経営者
7月28日の朝刊の片隅に、中西宏幸氏(元三井化学社長)83歳の逝去を知らせる記事があった。三井石油化学に昭和41年入社の私と言わば同期生である。もっとも中西氏は東北大学の博士課程を経ての入社で、9歳も年長である。大学出と私のような高卒者は、入社式から導入教育まで混ざることはない。ゆえに話さえしたことはなかった。
総合研究所勤務で、やはり入社同期であった、チーグラー・ナッタ触媒の世界的権威となり、紫綬褒章を受章された大阪大学修士卒(その後博士)の柏典夫氏の下で仕事をすることになり、柏氏から直接聞いた話では、中西氏は入社の頃から周囲の仲間とはけた違いの存在感だったようだ。柏氏は世界のポリオレフィン(ポリエチレンやポリプロピレンなど)製造の効率化に極めて貢献度が高いことから、現在の様にプラスチックの海洋汚染が問題になっていなければ、ノーベル賞も夢ではないことだった。
ところで中西氏は、丁度三井化学と住友化学との合併が現実化されそうになった時の三井化学の社長で、破談になった経緯の説明に工場にも来られた。当時の住友化学の社長は、後の経団連の会長も務めた米倉弘昌氏だった。米倉氏は2018年11月に81歳で亡くなられているので、中西氏とは同年代でもあったようだ。その後、中西社長の姿をお見受けしたのは、柏氏の紫綬褒章社内祝賀会の席くらい。特に思い出話があるわけではない。ただ、中西氏の前の社長で、新生三井化学初代会長の幸田重教氏とは岩国大竹工場時代少し交わりがあった。
幸田さんは常務取締役を経て、三井ポリケミカル(米国デュポン社と合弁)に出ており、当時普通は本体への復帰は考えられなかったが、社長交代があり、新社長となった竹林省吾氏が幸田さんを呼び戻し、その後自身の後継者として社長に据えた。幸田さんの一般評として、能力は認められるが強い個性派であり、周囲からの好悪の感情の落差が大きかったようだ。
竹林氏は旧制高校出身で、旧帝大出身者が幅を利かしていた当時、ならばこその人事であったように思う。幸田さんは東京大学卒業後日産化学を経て、三井石化に入社しており、三東圧との合併を進めるにあたり、一部に三井石化への思い入れが薄い幸田さんだからやれたとの声も聞いた。しかし、幸田さんあって、三井石油化学と三井東圧化学の合併が成功したと言える。個性派は半端な上司に疎まれて、出世コースから脱落することが多い。半端な上層部ばかりだとそのために人材が枯渇して企業組織は没落する。
わが国の高度経済成長期、財閥系とはいえ一化学メーカーにも、尊敬に値する人材が豊富であった。工場長や研究所長を務められた間藤太雄氏。現場勤務当時の課長であり、三井デュポンポリケミカルの工場長も務められた北山勝美氏。岩国の工場人事課長時代から副社長になってまで、御交流いただいた新井悦郎氏。私の転勤の際の研究所長だった藤田康宏氏。所長室に転勤のご挨拶に上がると、1時間余りも話し込んでいただき、こちらの工場に来られた際は、職場に訪ねていただいた。入社当時の三井石化社長の東レから来られた岩永巌氏は圧倒的な貫禄がおありだった。
人材が細ると企業も国家も細る。いつの世も人材育成こそ国家の礎であろう。