先住民族関連ニュース

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<美濃飛騨スペシャル>(78)下呂の豪商・武川久兵衛の足跡

2021-06-13 | アイヌ民族関連
中日新聞Web2021/06/13 05:00

武川家が使っていたとされる蝦夷地(北海道)の絵図=県歴史資料館所蔵
(中日新聞Web)
 江戸時代に蝦夷地と呼ばれた北海道の山林開拓や交易に尽力した下呂の豪商・武川久兵衛が、北海道に渡ってから約三百二十年。四代、約九十年にわたるその歴史は、苦闘の連続だった。アイヌ民族の蜂起「クナシリ・メナシの戦い」を機に引き揚げ、ふるさとの下呂で再び山林開発に取り組んだ足跡を、近年の研究からたどった。
 十四代目の武川家当主、武川久兵衛さん(70)=下呂市=に渡されたのが、札幌市在住で北海道史研究協議会会員の平工剛郎さん(83)が二〇一六年に著した「北の漂泊者 飛騨屋久兵衛」だ。初代の武川久兵衛倍行が一七〇二年に北海道に渡り、二代目の倍正から、倍安、益郷に至る四代が、山林開拓や交易場所の運営に携わった歴史をまとめた。
 岐阜市出身の平工さんは「北海道では『非人道的な経営でアイヌの蜂起を招いた、まるで悪徳商人』、岐阜では『北海道開発の先駆者』という、両極端な扱い。資料から、もっと広角的に実像を描きたい」と考え、武川家が岐阜県歴史資料館に寄贈した千四百点の文書などを読み解いた。
■優れた経営能力
 「北の漂泊者−」によると、初代倍行が出資者として北海道の山林開発を請け負ったのは一九年だったが、単独で請け負ったのは倍正の時代の三七年で、簡単に参入できたわけではないことが分かる。それでも、三代目の倍安の時代には、二千六百両余の利益を上げた年もあった。
 成果を上げ得た理由には、切り出した木材の販売ルートを独自に設けたり、川を使って運ぶ方法を確立したりするなど、優れた経営能力が挙げられるという。だが、六九年には元支配人の裏切りなどに遭い、山林請負から撤退することに。七四年から、代わりに与えられた交易場所、最大五カ所の運営に携わる。
 交易場所の運営は困難を極めた。通商を求めるロシア船の来航や、交易船の難破、幕府自らのお試し交易などで、たびたび休業を余儀なくされた。平工さんは、こうした期間の後、大きな網を使ったサケ漁や、魚肥の生産拡大などが進み、効率的な技法がアイヌ社会に影響を与えたと見る。
■幕府公訴実らず
 アイヌを毒殺したと疑われる事件をもとに、八九年にアイヌの蜂起「クナシリ・メナシの戦い」が起こる。松前藩の役人や飛騨屋の使用人ら七十一人が襲撃を受けて死亡し、アイヌの三十七人が処刑された。平工さんは、益郷が現地の経営にほとんど携わらず、アイヌを無理な労働に駆り出したことなど、飛騨屋の責任に触れた。その一方で、松前藩にも家臣を派遣していた責任があると指摘した。
 松前藩から、全ての交易場所を引き渡すように命じられ、同年、飛騨屋は幕府に公訴。九〇年の判決は、飛騨屋に「不埒(ふらち)なことはなかった(落ち度はなかった)」としたが、一方で、松前藩が決めたことに幕府が口を出すことはないとする内容。交易場所からの撤退を迫られる状況は変わらず、実質的な敗訴となった。
 九〇年にふるさとの下呂で名主となった益郷は、幕府に何度も申し出て、休止されていた飛騨での山林請負の道を開く。北海道と地元での事業で抱えた借財一万二千二百三両を、三十五年間かけて返済し、その三年後に亡くなった。
 子どもらのために益郷が残した遺言が、武川家文書の中にある。
 「莫忘慈悲(慈悲を忘れることなかれ) 莫行虚偽(虚偽を行うことなかれ) 莫生懈怠(けたい)(懈怠を生むことなかれ)」
 わずか三行の中に、平工さんは「アイヌに対する行為を、二度と起こしてはならないという気持ちの強さを感じる」と話す。
 二〇〇九年に県歴史資料館の学芸員として、館報で武川家文書を紹介した飛騨教育事務所教育支援課長の平塚剛さん(54)は「進取の精神で奥地に乗り込み、粘り強い経営を貫徹した。亡くなった関係者も弔い、生き残った使用人もその後、大切に扱っている。借金もきちんと完済し、ふるさとでは社会貢献をしている。さらに、北方世界に人々の目を開かせたのでは」と功績にも目を向ける。
 下呂市では一九八三年に下呂ロータリークラブが四代の姿を追った書籍「飛騨屋久兵衛」を刊行し、九〇年には再版された。現当主の久兵衛さんは「平工さんらの研究で、理解を深めてもらえればうれしい」と話す。五年前には、北海道根室市の納沙布岬にある、使用人らの墓碑を訪ねた。今年秋には、北海道でアイヌの蜂起があった現場などを訪れ、慰霊をする予定だ。
 (吉田幸雄)
https://news.goo.ne.jp/article/chuplus/region/chuplus-271732.html

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聖火式典 道内13日から

2021-06-13 | アイヌ民族関連
北海道新聞 06/12 23:47
 東京五輪の聖火の点火セレモニーが13日に胆振管内白老町のアイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」で、14日に札幌市中央区の北3条広場(アカプラ)で無観客開催される。新型コロナウイルスの感染拡大に伴って道内では公道での聖火リレーが中止となり、各日のセレモニーではランナー代表の各1人がトーチから聖火皿に火を移す。
 聖火は青森県から北海道にリレーされる。セレモニーのランナー代表は、ウポポイ会場が白老町のアイヌ民族文化財団職員山道ヒビキさん(32)、アカプラ会場が札幌市立陵陽中2年の湯川総夢さん(13)。いずれの会場も、開始は午後2時。式典は特設サイト(https://hokkaido-ceremony.com/)で同時配信される。
 道内では当初、計18市町の公道で聖火リレーが行われ、ランナー計206人が走る計画だった。13、14日のセレモニーでは、ランナー代表以外の204人の名前が読み上げられる。聖火はセレモニー後、岩手県へ運ばれる。
 3月25日に福島県から始まった聖火リレーは北海道で38番目。北海道以外でも公道でのリレーの中止が相次いでいる。(石垣総静)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/554928

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<東胆振・日高 歴史を歩く>交易の要路 川から陸へ 勇払越え

2021-06-13 | アイヌ民族関連
北海道新聞 06/12 18:42
<東胆振・日高 歴史を歩く>交易の要路 川から陸へ 勇払越え
苫小牧市の勇払川をカヌーでさかのぼる。かつて激しく蛇行した流路は直線化され、往時の面影はない=2020年5月
 苫小牧市東部の「勇払」の語源はアイヌ語の「イ(その)・プト(口)」との説がある。勇払海岸から石狩低地帯を通り、石狩湾へ至る北海道縦断ルートの「入り口」である。古くからアイヌ民族が行き交い、江戸期には「勇払越え」と呼ばれて探検家松浦武四郎ら多くの人が通っている。
 舟で川を行く水路30里、陸路2里の計32里(約125キロ)。全行程がほぼ標高20メートル以下だ。峠越えの苦労をせずに太平洋岸と日本海岸を往来可能。東西蝦夷地(えぞち)を結ぶ交通の要路であり、サケや獣皮など蝦夷地の産物を二つの海から本州へ送る交易の要路でもあった。
 これに近いルートを昨年5~8月に4日間かけてたどった=図=。カヌー乗り入れ規制のあるウトナイ湖は外し、水路76キロはカヌー、苫小牧市美沢―千歳市本町の陸路約8キロは徒歩。流路の大半は直線化され往時の面影はないが、変わらぬ標高の低さを実感した。
■開拓の可能性
 幕末の1857年(安政4年)、この勇払越えを通った仙台藩士、玉蟲左太夫(たまむしさだゆう)(1823~1869)は、蝦夷地巡検の記録「入北記(にゅうほくき)」でウトナイ湖の風景を絶賛している。旧暦9月半ば、現在の10月末だ。
 「この沼は至極景色よろしきところにて、西の方シコツ山タルマイ山イニワ山雪をいただきそびえ、東北はユウハリ山突兀(とっこつ)たり。これまた満山の雪なり、実に妙景というべきなり」
 巡検の中心は箱館奉行の堀利熙(としひろ)。南下するロシアをはじめ西欧の脅威に対抗して蝦夷地の防備や開発を強化するため、新道開削を幕府中枢に提言した人物だ。荒天に弱く厳冬期には困難になる水運から、安定した陸運へと交通の主役を変えようとしたのである。
 堀に随伴した玉蟲は俊才として知られ、「入北記」の記述は詳細で精緻。勇払は火山灰土(焼砂)が多いが、藍の栽培が成功しているなどとして「よく手を入れ開墾せばかなり開かるべし、ただ焼砂多しとて捨てべきにあらず」と開拓の可能性を示唆している。
■発展の源流に
 入北記は高い評価を受け、玉蟲は幕府の遣米使節に選ばれて勝海舟や福沢諭吉らと渡米する。優れた米国見聞録を残したが、戊辰戦争で藩内の佐幕派に属し、勤王派によって切腹に追い込まれた。生き長らえれば国際的に活躍したであろう惜しい知識人だった。
 その玉蟲は石狩低地帯縦断の際、堀が推進して完成したばかりの千歳~札幌間の陸路(札幌越新道)をも通っている。近代日本を見ることなく悲運の死をとげた玉蟲は、蝦夷地で長く使われてきた「水の道」から、「土の道」の時代への転換点にいたのである。
 交通手段の転換で蝦夷地開発は加速する。石狩低地帯の縦断ルートは産業、政治、軍事上の要路となった。陸海空の交通の要衝として発展した苫小牧の歴史は、その流れの上にある。
 苫小牧市美沢の国道36号沿いに一昨年、勇払越えの説明板が立った。この辺りが太平洋側と日本海側の分水嶺(れい)だ。設置した同市の測量会社タナカコンサルタントの顧問、田中稔さん(81)は「標高わずか20メートルの分水嶺。松浦武四郎はここに胆振と石狩の国境を引いた。この分水嶺を越えて、人とモノが行き来した歴史が今につながる」と語る。(中川大介)
 <ことば>勇払越え 現在の苫小牧市勇払の安平川河口から舟で支流の勇払川、ウトナイ湖、美々川、美沢川へ北上し、新千歳空港の滑走路付近で上陸。千歳市本町の千歳橋まで陸路を行き、再び舟で千歳川から本流の石狩川に入り、石狩湾へ至るルート。逆に南下する場合もあった。「シコツ越え」「千歳越え」とも呼称。ルート周辺からアイヌ民族の丸木舟が出土している。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/554850

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差別・人権問題 民放連が研修へ まずアイヌ民族

2021-06-13 | アイヌ民族関連
北海道新聞 06/12 05:00
 日本テレビ系列の情報番組「スッキリ」でアイヌ民族への差別表現があった問題を受け、日本民間放送連盟(民放連)は11日、差別・人権問題に関する研修会を7月から定期的に開催すると発表した。
 定例会見で大久保好男会長(日本テレビ会長)が明らかにした。正式名称は「放送番組における差別・人権に関する全社会議」。初回の7月13日は「アイヌ民族」をテーマにし、北大アイヌ・先住民研究センターの北原モコットゥナシ准教授を講師に招いてオンライン開催する。道内のテレビ・ラジオ8社を含む加盟205社の社員のほか、番組制作会社のスタッフらにも広く参加を呼びかける。
 この問題を巡っては、放送倫理違反の疑いがあるとして、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会が審議している。(大原智也)
◆「北原モコットゥナシ准教授」のシは小さい字
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/554694

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大学の保管するアイヌ遺骨等の出土地域への返還に係る他の団体からの申請等の有無の確認について(令和3年6月11日~令和3年9月11日まで)

2021-06-13 | アイヌ民族関連
文部科学省 2021年6月11日
令和3年6月11日から御遺骨に関する反対意見の受付を行っております。
御意見につきましては、令和3年9月11日までにアイヌ遺骨等地域返還連絡室まで御提出願います。
 文部科学省では、平成30年12月に関係省庁が定めた「大学の保管するアイヌ遺骨等の出土地域への返還手続に関するガイドライン(※PDF 内閣官房アイヌ総合政策室ホームページへリンク)https://www.kantei.go.jp/jp/singi/ainusuishin/pdf/181226_chiiki-guidelines.pdf」に基づき、アイヌの人々の御遺骨等の出土地域への返還手続を進めています。
 出土地域が明らかな御遺骨等の返還申請については、令和元年10月25日で受付を終了したところですが、この度、文部科学省が設置した第三者委員会の意見も踏まえ、申請のあった一部の団体について地域返還対象団体として適切な者であると確認できたため、反対意見の受付を実施します。
 つきましては、以下のとおり、地域返還対象団体となり得る申請団体が返還を求める御遺骨等に関する情報を確認し、自団体への返還や北海道白老町の慰霊施設への集約を希望する場合には、申請を行ってください。
(1)地域返還対象団体となり得る申請団体が返還を求める御遺骨等に関する情報を確認
 以下より、地域返還対象団体となり得る申請団体が存在する出土地域が特定された御遺骨等に関する情報を確認してください。
地域返還対象団体となり得る申請団体が返還を求める御遺骨等に関する情報 (PDF:90KB) PDF
https://www.mext.go.jp/content/20210611-mxt_gakkikan-000002849_1.pdf
(2)アイヌ遺骨等地域返還連絡室への連絡
 反対意見の提出を希望する方(出土地域アイヌ関係団体の代表者)は、アイヌ遺骨等地域返還連絡室にお問い合わせください。
   (アイヌ遺骨等地域返還連絡室(文部科学省研究振興局学術機関課))
    〒100-8959
     東京都千代田区霞が関三丁目2番2号
    TEL:03-5253-4111(内線4296)
    FAX:03-6734-4086
    E-mail:chiikihenkan@mext.go.jp
    受付時間
     ※月曜日~金曜日(祝祭日を除く)
       なお、E-mailによる連絡は、24時間受け付けております
(3)反対意見の提出
 反対意見を提出する団体は、返還を希望する御遺骨等の出土地域に居住する又は縁のあるアイヌの人々を中心に構成された団体であることや、返還後の祭祀供養方法を確認するための書類等を提出していただきます。
(4)当事者間の話合いを実施
 申請団体と反対意見を提出した団体により、話合いを実施していただくとともに、申請者等から文部科学省に対して当該話合いの結果を報告していただきます。
(5)返還の詳細に関する合意
 御遺骨を返還する団体が決定しましたら、御遺骨を保管する大学と協議の上、引渡日時、場所、方法等を決定し、合意の書面を交わします。
https://www.mext.go.jp/a_menu/kagaku/ainu/mext_01544.html

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【北海道】アイヌ文化に親しむ!ウポポイ(民族共生象徴空間)見どころ案内

2021-06-13 | アイヌ民族関連
トリップ案内2021年6月11日更新
写真:ある通訳案内士
2020年、アイヌ文化の復興・創造・発展のための拠点となるナショナルセンターとして、北海道の白老にウポポイ(民族共生象徴空間)が誕生しました。今回は、このウポポイでできることを一通りご紹介します!
ウポポイとは?
「ウポポイ」とは「民族共生象徴空間」の愛称で、白老町ポロト湖畔にある、先住民族アイヌの文化復興等に関するナショナルセンターです。国立アイヌ民族博物館と国立民族共生公園の中にある体験交流ホール、伝統的コタン、工房、そして少し離れた場所にある慰霊施設などで構成されています。
ウポポイはアイヌ語で「(おおぜいで)歌うこと」を意味しています。アイヌ文化において歌は非常に大きな存在なので、筆者も良いネーミングだなと感じました。
以下で、ウポポイにあるもの、ウポポイでできることをご紹介します!
国立アイヌ民族博物館(アヌココロ アイヌ イコロマケンル)
日本最北の国立博物館である国立アイヌ民族博物館では、「ことば」「世界」「くらし」「歴史」「しごと」「交流」の6つのテーマを、アイヌ民族の視点から紹介しようという試みの展示が行われています。ウポポイの第一言語はアイヌ語ということで、アイヌ語にもたくさん触れられますよ!
アイヌ民族の視点からアイヌ文化を紹介
建物内部は広々とした非常に開放的な空間で、基本展示室や特別展示室にはアイヌに関する展示物が整然と並べられています。ジオラマや模型、立体パズルなど、実際に触って楽しむ探求展示(イヌケレウシ テンパテンパ)などもあり、小さいお子さんを連れて行くのもいいかもしれません!(コロナ禍においては、探求展示は楽しめない可能性があります。)
通路も広いので、団体観光客の見学にはもってこいな施設となっています。アイヌのことを知っている人にもあまり知らない人にも、多くの学びや気づきがあると思います!
また、国立アイヌ民族博物館内にはシアターもあり、帰りがけに覗いてみるのもおすすめです!筆者が行った時は、 「世界が注目したアイヌの技」という、海外の博物館のアイヌに関する展示品を紹介している映像でした。
体験交流ホール(ウエカリ チセ)
体験交流ホールでは、伝統芸能上演プログラムを観ることができます!時間によって演目が違うので、前もって観たい演目の時間を調べておくのがおすすめ!「シノッ -アイヌの歌・踊り・語り-」と「イノミ -アイヌの祈り・歌・踊り-」は毎日上演されており、所要時間は20分ほどです。
体験交流ホールには、これだけでも有料の施設としても良いのではないかと思うほどの立派さ。綺麗な舞台と、その舞台を囲むように観客席が並べられています。
写真や動画撮影はできませんが、座り心地の良い観客席からアイヌの伝統的な踊りや歌、楽器の演奏を鑑賞することができます!演じられている方たちとは距離があるものの、ウポポイを体感するには良い機会ですね。
伝統的コタン(テエタ カネ アン コタン)
国立アイヌ民族博物館や後述の工房からさらに足を伸ばすと、ポロト湖畔に並ぶ伝統的コタン(集落)にたどり着きます。伝統的コタンと言いつつ、内部は近代的な作りになっており、現代人的には快適に過ごせる空間になっています。
電源コンセントもしっかりあるので、なかなか伝統的なコタンの雰囲気を感じとるのは難しいかもしれませんが、アイヌの人々が使っていたものを見たり、ウポポイPRキャラクターのトゥレッポんと触れ合ったり、伝統的儀礼を観たり、民族衣装の試着をすることもできます!
こちらも時間によって観られる演目が違うので、前もって観たい演目の時間を調べておくのがおすすめです!
工房(イカㇻ ウシ)
工房では、アイヌの伝統的な工芸品や工芸家による民工芸品製作の実演を見ることができます。筆者はアイヌ文様に不思議な魅力を感じており、どのような手順であの文様が描かれているのかを見るのは非常に興味深かったです!
気軽に木彫りや刺繍の体験(有料)もできるので、興味があれば参加してみるといいでしょう!
体験学習館(ヤイハノッカㇻ チセ)
体験学習館では、アイヌ料理の調理や試食、ムックリ、トンコリなどの伝統楽器の演奏体験など様々なプログラムを楽しむことができます。希望のものがあれば参加してみると良いでしょう。体験学習は、特に忘れられない貴重な思い出となりそうですね!
また体験学習館別館では、ドーム型スクリーンのパノラマ映像体験もできます!
慰霊施設(シンヌラッパ ウシ)
慰霊施設は他の施設から離れた場所にあるので、ツアーに含まれている場合でもない限り、なかなか行く人は少ないのかなという印象です。
こういった慰霊施設に関しては特に賛否両論あるようです。これをきっかけにアイヌの歴史に理解を深めてみるといいですね。
ウポポイのグルメ
ウポポイではアイヌの料理を含め、北海道の様々な美味を楽しむことができます。見学前の腹ごしらえ、見学中の休憩、見学後の一時にぜひ利用してみましょう!
歓迎の広場ショップ「sweets cafe ななかまど イレンカ」
歓迎の広場ショップ「sweets cafe ななかまど イレンカ」は、北海道の濃厚なチーズを使用したカップチーズケーキや道産りんごを使用したアップルパイが楽しめる、テイクアウトショップです。帰り際にちょっとお土産に買って帰るのもいいですね!
歓迎の広場カフェ「リㇺセ」
歓迎の広場カフェ「リㇺセ」は白老町にある社会福祉法人ホープが運営するカフェスタイルのお店です。
木のぬくもりあふれる店内で、地元産の食材を使用したチェプオハウ(魚をつかった汁物)やキナオハウ(野菜をつかった汁物)といったアイヌ料理などを試すことができます!アイヌの人々が食べていたものに思いを馳せることができますね。
フードコート「HINNA HINNA KICHEN 炎」
色々なグルメを試したい場合は、フードコートもおすすめです。アイヌ文化に由来した食材や手法を取り入れた料理を、手頃な価格で楽しむことができます!
レストラン「焚き火ダイニング・カフェ ハルランナ」
落ち着いて食事をとりたいならレストラン「焚き火ダイニング・カフェ ハルランナ」がいいでしょう。アイヌからインスピレーションを受けた、ヨーロピアンスタイルのおしゃれな創作料理を楽しむことができます!
ウポポイで買い物
アイヌの工芸品や北海道特産品、ウポポイのマスコットであるトゥレッポんグッズなどを見てみましょう! 上記のカフェや以下2つのショップで買い物を楽しめます!
エントランス棟ショップ「ニエプイ」
エントランス棟にあるショップ「ニエプイ」は、ウポポイの有料エリアに入らずとも利用することができます。有料エリアに入るほど時間がない場合でも、フードコートで食事をしたり、ニエプイで買い物するだけでも楽しめますね!
国立アイヌ民族博物館ミュージアムショップ
国立アイヌ民族博物館ミュージアムショップでも様々な商品が取り扱われています。アイヌ文様が入った工芸品など、日常使いとしても重宝しそうなものが色々と並べられており、見ているだけでも楽しいです!ぜひお気に入りのものを見つけてください!
ウポポイと組み合わせて観光するなら
ウポポイのある白老をめぐる
ウポポイに行くなら、ぜひウポポイがある白老町の周辺も観光もしてみてください!白老に宿泊して、ウポポイを巡るのもいいですし、登別や苫小牧など周辺の町に宿泊して、日帰りで白老に来るのもありです!
以下の記事では、白老の観光地やグルメをご紹介していますので、参考にしてみてください。
▼関連記事▼
【北海道・白老】アイヌ文化に触れる!「ウポポイ」などの観光スポットとグルメ
アイヌ文化に興味があるなら北海道博物館もおすすめ
新札幌駅からバスで行ける北海道博物館も、アイヌのことや北海道のことを学ぶには良い場所です。先程ご紹介した国立アイヌ民族博物館は、民族的な問題についてはなかなか深く触れられていない印象もあるので、ウポポイとはまた違って視点アイヌについてより詳しく知りたい人には特におすすめです。
アイヌの文化に触れられるようなイベントも開催されているので、そういった時を狙って行くのもいいでしょう!また、北海道開拓村の近くにあるので、両方セットで行くのおすすめです(お得なセットの入場券もあります)。
この記事を書いたトラベルライターから一言
筆者は以前からアイヌの文化に興味があったので、やっとウポポイに来られて良かったです!アイヌに関心がある人はもちろん、まだあまり関心がない人にもぜひウポポイを訪れてみてほしいです!(ある通訳案内士)
https://tripnote.jp/hokkaido/upopoy

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《特別寄稿》イザベラ・バードの見た「古き麗しき日本」(2)=サンパウロ市ヴィラカロン在住 毛利律子

2021-06-13 | アイヌ民族関連
ニッケイ新聞 6/12(土) 6:22
 前回に続き、イザベラ・バードの旅の記録を宮本常一の解説を交えて、いくつか取り上げて紹介する。
通訳と、車夫と、3台の車でいよいよ旅が始まる
 イザベラ・バードは、秘書の伊藤という青年を伴い、1878年(明治11年)6月11日、東京を発ち、日光から北上し北海道に渡る長い旅が始まる。旅の達人であっても、やはりいろいろな不安がよぎった。それでも彼女は、ゆく先々での出来事、目撃したこと、出会った人々のことを、詳細に記録した。
 荷物は、できるだけ身軽にと思ったが、バードの荷物だけで約50キロ、通訳の伊藤の荷物40キロを柳行李に詰め、日光まで3台の車を雇い、車夫を変えずに出発した。携帯したのは、ブラントンの日本大地図、アーネスト・サトウの英和辞典、お金や、薬、英国公使発行の旅券(通行手形のようなもの)などであった。
日本人の二つのタイプ
 バードがしぶしぶながら雇った通訳は、年齢18歳、身長150センチ足らずの若者だった。ヘボン博士(漢字、ひらがな、かたかなに続く第四の日本語表記として「ヘボン式ローマ字」の考案者)の召使の一人と知り合いだといって、推薦状も無しに自分を売り込んで面接に来たが、顔つきが悪く、どうにも好感が持てなかった。彼は応募して来ているにもかかわらず、ヨーロッパ人の優越的な上から目線に対抗するかのような、反抗的な態度が見られるからであった。
 宮本常一によると、バードが指摘するように、この頃から日本人には歴然として二つのタイプがいた。
 一つは「笠に着るタイプ」。権力や地位に守られながら、外面を取り繕うのが上手く、本音は傍若無人のずる賢い術を熟知した悪人ども。
 他方は自力で真っ当に生きることを誇りにし、「実力で勝負するタイプ」。その振る舞いは、とことんお人好しで、誠実この上ない。このグループは社会の最下層で大きな厚みを持っている。
 バードの他にも、明治に日本に来た多くの外国人、エドワード・モースやアーネスト・サトウは日本をたいへん褒めているが、その賛辞は、後者の側に向けていた。彼らは故国の理不尽な歴史の経験を通して、人間の真価を、日本人庶民の中に見たのであろう。
 結局、バードは第一印象の悪かった伊藤を秘書として雇うが、旅先でこの伊藤を通して、外見からは想像できないほどの、嘘もごまかしも無い日本人の姿に、痛いほど感激することになるのである。
礼儀正しい車夫
 当時、一番先に外国人と接するのは車夫。今日のタクシーの運転手ということになる。その頃の外国人の記事の中に、車夫に対する悪口は全くと言っていいほど出てこない。
 車夫は入れ墨をして、笠とふんどし姿の荒々しい男たちだが、バードに対しても、仲間同士も、互いに親切で礼儀を弁えている。それを目の当たりにするたび、バードの心には喜びの泉が湧くようであった、と記している。
 道中で、車夫たちはバードに対してこまごまと気を使い、世話をし、旅の疲れの慰めにと、ツツジの一枝を手折ってくる。悪い水に当たって同行できなくなった一人の車夫は、契約を厳重に守って代わりの者を呼び交代する。
 病気を理由にして金銭やチップを要求することも無い。遺失物のために4キロの道のりを戻って探してくれたり、その謝礼を渡そうとしても、仕事だからと受け取らない。
 バードは、「世界で日本ほど、婦人が危険にも無作法な目にも合わず旅ができる国はないだろう。ユスリ、強盗、料金のぼったくり、酒の匂いをさせて仕事をさぼる、といったことは全くない。このような国は他にないと私は信じている」と断言する。
蚤の大群…
 最初の晩は粕壁(春日部)で一泊するが、床の上をぴょんぴょんはねるほどの蚤の大群に襲われ、携帯用のベッドで寝むれぬ夜を過ごす事になった。
 かつて松尾芭蕉はその状況を、「蚤をふるいに起きる暁」と詠んだ。蚤の襲撃で一晩中眠れず、明け方は、着物の蚤を払うために起きる、という歌である。
 東北の夏のねぶた(ねぷた)祭りは蚤にやられて一晩中眠れず、ねぶたさ(眠気)を流す、つまり、身体に張り付いている災い、病を川に流すということを由縁にしているらしい。旅の間中、蚤との闘いは続いた。
日光の道沿いの店
 通りに沿った家は皆、戸口を全開にして店を開いている。菓子屋、干物漬物、餅、干菓子、雨傘、草鞋、人馬の旅の必需品を並べて売っている。戸口が開いているので、その奥の住人の生活習慣などもすべて観察できて、バードの好奇心も最高潮に達していた。
 「茶屋」は今日のレストラン、「宿屋」はホテル。当時は高級な茶屋もあったが、宿屋とは厳しく区別されて、茶屋には人は泊めなかった。大名でも泊まるところは「本陣」、休憩は「茶屋」。それが「本陣茶屋」となるのは明治の中頃で、昭和の初めごろになって、茶屋と宿屋を兼ねる「割烹旅館」というのが出る。
「蓮華を食べるとは…」
 インドからヨーロッパ、エジプトにかけても、「蓮華」は高貴な植物であったが、日本人は、なんとそれを食用にしているのを目にして、バードは驚いた。関東では、米を作るには深すぎるところには、皆、蓮が作られていた。
 蓮の研究で有名な大賀一郎は弥生の遺跡から出た蓮の種を栽培して「二千年蓮」と命名したが、後に批判されその言葉を使わなくなった。これに似た種に「妙連」があり、千葉県辺りの湿地帯に野生していた。そして次第にその茎が食用になったというのであるが、バードには信じられないものだった。
みそ汁とお茶漬け
 茶屋での休憩で、車夫は足を洗い、口を漱ぎ、ご飯と漬物、塩魚、そして、「ぞっとする匂いのスープ」(みそ汁)の食事をした。関東から東北にかけてはみそ汁、漬物は当たり前の食事であったが、ヨーロッパ人には違和感の強い匂いであった。
 もう一つ。どの茶屋にも清潔な木製、漆塗りの御櫃があり、注文の場合を除いては、御櫃の冷たいご飯に熱いお茶を注いで食べる。
 その熱湯をかけたご飯を一気に掻き込んで食べるのを見て、バードは仰天した。
日光・金谷旅館に宿泊
 当時の村や路傍に住む人々は非常に貧しい生活を強いられていたが、一方では裕福な上流階級もいた。金谷旅館もその一つだった。そこに至る宿屋は、破れた障子の穴からたくさんの眼が覗いて、彼女はプライバシーを保つのに苦労したが、高級な金谷旅館は、そういう気分を吹っ飛ばしてくれた。
 バードは、金谷旅館の風格ある建物、日本の上層階級の趣味の良さ、行き届いた邸内や庭、洗練された日本式のもてなしを満喫、感心し、大いに満足した。そして、無類の工芸技でもって造られた日光東照宮を見上げ、圧倒された。
アジアのアルカディア(桃源郷)温泉地・米沢盆地
 バードは米沢盆地をエデンの園のようだと絶賛している。温泉が湧き、作物は豊富、人々は圧迫のない自由な生活を楽しんでいるように見えた。立派な宿に宿泊して、何もかもがバードには興味津々で、実に細かく観察し、人々を質問攻めにした。宿の女将は、宿が創立300年以上だと自慢げに語った。
 日本の温泉宿には、鎌倉時代から続くものもあるそうだが、自然の恵みを頂くのだから儲け過ぎてはいけない、というのが、宿を長く続ける秘訣であるらしい。
 旅路が進むにつれ、彼女の好奇心は、日本人の「教育」に及んだ。
日本の学校
 午前7時に太鼓が鳴って、村の子供たちを学校に呼び出す。学校の建物は、故国(英国)の教育制度に比べて決して劣らない。
 壁には立派な地図が掛けられている、先生は25歳くらいで、黒板を自由に使用しながら、生徒に素早く質問していた。英国と同じように、最良の答えを出した生徒がクラスの主席となる。
貸出し図書館
 村の女たちは、本を借りて恋愛小説や昔の英雄女傑の物語を読んでいた。貸本屋のことである。大正時代まではどこにも貸本屋があったが、明治の辺鄙な村にも貸本屋があったということである。
 女たちは手引書で生け花を学び、三味線も弾く、などいろんな教養を身に着けている。バードはそのような日本女性を「妖精のように動く」人々と呼んだ。
 また、各地方には案内書が置いてあることも驚きであった。これは名所案内図である。とても優れたもので、ヨーロッパにもない。内容は訪問者の詩などが入って、今のガイドブックよりも良くできていたと、宮本は解説している。
着物を手縫いする女性たち。英国夫人は縫物が恐怖の種
 日本の女性は、優美に話し、行動し、動き回る。友達との茶飲み話の時以外は、よく立ち働いている。掃除、縫物、料理、畑の野菜作り。堆肥を足で踏みよい肥やしを作る(これは酷い皮膚病の原因ともなる)。
 日本の女性は自分の着物を縫う技術を教えられている。英国夫人にとって、縫物は恐怖の種である。日本の着物、羽織、帯は並行する縫い目を仮縫いし、洗うときには、バラバラにほどいて、少しの糊で硬くしてから板の上に伸ばして、干すのである。
薬を分け与える
 現代日本社会は世界で最も清潔な国として知られているが、百年前は貧しく、衛生面、薬など医療体制は極めて劣っていた。
 バードは長い旅路で頻繁に病で苦しむ貧しい人々に遭遇する。そのたびに、彼女は持参した薬を分け与えるが、それには限界があること。絶えず着物を洗濯し、清潔にすること。これよりほかに病気を予防することはできないと、村人を説得する。当時の村の人々は一枚の着物を着つぶしていた。
 お風呂に入ることも無かった。一枚の布団には家族全員がくるまって寝た。そこはまた、害虫のたまり場になり、それが病気を引き起こすといった悪循環の中で生活していたのであった。
 同じ日光市内でも、小佐越は非常に貧しかった。バードはそこでも、重労働で打ちひしがれ、身体のあちこちに腫瘍ができた男たち。ひどく貧しく食べ物も乏しく、不潔で、ひどい皮膚病に罹って苦しむ女子供を見た。
 子供たちは、嘆かわしいほど汚くてシラミがたかり、虫さされで皮膚を掻きむしり、眼炎に苦しんでいた。女たちは、過酷な労働と焚火の煙で顔は歪んでいた…薬欲しさで群がってくる子供たち。
 のどに魚の骨が刺さって一晩中泣き叫ぶ子。その子を抱いて憔悴して訪ねてきた母親。バードは子供の喉を覗き、ピンセットで骨を取り除いた。子供は、苦しさから解放されて泣き止み、母はその場に座り込んで寝落ちした。噂を聞きつけ、ゆく先々で、バードの周りには薬欲しさの村中の人が集まってきた。
 北海道・平取のアイヌ村では、重症の気管支炎に苦しむ子供にクロロダイン(麻酔鎮痛薬)を与えた。その子は死んだようになり、バードは自分が殺したと思われないか心配になった。
 最後の望みとしてブランデーと栄養剤を与えると、回復の兆しが見えはじめ、数日後に意識もはっきりしてきた。酋長はじめ村人は心からバードに感謝の意を表した。
 しかし、その時に通訳の伊藤が見せた日本人特有のアイヌ人への強い差別意識に、バードは衝撃を受けた。(続く)
【参考文献】宮本常一が書いた「イザベラ・バードの旅『日本奥地紀行』を読む」(平成14年、講談社オンラインブック)
https://news.yahoo.co.jp/articles/41a3368232bd11163138578f054d280310da16d4

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映画「アバター」の世界がゲームに。「Avatar: Frontiers of Pandora」発売決定!

2021-06-13 | 先住民族関連
Impress Watch 6/13(日) 5:21
 ユービーアイソフトは、プレイステーション 5/Xbox Series X|S/PC用「Avatar: Frontiers of Pandora」を2022年に発売する。
 本作は2009年公開の映画「アバター」の世界観をゲームにしたユービーアイソフトの最新作。公開されたトレーラーでは広大な自然が溢れる世界が映し出されており、青い肌を持った先住民族・ナヴィたちが戦闘機と戦うシーンも確認できた。
【Avatar: Frontiers of Pandora ? First Look Trailer】
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・「レインボーシックス シージ」がクロスプレイ&クロスセーブに対応決定!
・「ジャストダンス2022」、11月4日発売決定!新たに40曲を収録
・「レインボーシックス エクストラクション」のシネマティックトレーラーとプレイデモ映像が公開
・「ファークライ6」、シーズンパスには“過去作の悪役になれる”コンテンツが収録予定
・「マリオ+ラビッツ スパークスオブホープ」2022年発売決定!
・映画「アバター」の世界がゲームに。「Avatar: Frontiers of Pandora」発売決定!
GAME Watch,岩瀬賢斗
https://news.yahoo.co.jp/articles/302739c7c266046ed6cbf0fa15f0d6824ae23b71


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アメリカ村に象徴立つ

2021-06-13 | 先住民族関連
読売新聞 2021/06/12 05:00
美浜・三尾地区
 明治時代以降、多くのカナダ移民を送り出し、「アメリカ村」として知られる美浜町三尾地区に、カナダ先住民族の彫刻家が制作したトーテムポールと、「カナダ移民の父」と呼ばれる地区出身の工野儀兵衛(1854~1917年)の胸像が設置された。同町は「移民の歴史を伝え、カナダとのつながりの象徴になる」と期待している。(森本寿夫)
先住民族作トーテムポール■「カナダ移民の父」胸像
 トーテムポールは、高さ約4メートル、直径約70センチ。樹齢300年以上のレッドシダー材で、先住民族のダレン・イエルトンさんが制作。移民を語るのに欠かせないサケなどの姿が刻まれている。移民の歴史を伝える「カナダミュージアム」の庭に胸像とともに設置された。

設置されたトーテムポールと胸像(中央が高井さん、美浜町で)
 2019年、日本カナダ商工会議所(カナダ)のサミー高橋会長が過疎化に悩む三尾地区の現状を知り、「地域の観光資源に」と、本場のトーテムポールの寄贈を提案した。儀兵衛のひ孫の高井利夫さん(72)(兵庫県姫路市)が賛同し、理事長を務めるNPO法人「国際協力推進協議会」の資金で実現した。
 高井さん自ら費用を出した胸像は、銅製で高さ約70センチ。50歳代ぐらいの写真をもとに作られ、口を真一文字に結んだ精悍せいかんな顔立ちをしている。
 儀兵衛は1888年、カナダ・バンクーバーに単身渡航。豊漁を目にしてサケ漁に従事し、地元住民を呼び寄せて移民社会の発展に尽力した。カナダの三尾出身者は1940年に2000人以上に達したとされる。
 5月に開かれた除幕式で、高井さんは「アメリカ村の歴史を風化させないよう、少しでも役に立てれば」と語った。
 カナダの高橋会長とイエルトンさんは、コロナ禍で出席がかなわなかったが、現地の日系人向けの邦字ニュースサイトでもこのニュースが取り上げられたという。
https://www.yomiuri.co.jp/local/wakayama/news/20210611-OYTNT50151/

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