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【プレビュー】力強さと優しさが同居する 「木彫り熊の申し子 藤戸竹喜 アイヌであればこそ」 東京ステーションギャラリー

2021-06-04 | アイヌ民族関連
(東京駅丸の内北口) 7月17日開幕
美術展ナビ 2021.06.03

《白熊の親子》(部分)、1999年、個人蔵
アイヌ民族の木彫りの技を受け継ぎ、大胆さと繊細さ、力強さと優しさという相反する要素を熊や人間の姿に表した北海道の木彫家・藤戸竹喜(ふじとたけき)の全貌を紹介する展覧会。
「木彫り熊の申し子 藤戸竹喜 アイヌであればこそ」
東京ステーションギャラリー(東京駅丸の内北口)
会  期   7月17日(土)~9月26日(日)
開館時間   午前10時~午後6時(入館は午後5時30分まで)、金曜日は午後8時まで
休館日    7月19日、8月10日、同16日、同23日、9月6日、同13日
入館料    一般1200円ほか 中学生以下無料
詳しくは同ギャラリーへ
藤戸(1934~2018)は北海道美幌町で生まれ、旭川市で育った。木彫り熊の名手として知られた父の元で12歳頃から熊彫りを習い、やがて阿寒湖畔に移り住み才能を開花させていく。一気呵成に彫られる熊や動物の姿は生きているかのように躍動し、たくましい生命力を漲らせている。その一方で細密な毛彫りは、硬い木に彫られたものであることを忘れさせるような柔らかさを生み出している。今回は藤戸の初期から最晩年までの代表作80点余りを展示。藤戸の全貌を紹介する東京では初めての展覧会となる。
藤戸は制作にあたっては一切デッサンせず、丸太に簡単な目印を付けるだけで、後は一気に形を彫り出していく。繰り返し繰り返し熊を彫ることで、熊の形態や取り巻く空間を把握、この能力を身に着けて行った。
34歳の時に依頼されて観音立像を制作したことが大きな転機となる。熊以外彫ったことの無かった藤戸は、京都と奈良を訪れて一週間仏像を見続ける。以後、人物や狼や鹿、ラッコなど様々な生き物を彫るようになる。特にアイヌ民族の先人たちの姿を等身大で彫った作品群は、精緻な写実の中に威厳に満ちった存在感を表して見る者に深い感動を与える。
(読売新聞事業局美術展ナビ編集班・秋山公哉)
https://artexhibition.jp/topics/news/20210603-AEJ432985/

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オーストラリア先住民の知恵が詰まった「自然のバーム」文化継承と自立の一助に

2021-06-04 | 先住民族関連
IDEAS FOR GOOD 6月 03, 2021
オーストラリア大陸に暮らす先住民アボリジニ(Aborigine)を知っているだろうか。オーストラリアで古くから多様なコミュニティや社会を構成している人々で、200種類を超える文化や慣習・言語などを持つ。最近、オーストラリア国内では多様性への配慮から「アボリジナル」「アボリジナル・オーストラリアン」などと呼ばれている(※1)。
そんなアボリジナルの人々の失業率は18.4%で、アボリジナルの人々以外のオーストラリア人の失業率(6.8%)の2.7倍にも上る(※2)。また、植民地政策で生活スタイルの変更を強いられてきたことで、昔から伝承されてきた文化が廃れていくことが問題となっている。
そこで、オーストラリアの社会企業The Bush Balm® social enterprise(ブッシュバーム社会企業)が、経済的自立と文化継承の問題を同時に解決する画期的なビジネスモデルを作り出した。
ブッシュバーム社会企業は、アボリジナルの人々が自ら運営している腎臓病の透析施設「Purple House」から生まれた企業で、アボリジナルの知恵を活かしたバームやクリームの開発、販売を行っている。製品は、アボリジナルの人々が昔から病気やケガの治療に使ってきた固有種の野生の薬草と、自然由来の素材だけを配合しているのが特徴で、オンラインや実店舗で販売している。
作り手は、働ける状態にある腎臓病の患者や、看病する家族だ。安定した収入が得られるのはもちろん、作り手たちが自分たちの固有の文化を伝承し、誇りを持ちながら働くことができるのも魅力的な点だ。
現在、発売されているブッシュバームは2種類。1つはArretheという薬草とオリーブオイル、ミツロウが入った「Arrethe Bush Balm®」で、湿疹、乾癬、皮膚炎、乾燥に伴う皮膚のかゆみを和らげる効果が謳われている。もう1つは、関節炎、筋肉と関節の炎症、打撲の傷や風邪症状の緩和のために塗る「Irmangka Irmangk Bush Balm®」で、Irmangka Irmangkaという草とオリーブオイル、ミツロウで作られている。
なお、この取り組みは消費者にも大きなメリットがある。Bush Balm®はアボリジナルの健康の知恵が詰まった、無添加、自然由来のプロダクトなので、消費者はこれを買い、使うことで、より健康な毎日を送ることができる。Bush Balm®の生産・販売は作り手、買い手みんなのウェルビーイングにつながる取り組みになっているのだ。
世界各地の他の先住民族も、高い失業率や貧困の連鎖に苦しんでいる。こうした中、ブッシュバーム社会企業のような、古来より伝承されてきた知恵を活かした先住民族たち自身の手による製品開発は、問題解決の大きなヒントとなるだろう。
※1 「アボリジニ」という言葉は、オーストラリアの植民地時代から差別的な意味合いで使われてきており、文化・言語集団が分かれていたオーストラリア先住民たちを一つのグループとして認識していることから多様性に鈍感だという言説があり、近年のオーストラリアでは呼称としてあまり使われていない。
※2 CHAPTER FOUR EMPLOYMENT ― Australian Government
【参照サイト】Bush Balm
【参照サイト】Purple House
https://ideasforgood.jp/2021/06/03/the-purple-house/

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多様性の国カナダでの人種差別の実態―タニヤ・タラガ『命を落とした七つの羽根: カナダ先住民とレイシズム、死、そして「真実」』

2021-06-04 | 先住民族関連
ALL REVIEWS 6/3(木) 11:00

1966 年、12 歳のチャーニーは、カナダ政府が先住民族の同化政策として制度化した寄宿学校から逃げ出す途中、線路上で凍死した。死因審問の結果、悲劇を繰り返さぬよう四つの勧告が出されたが、なんら改善策はとられなかった。
それから四半世紀以上経った2000年から2011年の間、オンタリオ州のサンダーベイ市で7 人の先住民の高校生が死亡した。うち5 人は、先住民の聖地の麓を流れるカイ川で遺体となって発見されている。高校卒業の資格を得るために、彼らは故郷から何百マイルも離れた都会で暮らしていた。将来への希望を見つける機会となるはずが、彼らが経験したのは、日常に溢れる先住民への差別と人々の無関心、そして堪え難い孤独であった。
七人の若い羽根たちが辿った生と死の軌跡を丹念にたどり、彼らの家族や先住民族の物語をとおして、カナダ建国の植民地時代から今日まで続く人種差別や文化的ジェノサイドの実態を鮮明に描き出した『命を落とした七つの羽』の序文をご紹介いたします。
◆多様性の国カナダでの人種差別の実態
「なぜ、カナダでこんなことが?」
これは『命を落とした七つの羽根』の読者から、私に寄せられる最も多い問いの一つだ。
こうした質問をしてくるのは大体、非先住民で、正直なところ、私はどう答えたら良いのかわからない。彼らの目に浮かぶのは、悲しみと信じられないという思い。それを見ると、彼らが知っているカナダ、彼らが育った国、あるいは彼らが到着したばかりの国について、彼らが本当に理解できていないことが分かる。彼らが信じていた国は、すべての人々にチャンスが開かれた親切で平等な国。あらゆる希望が満たされる国。彼らは、こういった幻想が本当のカナダではないこと、先住民族に関して言えば、この国には分断と暴力に満ちた過去があることを知って愕然とする。そして彼らは、この分断と暴力が依然として残るという事実を知り悲しむのだ。
カナダ人は、自分が知る愛すべきこの国、人権のために立ち上がったことで世界中から尊敬されている国が、先住民族の子どもたちを100年以上も両親から引き離し、インディアン寄宿学校に放り込んでいたとは信じたくないのだ。彼らは、カナダにインディアン法と呼ばれる法律−−政府が認定する先住民族のあらゆる生活を規定する−−がまだ存在することを知り愕然とする。そしてまた、カナダ政府がこれまでに署名してきた条約を反故にしてきた事実を聞かされたくないのだ。カナダ人の多くは、ジョージ・フロイドさんが2020年5月29日に米国ミネアポリスの警察官デレク・ショービンに殺害されるまで、2020年にカナダ国内で警察とのいざこざで8人もの先住民が死亡した事実を信じたくなかっただろう。
彼らに対する私の返答はこうだ。「私たち先住民族の人々は未だにサンダーベイの水辺や通りで死んでいる」 。
カナダ人が直面する困難な真実の一部であるが、真正面から向き合わなければならない事実だ。
カナダには暗い過去とはできるだけ向き合わないよう努めてきた歴史がある。しかし、国として前に進むためにはそれは不可欠だ。
私はこの国の人種差別(レイシズム)と大量虐殺(ジェノサイド)を扱った二冊の本を書いた。
一冊目は、『命を落とした七つの羽根 カナダ先住民とレイシズム、死、そして「真実」』。2000年から2011年までの間に亡くなった、七人の10代の先住民の若者たちの生と死について書いた本だ。若者たちは、プロペラ機でしかアクセスできないような辺境の小さなコミュニティ出身で、サンダーベイ市では両親や友人、そして彼らが知るすべてのものから切り離されて暮らしていた。五人の生徒、ジェスロ・アンダーソン、コラン・ストラング、レジー・ブッシー、カイル・モリソー、ジョーダン・ワバスはサンダーベイを流れる川で発見された。二人の生徒、ポール・パナチーズとロビン・ハーパーは下宿で死亡した。
これらの子どもたちの死は、それが起きている間、カナダの大手メディアや人々の間で無視されていた。しかし、七人の子どもたちの家族とファースト・ネイションズの指導者たちは、生徒たちの死に注目を集めようと毅然として戦ってきた。彼らは徹底的な調査と検死を要求した。亡くなったすべての生徒の死因審問請求には六年以上の時間を要した。徹底抗戦による審問請求がようやく実現した。
八ヶ月以上に及ぶ審問では200人もの人々が証人として出廷し、2016年6月に145項目もの勧告と共に審問は終了した。しかし、オンタリオ州北部の先住民族の人々にとって、実際の変化は、勧告内容からは程遠いものだ。審問は世界を変えることはできず、子どもを失った家族に正義をもたらすこともできない。審問は誰かを非難するように設計されたものではなく、生きている人を守るために死者から学ぶことを目的としているからだ。
審問が終わった直後、オンタリオ州検事総長事務局の傘下にある独立警察審査ディレクター(OIPRD)がサンダーベイ警察の捜査に乗り出した。ゲリー・マクネリー弁護士がまとめた調査報告書「失われた信頼:先住民族とサンダーベイ警察」 は三七件の警察による捜査を分析している。その結果、警察組織内部に 「組織的な人種差別」 があったことが判明、事件の処理方法に不備があったとして急死事件の捜査を再開することを含む四四の勧告が出された。
これらの調査のうち四件は、「七つの羽根」に関するものだ。ジェスロ・アンダーソン(15歳)、カイル・モリソー(17歳)、コラン・ストラング(18歳)、ジョーダン・ワバス(15歳) の事件を再調査するため学際的な作業部会が設置された。現在、四人の家族、サンダーベイそしてカナダが死亡調査の結果を待っているところだ。
この再調査について、元老院(上院)を最近退任したマリー・シンクレア氏に尋ねた。彼は、カナダ真実和解委員会の委員長として、6000人以上のサバイバーから先住民寄宿学校制度での経験と証言を集め、先住民族との関係修復を開始するためにカナダがしなければならない九四の行動要請を盛り込んだ報告書を作成した人物である。新たな学際的作業部会による事件調査は信頼に足るものか?との問いに、彼は 「ノー」 と答えた。
シンクレア氏の鋭い答えがすべてを物語っていた。彼はこう説明した。「警察は何が問題なのか全く理解していない。先住民が犠牲になるのは全て自業自得であり、犠牲者に責任を押し付けようという意思はサンダーベイでは非常に大きかった。おそらく現在もそうだろう。すぐにその意識が変わったとしたら驚くべきことだ。彼らは、確かに変わったと言うだろうが、その態度に大きな変化があったとしたら私は驚きますね。」また、こう言葉を継いだ。「それは、相当根深い組織的態度であり、サンダーベイ警察内のシステムに深く浸透しているものだからです。それを変更させるのは警察委員会の役割で、何らかの行動をとる責任があったのだが、彼らはそれをしなかった。彼らはそれを問題視さえしなかったのだから。」
サンダーベイに暮らす先住民に対して何十年にもわたり繰り返されてきたメッセージは、彼らは犠牲者としての価値すらなく、彼らの死は正当な調査に値しないというものだ。それは警察行政上の組織的人種差別ではない。それは単なるレイシズムだ。サンダーベイの先住民コミュニティは、何が変わったと信じればいいのか?
そして、これはサンダーベイだけの問題ではない。最近、2016年にサスカチュワン州のある農場で農家のジェラルド・スタンレーに射殺されたコルテン・ブッシー(レッド・ペサント・クリー・ネイション出身、22歳)の死亡に関して、カナダ連邦警察の民間審査苦情委員会による再審理が公開され、警官がコルテンの母親デビー・バティストを侮辱したことが明らかになった。再審理では、連邦警察がブッシーの死に関する調査の扱いに関し、47件の調査結果と一七件の勧告が出された。再調査では、警察が証拠を野外に置きっ放しにしたこと、母親であるバプティストさんの息を嗅いで飲酒の有無を確かめていたことを戒めた。彼女の息子が死んだと警察が彼女に告げた直後にだ。彼らは母親をまるで犯罪者のように扱ったという。
カナダ全土の先住民族は、サンダーベイだけでなく、これ以上の報告や王立委員会の設置、調査を求めていない。私たちがすでに知っていることを今さら報告されても仕方ないのだ。カナダという国家を運営するために作られた組織、官僚、政策、プログラムは、先住民族を念頭に置いて作られたものではない。こうした社会的制度や組織は、この土地に入植するためにやってきた人々が、カナダという国を建設するために作られたのだ。しかし、これらの土地は私たちが生きてきた土地だ。何万年もの間、先住民族が暮らしてきたタートル・アイランドだ。
カナダは、警察や政府、あらゆる行政機関で同じ問題を何度繰り返し発見すれば、問題だと認め始めるのだろうか?
カナダの歴史的無関心、いずれ事態は良くなるという楽観的な信念は暴力そのものだ。そんなことはありえない。時間をやり過ごすことで解決することはない。もし、あなたが暮らす地域社会で、高校や大学への進学や就業のために地方から出てきた若者たちが次々と死亡したり、路上でホームレスになったりしたら、あなたは一体どう考えますか?
8ヶ月間、欠かすことなく「七人の羽根」の審問に出席し取材を続けてきたCBCジャーナリストのジョディ・ポーターは次のように語った。「私たちは、ここで語られていることをどのように意味付ければ良いかわからないのです。何が私たちをカナダ人たらしめるのか、その存在の不安さが露呈している。あなたという存在が、この土地に住み続けてきた人々にとって命取りになる、と言われているのですから。」
二〇一八年、私はCBCマッシー・レクチャーの登壇者として、カナダ国内の五つの都市を訪れ、カナダにおけるレイシズムとジェノサイドについての二冊目の本「All Our Relations: Finding the Path Forward」の話をした。一連の講演は、人間を土地から分離するという暴力、家族を引き裂くこと、それによって引き起こされる魂の分離を中心的なテーマとして取り上げ、社会からの疎外感をなぜ感じるのかについて考える内容だ。しかし「真実」以上にその答えを与えてくれるものはない。先住民族はこの大地につながっている。私たちはずっとここにいて、これからもどこにも行かない。私たちの進むべき道は人間の内面から示されるものでなくてはならない。心に宿る知識、私たちを何千年にもわたって支えてきた智慧に従って。
これらの本を読むことは、「七人の羽根」やこれまでに失われた全ての子どもたちの命に敬意を払うことに繋がります。
Chi-miigwetch(どうも、ありがとう)
[書き手]タニヤ・タラガ(Tanya Talaga)
トロント・スターの報道記者。母方の祖母は本書の舞台でもあるフォートウィリアム・オジブウェ族であり、タラガは幼少期から何度もこの地を訪れていた。公益に資するジャーナリストに贈られるMichener賞に5回推薦。2017-2018 年には、功績あるジャーナリストに与えられるアトキンソン・フェロー(公共政策)を受賞。2018年名誉あるCBC マッシー・レクチャーの登壇者に選ばれ5都市における連続講演会を開催、本書に続く著作 All Our Relations:Finding The Path Forward (2018)もベストセラーとなる。
[書籍情報]『命を落とした七つの羽根: カナダ先住民とレイシズム、死、そして「真実」』
著者:タニヤ・タラガ / 翻訳:村上佳代 / 出版社:青土社 / 発売日:2021年05月26日 / ISBN:4791773780
https://news.yahoo.co.jp/articles/dedc91168199c6e752e32dac5a1911f75c546a68

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オーストラリア映画上映会 第2弾 石井竜也さんらを招いたアフタートーク、プレゼント企画も

2021-06-04 | 先住民族関連
JIJI.COM 2021年6月4日(金)
[在日オーストラリア大使館]
6月17日夜、オンライン配信
オーストラリア大使館は6月17日(木)、オーストラリア映画上映会第2弾 “Australian Film Night, Vol.2” をオンラインで開催します。視聴者の皆さまがご自宅にいながらオーストラリアの文化を知っていただける機会を設けようと、昨年12月に続いて企画しました。視聴は無料です。上映するのは、ロルフ・ドゥ・ヒーア監督・製作・脚本、ピーター・ジギル共同監督の『十艘のカヌー』(2006)です。

オーストラリア北部準州のアーネムランドで繰り広げられる物語。オーストラリア映画史上初めて、全編先住民の言語で製作されました。
現代に生きる語り手が私達に語りかけるのは、彼の祖先である青年が兄からカヌー作りをしながら聞いたお話です。その物語は兄弟の更に祖先の物語。祖先の物語が語り継がれることによって、次世代に伝えられ、未来永劫繰り返されるという先住民の世界観がユーモアも交えながら表現されています。2006年カンヌ映画祭「ある視点部門審査員特別賞」受賞作品。
上映後には、アーティストや映画監督として活躍する石井竜也さんとオーストラリア放送協会の先住民族関連映像の専門家であるターシャ・ジェームズさんをスペシャルゲストにお迎えし、ミニ・アフタートークも開催します。
参加方法:後日、オーストラリア大使館のFacebook イベントページに掲示されるVimeoの配信URLに当日アクセスするのみ。
前日と当日にリマインダーを受け取りたい方はページ内のフォームよりお申し込み。
<イベントページ>
https://www.facebook.com/events/179226460767503
<上映会の概要>
日程:2021年6月17日(木)
会場:オンライン(Vimeo Live予定)※視聴者の皆さんのお顔は映りません。
参加費:無料
参加方法:Vimeoの配信URLに当日アクセスするのみ(アプリのダウンロードは不要)
当日のスケジュール:
18:50 イントロトーク
19:00 上映スタート※日本語字幕あり(91分)
<休憩>
20:40 アフタートーク
21:10 終了予定
主催:オーストラリア大使館
協力:National Film and Sound Archive of Australia、岡田壯平
制作協力:アテネ・フランセ文化センター、エイトアイランズ株式会社、株式会社ヴェルデ、株式会社LIFE.14、Wild Bunch
※映画の上映やトークにつきまして、録画などはご遠慮ください。
※本作はオーストラリアではMature(M) 指定であり、多少の暴力や裸のシーンがあるため、15歳未満の子供には推奨されていません。
<プレゼント企画>
アフタートークまで視聴してくださった方には、オーストラリアワイルドフラワーのプリザーブドブーケを抽選で10名様にプレゼントします。アフタートークについての感想を、オーストラリア大使館の公式Facebook pageの6月17日(木)午後9時ごろの投稿にコメント(140字以内)するか、皆さんのTwitterアカウントより、ハッシュタグ「#AustralianFilmNight」と一緒に、コメントを記入して投稿してください。応募対象は日本国内在住の方とします。締め切りは2021年6月22日(火) です。応募規約はこちら。
https://japan.embassy.gov.au/tkyojapanese/australianfilmnight1762021.html
<ミニ・アフタートーク登壇者の略歴>
石井竜也

茨城県北茨城市出身。高校卒業後、画家を目指し上京。米米CLUBとしての活動を経て、映画監督、オブジェ創作などを含め、音楽活動を軸にソロ・アーティストして活動中。
2001年9・11のアメリカ同時多発テロをきっかけに、02年から愛と平和を願うアート・インスタレーション「GROUND ANGEL」を主宰、故郷も被災した11年の東日本大震災発生からは、被災者支援を軸とした活動を行っている。
20年、デビュー35周年を迎え、21年もコロナ禍の中で、常に新しいコンセプトを考え挑戦し続けている。現在は、2年ぶりのツアー「OH! ISHII LIVE」を開催中。
オフィシャルサイト: https://www.t-stone.com/
ターシャ・ジェームズ

ニュー・サウス・ウェールズ州中西部のワラジュリ族出身のターシャ・ジェイムズは、オーストラリア先住民に関するアーカイブの専門家である。これまで、オーストラリア・アボリジナル・トレス海峡諸島民研究所、オーストラリア博物館、オーストラリア国立フィルム&サウンドアーカイブにおいて、先住民のコミュニティーやコレクションと15年以上にわたり関わってきた。特に各コレクションにつき、その充実化を図り、また一般向けの閲覧や広報活動、パブリック・プログラム、展覧会、文化への認知度の向上、方針の策定に寄与してきた。
2021年6月にオーストラリア放送協会(ABC)アーカイブの先住民ユニットマネージャーに着任し、先住民、そして広くABCの聴衆による先住民のアーカイブ資料の活用を促進するため、先住民コミュニティーとの関係を深め、資料の管理を行っている。
企業プレスリリース詳細へ (2021/06/03-15:16)
https://www.jiji.com/jc/article?k=000000004.000051363&g=prt

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「現代の奴隷」 台湾の漁船ではびこる人権侵害

2021-06-04 | 先住民族関連
JIJI.COM 6/3(木) 15:48
【AFP=時事】台湾の水産業は大きな利益を上げているが、外国人の出稼ぎ漁船員への強制労働や暴力をめぐり、非難の目を向けられている。台湾政府は民主的な体制をアピールしているが、船上の実態はそうしたものとは懸け離れている。
 台湾のはえ縄漁船団の総数は世界第2位を誇り、何か月、時には何年にもわたって遠洋で漁を続け、スーパーマーケットに海産物を供給している。
 しかし、船内で働くほとんどは、フィリピンやインドネシア、ベトナムからの貧しい出稼ぎ労働者だ。彼らは、過酷な労働時間、減給、何か月にも及ぶ家族との連絡途絶、日常的な殴打、さらには洋上死など、悲惨な現状を訴えている。
 米国は昨年、台湾の遠洋船団が捕った魚を「強制労働によって生産された品目リスト」に初めて加えた。独裁制を脱し、アジア有数の先進的な民主主義体制を標榜(ひょうぼう)する台湾にとっては、ばつの悪い措置だった。
 台湾は近年、アジアで初めて同性婚を合法化し、蔡英文(Tsai Ing-wen)総統が先住民族に歴史的な謝罪を行い、さらに、戒厳令施行下で横行した人権侵害の解明にも取り組んできた。しかし、30億ドル(約3300億円)規模の水産業で労働者が虐待されている問題に関しては、ほとんど進展が見られない。
 AFPがインタビューした出稼ぎ漁船員らは、1日最長21時間労働が常態化し、言葉や身体的な虐待を受け、外界との接触も遮断されていたと証言した。ようやく賃金を受け取っても、多くの場合、あっせん業者が約束した額より少なかった。
 インドネシア人のスプリ(Supri)さん(インドネシアでは珍しくない1語のみの名前)は、台湾漁船で船長に毛嫌いされ、何かにつけて叱責され、冷凍庫に閉じ込められたこともあれば、船長が命じた他の乗員から魚を殺すのに使用するスタンガンを体に当てられたこともあったと話す。「家に帰りたいとずっと考えていた」とスプリさん。「死にたくなかった。家族にまた会いたかった」
■「病気でも働かされる」
 国際NPO「環境正義財団(Environmental Justice Foundation)」は、台湾のはえ縄漁船で働くインドネシア人を調査し、昨年、その結果を発表した。それによると、はえ縄漁船の25%で身体的な虐待、82%で過度な残業、92%で減給が行われていた。
 同財団に所属するインドネシア在住のモハマド・ロムドニ(Mohamad Romdoni)氏は、台湾船の労働条件は、世界最大の漁船団を擁する中国に比べるとわずかにましだが、「それでもひどい」と語る。「食べ物をかめて飲み込める船員は、病気でも働かされる」
 マニラのNPO「国際海員行動センター(International Seafarers Action Center)」を率いるエドウィン・デラ・クルス(Edwin Dela Cruz)氏は、台湾漁船の労働条件について端的にこう指摘した。「現代の奴隷労働だ」
 フィリピン人船員のマルシアル・ガブテロ(Marcial Gabutero)さん(27)が長期操業から戻ると、妻は家を出ていた。しかも、あっせん業者が支払ったのは、月給250ドル(約2万7000円)の5分の1のみだった。
 ガブテロさんは、船上ではほうきの柄でよく殴られたが、抗議はしなかったと言う。「私たちにはどうすることもできず、契約が終わるまで耐えるしかなかった」
 世界の漁船上の虐待を監視するNGO連合「水産ワーキンググループ(Seafood Working Group)」の推定によれば、台湾の遠洋漁船では約2万3000人が働いている。
 同連合は今年、米政府の人身売買年次報告書で台湾を降格するよう勧告。出稼ぎ漁船員が被っている賃金削減や強制労働、殺人、海上での行方不明事例があると指摘した。
■検査や法執行の対象外となる「便宜置籍船」
 中でも最悪の事例が確認されているのは、台湾所有の遠洋漁船が、規制が少ない国から「便宜船籍」を得て台湾領海外で操業しているケースだ。台湾の遠洋漁船は、当然ながら台湾の雇用規則に従わなければならないが、便宜置籍船は公的な検査や法執行の対象外となる。
 台湾政府の漁業署は、強制労働や人身売買に関する関連規則を「適時に」改定する「行動計画」を台湾政府に提出するとした。
 しかし、同政府の監察院(Control Yuan)の5月上旬の報告によると、漁業署や他の省庁は漁業での人権侵害を認識していながら、何ら具体策を講じていない。
 出稼ぎ船員を支援する台湾の労働組合、宜蘭県漁工職業工会( Yilan Migrant Fishermen Union)の李麗華(Allison Lee)氏はAFPに訴えた。「政府は体裁を取り繕っているだけだ」
 出稼ぎ労働者の船上での死亡事例が確認されているが、多くの場合は不審な状況下だ。
 2015年、インドネシア人漁船員のスプリヤント(Supriyanto)さん(47)が死亡した件では、世界中で抗議の声が起きた。
 当初は病死とされたが、乗員仲間の証言と動画によって痛ましい事実が明らかになった。
 スプリヤントさんは、台湾人の船長に頻繁に殴打されていた。船長はスプリヤントさんに対し「(漁具で)頭を殴り、ナイフで足を切り、他の乗員に殴らせていた」と李氏は話す。
 だが、この件では、まだ誰も訴追されていない。
 2019年には、別の漁船で19歳のインドネシア人が死亡する事例が起きた。乗員仲間によると、前日に台湾人の職員に殴られていた。「船長が遺体を毛布でくるんで冷凍庫に入れた」と、乗員の一人は環境保護団体グリーンピース(Greenpeace)に匿名で証言している。
 この船「大旺(Da Wang)」はバヌアツ船籍だが、米政府は同船を制裁対象のブラックリストに載せた。大旺は昨年、台湾の高雄(Kaohsiung)で停泊していた際に台湾検察当局の調査を受けたが、出港禁止処分を受けることはなく、1か月後に公海へ戻った。
 大旺などのケースは、台湾当局が虐待を黙認している表れだと李氏は指摘する。
「船上での処遇には多くの問題があるが、彼らは誰にも助けを求められない」と李氏は話した。【翻訳編集】 AFPBB News
https://news.yahoo.co.jp/articles/788a33782bb2370b171f2cf9386f7784e92db5b7

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みんなを笑顔にするサモエド・スマイル

2021-06-04 | 先住民族関連
幻冬舎plus編集部 2021.06.03
いま大人気の動物園・那須どうぶつ王国の、スター動物たちの写真集『もっふもふ! 那須どうぶつ王国』。そのキュートさに話題騒然です。本書の一部を紹介するとともに、撮影の裏話をこっそりお教えします。
本日の動物は「サモエド」。本書を代表するもっふもふ具合をご覧ください。
サモエド
シベリアの先住民族のあいだで古くから飼われ、そり犬やトナカイの番犬として働いてきた。改良された品種はおもにペットとなっている。
英名:Samoyed
分類:食肉目イヌ科
原産地:ロシア
みんなを笑顔にするサモエド・スマイル。
写真:松原卓二)
先住民は、このふさふさの体に顔をうずめて眠るといいます。理想の毛布。
そり犬の血がさわぎます。犬はやっぱり、走っているときがいちばんいい。
〈撮影ウラばなし〉
本書の撮影でもっとも撮影枚数の多かった動物がサモエドです。
白くてもっこもこで笑顔がかわいくて、とにかくフォトジェニック!
カメラマンの松原さんはサモエド好きということもあり、シャッター音がとまりませんでした。
どんなふうに撮影していたか、賢くてかわいいサモエドのアカネちゃんの様子をご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=c7GCwfbSjTg
(撮影:佐藤暁)
撮影は那須どうぶつ王国の展望ドッグランでおこないました。那須の山々が見渡せるすばらしいロケーションです。
おやつをくわえてニコニコのアカネちゃん。
おやつタイムのうしろ姿がまたかわいい。
撮影スタッフから「かわいい」以外の言葉をうばってしまう、圧倒的かわいさのサモエド・アカネちゃんなのでした。
*   *   *
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《特別寄稿》イザベラ・バードの見た「古き麗しき日本」(1)=サンパウロ市ヴィラカロン区在住 毛利律子

2021-06-04 | アイヌ民族関連
ニッケイ新聞 6/4(金) 5:45
「これほど美しい国、平和な国が世界中のどこにあるだろうか」
 この言葉は1878年(明治11年)、初めて日本国内を旅し、直接日本人と接した英国人女性イザベラ・バードの感想である。彼女は、ゆく先々で出会った人々のことを次のように述べる。
《人々は稀に見る愛情深さ、礼儀正しく勤勉、家庭教育の徹底、深い絆と助け合いで結ばれ、社会秩序は見事に守られていたのだった》
 その頃の日本は極めて貧しく、人々は飢えと病に苦しんでいた。バードの旅路は、現代とは比較にならないほど不自由で、苦難の連続であった。
 しかし、そのような物理的困難は、ゆく先々で出会う「貧しくても心豊かな素朴な日本人」によって癒されこそすれ、少しも苦にならなかった。バードは日本人をその都度、自分の故郷、先進国イギリスの実態と比較して、深く胸打たれたからだ。
世界のどこにもない日本の良さを、あるがままに書き綴る
 イザベラの率直な英語文は非常に読みやすく理解しやすいことから、大学での教養英語の教本に採用されることも多い。しかしそれは単に英語学習のためだけに止まらず、読後に改めて「古き良き時代」を懐かしむ気持ちにさせるのである。
例えば、《大人は、嘘も、ごまかしも無い真っ正直で温厚な人々、子供たちは、たとえどれほど貧しくても、イザベラに貰ったものを大切に両手を添えていただき、必ず親に報告し、真顔でお礼を言い、たくさんの兄弟で等分に分け合った。
 ボロボロの一間の家の中で、家族は全員が幼子に至るまで働き者で、優しく寄り添い温め合い、助け合い、朗らか、なのである》
 これだけを例に挙げても、今の私たちは何か「とても大切なもの」を失ってしまったのではないか、という想いになる。
 イザベラをここまで感銘させた明治の日本人。ここでは、民俗学者・宮本常一が書いた「イザベラ・バードの旅『日本奥地紀行』を読む」の解説書で、さらにその頃の日本の風物を振り返ると、知らなかったことばかり。なるほど、根っこはここにあったのか、と興味満載、目からウロコ、イザベラをわくわくさせた明治の日本が浮かび上がってくるではないか。
イザベラ・バードの旅行とは
 イザベラの人となりを、京都大学名誉教授金坂清則氏の解説を要約して紹介すると、
「イザベラ・バードは1831年、イングランド北部ヨークシャーのバラブリッジに牧師の長女として生まれた。1854年(23歳)から亡くなる3年前の1901年まで海外を旅し、訪問国は19ヵ国、南米以外の全大陸に及んだ。
 期間の長さ、世界の広がり、そして、旅に基づく作品にとどまらない膨大な著作や講演活動を総合的に判断すれば、女性という枠をはめずとも旅行家の頂点に位置する一人と評価できる。
 1891年に王立地理学協会特別会員の栄に女性で初めて浴したのはその証しの一つである。希代の旅行家バードへと展開する基点が、1878年(明治11年)の日本の旅とその記録だった」
 イザベラの日本訪問は実は用意周到に準備された公務であったが、一般的には「好奇心旺盛な中年の英国女性(47歳)が行った北海道への贅沢な個人的旅行記は母国の妹らに書き送った手紙を基にしている」という誤った解釈による簡略本として広まった。
 今でも、ユーチューブの朗読などでこの簡略本を以って紹介されているが、実は、出版社主ジョン・マレー3世の要望によって、大評判を得たこのイザベラの大著の分量を半分にし、かつ、女性らしい小ぶりな「旅と冒険の物語」に改変した簡略本にして出版され、復刻本も、日本での翻訳本もこの簡略本を基にしたことに因る。旅行そのものはキリスト教伝道の意義を念頭にした公務だったのだ。
 金坂氏は次のように述べる。「バードの目的は、旅を通して本当の日本を知り、記録に残すことである。旅は英国公使ハリー・パークスが企画立案し、記録は、全2巻800ページを超える大著『日本の未踏の地:蝦夷の先住民と日光東照宮・伊勢神宮訪問を含む内地旅行の報告』で、同書はこれまで言われていたような旅先から妹へ送った私信を集めたものでなく、半ば公的な報告書だった」
 イザベラは日本に7カ月滞在した。東京から始まった全行程は4500キロを優に超えた。陸路、海路と繋ぎながら、その時々に目撃した日本国の姿をつぶさに記録した。
馬や人力車で陸海合わせて4500キロの大旅行
 行程距離は、北海道の旅が、東京から平取まで陸路で約1400キロ、函館から横浜間が海路だった復路を含めると約2750キロ。関西・伊勢神宮の旅は、陸路が約580キロで、横浜から神戸間の船旅を含めると約1850キロとなる。
 二つの旅を合わせると全行程で4500キロを優に超えていた。英国公使の尽力で地域的・時間的制約のない特別の内地旅行免状を取得して初めて成し得た旅だった。
 横浜・神戸・長崎・函館・新潟という五つの開港場で活動していた宣教師や著名人、シーボルトの次男ハインリッヒ・フォン・シーボルト、ヘボン式ローマ字の考案者として知られるジェームス・カーティス・ヘボン、アーネスト・サトウらの公使館員・領事といった在日欧米人はもちろん、外務省や開拓使、内務省など日本側の支援もあった。
 日本側の支援は府県以下の役人や医師・教師、宿の主人や子供にまで及んでいた。夏の最中に冬の遊びを見せてもらい、葬儀や結婚式にまで参列できたのはこのような協力があったからだった。
 さらに、アイヌの文化と社会の把握、そしてその記述を旅の一大目的にしていた彼女にとって、平村ペンリウク(アイヌの指導者の一人)以下、平取のアイヌの人々の協力も不可欠だった。
 これも英国公使が開拓使を介して手配した。鉄道を利用できたのは横浜・新橋間と神戸・京都間のみ。馬で大地を駆けたのも北海道の一部のみ。人力車はまだしも、馬子が引く駄馬や牛の背に乗ったり、ぬかるみの道を歩いたりしなければならなかった。
 増水した秋田県の米代川の濁流を小舟でさかのぼった際には命を落とす危険さえあった。
 彼女の旅は時に地元紙にも紹介され、視察の旅であることが読者に伝えられていた。用意周到に準備・計画され、ルートは目的に従い事前に設定されていた。旅で用いたブラントン日本図も英国公使の命によって彼女のために作成されたものだった。
 ただ忘れてならないのは、彼女がこのようなことを頭の片隅に置きながらも、旅で目にするもの、出会う人のすべてに関心をもち、率直な思いを吐露しつつ鮮やかに描き出していったことである。
 少女時代から培われてきたこうした鋭い観察力を駆使して、彼女は旅の一瞬一瞬を記録した。これこそは彼女の旅行作家としての優れた資質だった。」(引用=nippon.com、金坂清則『イザベラ・バード、鋭い観察力で日本の実相を記録した希代の旅行家』)
生々しく綴られた明治の日本人の風俗
 さてそれでは、イザベラが横浜港に着岸して、まず最初に見た光景から始めよう。
 目探ししたのは、当時世界的に知られていた富士山であった。
 目の前をいくら探しても無い。目線を高く上にあげたとき、イザベラは、富士山の圧倒的な美しさに驚嘆した。
 以下、*印は宮本常一の解説を要約。
(*外国人のイメージで富士の絵を描かせると皆尖った三角形を書くが、実際は、もっと緩やかにたなびいて美しい。
 今では誰でも登れる山として人気を集めているが、もともとは、非常に強い信仰と風景の対象であった。織田信長や豊臣秀吉までが、富士を見に行くことを強く希望していた。
 関東平野には、沢山の浅間神社があり、富士のことを一般的に「せんげんさま」と呼んでいて、富士へ登る人たちによって富士講が結成された。5月の初めには御戸開きがあり、登るときには必ず先達(御師)が付いた。御殿場、須走、吉田、大宮(富士宮)には20~30軒の御師の家があり、登山者は一泊して御山駆けをした。一年に5万人ほどの人が集まったという)
世界一の大都市
東京が見えない
 イザベラはいよいよ東京(その頃でもまだ江戸と呼んでいた)にはいるが、品川に着くまで江戸はほとんど見えなかった。「寺院は深い木立の中に隠れていることが多く、ふつうの家屋は7メートルの高さに達しているのは稀だった」と述べているが、
(*東京は当時世界一の大きな町だった。明治の初めには東京に100万人の人口があり、ロンドンの3倍以上あったが、工業がなかったため、全体の建物が低くく中心部に入るまで見えなかった)
日本人の印象
(服装・体格)   
 日本人は、みな一重のゆったりした紺(藍)の短い木綿着を纏い、腰のところは帯で締めていない。草履を履いて頭の被り物といえば、青い木綿の束(手ぬぐい)を額の周りに結んでいるだけである。…小柄で、醜くしなびて、がに股で、猫背で、胸はへこみ、貧相だが優しそうな顔をしている。
(*「がに股で、猫背で、胸はへこみ」。こういう体格から日本人が抜け出せたのは大正時代になってからであろう。明治時代の平均身長は現在より20センチほど低かった。農耕作業に牛馬を使うことは少なく、鋤を使って猫背になり、アグラをかく習慣が、がに股を作った。まず、座る姿勢が胸をへこませ、作業がすべてうつむき加減。これがイギリス人の目には胸をすぼめていると映ったのであろう)
イザベラを驚かせた下駄の音
 「(200人の下駄)が鳴らす400の下駄の音は、私にとって生まれて初めて聞く驚異的な音であった」
(*明治から昭和の初めごろまでは下駄の音のことが多くの文章に書かれている。カラッコロッという音は外国人にはとても印象的であった)
人力車とクリカラモンモン入れ墨
 イザベラは人力車にも初めて乗った。人力車は当時、日本の特色となっており、日々に重要性を増していた。発明されてたった7年で、一都市(東京)に2万3千台近くもあった。
「しかし、車夫家業に入ってからの平均寿命はたった5年であるという。車夫の大部分は、重い心臓病や肺病に罹かる。かなり平坦な地面を、うまい車夫なら時速4マイル(7キロ)走る」とイザベラは言う。
 そして、入れ墨について。「車夫の服装は青い(藍染め)木綿の手ぬぐいを頭の周りに縛り付け、・・・竜や魚が念入りに入れ墨されている背中や胸をあらわに見せていた」
(*関東では夏に裸が多かったという記録が多い。入れ墨は、クリカラモンモン(背中に彫った倶利迦羅竜王の入れ墨。転じて刺青の総称)。これがなかなか魅力的で、明治の終わりころに来日したドイツの王子がすっかり気に入り、入れ墨を施し、「意外に痛かった」という感想を述べて帰国した。この時代は江戸を中心に極めて当たり前の風俗であったという)
    ☆
 イザベラ・バードの旅は、いよいよ日光に差し掛かるが、旅の大きな障害は、蚤の大群と、乗る馬の貧弱なことだった…。(つづく)
【参考文献】宮本常一が書いた「イザベラ・バードの旅『日本奥地紀行』を読む」、平成14年、講談社オンラインブック
https://news.yahoo.co.jp/articles/1e62fd5107a43a166e8773410d7f8567bb57684b

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