ほぼ週刊イケヤ新聞ブログ版

コピーライター・ミュージシャン池谷恵司の公式ブログです。
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コロナ後、あるいはウィズコロナ

2020年05月25日 11時00分28秒 | SCRAP and BUILD

ひとりごと。

 

コロナ後、あるいはウィズコロナは、パラダイムシフトとなるのか。

あるいは、慣れ親しんだ日常が戻ってくるのか。

気持ちとしては後者を望むが、

おそらく前者だろうな。

もし日本が後者を選ぶのであれば、まちがいなく世界の趨勢に後れを取り、

終わった国になってしまうだろう。

もうひとつ。

なぜ日本が、いや、東アジア全般に死亡者が少ないのか。

優れた行政手腕で感染を押さえ込めたとは思えない。

ノーベル賞の京都大学本庶教授が言っていたが、

新型コロナウィルスに対する抗体、あるいは免疫力が人種によって違うのではないかということ。

それはあるように思うのだった。

 

 

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「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望というようなものが存在しないようにね。」

2019年11月28日 19時06分59秒 | 映画レビュー

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望というようなものが存在しないようにね。」

 
 
2019/11/28 19:05
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「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望というようなものが存在しないようにね。」


旅先で映画館に行くのが好きだ。
以前ユナイテッドシネマの上映前のCMムービーで
英語のナレーションでアメリカのセールスマンが、セールスの長い旅に出ている時、映画館に行く、そこは慣れ親しんだ自分の家のようだから、というものがあって、それがとても素敵だった。

で、高崎に出張になったので、検索したら「ドリーミング村上春樹」というドキュメンタリー映画をやっていたので見たのだった。
村上春樹の小説は世界中で翻訳されているが、ポーランド語版は一人の女性によって訳されている。その訳者のドキュメンタリーだ。

良くできたドキュメンタリーかどうかはわからなかったが、映画中にカエルくんが出て来たり、月が2つあったりとさりげない上品なユーモアが素敵だった。短い映画だったが、出張中で仕事も詰まっていたので、それも良かった。

で、本論だが、翻訳の有用性と不可能性という相反することを強く感じさせられたのだった。

冒頭の「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望というようなものが存在しないようにね。」を訳するのに、訳者は非常に苦労するが、その文章は英語で、センテンスなのか、リタラチャーなのかでずっと悩んでいる。映画の最後の文学、小説に相当するリタラチャーを採用するようだが、それはちょっと違うなと思った、ただし一文だけを意味するセンテンス、もフィットしない。つまり、やはり訳すことはできないのであって、これは賽の河原を積んでは倒されることによく似ている。

ポーランドの人にとって村上春樹の小説を読むには、ポーランド語に訳されることは非常に大きな有用性がある。
しかし、本質的には書かれた言語でしか、本質はつかむことができない。

私は下手なジャズボーカルを歌うが、やはり英語の歌詞は、英語でしか表現できない、心の中の歌、動き、感情も英語がネイティブになっている。
ちなみにこれが出来ていないジャズボーカルを聴くことが多々あるが、これはとてもきけない。
同時に、ポルトガル語で歌いたいボサノバがあるが、めくらめっぽうカタカナでおぼえて歌うのは、お経を暗記してただ言うだけの門前の小僧のようで、それもできない。せめて歌う歌詞の分だけではポルトガル語の意味を知りたいと思う。

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そして、もっと上があるという希望と感動は,大切だと思う。

2019年11月13日 12時01分28秒 | コンサートレビュー

そして、もっと上があるという希望と感動は,大切だと思う。

2019/11/11 17:44
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なんとなく、感覚とセンスで、そこそこできてしまう。
だから、いい感じでやっていて、かっこよく決めたつもりでいて。

でもある日、才能も資質も技術も全く上のレベルの人たちがいて、その人たちがものすごく努力をしていることを知る。

そのときの悔しさと、情けなさ。
そして、もっと上があるという希望と感動は,大切だと思う。

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人生には想定しなかったことが起きることがある

2019年11月05日 01時24分46秒 | 仕事、あるいはGTD

 

人生には想定しなかったことが起きることがある。

 

これは去年の東京国際オーディオフェアのことだが、

とある事情で私が東京国際オーディオフェアのデノンブースに、

デノンのサウンドマネージャー山内さんのコーナーに登壇したのだった。

楽器を持たずに人前に立つというのが、滅多にないわけなのだが、

なかなかに楽しかった。

今年はその機会はなかったが、

こんな楽しい「想定外」はまた起こってほしいと思うのだった。

 

 

 

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今歩いているこの道が いつか懐かしくなればいい

2019年10月25日 10時02分34秒 | 仕事、あるいはGTD

 

法人成しているとはいえ、フリーランスみたいな一人会社だが、

ここ数年、継続的にいろんな方々からキャパオーバーぐらいに仕事をいただいている。

ありがたいことだが、いつも追われている感覚がある。

先日、あまりないことだが、いままで3年続けていただいてきたお仕事を「来年は結構です」と言われた。

きちんと理由もご説明いただいた。

私の不注意もあったし、正直言って先方の求める物と私の指向の向き不向きもあって、

これからはなかなか厳しいとは思っていたが、やはり、という気がした。

 

最近加齢のせいか、以前より集中できる時間が減ってきたように思う。

ただ私の仕事は文章を書く仕事で、準備段階はいいが、実際に「書く」という行為には

かなりの集中力、少なくとも数時間にわたる集中力が必要だ。

これが一日に数回、は厳しくなってきている。

 

実はライティングよりコピーのほうが得意なのは、集中力は強烈だが、長時間ではないことだ。

とくにキャッチコピーは、瞬間的な発想だから、どちらかというと得意。短距離走だ。

ある程度の長さのライティング、4000字とか一万字などの中長距離走となると、数時間のインテンシティが必要で、なかなか厳しい。

 

とはいえ、すでに予感しているのは、さほど遠くない将来、

だんだん仕事が減ってきて、あまり稼動できなくなった頃、

仕事に追われていた頃を、うらやみ、懐かしむだろうということだ。

 

だから、今は、老いて腕が落ちた頃の自分に向かって

「いいだろ!」と見せつけつつ、ガンガンしごとをやっていこうと思うのだ。

 

めずらしく音楽のことではないことを書いたが、

私が仕事で書く内容の90%は音楽か楽器に関連したものなのだった。

 

 

 

 

 

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演奏から距離を置いて分かったこと 3

2019年10月20日 10時44分31秒 | Jazz Talk

 

演奏から距離を置くとわかること。

上手に演奏できることの価値が相対的に落ちていく。

「その楽器が演奏できるから、難しさがわかる」というようなことは

音楽を聴く人にとってはほとんど意味もないことがわかる。

 

ごく控えめに言えば、演奏者が大変そう、苦しそう、難しそうにやっているから

むずかしいのだろう、でも音がデカイ、音が速い、よくわからないフレーズだから

本当に凄いのだろう、と思えることぐらいか。

 

本当に大切なことは、聴いている人が気持ちよく、素敵な気持ちになれる音楽を提供することであって、

個々の演奏者がどんなに苦労しているか/苦労していないか、は関係ないのだった。

 

いちリスナーとして言えば、ピアノのゆっくりとした単音の繰り返しだけで

十分すぎるほど気持ちが良い時だってある。

 

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演奏から距離を置いて分かったこと2

2019年10月17日 13時37分11秒 | コンサートレビュー

 

中学時代から音楽にものすごく重いバイアスをかけて生きてきた。

中学でギターを買って吹奏楽部に入り、高校でバンドとブラスに命を懸け

大学はバンドのために途中で京都から東京の大学に移り、

在学中にロックバンドのコンテストで優勝し、

大学卒業とともにプロデビューした。

レコードを一枚だしてからは、プロとしては「失格」だったので

その後昼間の仕事に就いて、それはそれなりに頑張ってきたつもりはあるが

気持ちとしてはずっと音楽をやってきていた。

 

が、外的要因とはいえ、音楽から(少しだけ)距離を置いてみて思うのは、

普通の人にとっての音楽は、ないと困る物ではない。食料や睡眠、お金のように。

そこにやたらと重いバイアスをかけて、それが普通だと思っていたことが

じつは、ある限られた分野の人間だけだったんだな、ということが

理屈ではなく、皮膚感覚でやっとわかってきたってこと。

 

それが演奏から距離を置いて分かったこと2です。

 

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ブラインドオーディションで泣いてしまうのは、音楽の神の恩寵を感じるから。

2019年07月15日 11時32分27秒 | コンサートレビュー

ブラインドオーディションで泣いてしまうのは、音楽の神の恩寵を感じるから。

2019/07/12 22:13
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youtubeでやたらと、オーディションの動画を見てしまう。そして、泣いてしまう。自分でもなぜだかわからなかった。不思議だった。

でもやっと気がついた。音楽の神様の実在を感じることができるからだ。

私は特定の神様は信じないが、音楽の神様は信じることができる。そうでなければ、どうしてこんなに素晴らしい歌を歌うことができる人が、ある一定の割合で世界中に遍在しているのだろう。音楽の神様がGIFTしたものだとしか思えない。

トランペットの師匠、原朋直さんさんも言っていたが、天才ってのは、最初から老成している。ドラムのマーカス・ギルモアがそうらしい。このオーディションを見ていても、特に子どものときは顕著だが、歌う直前まではもろに子どもだが、歌ったらもう、まったく子どもではなくなる。これが神の御技でなくてなんなのだろう。

https://www.youtube.com/watch?v=qCKPOfpndu8



才能は磨いてこそより輝くのはもちろんであって、彼らが単なる天才で努力はしていない、とは思わないが、それでもGIFTされているものは大きいと思う。

歌の場合はそれがダイレクトにでる。楽器でもそれはあるとおもうが、やはり楽器には修練、ディシプリンが必要だし、何より楽器が必要だ。幸運にもGIFTされている楽器を入手し、はじめてみなければわからない。つまり少しは磨かないと、GIFTされているかどうかがわからない。しかし歌は、そこを一気にすっとばして、いきなり才能が輝く、だから感動的なのだ。

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入院した。一日だけだが。

2019年05月03日 10時23分35秒 | コンサートレビュー

Goo blogは一切外部連携を止めたのだろうか。

もうそろそろ、ブログもノートに引っ越しか。

Note

https://note.mu/keijiikeya

 

Noteからの転載をしておきます。

 

 

いままで幸いにして、私は子どもの時喉の手術をして依頼、手術も入院もしていない。

そしてついに、入院した。一日だけだが。

こうして急な入院をして思うのは、入院というものはたいてい「急」なんだなということと、死ぬときもこうして「急」なんだろうなということだ。そしていったん入院すると、娑婆の雑事は、これまたきれいに忘れられる。逆に言えば、こだわらなくなる。だから娑婆のことはどんどん進めて、捨てて簡素にしておく必要があるだろう。

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演奏から距離を置いて分かったこと

2019年05月03日 10時19分18秒 | DIARY

演奏から距離を置いて分かったこと

2019/05/03 09:34
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とある事情で、数週間前から楽器演奏から距離を置くことになった。

小学校でコルネットを、中学校でギターを初めていらいのことだ。楽器演奏は私にとって、深い部分のアイデンティティであった。結局現在まで続けている仕事も、楽器演奏に深く根ざしている。先日も家に和音が出せる楽器がなくなったことに気づいて愕然とした。ギターや鍵盤楽器は友人に差し上げたり、預かってもらったり、あとは倉庫に預けた。では、そこでで、音楽の距離感が変わったか、というと、さほどは感じない。音楽を日常的に聴いている状況はかわらない。

ただ、たまに必要に応じて家で楽器を構えたりすると「上手くなろう」「楽器を弾くことで自分がカッコ良く見えたい」という気持ちが生じることに気づいた。前は気づかなかったがもっとそれが強だったはずだ。これは、演奏にとってネガティブか? ポジティブか? それは判断が難しいところだが、すくなくとも枯淡の域からは遠い。

私が近年ベーシストではないのにベースを弾いて楽しかったのは(必要に迫られて弾いたのだが)、ベースを弾いて褒められたいという気持ちがゼロだったからだ。自分のアイデンティティにベーシストはなかったから。むしろ私がベースを弾くことで、音楽が動き出し、成り立ち、ひょっとして自分の貢献でその音楽がカッコ良くなるのかもしれない、と思ったからだ。これは純粋に音楽のクオリティへの貢献であり、ひいては、それが自分にとっての満足だった。

近い将来か、遠い将来かわからないが、楽器演奏を再開するとき(しないかもしれないが)、楽器と意識的に距離を置いているこの時期に感じたことが、自分の音楽の糧になるのかもしれない、と思うと,何事にも意味はあるのだな、と思わされる、長すぎる10連休のなかばである。

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4月23日(火)のつぶやき

2019年04月24日 02時48分09秒 | tweet
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4月22日(月)のつぶやき

2019年04月23日 02時48分28秒 | tweet
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4月21日(日)のつぶやき

2019年04月22日 02時51分10秒 | tweet
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4月20日(土)のつぶやき

2019年04月21日 02時50分28秒 | tweet
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4月19日(金)のつぶやき

2019年04月20日 02時51分49秒 | tweet
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