2017年8月6日
アメリカによる原子爆弾投下から72年
広島市内にある慰霊碑
中國新聞 号外
「1週間前の2017年8月6日、広島は72回目の原爆の日を迎え、広島市中区にある平和記念公園では平和記念式典が行われました」
「あの日も暑い一日じゃったが、この日の広島市中区の最高気温は37.0度と、今年一番の暑さを記録した一日じゃった」
「今日は、広島市内にある原爆に関する慰霊碑を紹介していこうと思います」
「まずは、平和記念公園とその近くにある慰霊碑を、北から南へと紹介していこうかの」
中国・四国土木出張所職員殉職碑
「原子爆弾が投下された1945年8月6日当時、内務省中国・四国土木出張所が広島県産業奨励館(現:原爆ドーム)の中にあって、52名の方が殉職されました」
「爆心地から160メートルのところにあるこの建物は、内務省中国・四国土木出張所のほか、広島県地方木材・日本木材広島支社など、行政機関や統制組合の事務所として使われとったんじゃの」
「本来は、広島県の産業を奨励するための広島県物産陳列館として建てられたんじゃけどね」
動員学徒慰霊塔
「原爆が投下された日、広島市内で建物疎開作業を行っていた8,000人以上の生徒のうち、約6,300人が犠牲になったといわれます」
「戦争末期、中学生以上の学生は軍需工場などでの勤労奉仕や、空襲による延焼を防ぐために民家などの建物を取り壊して防火地帯をつくる建物疎開などの作業を強制的にやらされとったんじゃの」
原爆供養塔
「ここでは、原子爆弾投下で亡くなった引き取り手のない遺骨を、文字どおり「供養」しています」
「亡くなった方の身元が分からんけぇ、いろんな宗教による慰霊祭が、時間をずらして行われとるんじゃ」
韓国人原爆犠牲者慰霊碑
「原子爆弾が投下されたとき、広島市内には数万人にのぼる朝鮮人がいて、約2万人が被爆したといわれています」
「このころの日本は、朝鮮や台湾、中国や東南アジアを植民地にしとって、そこから強制的に連れてこられた人がおられたんじゃ」
原爆の子の像
「原爆の子の像は、白血病のため1955年に12歳で亡くなった、被爆者の佐々木禎子さんの霊を慰めるために建てられました」
「禎子さんは、「鶴を千羽折ると病気が治る」と信じて、薬の包み紙や包装紙などで1300羽以上の鶴を折ったそうじゃ」
「原爆の子の像には、今でも世界各国から折り鶴が捧げられています」
原爆死没者慰霊碑
旧天神町北組慰霊碑
「今、広島平和記念公園がある中島町は、中島本町・材木町・天神町・元柳町・木挽町・中島新町と呼ばれる町がある、広島の繁華街でした」
「縦に長くのびている天神町は、今の平和大通りあたりで南北に分かれとったけぇ、ここは天神町北組と呼ばれとったそうじゃ」
「爆心地に近い天神町は、原爆の直撃を受けて全壊・全焼したそうです」
峠三吉詩碑
「詩人の峠三吉は、爆心地から約3キロメートル離れた翠町の自宅で被爆しました。28歳の時だそうです」
「1951年『原爆詩集』を自費出版されたんじゃが、その序文として書かれたのが、「にんげんをかえせ」で知られる以下の詩じゃ」
ちちをかえせ
ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ
わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの
にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
マルセル・ジュノー博士記念碑
「マルセル・ジュノー博士は、赤十字国際委員会の駐日主席代表として来日。1945年8月9日、GHQと交渉して調達した約15トンの医薬品を持って広島にやってきました」
「この約15トンの医薬品は、約1万人の被災者を1ヶ月治療できる量じゃったといわれとるんじゃの」
ノーマン・カズンズ氏記念碑
「ノーマン・カズンズ氏は、原爆で親を失った孤児たちのために、アメリカ人の精神養子として育てようという運動をおこしました。約500人の子どもが精神養子になって、総額2,000万円の援助が行われたといわれています」
「氏は、原爆によって顔や体にケロイドが残る原爆乙女を、アメリカで治療を受けさせるなどの運動もされとってんじゃ」
嵐の中の母子像
「嵐の中の母子像は、広島市婦人会連合会が1口20円の募金活動で150万円を集めて建てられたものです」
「このの母子像は、原爆の惨禍の中、右腕で赤ん坊をしっかと抱き、伸ばした左腕で幼児を背負っとる母親を表現されとるそうじゃ」
原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑
「戦争末期、今の小学校にあたる国民学校初等科の3年生以上の児童は、空襲を避けるため都市部近くの農村部へと強制的に疎開させられました」
「そのため、親元に残された初等科の1・2年生と、建物疎開作業に従事させられた、今の小学校にあたる国民学校高等科の生徒が、原爆の犠牲になった」
「犠牲となった教師が約200名、子どもが約2,000名といわれています」
「疎開させられて生き延びたものの、親や親せきを原爆で亡くした子どもたちは、2,000人とも6,500人ともいわれとるんじゃの」
義勇隊の碑(安佐郡佐東町川内温井義勇隊の碑)
「原子爆弾が投下された当日、広島市の郊外にある川内村の義勇隊員が中島新町付近で建物疎開作業をしていました。爆心地に近いということもあって、義勇隊250人の全員が亡くなり、そのうち川内村の温井地区は180人の方が犠牲になりました」
「戦争末期、政府は本土決戦に備えて、全国各地で職場・学校・地域を単位として国民義勇隊を編成。男子は15歳から60歳まで、女子は17歳から40歳までの全国民が義勇隊に組み込まれとったんじゃ」
広島二中原爆慰霊碑
「原子爆弾が投下された当日、川内村の義勇隊と同じく、中島本町では広島二中(現:広島県立観音高校)の生徒たちも建物疎開作業に従事していました」
「生徒と職員は近くを流れる本川河岸に整列して訓示中に被爆、そのほとんどが即死で、306人の方が亡くなられたそうじゃ」
広島市商・造船工業学校慰霊碑
「原子爆弾が投下された当日、爆心地に近い材木町で建物疎開作業に従事していた市立造船工業学校の1年生195人、職員5人の方が亡くなりました」
「造船工業学校は、今の広島市立商業高校になるんじゃの」
「ここで平和公園から出て、100メートル道路を渡って南側へ…」
広島市立高女原爆慰霊碑
「原子爆弾が投下された当日、爆心地に近い材木町から木挽町あたりで建物疎開作業に従事していた広島市立高女(現:広島市立舟入高校)の1、2年生541人、職員10人、全員が亡くなりました」
「この学校では他の動員先を含めて676人が被爆死。これは市内の学校で最も多くの犠牲者になっとるそうじゃ」
「…この写真は?」
「お年寄りの方が碑の前でバイオリンを弾いておられたんじゃが、ええ音色じゃったんで、しばし聞きほれてしもうた」
旧天神町南組慰霊碑
友愛碑
「原子爆弾が投下されたとき、損害保険会社の多くが今の平和記念公園近くにあったため、約200人いた職員のうち、79人の方がその年の12月までに亡くなったといわれています」
↓平和記念公園とその周辺の慰霊碑・祈念碑については、こちら↓
「バーチャルツアー」広島平和記念資料館
広島県職員原爆犠牲者慰霊碑
「平和記念公園から本川に沿って南へ歩いて行くと、アステールプラザあたりに広島県職員原爆犠牲者慰霊碑がある」
「木造だった広島県庁舎は原爆で全焼。職員の多くは即死か倒壊物の下敷きとなったまま焼死し、1,100人の方が犠牲になりました」
原爆殉職職員慰霊碑
「爆心地から約1.5キロメートルのところにある広島赤十字病院では、職員51人の方が犠牲になりました。生き残った医師・看護婦たちによって、多くの被爆者に救護活動を行われました」
「2013年、病院の改築に伴って、病院内にあった慰霊碑は近くのメモリアルパークに移設されたんじゃ」
「原爆の子の像の佐々木禎子さんが入院していたのも、ここ日赤病院でした」
御幸橋
「爆心地から約2.3キロメートルのところにある御幸橋」
「元中国新聞社カメラマンの松重美人さんは、原子爆弾投下から3時間後の午前11時すぎ、ここ御幸橋で市民の惨状を撮影しました」
福屋
「福屋は1929年、広島県で初の百貨店として創業。建物は被爆建造物として今も残っています」
「8月6日は福屋にある映画館、八丁座で映画『この世界の片隅に』昼1時15分の回上映後、片渕須直監督の舞台挨拶があるので見に行ってきた」
「この映画の中で、すずさんが広島市内でスケッチする建物として描かれているのが、ここ福屋です」
「映画『この世界の片隅に』を観終わって外に出ると、雨が降っとった」
「あの日も、広島市内とその周辺で、放射能を帯びた「黒い雨」と呼ばれる雨が降りました」
縮景園原爆犠牲者慰霊碑
「戦後、縮景園を写した写真を手掛かりに1987年発掘調査が行われ、64柱の遺骨が発見されました。その場所にこの慰霊碑が建っています」
「縮景園は江戸時代、藩主・浅野家の別邸として整備され、大正時代から一般に開放されるようになった。戦争中は空襲時の避難先に指定されていたので、被爆直後には多くの被災者が逃れてきた場所でもあるんじゃ」
国鉄原爆死没者慰霊碑
「国鉄(現:JR)では職員400人以上の方が犠牲になったそうです」
「この碑は、中区東白島町、常葉橋西詰北側にある常盤公園内にあるんじゃ」
「それにしても、この日は暑かった」
「最初にも書いたが、この日の広島市中区の最高気温は37.0度で、今年一番の暑さじゃったけぇの」
「72年目、原子爆弾の被害から逃れるため、また原子爆弾に遭った人を探すため、こんな暑い日差しの中、たくさんの方が広島市内を彷徨っちゃったんじゃろうね」
「今じゃったら、暑いの~と思うたら、ビルの日陰にも入れるし、ビルに入れば冷房が効いとる」
「あのときは一面焼け野原じゃけぇ、日陰なんかもほとんどなかったじゃろう」
「歩くのがしんどうなりゃ、バスや電車、タクシーで移動することもできる」
「この日は、一部市内電車で移動したりしました」
「今回、途中で映画を観たりしたけぇ、合わせて6時間も歩いとらんが、足が棒になって、湿布を貼りまくらんと寝れんかったもんの」
訪問日:2017年8月6日
「今日は、72年目のヒロシマということで、広島市内にある慰霊碑について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
アメリカによる原子爆弾投下から72年
広島市内にある慰霊碑
中國新聞 号外
「1週間前の2017年8月6日、広島は72回目の原爆の日を迎え、広島市中区にある平和記念公園では平和記念式典が行われました」
「あの日も暑い一日じゃったが、この日の広島市中区の最高気温は37.0度と、今年一番の暑さを記録した一日じゃった」
「今日は、広島市内にある原爆に関する慰霊碑を紹介していこうと思います」
「まずは、平和記念公園とその近くにある慰霊碑を、北から南へと紹介していこうかの」
中国・四国土木出張所職員殉職碑
「原子爆弾が投下された1945年8月6日当時、内務省中国・四国土木出張所が広島県産業奨励館(現:原爆ドーム)の中にあって、52名の方が殉職されました」
「爆心地から160メートルのところにあるこの建物は、内務省中国・四国土木出張所のほか、広島県地方木材・日本木材広島支社など、行政機関や統制組合の事務所として使われとったんじゃの」
「本来は、広島県の産業を奨励するための広島県物産陳列館として建てられたんじゃけどね」
動員学徒慰霊塔
「原爆が投下された日、広島市内で建物疎開作業を行っていた8,000人以上の生徒のうち、約6,300人が犠牲になったといわれます」
「戦争末期、中学生以上の学生は軍需工場などでの勤労奉仕や、空襲による延焼を防ぐために民家などの建物を取り壊して防火地帯をつくる建物疎開などの作業を強制的にやらされとったんじゃの」
原爆供養塔
「ここでは、原子爆弾投下で亡くなった引き取り手のない遺骨を、文字どおり「供養」しています」
「亡くなった方の身元が分からんけぇ、いろんな宗教による慰霊祭が、時間をずらして行われとるんじゃ」
韓国人原爆犠牲者慰霊碑
「原子爆弾が投下されたとき、広島市内には数万人にのぼる朝鮮人がいて、約2万人が被爆したといわれています」
「このころの日本は、朝鮮や台湾、中国や東南アジアを植民地にしとって、そこから強制的に連れてこられた人がおられたんじゃ」
原爆の子の像
「原爆の子の像は、白血病のため1955年に12歳で亡くなった、被爆者の佐々木禎子さんの霊を慰めるために建てられました」
「禎子さんは、「鶴を千羽折ると病気が治る」と信じて、薬の包み紙や包装紙などで1300羽以上の鶴を折ったそうじゃ」
「原爆の子の像には、今でも世界各国から折り鶴が捧げられています」
原爆死没者慰霊碑
旧天神町北組慰霊碑
「今、広島平和記念公園がある中島町は、中島本町・材木町・天神町・元柳町・木挽町・中島新町と呼ばれる町がある、広島の繁華街でした」
「縦に長くのびている天神町は、今の平和大通りあたりで南北に分かれとったけぇ、ここは天神町北組と呼ばれとったそうじゃ」
「爆心地に近い天神町は、原爆の直撃を受けて全壊・全焼したそうです」
峠三吉詩碑
「詩人の峠三吉は、爆心地から約3キロメートル離れた翠町の自宅で被爆しました。28歳の時だそうです」
「1951年『原爆詩集』を自費出版されたんじゃが、その序文として書かれたのが、「にんげんをかえせ」で知られる以下の詩じゃ」
ちちをかえせ
ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ
わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの
にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
マルセル・ジュノー博士記念碑
「マルセル・ジュノー博士は、赤十字国際委員会の駐日主席代表として来日。1945年8月9日、GHQと交渉して調達した約15トンの医薬品を持って広島にやってきました」
「この約15トンの医薬品は、約1万人の被災者を1ヶ月治療できる量じゃったといわれとるんじゃの」
ノーマン・カズンズ氏記念碑
「ノーマン・カズンズ氏は、原爆で親を失った孤児たちのために、アメリカ人の精神養子として育てようという運動をおこしました。約500人の子どもが精神養子になって、総額2,000万円の援助が行われたといわれています」
「氏は、原爆によって顔や体にケロイドが残る原爆乙女を、アメリカで治療を受けさせるなどの運動もされとってんじゃ」
嵐の中の母子像
「嵐の中の母子像は、広島市婦人会連合会が1口20円の募金活動で150万円を集めて建てられたものです」
「このの母子像は、原爆の惨禍の中、右腕で赤ん坊をしっかと抱き、伸ばした左腕で幼児を背負っとる母親を表現されとるそうじゃ」
原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑
「戦争末期、今の小学校にあたる国民学校初等科の3年生以上の児童は、空襲を避けるため都市部近くの農村部へと強制的に疎開させられました」
「そのため、親元に残された初等科の1・2年生と、建物疎開作業に従事させられた、今の小学校にあたる国民学校高等科の生徒が、原爆の犠牲になった」
「犠牲となった教師が約200名、子どもが約2,000名といわれています」
「疎開させられて生き延びたものの、親や親せきを原爆で亡くした子どもたちは、2,000人とも6,500人ともいわれとるんじゃの」
義勇隊の碑(安佐郡佐東町川内温井義勇隊の碑)
「原子爆弾が投下された当日、広島市の郊外にある川内村の義勇隊員が中島新町付近で建物疎開作業をしていました。爆心地に近いということもあって、義勇隊250人の全員が亡くなり、そのうち川内村の温井地区は180人の方が犠牲になりました」
「戦争末期、政府は本土決戦に備えて、全国各地で職場・学校・地域を単位として国民義勇隊を編成。男子は15歳から60歳まで、女子は17歳から40歳までの全国民が義勇隊に組み込まれとったんじゃ」
広島二中原爆慰霊碑
「原子爆弾が投下された当日、川内村の義勇隊と同じく、中島本町では広島二中(現:広島県立観音高校)の生徒たちも建物疎開作業に従事していました」
「生徒と職員は近くを流れる本川河岸に整列して訓示中に被爆、そのほとんどが即死で、306人の方が亡くなられたそうじゃ」
広島市商・造船工業学校慰霊碑
「原子爆弾が投下された当日、爆心地に近い材木町で建物疎開作業に従事していた市立造船工業学校の1年生195人、職員5人の方が亡くなりました」
「造船工業学校は、今の広島市立商業高校になるんじゃの」
「ここで平和公園から出て、100メートル道路を渡って南側へ…」
広島市立高女原爆慰霊碑
「原子爆弾が投下された当日、爆心地に近い材木町から木挽町あたりで建物疎開作業に従事していた広島市立高女(現:広島市立舟入高校)の1、2年生541人、職員10人、全員が亡くなりました」
「この学校では他の動員先を含めて676人が被爆死。これは市内の学校で最も多くの犠牲者になっとるそうじゃ」
「…この写真は?」
「お年寄りの方が碑の前でバイオリンを弾いておられたんじゃが、ええ音色じゃったんで、しばし聞きほれてしもうた」
旧天神町南組慰霊碑
友愛碑
「原子爆弾が投下されたとき、損害保険会社の多くが今の平和記念公園近くにあったため、約200人いた職員のうち、79人の方がその年の12月までに亡くなったといわれています」
↓平和記念公園とその周辺の慰霊碑・祈念碑については、こちら↓
「バーチャルツアー」広島平和記念資料館
広島県職員原爆犠牲者慰霊碑
「平和記念公園から本川に沿って南へ歩いて行くと、アステールプラザあたりに広島県職員原爆犠牲者慰霊碑がある」
「木造だった広島県庁舎は原爆で全焼。職員の多くは即死か倒壊物の下敷きとなったまま焼死し、1,100人の方が犠牲になりました」
原爆殉職職員慰霊碑
「爆心地から約1.5キロメートルのところにある広島赤十字病院では、職員51人の方が犠牲になりました。生き残った医師・看護婦たちによって、多くの被爆者に救護活動を行われました」
「2013年、病院の改築に伴って、病院内にあった慰霊碑は近くのメモリアルパークに移設されたんじゃ」
「原爆の子の像の佐々木禎子さんが入院していたのも、ここ日赤病院でした」
御幸橋
「爆心地から約2.3キロメートルのところにある御幸橋」
「元中国新聞社カメラマンの松重美人さんは、原子爆弾投下から3時間後の午前11時すぎ、ここ御幸橋で市民の惨状を撮影しました」
福屋
「福屋は1929年、広島県で初の百貨店として創業。建物は被爆建造物として今も残っています」
「8月6日は福屋にある映画館、八丁座で映画『この世界の片隅に』昼1時15分の回上映後、片渕須直監督の舞台挨拶があるので見に行ってきた」
「この映画の中で、すずさんが広島市内でスケッチする建物として描かれているのが、ここ福屋です」
「映画『この世界の片隅に』を観終わって外に出ると、雨が降っとった」
「あの日も、広島市内とその周辺で、放射能を帯びた「黒い雨」と呼ばれる雨が降りました」
縮景園原爆犠牲者慰霊碑
「戦後、縮景園を写した写真を手掛かりに1987年発掘調査が行われ、64柱の遺骨が発見されました。その場所にこの慰霊碑が建っています」
「縮景園は江戸時代、藩主・浅野家の別邸として整備され、大正時代から一般に開放されるようになった。戦争中は空襲時の避難先に指定されていたので、被爆直後には多くの被災者が逃れてきた場所でもあるんじゃ」
国鉄原爆死没者慰霊碑
「国鉄(現:JR)では職員400人以上の方が犠牲になったそうです」
「この碑は、中区東白島町、常葉橋西詰北側にある常盤公園内にあるんじゃ」
「それにしても、この日は暑かった」
「最初にも書いたが、この日の広島市中区の最高気温は37.0度で、今年一番の暑さじゃったけぇの」
「72年目、原子爆弾の被害から逃れるため、また原子爆弾に遭った人を探すため、こんな暑い日差しの中、たくさんの方が広島市内を彷徨っちゃったんじゃろうね」
「今じゃったら、暑いの~と思うたら、ビルの日陰にも入れるし、ビルに入れば冷房が効いとる」
「あのときは一面焼け野原じゃけぇ、日陰なんかもほとんどなかったじゃろう」
「歩くのがしんどうなりゃ、バスや電車、タクシーで移動することもできる」
「この日は、一部市内電車で移動したりしました」
「今回、途中で映画を観たりしたけぇ、合わせて6時間も歩いとらんが、足が棒になって、湿布を貼りまくらんと寝れんかったもんの」
訪問日:2017年8月6日
「今日は、72年目のヒロシマということで、広島市内にある慰霊碑について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」