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東北大震災その3

2011年03月27日 | 東北大震災


 3月9日  午前11時45分 震度5弱 三陸沖 M7.2
 3月11日 午後2時46分  震度7  三陸沖 M9.0

 今思うと、3月9日の地震が警告を発してくれたのかもしれません。それを警告と受け取って備えを再点検しておけばよかったのですが・・・。

 頭のどこかでは、近いうちにこういう地震が来るのではないか、それは30数年に1度、規則正しく発生する宮城沖地震ではなく、もっと大きな、日本海溝が総崩れするような恐ろしいことが起こるのではないか、という不安はあったのです。

 1142年前の869年7月13日に今回と同じような地震があって、仙台平野が津波で水没したという記録(貞観地震)。そして約1000年に一度の間隔で巨大津波が発生しいているとの研究。実はこれらの知識は、仙台の少なからぬ人が震災前から知ってはいたと思います。地元の新聞でも取り上げられたことがあり、地震関連の書籍などでも紹介されていました。1000年に一度の巨大地震。そんな不安が現実になってしまったわけです。

 冒頭の警告以外にも、2年前の岩手・宮城内陸地震(震度6強)、2003年宮城県北部地震(震度6強)、1998年の長町利府断層の深部地震(震度5弱)と10年ほど内陸地震が続いて、いよいよプレート型の巨大地震が来てもおかしくないということだったのかもしれません。

 そんなわけで「想定外」という言葉を耳にするにつれ、少し違うのではないかという思いはあります。

 さて、地震から2週間が過ぎました。仙台中心部は、相変わらず数少ないガソリンスタンドに行列をつくっています。コンビニの一部は時間限定で開店。ダイエーの行列は短くなりました。スーパーの棚は必要なものは何もなし。ヨドバシカメラやヤマダ電器は照明を抑えて開店。懐中電灯、乾電池は売り切れ。卓上IH調理器は品薄とか。牛丼チェーンは吉野家と松屋は閉店のまま。すき屋が開いていたので入ってみたらご飯がなく、牛皿とお茶のみ販売だそうです。昼時になると、あちこちで弁当を売る店が増えてきて、何とか昼食にはありつけます。こういう時は、全国チェーンの店は弱く、地元の小さい商店が強みを発揮するようです。我が家の近所にも荒町商店街というのがあって、なんとか野菜などが手に入ります。


コンビニ張り紙


 宅配便は復活しました。ただ、中心部は個別に届けるけれど、それ以外は集配所に取りに行くのだとか。自動車道が通れるようになって、物流も改善しているはずでが、当分は津波被災地向けに重点的に配送するということだと思います。当然のことです。

 市ガスも復旧し始めました。我が家も明日か明後日には風呂に入れそうです。

 無線の方はときどきワッチしていますが、モービル局がガソリンスタンドの情報交換をしている程度。VUは震災後、ほんとうに静かです。




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東北大震災その2

2011年03月21日 | 東北大震災
 昨日、避難所支援のため気仙沼、南三陸の現地に入りました。テレビの報道でわかっていたつもりでしたが、実際、被災の現場を見て「町ごと壊滅」というその通りの光景に言葉を失ってしまいました。

≪気仙沼≫
 一関方面から気仙沼に入りました。JR気仙沼駅あたりまでは特に被害はなく、いつもと変わらぬ街並みがありました。市役所のある商店街に入ると泥と瓦礫が目立ちはじめ、メインストリートの七十七銀行あたりからは街の様子が一変。木造家屋はすべて全半壊状態で、いたるところに木片などの瓦礫が散乱。船着き場は桟橋のコンクリート柱だけが海から突き出ていました。船は乗揚げ、車は無残に横転。このあたり、寿司屋や居酒屋がたくさんあったのですが、跡形もありません。


メインストリート

かつて交番や飲み屋街のあったあたり

気仙沼女子高方面

リアスミュージアム、魚市場前

南気仙沼駅近く


 魚市場周辺まで行ってみました。さらに被害が大きくなり、ホテル観洋(気仙沼)の下や河北新報社屋あたりは流された家屋や船舶、車、瓦礫が積み重なり、その上に泥が覆いかぶさるという状態ですさまじい様相を呈していました。そこから先、南気仙沼駅へは瓦礫で道がふさがれ、行くことはできませんでした。話を聞いたところでは、このあたりから南の海岸線に沿って被害が大きくなっているとのことでした。





湾内には火災で黒焦げになった大型船がそのまま何隻も放置されていました。



≪南三陸町≫
 国道45号線は使えないため、いったん一関方面に進み千厩から宮城県側に山越えし、国道398号線を使って南三陸町に入りました。南三陸町に近づくと、童子山や惣内山が左手に見えてきます。入谷集落を過ぎたあたりから、道路の両側に瓦礫が現れてきました。海から3kmほど奥まっており、ここまで津波が来ているとは考えてもいませんでした。


入谷地区周辺

 意表を突かれて瓦礫の中を走ると、志津川(南三陸町の中心地)の異様な光景が目に飛び込んできました。避難所にもなっている志津川中学校の坂から街の全貌を見渡すことができましたが、はるか先の海まで荒涼とした泥と瓦礫のみ、建物の痕跡すらありません。わずかに病院の残骸が残っているのみでした。JR志津川駅も、その隣にあったスーパーも、よく利用したタクシー会社も、山の帰りにお土産を買った海産物屋も、何もかも無くなっていました。


津波前はここに志津川の町がありました

 かつてのメインストリートまで行ってみると、役場は跡形もなく、鉄骨だけ残った防災センターに数本のアンテナが寂しげに残っておりました。
 さらに海岸近くまで行ってみて唖然としました。この町は津波常襲地帯なので、コンクリートの頑丈な防潮堤が街を守っていたはずですが、その防潮堤が見当たらないのです。今回の津波で木端微塵に砕けてしまったようです。


何もなくなったメインストリート(国道45号線) 

公立志津川病院前 4階までガラスが吹き飛んでいました


 午後3時頃と言えば、避難しやすい時間帯ではあったと思いますが、猛烈なエネルギーとスピードを伴う巨大津波の前には、人間や人間がこしらえたものなどひとたまりもなかったということでしょう。


 現地をみてわかったのは、津波被害のあるところとないところでは、被害のレベルがまったく違うということです。確かに、揺れそのものにより被害を被ったところもたくさんあるし、県民のほとんどはライフラインの損壊で不自由な生活を強いられているのが現状ですが、津波の被害地はそんなレベルではありません。「被災」という言葉でひとくくりにはできません。この状態でどうやって逃げることができたのか?生き残った人がいること自体、奇跡としか言いようがない。そんな思いにとらわれてしまいました。



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東北大震災

2011年03月15日 | 東北大震災
 3月11日午後2時46分は職場でデスクワーク中でした。強い揺れが来て、数日前の宮城沖地震の余震かなと思ったら、揺れはだんだん大きくなって、収まる気配がありません。机の上の書類が落下、倒れそうになったパソコンを右手で押さえ、左手は机の引き出しが飛び出すのを押さえるのがやっとでした。そのうち、パソコンの画面が切れ、照明も切れて停電になり、この時点で、のっぴきならない大地震が来たと感じました。揺れはなおも強くなるばかりで、やっと止まったのは十数分後だったと思います。M9.0と知ったのは後のことですが、感じたエネルギー、その強さと長さは確かにそんな実感を伴うものでした。

 それから5日、毎日十数回続く余震にも体が慣れてしまいました。これまで気付いたことと現状について書いてみます。

 《帰宅困難》
 揺れが収まってしばらくして帰宅することにしたのですが、ビルの外は見たことも無い程の大勢の人が路上に立ちすくんで、JR仙台駅前は人であふれておりました。なかなか前に進みません。いつもの倍の時間をかけて徒歩で帰りました。当日は、帰宅困難者も多数あったようです。

 《情報不足》
 停電なのでテレビを見ることができません。津波が各地で到達していることはラジオで知りました。刻々と被害の様子は知ることができましたが、音声のみでは限度があります。結局、被害の状況を映像で見ることができたのは、電気が復旧した13日の朝でした。自分の周辺で何が起こっているのか、被災地にいる人に最も情報が入らないということを実感しました。普通の乾電池で動作する携帯できるワンセグテレビを買っておけばよかったと後悔しました。映像の力は大きいです。

 《携帯電話》
 携帯電話は通話、メールともまったく使用不可でした。今でも繋がりにくいです。充電できず、困っている人が大勢おりました。いざという時に役に立たないと言われていましたが、本当に何の役にも立ちませんでした(ソフトバンク)。

 《ライフライン》
 地震の最中から、停電が始まり、水道、ガスも停止、電話も不通となりました。物心ついてからこんなに長い停電と断水は記憶にありません。仙台の街は本当の暗闇となり、オリオンが輝いていました。トイレは風呂の残り湯で流しました。照明はLEDライトとランタン。二日目の夜も暗闇というのは1日目以上にショックでした。13日朝、電気と水道が復旧。有線電話とインターネットも使えるようになりました。有線電話に関しては、こちらが復旧しても、相手の地域が復旧しなければ使えません。私もまだ連絡の付かない知人が何人かいます。今現在も、仙台市の一部以外は停電と断水が続いており、ガスの復旧は最低でも3週間かかるとか。風呂なし生活続行中です。

 《建物被害》
 今回の地震で、仙台の中心市街地はほとんど見た目の被害はありませんでした。あれだけ強い揺れにも関わらず、なぜビルの倒壊や傾きがないのか不思議なくらいです。ブロック塀も倒れませんでした。液状化もあまり無かったと聞いています。もし、仙台が被害を受けたと聞いて他地域から来られたら、拍子抜けするかもしれません。中心部にいると、数キロ先の同じ仙台市内で起こっている津波被害が現実のものと思えない程です。ただ、建物は無事でも中はグチャグチャで、家具が倒れてガラスが散乱したとか、冷蔵庫も倒れたとか、テレビが飛んできたというような話しはあちこちで聞きました。余震が続くので片付けもできず、避難所生活を強いられている人が中心部でも少なくありません。

 《無線》
 VUハンディ機に常置場所のアンテナを接続してワッチしてみました。静かです。停電で固定機が使えず、モービル局がわずかに聞こえておりました。年に一度、災害時を想定した訓練もおこなわれており、アマチュア無線が有効に活用されているのかと思いましたが、そういう状況はみられませんでした。我が家の電気が復旧してからも、仙台周辺部はまだ復旧しておらず、静かなままです。Xとの連絡は特小トランシーバーを使いました。数百メートルなら交信可能で、コンビニ行列の状況など近所の偵察に重宝しました。

 《仙台の今》
 当日は地震のショックで興奮状態。翌日からは我に返って、急場対策をする人が多いらしく、コンビニや大型スーパーに多くの人が行列を作っていました。1日で商品がなくなり休店。別の店に行列ができるの繰り返しで、だんだん、開いている店が少なくなってきました。何を買っているかというと、食べ物、電池、カセットガスボンベ、ペーパー類など、それが売り切れると手当たり次第。ほぼ買い尽くされてしまいました。コンビニやスーパーの休店に加えて、牛丼チェーンやレストラン、居酒屋などもほとんどが休業中。ガソリンも行列を作って1回5リットル制限などで販売されていますが、こちらも休業が日ごとに増えています。山形県内まで買い出しに出かける人もいますが、そちらも品薄とのこと。ガソリンが給油できず遠出はできなくなりました。市内の車も少なくなり、夜は人通りがありません。不気味なほど静かです。

 交通は、やっと地下鉄が一部再開されました。JRはすべて運休。高速道路も一般車は不可。モノが入ってこない。新聞は極端に薄い紙面で13日から配達されるようになりました。宅配便は配達されません。沿岸部の銀行の多くも被害を受けました。人も動きようがないです。


 津波被害については、直接、間接の話をたくさん聞きましたが、あまりに過酷なので控えます。

 何度も登った山元町の深山や新地町の鹿狼山、南三陸町の惣内山・・・・これらの山々から眺めた馴染みのある駅や集落が一瞬にして呑み込まれ、消えてしまいました。






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