ラジオ爺の道楽三昧

原発放射能汚染により素人百姓・孫専科を奪われ、病で蕎麦打ちも廃業。最後に残ったアマチュア無線と男の料理の細々生存証明。

大震災・原発事故から5年

2016年03月11日 | 原発事故
   
ラジオ深夜便からスタートした東日本大震災特集番組もTVは今朝から各社競演になった。
あの日は吾妻山おろしの吹雪模様の荒天で、素人百姓春作業の肥料を買いに行ったダイユーエイト南福島店で遭遇した。
肥料を持ち上げカートに載せようとした瞬間身体がふらつき倒れかけると同時に建物と足元が音をだして大きく揺れた。天井が落ちる!と外へ出ようと必死に歩いたが歩けない、這いつくばってやっと外へ出たら皆四つん這いになって身体を支えていた。
自分も気がつけば四つん這いでここまでたどり着き、目線の先は平日でがら空きの駐車場は地面が何重にも大きく波を打ち、向側のビルと電柱も左右に大きく揺れ倒壊寸前、自分の身体も大きな地割れの中に引き込まれそうな恐怖感はただものではなかった。
収まると同時に我が家へ急いだ。主要道路は既に渋滞模様、トッサに抜け道に入る決断をして通常の3倍20分程で帰宅出来たが、家の中は本棚は倒れ、食器類や花瓶、アンプ、スピーカー、パソコンが落下破損していて、後に土台やモルタル外壁の破損が判った。
停電も1時間程で回復すると仙台空港に迫りくる津波の空撮中継映像が突然現れて、以後翌日の原発爆発からは現役時代に得た予備知識もあって数週間は恐怖の日々を過した。
原発のある浜通りは小雪が舞っている。そんな中継映像と比べながら、ここはほぼ晴れて、猫の額程の我が家の庭のクロッカスは今美しく咲き誇っているが、この土壌は除染後の報告(H27.3.28)で除染前は地上50cmで0.32μSv/hが除染後は0.24μSv/hも今は0.29μSv/h、果たして多額の除染費用の投資効果はあったのかなと疑ってしまう。
グラフは福島民報新聞のスクラップ。3月15日の福島市の放射線量は全村避難の飯館村に次ぐ25μSv/hの高さで、当時渡利地区が避難区域指定と話題にもなったが「県庁所在地を避難区域に含めると大混乱を招くと政治決着で除外になった」と噂話も耳にした事もあった。
こんな事からも娘家族から避難すると通告されて反対したが「孫達の将来の健康は保証してくれるの」とまで言われて不本意ながら許可。3年程で「中学校は福島で」と長女の強い希望で避難先の宇治市から戻り、今では一見何事も無かったかの様だが、結構リスクは抱えているらしい。
それにしても京都府のボランテアの皆様と昨年孫達が夏休みにお世話になった石川のボランテアの皆様には、この日に再び心より感謝を申し上げたい。
廃炉まで40年とも言われている解決策の見えない原発事故、保証は無い、孫達世代が何とも哀れだ。