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《特別寄稿》イザベラ・バードの見た「古き麗しき日本」(1)=サンパウロ市ヴィラカロン区在住 毛利律子

2021-06-04 | アイヌ民族関連
ニッケイ新聞 6/4(金) 5:45
「これほど美しい国、平和な国が世界中のどこにあるだろうか」
 この言葉は1878年(明治11年)、初めて日本国内を旅し、直接日本人と接した英国人女性イザベラ・バードの感想である。彼女は、ゆく先々で出会った人々のことを次のように述べる。
《人々は稀に見る愛情深さ、礼儀正しく勤勉、家庭教育の徹底、深い絆と助け合いで結ばれ、社会秩序は見事に守られていたのだった》
 その頃の日本は極めて貧しく、人々は飢えと病に苦しんでいた。バードの旅路は、現代とは比較にならないほど不自由で、苦難の連続であった。
 しかし、そのような物理的困難は、ゆく先々で出会う「貧しくても心豊かな素朴な日本人」によって癒されこそすれ、少しも苦にならなかった。バードは日本人をその都度、自分の故郷、先進国イギリスの実態と比較して、深く胸打たれたからだ。
世界のどこにもない日本の良さを、あるがままに書き綴る
 イザベラの率直な英語文は非常に読みやすく理解しやすいことから、大学での教養英語の教本に採用されることも多い。しかしそれは単に英語学習のためだけに止まらず、読後に改めて「古き良き時代」を懐かしむ気持ちにさせるのである。
例えば、《大人は、嘘も、ごまかしも無い真っ正直で温厚な人々、子供たちは、たとえどれほど貧しくても、イザベラに貰ったものを大切に両手を添えていただき、必ず親に報告し、真顔でお礼を言い、たくさんの兄弟で等分に分け合った。
 ボロボロの一間の家の中で、家族は全員が幼子に至るまで働き者で、優しく寄り添い温め合い、助け合い、朗らか、なのである》
 これだけを例に挙げても、今の私たちは何か「とても大切なもの」を失ってしまったのではないか、という想いになる。
 イザベラをここまで感銘させた明治の日本人。ここでは、民俗学者・宮本常一が書いた「イザベラ・バードの旅『日本奥地紀行』を読む」の解説書で、さらにその頃の日本の風物を振り返ると、知らなかったことばかり。なるほど、根っこはここにあったのか、と興味満載、目からウロコ、イザベラをわくわくさせた明治の日本が浮かび上がってくるではないか。
イザベラ・バードの旅行とは
 イザベラの人となりを、京都大学名誉教授金坂清則氏の解説を要約して紹介すると、
「イザベラ・バードは1831年、イングランド北部ヨークシャーのバラブリッジに牧師の長女として生まれた。1854年(23歳)から亡くなる3年前の1901年まで海外を旅し、訪問国は19ヵ国、南米以外の全大陸に及んだ。
 期間の長さ、世界の広がり、そして、旅に基づく作品にとどまらない膨大な著作や講演活動を総合的に判断すれば、女性という枠をはめずとも旅行家の頂点に位置する一人と評価できる。
 1891年に王立地理学協会特別会員の栄に女性で初めて浴したのはその証しの一つである。希代の旅行家バードへと展開する基点が、1878年(明治11年)の日本の旅とその記録だった」
 イザベラの日本訪問は実は用意周到に準備された公務であったが、一般的には「好奇心旺盛な中年の英国女性(47歳)が行った北海道への贅沢な個人的旅行記は母国の妹らに書き送った手紙を基にしている」という誤った解釈による簡略本として広まった。
 今でも、ユーチューブの朗読などでこの簡略本を以って紹介されているが、実は、出版社主ジョン・マレー3世の要望によって、大評判を得たこのイザベラの大著の分量を半分にし、かつ、女性らしい小ぶりな「旅と冒険の物語」に改変した簡略本にして出版され、復刻本も、日本での翻訳本もこの簡略本を基にしたことに因る。旅行そのものはキリスト教伝道の意義を念頭にした公務だったのだ。
 金坂氏は次のように述べる。「バードの目的は、旅を通して本当の日本を知り、記録に残すことである。旅は英国公使ハリー・パークスが企画立案し、記録は、全2巻800ページを超える大著『日本の未踏の地:蝦夷の先住民と日光東照宮・伊勢神宮訪問を含む内地旅行の報告』で、同書はこれまで言われていたような旅先から妹へ送った私信を集めたものでなく、半ば公的な報告書だった」
 イザベラは日本に7カ月滞在した。東京から始まった全行程は4500キロを優に超えた。陸路、海路と繋ぎながら、その時々に目撃した日本国の姿をつぶさに記録した。
馬や人力車で陸海合わせて4500キロの大旅行
 行程距離は、北海道の旅が、東京から平取まで陸路で約1400キロ、函館から横浜間が海路だった復路を含めると約2750キロ。関西・伊勢神宮の旅は、陸路が約580キロで、横浜から神戸間の船旅を含めると約1850キロとなる。
 二つの旅を合わせると全行程で4500キロを優に超えていた。英国公使の尽力で地域的・時間的制約のない特別の内地旅行免状を取得して初めて成し得た旅だった。
 横浜・神戸・長崎・函館・新潟という五つの開港場で活動していた宣教師や著名人、シーボルトの次男ハインリッヒ・フォン・シーボルト、ヘボン式ローマ字の考案者として知られるジェームス・カーティス・ヘボン、アーネスト・サトウらの公使館員・領事といった在日欧米人はもちろん、外務省や開拓使、内務省など日本側の支援もあった。
 日本側の支援は府県以下の役人や医師・教師、宿の主人や子供にまで及んでいた。夏の最中に冬の遊びを見せてもらい、葬儀や結婚式にまで参列できたのはこのような協力があったからだった。
 さらに、アイヌの文化と社会の把握、そしてその記述を旅の一大目的にしていた彼女にとって、平村ペンリウク(アイヌの指導者の一人)以下、平取のアイヌの人々の協力も不可欠だった。
 これも英国公使が開拓使を介して手配した。鉄道を利用できたのは横浜・新橋間と神戸・京都間のみ。馬で大地を駆けたのも北海道の一部のみ。人力車はまだしも、馬子が引く駄馬や牛の背に乗ったり、ぬかるみの道を歩いたりしなければならなかった。
 増水した秋田県の米代川の濁流を小舟でさかのぼった際には命を落とす危険さえあった。
 彼女の旅は時に地元紙にも紹介され、視察の旅であることが読者に伝えられていた。用意周到に準備・計画され、ルートは目的に従い事前に設定されていた。旅で用いたブラントン日本図も英国公使の命によって彼女のために作成されたものだった。
 ただ忘れてならないのは、彼女がこのようなことを頭の片隅に置きながらも、旅で目にするもの、出会う人のすべてに関心をもち、率直な思いを吐露しつつ鮮やかに描き出していったことである。
 少女時代から培われてきたこうした鋭い観察力を駆使して、彼女は旅の一瞬一瞬を記録した。これこそは彼女の旅行作家としての優れた資質だった。」(引用=nippon.com、金坂清則『イザベラ・バード、鋭い観察力で日本の実相を記録した希代の旅行家』)
生々しく綴られた明治の日本人の風俗
 さてそれでは、イザベラが横浜港に着岸して、まず最初に見た光景から始めよう。
 目探ししたのは、当時世界的に知られていた富士山であった。
 目の前をいくら探しても無い。目線を高く上にあげたとき、イザベラは、富士山の圧倒的な美しさに驚嘆した。
 以下、*印は宮本常一の解説を要約。
(*外国人のイメージで富士の絵を描かせると皆尖った三角形を書くが、実際は、もっと緩やかにたなびいて美しい。
 今では誰でも登れる山として人気を集めているが、もともとは、非常に強い信仰と風景の対象であった。織田信長や豊臣秀吉までが、富士を見に行くことを強く希望していた。
 関東平野には、沢山の浅間神社があり、富士のことを一般的に「せんげんさま」と呼んでいて、富士へ登る人たちによって富士講が結成された。5月の初めには御戸開きがあり、登るときには必ず先達(御師)が付いた。御殿場、須走、吉田、大宮(富士宮)には20~30軒の御師の家があり、登山者は一泊して御山駆けをした。一年に5万人ほどの人が集まったという)
世界一の大都市
東京が見えない
 イザベラはいよいよ東京(その頃でもまだ江戸と呼んでいた)にはいるが、品川に着くまで江戸はほとんど見えなかった。「寺院は深い木立の中に隠れていることが多く、ふつうの家屋は7メートルの高さに達しているのは稀だった」と述べているが、
(*東京は当時世界一の大きな町だった。明治の初めには東京に100万人の人口があり、ロンドンの3倍以上あったが、工業がなかったため、全体の建物が低くく中心部に入るまで見えなかった)
日本人の印象
(服装・体格)   
 日本人は、みな一重のゆったりした紺(藍)の短い木綿着を纏い、腰のところは帯で締めていない。草履を履いて頭の被り物といえば、青い木綿の束(手ぬぐい)を額の周りに結んでいるだけである。…小柄で、醜くしなびて、がに股で、猫背で、胸はへこみ、貧相だが優しそうな顔をしている。
(*「がに股で、猫背で、胸はへこみ」。こういう体格から日本人が抜け出せたのは大正時代になってからであろう。明治時代の平均身長は現在より20センチほど低かった。農耕作業に牛馬を使うことは少なく、鋤を使って猫背になり、アグラをかく習慣が、がに股を作った。まず、座る姿勢が胸をへこませ、作業がすべてうつむき加減。これがイギリス人の目には胸をすぼめていると映ったのであろう)
イザベラを驚かせた下駄の音
 「(200人の下駄)が鳴らす400の下駄の音は、私にとって生まれて初めて聞く驚異的な音であった」
(*明治から昭和の初めごろまでは下駄の音のことが多くの文章に書かれている。カラッコロッという音は外国人にはとても印象的であった)
人力車とクリカラモンモン入れ墨
 イザベラは人力車にも初めて乗った。人力車は当時、日本の特色となっており、日々に重要性を増していた。発明されてたった7年で、一都市(東京)に2万3千台近くもあった。
「しかし、車夫家業に入ってからの平均寿命はたった5年であるという。車夫の大部分は、重い心臓病や肺病に罹かる。かなり平坦な地面を、うまい車夫なら時速4マイル(7キロ)走る」とイザベラは言う。
 そして、入れ墨について。「車夫の服装は青い(藍染め)木綿の手ぬぐいを頭の周りに縛り付け、・・・竜や魚が念入りに入れ墨されている背中や胸をあらわに見せていた」
(*関東では夏に裸が多かったという記録が多い。入れ墨は、クリカラモンモン(背中に彫った倶利迦羅竜王の入れ墨。転じて刺青の総称)。これがなかなか魅力的で、明治の終わりころに来日したドイツの王子がすっかり気に入り、入れ墨を施し、「意外に痛かった」という感想を述べて帰国した。この時代は江戸を中心に極めて当たり前の風俗であったという)
    ☆
 イザベラ・バードの旅は、いよいよ日光に差し掛かるが、旅の大きな障害は、蚤の大群と、乗る馬の貧弱なことだった…。(つづく)
【参考文献】宮本常一が書いた「イザベラ・バードの旅『日本奥地紀行』を読む」、平成14年、講談社オンラインブック
https://news.yahoo.co.jp/articles/1e62fd5107a43a166e8773410d7f8567bb57684b
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