JO7TCX アマチュア無線局

せんだいSD550  山岳移動運用 

特小トランシーバー

2011年04月26日 | 運用スタイルなど


 通信手段がなくなった災害の時こそアマチュア無線が役割を発揮する、という話を聞いていたし、自分でも漠然とそう思ってきました。でも、どんな場面でどう活用できるのか?そういう具体的なことは何も考えていませんでした。

 想定されるのは、孤立した避難先で助けを呼ぶなどの緊急時の通信、避難所間とか避難所と支援活動の業務連絡など、いづれにしても非常時や業務的な場面ということになると思います。

 では、個人レベルでの通信、たとえば家族間の連絡に使えるのかというと、これは難しいです。免許のことがあるし、たとえ家族全員に免許があったとしても、限られた周波数を家族間の連絡に使うわけにはいかないでしょうね。秘話機能もありませんので、そういう会話を電波でまき散らすのもどうかと・・・。もちろんアマチュア業務の法令上の制限もあります。ということで、アマチュア無線を使っての家族間の通信確保は不可能と考えてよいと思います。


 以前にも書いたとおり、我が家では特小トランシーバーが活躍してくれました。アルインコのDJ-R20Dという機種で、5年程前、グループ登山の連絡用に買っておいたものです。携帯電話が繋がりにくかった震災後の1週目くらいまでは、あらかじめ時間を決めて連絡をとったり、開いている店の偵察とか、買い物時の連絡とか、近くの避難所での情報収集など、あるのとないのとでは大違いでした。




 10mWで外部アンテナも付けられないので、通信範囲は限られます。試しにどの程度まで交信が可能なのか?先日、あらためて実験してみたところ、市街地でもそこそこ使えることがわかりました。5Wハンディ機のように面的にカバーするという感じではなく、交信可能な地点をピンポイントで探す必要があります。


 自宅とJR仙台駅までは約1km。駅前のデッキで慎重に場所探しをしたところ、何とか交信できる地点を見つけることができました。手持ちの無線機を微妙に動かして「電波をとらえる」という感じ。サーッというノイズの中に、息も絶え絶えの信号が41で届いてくれました。下の車道に降りると、まったく交信できなくなりました。

 続いて、職場までは約1.5Km。ビルの4階の窓際を動き回ってみましたが、交信できませんでした。職場と自宅をこれで交信できれば災害時に心強いと思ったのですが、残念です。近くにタワービルという21階建てのビルがあって、その最上階の窓際で試してみたところ、52で何なく交信できました。お互い10mWということで、59でガツンと入感はないですが、十分クリアに了解できます。

 さらに、繁華街。ローカルな話になりますが、三越仙台店は不可。県庁前の勾当台公園はなんとか可。藤崎デパート前の路上も可。東北大学片平キャンパス可。仙台市博物館と国際センターも可。いづれも慎重に探り当てるという感じではありますが、あらかじめ交信できるポイントさえ押さえておけば、仙台駅および市内中心部をカバーできることがわかりました。

 一方、たった300m程の距離でもビルの影になると、とたんに交信不能に。使いこなしは、アマチュア無線以上に難しく奥深い・・・?


 電池の持ちはアマチュアハンディ機と比べると桁外れです。スイッチを入れっぱなしでも、数日は持ちます。トーンスケルチも使えるし、秘話機能付きの機種もあるそうで、家族間の連絡に好都合かと思います。


 震災後、X相手に久しぶりの無線実験、というより無線ごっこ。携帯電話で話してもちっとも楽しくありませんが、トランシーバーは使うこと自体が楽しいです。



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東北大震災その6

2011年04月17日 | 東北大震災


 震災からちょうど1ヶ月の4月11日、我が家にもやっと都市ガスが通り、風呂に入れるようになりました。4月7日の最大余震で再び停止になったところもあり、全面復旧は今月いっぱいかかるそうです。

 当地は、もともと宮城県沖地震が20年以内に99%発生するということでもあり、2年前に栗駒山の地震もありましたので、精神的にも物的にも備えは進んでいた方だと思います。我が家もここ数年、家具の固定とか水の備蓄とかをしてきたのですが、思いのほか早く、しかも予想を超える巨大地震に見舞われてしまいました。今思うと、あれをしておけば良かった、これをしておけば良かったということは多々あります。今回の災害を通して、有効であったもの、こんなものがあれば良かったと思ったものなどを途中経過でまとめてみました。


 《家具固定》

 我が家は鉄筋コンクリートの集合住宅の3階で、床はフローリング、天井はコンクリート(一部板天井)、壁は壁紙が貼ってあるだけというごく一般的な作りです。大型の書棚、タンス、食器棚は床との間にはさむ隙間マット、天井との間に突っ張り棒、さらに壁との間にガムロック(粘着固定具)と、3重に固定しておきました。

 書棚の中で本が崩れていましたが、棚そのものは動いた形跡はありませんでした。食器棚の中に滑り止めシートを敷いてその上に食器を重ねていたためか、中の食器も無事でした。ただ、台所の吊り棚に置いてあった醤油差しが倒れて、垂れてしまいました。しばらく醤油のにおいが充満。液体モノは要注意です。

 冷蔵庫は、大型のガムロックで壁に固定しておきました。ドアが開いたり、中のものが飛び出したりということはありませんでした。他のお宅では冷蔵庫が倒れたり、倒れなくとも中が散乱したそうです。

 電子レンジ、テレビについては、ベルト式のガムロックで壁に固定。こちらも無事でした。

 無線機は、机自体に粘着ゲルマットを敷いた上で、FT450とIC910の下にもゲルマットを敷いて乗せていました。無線機は無事でしたが、その上に置いていた時計とローテーターのコントローラーが床に落ちました(幸い故障なし)。アンテナは被害なし。

 全体として、すべての固定具がそれなりの性能を発揮してくれたと思います。

〈網状の滑り止めマット〉
 食器の下などに敷いておいたのですが、たいへん効果ありました。サイドボードの上とかスピーカーの下とか、いろいろ使えます。ロール状で売っています。安いしお勧めです。

(ガムロック)
 我が家のメインの粘着固定具。少し高価ですが、ネジが効かない石膏ボードにも有効で取り付けが簡単です。様々なタイプがあるのですが、その中でT型やL型は内部応力が働くため、剥がれが発生しやすいです。我が家では十数個使っており、自然に剥がれていることが何度かありました。使うならT型やL型とベルトで連結するタイプ(内部応力なし)を組み合わせた方が安全です。これに限らず、固定具は付けて終わりではなく、時々点検が必要と感じました。
 

 《照明器具》

 強い地震が来ると自動的に点灯する装置(コンセントに常時差し込んで蓄電しておくタイプ)が3個、もともと備え付けられています。震度5程度の余震の度に点灯してくれます(昼でも)。この他、居間にLEDランタン1台。各自にマグライト1本ずつ。トイレなど家中どこに行くにも真っ暗なので、各自1本用意しておいてよかったです。ロウソクは余震で倒れそうになって危ないという話しを聞きました。街全体が停電なので、とにかく真っ暗で、夜の行動はできません。夕食も明るいうちに準備を済ませて、食べてしまう。夜は何もすることなし、早めに寝る。数日の原始生活を体験しました。
  

 《調理、水、食糧》

 普段から鍋料理に使っているカセットガスコンロ1台。カセットボンベは15本くらい買い置きがありました。都市ガス再開まで持つかどうか不安だったので、電気が復旧してから卓上型IH調理器を購入しました。ボンベ不足の心配がなくなり、大活躍してくれました。ただ、動作音(ファンの音)が思いのほか大きく、災害時以外は余り使いたくないです。

 水はペットボトルの保存水を備蓄していました。その後は、マンションの貯水タンク(1Fに設置)の蛇口から給水を受けました。3階でよかったです。上の階のお宅は水を運ぶのにたいへんとのことでした。洗い水を省くため、食器にラップを敷いて、汚さないように使いました。水洗トイレは風呂の残り湯。もし風呂桶が空だったらキツかったと思います。

 地震後3日くらいは助けが来ないので、その分の食糧を備蓄しておくように、などと行政のパンフに書いてありますが、3日分くらいならどの家庭でも冷蔵後に入っていると思います。今回、想定外だったのは、宮城県丸ごと一気にモノ不足になって、買うに買えない。何も売っていないという状態。震災後、1〜2週目あたりは本当にどうなるのだろうと心細くなりました。精神安定のためにも、長期戦に備えた米の備蓄は必要と思いました。そのうち、宅配便が動き出して、県外の親戚からたくさん送ってもらいました。ありがたかったです。広域災害では経済そのものがストップするということを想定しておく必要があると思いました。


 《暖房》

 3月なので鉄筋とは言え、寒かったです。普段はエアコンとパネルヒーターなので電気に頼っています。5年前の灯油が少し残っていたのを使い切り、その後はカセットコンロや登山用のコンロで暖をとりました。電気に頼りすぎるのはよくありませんね。たとえ普段は使わなくとも他の暖房手段を確保しておくことをお勧めします。


 《情報 電池》

 はじめの3日間、唯一の情報源はラジオでした。ほぼつけっぱなし状態でしたが、電池交換しないでも大丈夫でした。テレビが見られるようになってからも、朝晩、ラジオを聞くことが多くなりました。いまだ電池交換せずに済んでいます。すごい省エネです。ラジオのありがた味が身にしみました。でも震災直後こそ映像で状況を確認したいというのが本音で、ワンセグテレビ(携帯電話に付いているのではなく、電池で動作する単体のもの)があればと思いました。

 いづれにしても電池があっての話なので、普段から備蓄の必要を感じました。半分はアルカリ電池、半分はエネループなどの充電式で良いのではと思います。持ち合わせはありませんでしたが、携帯電話用の手回し充電器とかソーラー充電器なども良いでは?

 ファックス電話は停電だと電話機能も使えない。以前のいわゆる黒電話を捨てずにおけばよかったと後悔しました。


《地震前兆》

 これだけの巨大地震なのだから、何か前兆があったのではないか、異変は無かったのか。モグラやミミズがはい出してきたとか、変わった雲が数日前から出現していたとか、特殊な電波伝搬がみられた、とか・・・。困ったことに、何の前兆も異変も感じませんでした。満月でもなかったし、月が赤くもありませんでした。ただ、後で聞いた話を一つ。その人は渓流釣りの名人と言われる人なのですが、地震の前日、いつもの岩手県宮古市の川に釣りに出かけたところ、一匹も釣れず、そんなことは人生で一度も無かったことだったそうで、何か異変を感じて帰ってきたら、翌日、地震に見舞われたのだそうです。自分のまわりで、それらしい話はこれだけです。こういう大きな地震の後には、そう言えばこんなことが・・・と後付けの話がぞろぞろと出てくるのが常ですが・・・。
 




 仙台の中心部は、ほぼ震災前の状態に戻りつつあります。地下鉄やJRは一部のみ運行ですが、モノ不足はだいぶ解消され、ガソリンスタンドの行列もなくなりました。

 桜も満開になりました。鶯もにぎやかにさえずっています。窓から見える風景は震災前と何も変わらず、3月11日以降に起こった出来事は何だったのだろうとの思いにかられてしまいます。でも、目の前を流れる広瀬川の下流、たった3~4キロ先には、見渡す限りの無惨な光景・・・それが現実です。

 M8クラスの余震の可能性もあるとのこと、しばらくは警戒モードを続行することにします。



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東北大震災その5

2011年04月10日 | 東北大震災


 先日、石巻市に支援に入った時に、こんな話を聞くことができました。

 「ときどき津波警報が鳴っても、本当に津波が来たことはなったし、来てもたいしたことはないと思っていた。今回もほとんどの人は家の2階に上がった程度で、避難はしなかったと思う。実際、第一波はそれほどでもなく、しばらくして何事もなかったように水が引いていったので、外に出歩いて、川の様子などを見に来る人もいました。そこに第一波とは比較にならないほどの大きな第二波が押し寄せて流されてしまった」

 別の人も、第一波よりも第二波以降に被害が大きくなったと話していました。


 こんな話も聞きました。

 「狭い入り江の三陸沿岸と違って、石巻は大きな湾内にあるので、波が高くならないと思われていた。これまでも三陸には何度も津波が来たが、石巻ではさほどの被害はなかった」


 津波は大胆不敵なだけでなく、油断を誘ったり、執念深くもある・・・。人間だれしも自分だけは大丈夫と考えがちですが、災害というのはそういう隙を突いて、不意打ちしてくるもののようです。変化自在の海水の動きを予測することなど不可能というほかありません。一説によると、津波は「陸地への海の一時的な移動である」と定義されるそうです。ビデオ映像を見ても確かにそんな印象を受けます。波というより海ごと移動するのだからそのエネルギーは尋常ではありません。


 石巻市門脇町。日和山公園の下から日和大橋までの広大な地域に、かまぼこ工場や民家が所狭しと並んでいたのですが、見渡す限りの壊滅状態となっていました。南三陸町と同じで、民家などは土台ごと無くなっていました。石巻の波高は7~8メートル程だったそうですが、それでもこの有様です。



日和山から見た門脇町地区


中州方面


マンガ館周辺



 津波はいつかまた来る。それは地球の都合なので致し方ありません。津波にしてみれば、そこに入り江や低地があったから流れ込み、そして引いていった、それだけのことです。でも、日本海溝の正面に日々暮らす者としては、この激烈な自然現象と折り合いを付けていくしかないわけです。


 今回は日中午後の発生でしたが、明治三陸大津波は午後8時頃、昭和8年三陸大津波は午前3時頃、チリ津波も第一波到来は午前3時過ぎだったそうです。夕食を終わって床に就く時間、そしてまさに寝込みを襲われての襲来だったことになります。暗闇の中、いったいどれだけの人が逃げることができたのか・・・。


不意打ちに備え油断しないこと
一刻も早く高台に逃げること
何かを取りに引き返えしたりしないこと
第二波、第三波がより恐ろしいこと


石巻の惨状を見ると、これらの言伝えを改めて肝に銘じるしかありません。






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東北大震災その4

2011年04月02日 | 東北大震災


 地震から3週間が過ぎました。3.11地震当日から丸2日、停電によりテレビが見られなかったことは以前に書いた通りです。今、地震直後からの津波報道やビデオ映像をYouTubeで見ています。


 幼い頃から聞かされてきた津波の話というのは要約すると次のようなものでした。

 「地震の後、急に潮が引いて、海の底が見えるほどだった。魚が飛び跳ねているので、みんなで手づかみに夢中になっていると、突然、目の前に壁のような波が迫ってきた。灯台を超える高さで、一気に襲いかかってきた。逃げる途中で何かを取りに引き返した人はみんな呑み込まれてしまった。津波が来たら他の人には構わず逃げなければならない」


 考えてみると、津波というのは話として伝承はされているのですが、その実像は見たことがありませんでした。わずかにスマトラ津波の時の映像がありますが、観光客が撮影したものが多く、断片的でしかありません。また、津波が去って壊滅的となった被害地の写真は過去に多く残されていますが、そこに津波そのものは写っていないわけです。

 今回の東北地方太平洋沖地震では、地震発生から津波到達まで約40~50分あり、報道機関が総力をあげて撮影したこと、日中であったために地元の人もビルや高台からビデオ撮影していること、などから津波の全容と一部始終をとらえることができたのだと思います。この結果、単なる話ではなく、津波の実像を様々な角度から映像で見ることが可能となりました。これはすごいことで、ここまで克明に記録されたのは人類史上初めてのことだと思います。

 YouTubeで見たその映像。ずっと頭に刷り込まれていたイメージとはかなり違う姿が映っていました。

 堤防を乗り越えた海水は、はじめは家と家の間の道路沿いにスルスルと這ってきて、高い波が一気に襲いかかるという感じではありません。むしろ海面上昇という感じです。普通の高波ならそのあたりで引いていくわけですが、引くということがない。後から後から押し寄せ、同時にぐいぐい水嵩を上げていく。まさか家の屋上までは来ないだろうと油断していると、ものの1~2分で上がってしまう。なおも容赦なく水量は増え続け、気づいた時には町全体が水没状態となる。この時点まで引くということがない。しばらく満水状態を保った後、一気に引きが始まる。引き潮のスピードは圧倒的で、わずかに残っていた家屋も瓦礫ごと海の彼方に持ち去られてしまう。南三陸町や陸前高田市など三陸沿岸の町は、みなこんな様子が見てとれました。

 「用心深くて大胆不敵」「容赦なし」「非情」。月並みですが津波の様態を見て浮かんだのはこんな言葉です。話に聞いていた「家に何かを取りに戻った人はみな呑みこまれた」というのもわかる気がしました。はじめはサラサラと忍び寄ってくるので、人を安心させてしまうのでしょう。映像を見ていて、何か邪悪な意思でも持っているかのようにさえ感じました。

 もう一つは、仙台平野を襲った津波。三陸と違って、砂浜が続く穏やかな海岸線で、仙台から一番近い海水浴場もあってなじみの深い地域です。この映像も衝撃的でした。津波というのは水というイメージがあったのですが、映っていたのは押しつぶされた家の残骸や車、油、ガラスなどを巻き込んだ瓦礫の塊。これが時速50キロのスピードで移動するのだからひとたまりもありません。海沿いの集落を呑みこんだ津波は、今度は川をさかのぼり、堤防を破壊して田畑に流れ込み、みるみると覆い尽くしていく。数十キロにわたる巨大で凶暴な生物が襲いかかっているかのような不気味な映像。この世の地獄としか言いようがありません。逃げ場はなし。近くに高台もないため、多くの人が車で逃げたようですが、渋滞が起こって車列ごと呑まれたケースもあったとか。

 このあたりには知人が何人か住んでいて、後で無事とわかったのですが、2階まで浸水して屋根に乗って助かった人、家の1階が水没したものの柱が持ちこたえて2階で助かった人、車で逃げ切った人、様々です。映像を見ていると、よくそんなことで助かったものだと思ってしまいましたが、地震の直後、少しでも早く高いところへ避難したかどうかが明暗を分けたということでしょう。


 ある研究者によると、三陸沿岸部においては「津波35年周期」というのがあるそうです。

1896年 明治三陸大津波 死者約2万2千人

その37年後
1933年 昭和8年大津波 死者約3千人

その27年後
1960年 チリ津波    死者122人

その51年後
2011年 東北地方太平洋沖地震 死者不明数万人

 必ずしも35年間隔ではありませんが、30年から50年に一度は、大津波が襲来していることになります。チリ津波から51年ですから、35年より16年も過ぎていたわけです。「想定外」と言われても、やはり違和感を持ってしまいます。

 今回は、津波の恐ろしさ、その全貌が映像に残されました。内陸6キロまで到達したそうで、浸水地域の範囲やその地点での波の高さもわかってきたそうです。堤防を作れば何とかなるなどと浅はかな考えは捨て、少なくとも水没範囲内に町を作らないという以外に守るすべはないのでは?まして原発など・・・。大津波は数十年に一度、必ず来たし、これからも来る、その猛威の前に人間は無力、つくづくそう思います。



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