに数本のアンテナが寂しげに残っておりました。
 さらに海岸近くまで行ってみて唖然としました。この町は津波常襲地帯なので、コンクリートの頑丈な防潮堤が街を守っていたはずですが、その防潮堤が見当たらないのです。今回の津波で木端微塵に砕けてしまったようです。


何もなくなったメインストリート(国道45号線) 

公立志津川病院前 4階までガラスが吹き飛んでいました


 午後3時頃と言えば、避難しやすい時間帯ではあったと思いますが、猛烈なエネルギーとスピードを伴う巨大津波の前には、人間や人間がこしらえたものなどひとたまりもなかったということでしょう。


 現地をみてわかったのは、津波被害のあるところとないところでは、被害のレベルがまったく違うということです。確かに、揺れそのものにより被害を被ったところもたくさんあるし、県民のほとんどはライフラインの損壊で不自由な生活を強いられているのが現状ですが、津波の被害地はそんなレベルではありません。「被災」という言葉でひとくくりにはできません。この状態でどうやって逃げることができたのか?生き残った人がいること自体、奇跡としか言いようがない。そんな思いにとらわれてしまいました。



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東北大震災

2011年03月15日 | 東北大震災
 3月11日午後2時46分は職場でデスクワーク中でした。強い揺れが来て、数日前の宮城沖地震の余震かなと思ったら、揺れはだんだん大きくなって、収まる気配がありません。机の上の書類が落下、倒れそうになったパソコンを右手で押さえ、左手は机の引き出しが飛び出すのを押さえるのがやっとでした。そのうち、パソコンの画面が切れ、照明も切れて停電になり、この時点で、のっぴきならない大地震が来たと感じました。揺れはなおも強くなるばかりで、やっと止まったのは十数分後だったと思います。M9.0と知ったのは後のことですが、感じたエネルギー、その強さと長さは確かにそんな実感を伴うものでした。

 それから5日、毎日十数回続く余震にも体が慣れてしまいました。これまで気付いたことと現状について書いてみます。

 《帰宅困難》
 揺れが収まってしばらくして帰宅することにしたのですが、ビルの外は見たことも無い程の大勢の人が路上に立ちすくんで、JR仙台駅前は人であふれておりました。なかなか前に進みません。いつもの倍の時間をかけて徒歩で帰りました。当日は、帰宅困難者も多数あったようです。

 《情報不足》
 停電なのでテレビを見ることができません。津波が各地で到達していることはラジオで知りました。刻々と被害の様子は知ることができましたが、音声のみでは限度があります。結局、被害の状況を映像で見ることができたのは、電気が復旧した13日の朝でした。自分の周辺で何が起こっているのか、被災地にいる人に最も情報が入らないということを実感しました。普通の乾電池で動作する携帯できるワンセグテレビを買っておけばよかったと後悔しました。映像の力は大きいです。

 《携帯電話》
 携帯電話は通話、メールともまったく使用不可でした。今でも繋がりにくいです。充電できず、困っている人が大勢おりました。いざという時に役に立たないと言われていましたが、本当に何の役にも立ちませんでした(ソフトバンク)。

 《ライフライン》
 地震の最中から、停電が始まり、水道、ガスも停止、電話も不通となりました。物心ついてからこんなに長い停電と断水は記憶にありません。仙台の街は本当の暗闇となり、オリオンが輝いていました。トイレは風呂の残り湯で流しました。照明はLEDライトとランタン。二日目の夜も暗闇というのは1日目以上にショックでした。13日朝、電気と水道が復旧。有線電話とインターネットも使えるようになりました。有線電話に関しては、こちらが復旧しても、相手の地域が復旧しなければ使えません。私もまだ連絡の付かない知人が何人かいます。今現在も、仙台市の一部以外は停電と断水が続いており、ガスの復旧は最低でも3週間かかるとか。風呂なし生活続行中です。

 《建物被害》
 今回の地震で、仙台の中心市街地はほとんど見た目の被害はありませんでした。あれだけ強い揺れにも関わらず、なぜビルの倒壊や傾きがないのか不思議なくらいです。ブロック塀も倒れませんでした。液状化もあまり無かったと聞いています。もし、仙台が被害を受けたと聞いて他地域から来られたら、拍子抜けするかもしれません。中心部にいると、数キロ先の同じ仙台市内で起こっている津波被害が現実のものと思えない程です。ただ、建物は無事でも中はグチャグチャで、家具が倒れてガラスが散乱したとか、冷蔵庫も倒れたとか、テレビが飛んできたというような話しはあちこちで聞きました。余震が続くので片付けもできず、避難所生活を強いられている人が中心部でも少なくありません。

 《無線》
 VUハンディ機に常置場所のアンテナを接続してワッチしてみました。静かです。停電で固定機が使えず、モービル局がわずかに聞こえておりました。年に一度、災害時を想定した訓練もおこなわれており、アマチュア無線が有効に活用されているのかと思いましたが、そういう状況はみられませんでした。我が家の電気が復旧してからも、仙台周辺部はまだ復旧しておらず、静かなままです。Xとの連絡は特小トランシーバーを使いました。数百メートルなら交信可能で、コンビニ行列の状況など近所の偵察に重宝しました。

 《仙台の今》
 当日は地震のショックで興奮状態。翌日からは我に返って、急場対策をする人が多いらしく、コンビニや大型スーパーに多くの人が行列を作っていました。1日で商品がなくなり休店。別の店に行列ができるの繰り返しで、だんだん、開いている店が少なくなってきました。何を買っているかというと、食べ物、電池、カセットガスボンベ、ペーパー類など、それが売り切れると手当たり次第。ほぼ買い尽くされてしまいました。コンビニやスーパーの休店に加えて、牛丼チェーンやレストラン、居酒屋などもほとんどが休業中。ガソリンも行列を作って1回5リットル制限などで販売されていますが、こちらも休業が日ごとに増えています。山形県内まで買い出しに出かける人もいますが、そちらも品薄とのこと。ガソリンが給油できず遠出はできなくなりました。市内の車も少なくなり、夜は人通りがありません。不気味なほど静かです。

 交通は、やっと地下鉄が一部再開されました。JRはすべて運休。高速道路も一般車は不可。モノが入ってこない。新聞は極端に薄い紙面で13日から配達されるようになりました。宅配便は配達されません。沿岸部の銀行の多くも被害を受けました。人も動きようがないです。


 津波被害については、直接、間接の話をたくさん聞きましたが、あまりに過酷なので控えます。

 何度も登った山元町の深山や新地町の鹿狼山、南三陸町の惣内山・・・・これらの山々から眺めた馴染みのある駅や集落が一瞬にして呑み込まれ、消えてしまいました。






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