恐怖の距離感
あの時私は近くの遊歩道を散歩中で、地面が揺れて一瞬脳梗塞になったのかと恐怖を覚えた。自宅に戻り東北地方に大地震が起こったことを知り、テレビ画面に釘付けになっていた。二度目の地震に見舞われた時、経験の無い長周期の揺れにただ事ではない恐ろしさを感じた。
翌日、ズタズタになった交通網を乗継ぎ羽田から東京を脱出した。自宅を出る前に見た福島第一原発から舞い上がった白煙に不吉を感じて、自宅の息子と何度かメール交換して水素爆発と知った。家族を東京に残して田舎の松山に着くと、被災地からの距離に比例してこの大災害も9.11の高層ビル崩壊を見るように現実感が薄れていった。
それから1年を振り返ってこのところ新聞・テレビから政府・民間事故調査まで、大震災とその後の復興を検証しその結果を報じている。東電・官僚の隠蔽体質と無能さで対応できない政府と、足の引っ張りあいで何も決められず前に進まない政治が、報じられていることの大筋である。これらの指摘はこの1年間毎日のように聞かされたが、私はいつもの天邪鬼精神を発揮して違った見方を3つの点で指摘したい。
2万416の命の重みをどう考えるか
第一に、最大の被害者が軽んじられていることだ。東日本大震災の被害状況は死者1万5854人、関連死1407人、行方不明3155人である(日本経済新聞3/11)。原発事故は悲惨で長期的な取り組みが必要だ。だが、誰も死んでいない。人命も経済も被害は圧倒的に津波に襲われた地域だ。何故、こんなに死者が出たのかもっと必死に考え復興を考える必要がある。
これが次の問題指摘に繋がる。実は、場所によって失われた人命が大きく異なる。夫々の地域と自治体でどんな防災・リスク管理があり責任者と住民はどう備えていたのか。それによって何百人という命が救われたり失われたりしたはずだ。性質の違う問題だと分かっているが、原発事故は一人も死人が出ず、津波で2万人以上の命が失われたのだ。
何か不具合があると、「国が、国が」という声が出てくる。だが、これは先ずは自治体の長の責任であり、更には普段から住民が先人の教えをどれだけ真剣に受け取り、家族を守ろうとしていたか真摯な反省が求められるのである。誰も指摘しないからといって、自らを被災者の殻に篭っているのではいけないと思う。
マスコミは原発事故が1000年に一度の大震災といって想定外という言訳を責任逃れと非難した。だが、そういうことなら自治体の長が2万人以上の命が失われたことに対して謝る姿を見たことが無いのはどうだろう。津波で亡くなった人達の人格はどう考えているのかといいたい。実際は専門家によって詳しく調査されているようだが、等しく2万416人の命の重みを感じて欲しい。
専門家が役目を果たさなかった
大震災で専門家がこれ程無力だとは予想もしなかった。初期の政府の混乱の責任の大半は官僚化した専門家が役に立たなかったことだが、後から続々と判明する原子力専門家が如何に安全神話の呪縛に囚われていたか驚くばかりだ。専門家には官僚も含む。テクノクラットとかビューロクラットとか、なんたれクラットが妙に役に立たなかった。チョット考えれば分かることでも、分野が違うとまるで考えが及ばないという縦割り意識が生む合成の誤謬が原因だと思う。
一番酷かったのはどの程度の放射能が人体に有害か、許容可能な基準はどうあるべきかについて諸説入り乱れ、これがマスコミやネットを経由して全国に流れ国中が混乱したことだ。エキセントリックな意見の持ち主が出演して不安を煽った。昨年末の朝日新聞の記事「リスク社会に生きる」のような視野の広い報道が最初の段階からあれば国民はもっと合理的な判断が出来たと思う。
問題は直接の関係者だけではない。あらゆる領域の専門家が国難に直面して有効に機能しなかった。例えば、原発事故で自称世界に冠たるロボット国であるはずの国産ロボットが役に立たなかった。全く関係の無い私がこのニュースを聞いた時恥ずかしい思いをした。しかし、日本経済新聞によると科学者は問題を認識している、研究者が領域を超えて交流し社会に貢献できるよう動き出している。
混乱を助長したマスコミ
最後に誰も批判せず治外法権的に言いたい放題だったのはマスコミだったと思う。私は、これ程政治が混乱し復興の歩みが遅い原因の一端をマスコミも負うべきと考える。だが、マスコミだけは何をしても批判されない。批判するのはネットや一部週刊誌だけで声の大きさが限られている。マスコミが批判を気にするとしたら視聴率と広告収入だけだ。
冒頭に述べた政治の混乱を助長した最大の立役者はマスコミ報道だと私は思う。政府の足を引っ張ったとしか印象のない小沢一派と、党利党略でしか判断できない自公両党の解散連呼を無批判に報じやりたい方題させたのはマスコミに責任の一端がある。何故なら、ネジレ国会では国民の支持がない限り政府は動けず、国民はマスコミを通じて理解し意思表示するからだ。
それを政府の無策とか決められない政治とだけ報じるマスコミは天に唾するものだ。特にテレビがそういう状況を助長させた。私の見る限り、TBSが最も政局原理主義だがNHKですら語尾に「かもしれない」とつけて根拠の怪しい政府批判を再三やった。このところテレビ局によって微妙にスタンスを変えつつあるのは、国民はやっとオカシイと気付き主張を始めたからと思う。
NYタイムズやBBCなど海外メディアの記事が日本と著しく違うのは、例えば政策とか意思決定について彼らの考え方を示すことで、重要事項が良いのか悪いのか分かることだ。先の原発事故の民間調査委の報告書の報道では、日本のメディアは政府の対応の問題点だけを恣意的に大きく報じた。それより「何が重要な意思決定で、それがキチンとされたか」が最も重要なはずだ。
国難にあって最優先事項を超党派で迅速に意思決定せよと政治に迫り、メディアの状況認識とその元でどの政策が国民のためになるか、その後で誰が足を引っ張っているのか報じることだ。いつも威勢良く正義感一杯に報じるニュース・キャスター諸君は最低その程度の勉強をして欲しい。日本でのテレビの影響力を考えれば決して言い過ぎではない。
最後に
被災者も批判されることがないから天邪鬼から一言。政府の支援は税金で賄われることを忘れないで欲しい。まるで当たり前に金をよこせとインタビューに答える人達を見ると余り良い気分はしない。復興事業の判定は難しく官僚が人気のない仕分けをやっている。それが仕事だ。納税者から見ると経済的合理性のない復興にお金が使われるのを見るのはつらい。是非有効に使って頂きたい。基本的な生活を維持する為に必要なのは、それはそれで別に考えるべきです。■