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北海道)アイヌの教育に尽力30年 永久保秀二郎の思い

2020-02-25 | アイヌ民族関連
朝日新聞 2020年2月23日 11時00分

 明治から大正期、現在の北海道釧路市春採地区でアイヌ民族の子どもたちの教育に尽力した教師の永久保秀二郎(1849~1924年)。学校跡地にある市春採生活館(同市春採1丁目)では、アイヌ民族にまつわる様々な催しが行われている。釧路アイヌ協会は2019年末、永久保の功績をたたえる石碑を敷地に再建した。
 石碑は高さ1・2メートル、幅80センチ。永久保の雅号から「春湖翁碑」と刻まれ、経歴とともに「約三十年に渡る愛に根差した教育を貫き退職」と記されている。
 もともとあった石碑は2015年9月の台風で倒壊したままになっていた。釧路アイヌ協会は、イベントで出したアイヌ料理の売上金を再建費に充てた。大勢から寄付の申し出もあったという。
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 永久保はどんな人物だったのか。「永久保秀二郎の研究」(中村一枝著)などによれば――。
 キリスト教団体の聖公会は1891(明治24)年、移住政策でアイヌ民族の集落があった春採にアイヌ学校を開校した。宮城県出身の伝道師だった永久保は同年7月、函館から妻子とともに春採に移住、教壇に立った。
 この年の入校者は27人だった。教科書や文房具などが支給され、日本人の炭鉱労働者の子どもたちも学んだ。アイヌ語で聖書を学ぶ授業もあった。永久保は読書と作文、習字、算術などを教えた。集落を回り、熱心に入校を勧めたという。
 アイヌ民族に入浴の習慣がないからと、学校に浴室が設けられた。永久保は初めて児童と一緒に風呂に入った時の様子を日誌に楽しそうに記している。
 「余自ラ彼等三人ヲ浴セシメ、又而シテ膚垢ヲ洗ヒ去レリ。最初ハ容易ニ沈浴セズ」
 やがてアイヌ民族に黒い影が覆い始める。
 北海道旧土人保護法が99(明治32)年に制定された。アイヌ民族の日本人同化政策のなか、アイヌ語の聖書の授業は打ち切られた。
 1907(明治40)年、小学校令改正で尋常小学校の修業年限が6年間となった。だがアイヌ学校は官立の春採尋常小学校に移行したものの、16(大正5)年の道庁令で、「心性ノ発達和人ノ如クナラザル旧土人」として就学を遅らせ、修業年限を4年に短縮すると決まった。アイヌ差別は明らかだった。
 国や道の役人が学校に視察に訪れた際、永久保は撤回を求め、「秀逸ノモノアリ」と訴えたとされる。
 永久保はアイヌ民族の伝統文化に関心があった。熊送りの儀式で神に対する畏敬(いけい)の念を知り、感動を漢詩に残した。また聞き取ったアイヌ語や伝承を辞書にまとめている。
 20(大正9)年、退職した。4年後に75歳で亡くなるまで春採で暮らした。
 永久保に対して「結果としてアイヌ民族の同化政策を支えた」という批判もある。だが釧路アイヌ文化懇話会の佐藤寿子さん(71)は「永久保は熱くて優しい人だった。あの時代、抵抗していてはアイヌの人たちは生きていけぬと知っているから、子どもたちに社会で生きる術を教えたのだろう。地域住民の相談役で役所との橋渡し役も担っていて、地域からも信頼されていた」と評価する。
 最初の石碑は37(昭和12)年、教え子らが資金を出し合い、集落総出の労力で学校跡に建てたとされる。新しい石碑にはその思いが引き継がれ、「春湖翁碑」の文字や材料の一部に活用された。
 春採生活館には釧路アイヌ協会の事務局が入る。アイヌ民族の伝統儀式のほか、アイヌ語教室、古式舞踊や民族楽器の練習などが行われている。
 釧路アイヌ協会副会長の桃井芳子さん(70)は「石碑の再建にあたり、永久保さんの功績をあらためて知ることができた。大勢の人に関心を持ってほしい」と話している。(高田誠)
https://digital.asahi.com/articles/ASN2Q7785N1YIIPE006.html?_requesturl=articles%2FASN2Q7785N1YIIPE006.html&pn=4
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