14年前の午前5時46分、あの災害が発生しました、徳島支店勤務でしたので、普段なら熟睡中ですが、ベッドを下から突き上げられる様な衝撃で目が覚めました。
その後、暫くゆさゆさと揺れが暫く続きました、揺れが間もなく収まり階下に行くと、特段の被害が無く、PCのラックが少し動き、プリンターにセットした用紙が下に落ちている位でしたので、ホットしました。
2階に上がり様子を確かめ様とラジオ(MBS)のスイッチを入れると、通常の放送は中止で、アナウンサーが「神戸方面で地震発生し阪神高速は通行止め・神戸市内に火の手が三箇所上がっています、詳細は不明です」の繰り返しでした。
阪神高速は大事を取って点検中だろう、火の手も三箇所だったら消防がすぐに消火するだろうと気楽な判断で、出社し通常業務を行い、昼食に出掛け帰社後テレビのスイッチを入れると、何と阪神高速は倒壊し、神戸市内の火の手は消火どころかもの凄い延焼で手が付けられない様子です、これは大変な事になったと実感しました。
暫くすると会社内の電話の着信音が全くせず、通話しようと受話器を上げるも発信音がしません、公衆電話でNTTに確認すると電話回線がパンク状態との事でしたので、携帯電話で大阪支店へ確認すると、神戸支社は倒壊状態で詳細は情報を蒐集中との事でしたので、応援が必要なら何時でも駆けつける旨、話をし電話を切りました。
今でも思い出します、土曜日の夕方本社の損害調査部門の責任者から自宅に電話があり、月曜日から一週間大阪支店で地震保険の現場調査をするように指示があり、高速船で天保山へ向かったのも懐かしいです。
三週間後、再び大阪へ、交通インフラが徐々に整備が進みましたので、JRと阪急電車を利用して、現場調査を行ったのも懐かしい想い出です。
阪急宝塚駅で足が不自由なのに歩いて私を迎えに来てくれたお婆ちゃん・JR住吉駅ですれ違った瞳が虚ろな見知らぬ人々・元気で暮らしているのだろうかと思います。
我々は決してあの災害を風化させてはならないと思います、その後私は転勤先の広島で「鳥取県西部地震」「芸予地震」の地震保険の調査を行いましたが、本当に地震は怖いです、日頃の備えが重要です、間もなく東南海地震が来るかもです。
阪神淡路大震災の被害者を偲び、鎮魂の願いを胸にLSDの練習会に参加しました、あいあい温泉からマリンピア往復、約25名が集合し暫く走っていると、三々五々メンバーが合流最終は50名程の大集団になりました。
最初は何とか集団の中にいましたが、徐徐に遅れ初めてマリンピア折り返しからは息苦しくなり、歩く・走るの繰り返し状態になりました、鎮魂を込めてなど、大きな事を言った自分が恥ずかしいです。
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