ほぼ週刊イケヤ新聞ブログ版

コピーライター・ミュージシャン池谷恵司の公式ブログです。
私的メールマガジン「ほぼ週刊イケヤ新聞」のブログ版です。

ハンドルグリップを代えたら、自転車感が変わった

2005年03月31日 13時09分12秒 | 自転車のはなし
触覚のイメージというものは、思いの外大きい。自転車を買ったとき、僕のMARINには、太めでやわらかい、ちょっと丸い感じのグリップがついていた。乗っていて、どうもこれは、と思っていたので、自転車屋でグリップを代えてもらった。細身で、あえて黒ではなくグレーのラバーのものにしてもらった。これが自転車のパーツ交換の最初だった。



写真は再掲だが、グレーのタイトな感じのグリップだ。でもそれだけで自転車そのものがタイトになったように思え、この自転車の性格が変わったようにすら思えた。それは触感がかわることで、そのものへのイメージが変わる、ということを示しているのかもしれない。
その後、エンドバー(エクステンションバー)という短いバーをハンドルの端につけた。これもメタリックな色味で、触るとヒヤリと冷たく、シャープな触感を与える。
ハンドル周りのパーツをちょっと変えてみただけで、がぜん、自分の自転車の印象がシャープになり、乗る楽しさまでが倍増した。これが、自転車にはまりかけていくプロセスなのだろう。

たとえば、国会議事堂へ。自転車で。

2005年03月30日 01時23分43秒 | 自転車のはなし
自転車をこぐ(というかイメージとしてはタイヤを回す、転がす感じ)。その力が少ないロスで自転車を走らせ、軽やかに肉体を運ぶ。それは自分の力の拡張であり、しかもエンジンやガソリンの助けを一切借りない、ピュアな自分の力である。最近の自転車の、ロスのない、効率のいい駆動は、感動的なほど。ほんとうに自転車は面白い。

前述のようにMacintoshの修理にアップルストア銀座に行くことになったとき、精神的に窮地に立たされたにもかかわらず、悟りの境地だったのか、気持ちにやや余裕があり、どうせなら買ったばかりの自転車で行ってみようと思った、無謀かなと思ったが、一時間か一時間半あれば、いけると思った。もちろんそこに、根拠はなかったが。
鷺ノ宮から中杉で阿佐ヶ谷、青梅街道で新宿、外苑西通で246、そして永田町、国会議事堂をかすめて皇居をまわり、有楽町、そして銀座。一時間とちょっとの旅だった。国会議事堂前で自転車の記念写真を撮ったとき、ちょっと嬉しかった。。国会議事堂の前はクルマが少なく、とても自転車の走りやすい道だった。おまわりさんには常ににらまれる状況ではあるが。

自転車が、こんなに楽しいとは、出逢い編。

2005年03月28日 20時53分38秒 | 自転車のはなし
やっと自転車のことを書いていいような気がしてきた。
いままでは、秘密の、蜜月時代だったのかも。すぐ自転車に飽きちゃうかもしれなかったし、ちょっと恥ずかしくて書けなかった。
というのも、我がイケヤ新聞には、すごい自転車マニアがいるのでね。
モールトン・フタガワさんとか、de rosaコイデさんとか、ツールド沖縄出場の梅ちゃんとか。それに、BD-1佐藤もいるし。ライターの三上さんもビアンキに乗ってるようだし、ヤマナカも自転車通勤してるらしい、好きな人は多い。でも、そろそろ「オレも自転車に乗ってるぞ」とカミングアウトしていい時期にきたぞ。

自転車を買ったキッカケは、前述の友人の梅ちゃんに、リチャード・ボナのベースをライブで聞いてぶっ飛んだ帰りに、阿佐ヶ谷の焼鳥屋で、「イケヤさん、自転車で通勤したら10kgやせますよ」と言われたから。そして、それと時を同じくして、JR阿佐ヶ谷駅にとめておいたボロ自転車が違法放置自転車として杉並区に持って行かれてしまったこともあった。

で年末に、家の近くの鷺ノ宮のワタナベサイクルという街の自転車屋にGo。その場で適当に自転車を選んだ。とはいえ、安売り自転車では愛情が持てないし、たぶん走りもダメだろ、でも10万とか20万の自転車は買えないな、と思ってかったのが、このMarinのクロスバイクKentfieldです。

初めてまたがって乗って、感動的だったな。
とにかく今までの自転車が嘘に思えるぐらい、滑らかに走り、よく止まり、ハンドルも切れる。軽やかにだった。どこまでもペダルを踏んでいける(ような錯覚だが)気持ち。初めて自転車に乗ったときの高揚感があった。

「ハマルかも」。という予感がすでにあった。

あ、まだ続きます、自転車の話題。

我が名は、ミュー

2005年03月28日 00時30分09秒 | Photo&エッセイ
ほぼ週刊イケヤ新聞・編集長日記ブログ:2005年3月18日


今日の画像は、インターネット上の他のスペースにある画像を読み込ませるための実験です。
特に言うべき内容はありませんが、この猫、ミューは、我が家の飼い猫です。
振る舞い、言動ともに、猫とは思えません。
なんか今にも言葉をしゃべりそうな、
人のような顔をしていると思いませんか

iPod shuffleと走る朝

2005年03月27日 00時34分23秒 | Photo&エッセイ
iPod shuffleと走る朝である。
後日詳細は書くつもりだが、今、自転車に凝っている。通勤も自転車である。朝日の中、爽やかに冷たい空気を吸いながらペダルを踏むとき、時としてBGMが必要となる。

ストーンズの時もあれば、デビッド・シルビアンの時もあり、ジェームス・テイラーの時もあれば、バッハの時もある。

そしてその音楽は、CDプレイヤーでも、MDプレイヤーでも、もちろんカセットでもなく、そしてハードディスクプレイヤーであるiPodでもなく、シリコン系のメモリープレイヤーであるiPod Shuffleから演奏されるべきである。

カラダと、ココロがどこまで軽やかになれるかを競っているような時、音楽は質量を持ってはいけない。デバイスも極限まで軽く、存在を忘れるくらいのものが、のぞましいわけだ。iPod Shuffle以上に、自転車に似合う音楽再生デバイスはないのではなかろうか。

※もちろん安全運転のため、最大限に気をつけて運転すべきで、音楽を聴いているのは特に安全な道だけです。よい子は決してマネしないでください。

iPod Shuffleが象徴するもの

2005年03月26日 16時53分03秒 | Photo&エッセイ
iPod Shuffleが象徴するもの。それは、
徹底的に洗練された、操作性とコンセプト。
スイッチオンと、再生。
曲目を確認する液晶もなく、
音量がマックスの何割なのかもわからない。
でも、それは僕にとって必要のないものだ。
曲は知っているわけだし、
音量はその時快適であればいい。
曲順はシャッフルがいい。

iPod ShuffleはなぜAppleでは作れて、
なぜソニーにできなかったのか。
少し考えてみれば判る。
液晶がなく、聴きたい曲を選ぶことができず、
低音を強調するベースブーストモードも、
電車に乗るときに
かしゃかしゃいわないトレインモードもない。
これは、ソニーには作れない。
しかし、これらはすべて不要だ。


iPod Shuffleが象徴するもの。それは
記録された音楽が、不可視なものになったこと。
かつて、記録された音楽は、レコードという質量を伴う実体を持ち、
カセットテープという実体を持ち、CDという実体を持ち、
MDという実体を持っていた。
しかし、iPod Shuffleには、1Gという曲(200曲とか?)が入ってるのに、
ガム程度の重さ。しかもデータはMP3でシリコンのメモリーによ見込まれ
もはや質量を持たない。

質量のない「レコード」は、今後どう流通するのか。
もはやCD屋では無理だろう。
ネット経由でのデータ配信で購入するのか。
そのとき、レコードジャケットというものは、
ついに終焉するのか。

iPod Shuffleが象徴するもの。それは
音楽再生機の極北。
これ以上シンプルにすることはできないのでは、と思わされる。
僕はMacintoshを初めて買ったときと同じぐらい、
セクシーなデバイスに出逢った興奮を感じている。
音楽全体にとって、それが吉と出るか、
凶と出るかはわからないが。


銀座アップルストアで、iPod Shuffleを買った

2005年03月24日 11時57分46秒 | Photo&エッセイ
前日の続きですが、そんなわけでよく壊れるiBookの修理に来た銀座のアップルストアで、実は以前から相当氣になっていたiPod Shuffleを買ったわけですよ。
それまでヨドバシとかビックカメラとかの売り場で「予約待ち」だったけど、これはナンとしても店頭で買って帰りたかったので我慢してました。もちろん銀座アップルストアでもレジ前は長蛇の列。並ぶの、ヤダなと思っていたので、修理のジーニアスバー(とAppleでは修理カウンターを命名している)のお兄さんに、キツイことをいいつつ、「iPod Shuffle買いたいけど並ぶのは面倒」と憂鬱げにつぶやいてみると、お兄さんがないしょで修理カウンターで売ってくれた。
Macの修理は辛かったけど、こればっかりはセレブ気分でお買い物さ。
で、使ってみたのだが、これがまた素晴らしい。
洗練の極みである(少なくとも僕にとっては)といわけで、使用感はまた明日。
写真はジーニアスバーでiPod Shuffleをゲットした喜びで撮った写真です。

iBookが、壊れた。また。

2005年03月23日 18時43分50秒 | Photo&エッセイ
仕事もプライベートもAppleのMacintosh、それもiBookというラップトップマシンに依存しているので、iBookの液晶が壊れたり、HDが死ぬと、心の底からの恐怖を感じる。
通説によると、Macintoshは意外と壊れにくいとも聴くが、一日12時間程度、それも毎日酷使されていれば、壊れるのも仕方ない。でも壊れたらとても困るわけです。

昨年は、まずハードディスクが壊れた。結局、新しいHDに入れ替えた。
壊れたディスクからギリギリでデータがコピーできたので助かったけど、どうなることかと思った。これは渋谷のクイックガレージで対面修理。iBookの入院がなかったので助かる。でも交換技術料の実費が2万円、HDの購入代が2万円。

そしてこれまた昨年。CD-ROMのトレイが出てこなくなった。
前述のクイックガレージに持ち込む。CD-ROMは交換、ついでに充電しても駆動時間が数十分となり死にかけていたバッテリも交換し、さらについでに子どもにキーを剥がされていたキーボードも交換。これは5万円。この時点で積算修理代はおそらく中古価格を超えた。

昨年、さらにもう一つ。モニターがついたり消えたりする。液晶のある部分を押すとつく。
バックライトの不具合だ。これも前述のクイックガレージに持ち込むが、ディスプレイ関連は受け付けてもらえず、銀座のアップルストアへ。ロジックボード交換で約5万円の修理代、そして入院。iBookが手もとにない間は、ろくに仕事もできなかった。メールも見れないし。
この時点で積算修理代は購入価格にほぼ並んだのではないか。

で、今年、またまた液晶でトラブル。しかも今度は液晶がまったくもってうんとも寸とも言わない。バックライト切れですらない。HDは起動している音がする。
というわけで、まったくもってお手上げで、今回はまたモニターなのでクイックガレージもダメだし、第一、このトラブルが発症したのが日曜日なので、クイックガレージは休み。というわけで問答無用に銀座アップルストアに持ち込むことになった。
今回も入院、しかし、エクステンションプログラムという一種のリコールのようで、今回の修理代はタダみたい。でもまたMacがないので、仕事ができない。死ぬかと思いました。
一応バックアップはとってましたが、直前の数日間のデータはなかったのでいじれない……。

泣く泣くの入院だが、そのかわり、
実は、ちょっと嬉しいお買い物ができたわけです。
続きは明日。(修理に関しても後日談あり)


ゴンサロ・ルバルカバ&チャーリー・ヘイデンのデュオ

2005年03月23日 11時24分40秒 | CD&コンサートレビュー
ゴンサロ・ルバルカバ&チャーリー・ヘイデンのデュオを聴いた。場所は青山ブルーノート。青山ブルーノートは久々で、正直に告白すると、ブルーノート東京が骨董通りの入り口あたりにあったところから、現在の骨董通りの奥の方へ引っ越してからは、初めてです。
ゴンサロ・ルバルカバ&チャーリー・ヘイデンのデュオの概略はこちら

見たのは2005年3/17(木)の7:00からのステージ。ゴンサロ・ルバルカバとチャーリー・ヘイデンのデュオは、想像より静かで、濃密なものだった。
90年代初頭、はじめてゴンサロを見たときには圧巻とも言えるテクニックへの驚嘆と、常に弾んでいるようなフレーズの瑞々しい躍動感と、ラテンの血を感じさせる天性の明るさを感じた。
そして、先日聴いたゴンサロは、より内面的で静謐で、しかし明るいエロスを感じさせる親密なピアノを聴かせた。飲み物をすする音すらきこえてしまうのではと思えるほど、静かな演奏だ。しかしピアノの音は、この世のものとは思えないほど美しい。

ベースのチャーリー・ヘイデンも、さすが。横綱相撲といっていいだろう。実によく歌うベースソロ。無駄な音を徹底的に省いた、「素朴」によく似た、じつは鋭い洗練。

ほとんどの曲は、ゴンサロから始まり、ベースが入ってくるという形で進行したのだが、ベースが入る瞬間の豊かさ、そして官能感は、なんとも言えないほど。

この演奏に感動した理由の一つには、演奏の4時間前にしたインタビューにもあった。
(昨日のこのBLOGを参照)
そのインタビューでゴンサロは、自分にとってピアノは宗教に似たものであり、
悲しいときや淋しいときは癒してくれ、楽しいときはその楽しさを増やしてくれる、
だから音楽に対しては常にスピリチュアルでいたい、と言っていた。

その言葉が、そのままゴンサロの音楽になっていたのだ。
いいものを見せてもらった、いい生き様を、見せてもらった。
そしていい会話を聴かせてもらった。そんなコンサートだった。


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ゴンザロ・ルバルカバとの対話

2005年03月22日 19時04分46秒 | CD&コンサートレビュー
2005年、3月17日(木)まさに音楽の神に愛されている、天才としかいいようのない、キューバ人ジャズピアニスト、ゴンサロ・ルバルカバにインタビューする僥倖に恵まれた。
場所は青山ブルーノート。ゴンザロは、チャーリー・ヘイデンとのデュオでの公演中だった。
広報の方に連れられて表れたゴンサロはは人なつこく笑って、簡単な挨拶をすると、インタビューをはじめる前に、フワリとヤマハのピアノの前に座って、軽く試すように鍵盤に触れた。そこから聴いたこともないような美しいピアノの音が、立ち表れる。ピアノから音が出ているのではなく、ピアノのあるあたりの中空に、えもいわれぬ美しい音がフェードインして表れるような印象だった。
最初の音が、次の音を呼び、美しい和音が生まれて、そしていつの間にか、即興のピアノソロが始まった。ゴンザロのピアノソロを、本当に間近で、生音で、たった4人(スタッフの数)で聴く、という信じられない幸運だった。
濃密で、繊細で、わずかに陽性のエロティシズムがあり、しかしあくまで無垢。そんな印象の演奏だった。この人は、音楽の神様が世の中に送り出した人なのだな、と僕は直感した。

インタビューについては、ヤマハのあるサイト(私が編集長みたいなことをしてるホームページ)に掲載予定なので、ページが完成したあかつきにはお知らせします。ので、インタビューの内容についてはあまり触れられないのですが、音楽への真摯な姿勢、キューバの音楽への自負、ピアノへの思いなどを聴くことができたわけですが、ほんとうにいい人だった。
僕はゴンサロ・ルバルカバとチャーリー・ヘイデンが国連で演奏した「イマジン」を結婚式で使ったぐらい気に入っている。そんな人と対話ができて本当に嬉しかった。
あー、イマジンを結婚式で使ったこと、ゴンサロさんに言えば良かった!

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いつか、ここで眠る。

2005年03月21日 06時19分59秒 | Photo&エッセイ
弟の四十九日の法要があった。
この日曜日は2月5日に永眠した弟の四十九日だった。
驚くほど時間が早いという思いと、
あまりに自分の中での「弟がいない」という心の風景の違いに、まだそれしか経っていないのか、という思いが交錯する。
四十九日とは、納骨の日であり、文字通り、弟は墓に入った。悲しいことではある。弟はハッキリ死者になった。しかし、抽象的ではなく、この場所でこれから眠る。父親もここで眠っている。そういう確固たるもの、も感じた。

そう思うと、子どもの時のようにお墓は恐いものではなく、大人になってから思う単なる象徴だというものでもなく、何となく懐かしいもののように思えてくる。

すぐには行かない。やりたいことはまだまだある。死ぬわけにはいかない。でもすべてがおわったら、いつか、僕も、ここで眠る。
弟よ、その時には隣で寝るぞ。





図書館は、楽し。

2005年03月20日 11時33分40秒 | Photo&エッセイ
図書館に通う習慣ができたのは、この一年、二年。
それはではいちいち本を返すのが面倒だし(同じ理由でビデオ屋にも行かない)、だいたいどこに図書館があるのかも良く知らない、という暮らし方だった。しかし妻や子どもがよく利用しているのでついていっているうちに、いつのまにか毎週のようにたくさんの本を借りるようになった。

図書館にはいろんなメリットがあることに気づく。

・価格に気にせず本を選べる。(意外とこの効用は大きい)

・一気に十冊も借りれるし、別の区の図書カードを持っていれば二十冊も借りられる。(買うのではなかなか、こうはいかない)

・つまらなければ途中で本を読むのを止めても気がとがめない。

・買った本のように部屋に積んでおいても妻から蛇蝎の如く嫌われることがない(いつか返されるのでね)

・当然ながら、環境に優しいわけです。デメリットとしては出版社が売上げ減となる。

元来本をそれほど読むほうではなかったが、図書館通いで意外と読むようになり、今では電車やバス(それから風呂)で読むのが無上の喜びであるわけです。

写真は杉並区阿佐谷図書館での子ども向け紙芝居の様子。子ども映画上映会もあるので、その間、親も後ろのイスで本を読むことができる。助かります。

みなさん、お近くの図書館にでかけてみませんか。
お近くの図書館はこちらから。

趣味としての、確定申告

2005年03月19日 11時42分23秒 | 映画レビュー
ギリギリの15日に、中野税務署に確定申告に行ったらこの長蛇の列たぶんみんな徹夜だと思う。ミュージシャンで喰っていた頃にはじめて、ベースの佐藤に確定申告のことを教えてもらった。それ依頼、月給取りになっても、申告の余地があるときには必ず行っている。今回チャレンジしたのは、バイクのサスペンションが盗まれたので雑損控除と、医療控除だった。
バイクのサスについては警察に盗難届を出しているので、事前にその証明を取りに野方署にいった。これは書類を出してもらうのにずいぶん待たされた。警察署に一時間以上もいることはあまりない経験なのできょろきょろしていた。そこは、まるで踊る大走査線にでてくるような、年のいった女子署員が、署員にコーヒーを出してまわり、あ、またカップまちがえちゃった、だめじゃないか藤本君フフフといった光景だった。
脱線しましたが、結果的に雑損の書類はそろえたものの、税金申告用の計算式にあてはめると、事実上損害額が5万円以下は算入されないようだったので、無駄骨ではあった、だが勉強になった。
(皆さん、盗難、災害などで損害を被ったらぜひ確定申告を)
で、結局は最もオーソドックスな医療控除の還付だけを申告し、還付金は数千円だったけど、世の中がどうなっているのがが税金からわかる、もっと具体的に言うと、政府が税金と言うシステムを使って世の中をどうしようとているのかが判る。配偶者特別控除がなくなったりとかね。(女性よ、もっと働けということだろうな)。
税金と警察力(と貨幣を造る力)は国家の最も強力な力だなと痛感しつつ、確定申告の季節が終わる。

滝沢のレジは、ホテルのフロント

2005年03月18日 15時26分12秒 | 映画レビュー
談話室「滝沢」、それは極上のおもてなしによる、大人の癒し空間である。
なんたって、談話室なのだ。なにしろ腰を下ろす抹茶色のソファーも凄いが、
接客の好感度ぶりには仰天する。昭和時代のぬくもりがある、
古い、なじみのホテルのようだ。
(伊集院静 なぎさホテル)

そして、その集大成はレジの部分かもしれない。
この写真のように、ほとんどホテルのフロントである。
電話がかかると、ここから「○○様~ お電話です」と
館内放送が入る。さらに商談用に使用するのか、
原稿を送るために使用するのか、レジ横には
ファックスまで設置されている。

時間無制限で和めるという特性から、
原稿書きの場所として愛されていた
という話も聞くが、それを裏付けるような
ファックスである。

スタッフの接客のクオリティを保てないので閉店する。
ひいては客層のクオリティも落ちたので閉店する、とも。

そのうち、
スタバ、ドトール、マクドナルドあたりでしか、
珈琲を飲めなくなる日も近いのか。
あの「喫茶店です」という独特の雰囲気は、
もう絶滅寸前なのかもしれない。
いや待て。私たちには、まだ、『ルノアール』がある。

談話室滝沢には、滝と沢がある

2005年03月17日 22時43分51秒 | 映画レビュー
談話室滝沢のお話、その2です。メニューはすべて飲み物1000円。なのにサンドイッチセットとかは1100円だったりする、不思議な料金体系。なかは抹茶色のソファーでとことんくつろげる、大人の(といっても30代ではヒヨッコです)空間。どれだけ長いをしても、すばらしい接客態度の店員さんから怒られる心配はない。中で若造が携帯をかけることもない、第一地下なので携帯は通じない。
が、なにより凄いのは、店の中に滝と、沢(小川)があることだ。
トイレ前にはちょっとした滝があり、わが目を疑ったが、そこから沢が店内中央部に引き回されている。いや、滝と沢があるんです、滝沢には。
って、この話はまた続きます。