弟の四十九日の法要があった。
この日曜日は2月5日に永眠した弟の四十九日だった。
驚くほど時間が早いという思いと、
あまりに自分の中での「弟がいない」という心の風景の違いに、まだそれしか経っていないのか、という思いが交錯する。
四十九日とは、納骨の日であり、文字通り、弟は墓に入った。悲しいことではある。弟はハッキリ死者になった。しかし、抽象的ではなく、この場所でこれから眠る。父親もここで眠っている。そういう確固たるもの、も感じた。
そう思うと、子どもの時のようにお墓は恐いものではなく、大人になってから思う単なる象徴だというものでもなく、何となく懐かしいもののように思えてくる。
すぐには行かない。やりたいことはまだまだある。死ぬわけにはいかない。でもすべてがおわったら、いつか、僕も、ここで眠る。
弟よ、その時には隣で寝るぞ。
この日曜日は2月5日に永眠した弟の四十九日だった。
驚くほど時間が早いという思いと、
あまりに自分の中での「弟がいない」という心の風景の違いに、まだそれしか経っていないのか、という思いが交錯する。
四十九日とは、納骨の日であり、文字通り、弟は墓に入った。悲しいことではある。弟はハッキリ死者になった。しかし、抽象的ではなく、この場所でこれから眠る。父親もここで眠っている。そういう確固たるもの、も感じた。
そう思うと、子どもの時のようにお墓は恐いものではなく、大人になってから思う単なる象徴だというものでもなく、何となく懐かしいもののように思えてくる。
すぐには行かない。やりたいことはまだまだある。死ぬわけにはいかない。でもすべてがおわったら、いつか、僕も、ここで眠る。
弟よ、その時には隣で寝るぞ。