エピローグ
昭和41年同期高卒男子入社は256名であり、千葉工場は建設途中であったため、全員が一緒に岩国大竹工場で教育を受けた。導入集合教育期間は、3月半ばから4月一杯の1か月半。5月初めに配属辞令が出て、各現場に散った。
建設中の千葉工場を担う人材に加えて、岩国では、千葉新工場に赴任する先輩諸氏の穴を埋めるための大量採用であった。
私の場合はプラントに配属になり、さらに1か月間座学中心で講義を受け、その後3交代勤務で実務の訓練を受けた。千葉工場採用者は集合教育後プラント実習が半年から1年間続いたようだ。私の職場には同期生19名が配属され、そのうちの約半数が千葉採用者であった。夏ごろに千葉へ巣立っていった記憶がある。
テレビドラマで話題となった警察学校を描いた「教場」では、厳しい訓練の様子が描かれていたが、我々の教場は極めて緩いものであった。
戦後三井三池炭鉱の労使紛争は過酷を極め、石炭から石油に燃料や化学製品原料が転換する中で、日本初の石油化学専門企業として、三井系企業幹部の従業員への配慮が滲んでいたと感じる。
高卒男子256名は、千葉採用者には東北の宮城、秋田、山形県や千葉県出身者が多く、岩国採用者は地元岩国を中心に、山口県、広島、岡山、島根県、福岡、大分、佐賀、長崎、熊本県などの九州、四国では愛媛県の松山、今治、新居浜などの出身者が居た。
工業高校卒の専門科は化学、機械、電気、加えて事務職要員の普通高の者も居た。3クラスに分かれて集合教育を受けたが、クラス分けの詳細は不明。女子社員も100名近く採用されていた筈だが、接触はその後も全くなく、男女間で同期生意識はない。大学卒採用者も教育場が全く異なっていたので、男女間同様、同期生意識は薄い。
寮は、当時学卒寮と高卒寮は分けられ、高卒の寮は、和木村と大竹市にあり、この年、九州、四国採用者は和木寮、中国地方と千葉採用者は大竹市の寮(御園寮)に入っていた。なぜか東北出身者は群れて賑やかであった。当時の御園寮の賑わいが未だに印象深い。
集合教育の終盤に人事担当者との面談があり、配属希望等述べる機会が与えられたが、私が開発課を希望した理由は、集合教育の講師で来られた開発課の社員が、好ましく感じられたからである。もっとも講師で来られる学卒の社員はみなさん立派で、知識だけでなく、仕事に対する熱も人間的資質も高かったように感じた。
希望の開発課には行けず、工場の端の最も危険と言われた酸化エチレンのプラントに配属になり、その痛みが柔道への情熱に転換したように思う。人生にはいろいろな転機がある。良かったのか悪かったのか。いずれにしても集合教育期間中に多くの関係者の好意を受けて、社会人として旅立てた様が、この度日記を読み返して改めて知ることが出来た。