通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

JR広島駅 自由通路開通直前 中央改札口編

2017年05月27日 | 広島の話題
JR広島駅

自由通路開通前日

中央改札口






「JR広島駅では今、在来線ホーム上の2階で南口と北口をつなぐ自由通路の整備が行われとるんじゃ」

「自由通路?」

「自由通路は、鉄道の駅構内で、鉄道を利用せん人でも通り抜けることができる通路のこと。鉄道を利用する人が通るのところは改札内通路と呼ばれとるんじゃの」







「自由通路いうたら、広島駅には地下にある自由通路しかなかったね」

「新しい自由通路が今、在来線ホーム上の2階に整備されとるんじゃ」

「これがいよいよ明日、5月28日に開通!」

「今回は、新しい自由通路と改札内通路を結ぶ中央改札口を紹介していこう」







「ここが新しい自由通路と改札内通路を結ぶ中央改札口じゃ」

「今まで1階の改札口から入って駅構内に入っていたのが、明日からは自由通路からここの改札口を通って駅構内に入っていくんじゃね」

「そういうことになるの」

「上に見える黒い板みたいなのは?」

「発車標(はっしゃひょう)じゃと思うで」

「…発車標?」

「発車標いうたら、電車の発車時刻や行先などを示す表示装置のことじゃ」

「へぇ」

「よく見ると、発車標の下には監視カメラが取り付けてあった」

「右奥の看板に何か書いてあるよ」







「「REBORN HIROSHIMA Sta.」。「広島駅、再生」って意味じゃね」







「気になったのが、自動改札機を15基設置できるようになっとるのが、まだ3個しか設置されとらんかったこと」

「この写真を撮ったのが今朝の9時ころじゃろ?」

「ほうじゃの」

「大丈夫! 今から作業して、今日のうちに取り付けを終わらせてんよ」










「それにしても、白うて高い天井いうのは、開放的な感じがして気持ちええね」







「改札内通路から自由通路を見たところ」







「1番ホームから自由通路を見上げたところ」







「これは?」

「自由通路を作るための補強材じゃろう」

「補強材? 今の広島駅が建てられたのがいつじゃったっけ?」

「今から52年前の1965年(昭和40年)じゃけぇ、今回のように新しい建物を建てるときには、こういう補強材が必要になるんじゃないんかの?」





訪問日:2017年5月27日





「今回は、新しい自由通路と改札内通路を結ぶ中央改札口について話をさせてもらいました」

「次回は、南口の状況を紹介していこう。ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

JR尾関山駅 三次市

2017年05月22日 | 見て歩き
三次(みよし)ぶらり(その4)

JR尾関山駅(おぜきやまえき)

JR三江線(さんこうせん)






「山陰と山陽を結ぶ交通の要衝にあって、「県北の大都会(by:柏村武昭(かしむら たけあき)」と呼ばれる三次の街を紹介するこのシリーズ」

「前回は、巴橋(ともえばし)の西詰にある住吉神社を紹介しました」

「今日は、JR尾関山駅じゃ」





↓前回記事は、こちら↓

住吉神社 三次市







「尾関山駅は、三次駅から三江線に乗って、最初の停車駅になる」

「尾関山駅は、いつできたん?」

「今から62年前の1955年、三江南線(さんこうなんせん)が三次駅と式敷駅(しきじきえき)間で開業したときに設置されたそうじゃ」

「三江南線?」

「尾関山駅ができてから8年後の1963年、三次駅と島根県の口羽駅(くちばえき)を結ぶ三江南線が開通した。それまでに開通しとったのが、江津駅と浜原駅(はまはらえき)間を結ぶ三江北線(さんこうほくせん)なんじゃの」

「三江線って、北と南で分かれとったん?」

「ほうなんよ。これを1975年、北の浜原駅と南の口羽駅間を結ぶことで三江線が無事、全通したんじゃ」

「三江線ってもっと歴史がありそうな気がするんじゃけど?」

「三江線自体は、明治30年代から鉄道敷設運動がおこって、1926年に起工。1930年に江津駅と川戸(かわど)駅間で開業したのが始まりなんじゃそうな」

「いうことは、鉄道を敷いてほしいという運動がおこったのが、今から110年くらい前になるんじゃね」

「で、全線開通したのが、今から42年前の1975年」

「難産の末にようやく全線開通できたというわけか」

「でも、来年、2018年4月1日をもって、全線廃止になるじゃがの」







「尾関山駅は1985年から無人駅で、窓口じゃったところには板が貼られとる」







「待合室はきれいにしてあるね」







「時刻表を見ると、上り線・下り線とも、1日5便ずつしかないんじゃの」

「左上にある「F」の記号は?」

「2016年、米子支社が路線記号とラインカラーを導入した。路線記号は山陰本線を「A」、因美線(いんびせん)を「B」とアルファベットを振っていって、三江線は「F」に、ラインカラーは「江の川(ごうのかわ)の色」から「水色」になったそうじゃ」

「そういや、三江線には「江の川鉄道」いう愛称があるよね」

「三江線は、三次-江津間を、江の川に沿うような形で結んどるけぇの」







駅名標(えきめいひょう)

「尾関山駅は、桜で有名な尾関山公園の近くにあるんよね」

「秋は紅葉狩りでも有名じゃ」





↓尾関山公園については、こちら↓

「尾関山公園」三次市観光公式サイト







「駅のホームから三次方面と…」







「江津方面を見る」

「尾関山駅のホームってけっこう長いね」







「尾関山駅は、尾関山公園の紅葉と、石見神楽にちなんだ「紅葉狩(もみじがり)」の愛称がつけられとるんじゃの」





↓神楽「紅葉狩」については、こちら↓

「紅葉狩(もみじがり)【新舞】」高井神楽団演目



















三次市観光協会の前に立ててあった幟





↓三江線については、こちら↓

ぶらり三江線WEB





訪問日:2017年4月16日





「今日は、JR尾関山駅について話をさせてもらいました」

「次回は、浅野家の菩提寺(ぼだいじ)・鳳源寺(ほうげんじ)を紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒ネコのタンゴ

2017年05月21日 | 音楽
黒ネコのタンゴ

皆川(みながわ)おさむさん

だんご3兄弟






「NHKラジオの「ラジオ深夜便」の今朝午前3時台「昭和歌年鑑・昭和45年の流行歌」で、皆川おさむさんが歌う『黒ネコのタンゴ』がかかった」

「うわぁ、懐かしい。『黒ネコのタンゴ』って、何枚くらい売れたんじゃったっけ?」

「ウィキペディアによると、昭和44年(1969年)10月5日に発売されるとオリコンで14週連続1位を記録、260万枚を売り上げる大ヒットになったそうじゃ」

「へぇ」

「皆川さんは1963年1月生まれじゃけぇ、6歳のときにレコーディングされとってんじゃ」

「皆川さんは、お父さんと同じ年なんじゃね」

「わしは5月生まれじゃけぇ、皆川さんの方が学年は1つ上になるんじゃがの」

「『黒ネコのタンゴ』で思い出したけど、イタリアに「ゼッキーノ・ドーロ」いう童謡コンテストがあって、『黒ネコのタンゴ』の原曲はここで入賞した曲なんよ」







黒ネコのタンゴのレコード



「そういや、レコードには「黒ネコのタンゴ」のタイトルの下に、「VOLEVO UNGATTONERO」と書いてあるで」

「「Volevo un gatto(=ネコ) nero(=黒い).」。「僕は1匹の黒いネコが欲しい」っていう意味じゃね」

「おぉ、イタリア語はお手の物じゃの」

「ウィキペディアには、オリジナルの歌詞は「本物のアリゲーターやキリン、ゾウ、動物園丸ごとあげるから、代わりに黒ネコがほしいと言ったのに、友達がくれたのは白ネコだった、嘘をついたんだからもう遊んであげない」という内容って書いてあるよ」

「歌詞は、「君はかわいい ぼくの黒ネコ 赤いリボンがよくにあうよ」(作詞:見尾田みずほ)なんじゃが、息継ぎの関係で「君はかわい いぼくの黒ネ コ赤いリボンが…」と歌っているのを聞くと、子ども心に「歌いづらそうな歌じゃの」って思うたもんじゃ」

「そういや、『だんご3兄弟』が発売されたとき(1999年)も、同じ「タンゴ」ということでこの曲も脚光を浴びたね」

「皆川さんも、『黒ネコのタンゴ』『だんご3兄弟』とカップリングでシングルを出されとったのう」

「『だんご3兄弟』は、「おかあさんといっしょ」でけんたろうお兄さんとあゆみお姉さんが歌いよって、子どもたちが小さいころに覚えた曲のひとつなんよ」

「この2曲は、わしらと子供らが小さいころに聞いた曲でもあるんじゃの」





↓『黒ネコのタンゴ』の歌については、こちら↓

「黒ネコのタンゴ 皆川おさむ (1969)」YouTube





↓『黒ネコのタンゴ』の考察については、こちら↓

「黒ネコのタンゴ 歌詞と日本語訳」世界の民謡・童謡





↓『だんご3兄弟』については、こちら↓

「だんご3兄弟」YouTube





「今日は、今から47年前の昭和45年に大ヒットした、皆川おさむさんの歌う『黒ネコのタンゴ』について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

才蔵寺

2017年05月20日 | 見て歩き
二葉の里歴史の散歩道ぶらり(その3)

才蔵寺(さいぞうじ)

武将・可児才蔵(かに さいぞう)






「広島市の歴史は、今から400余年前、毛利元就(もうり もとなり)の孫にあたる輝元(てるもと)が太田川デルタに城を築いて、この地を「広島」と名づけたことに始まる」

「毛利輝元、福島正則(ふくしま まさのり)、そして浅野家の歴代の広島藩主は、広島城から見て鬼門(きもん)、東北の方角にあたる二葉の里に、領内鎮護のための神社・仏閣を建てたんよね」

「古いものでは、今から1000年以上前までさかのぼることができる、神社・仏閣・史跡をめぐるコースが「二葉の里歴史の散歩道(以下、「歴史の散歩道」と略す)」として整備されとるんじゃ」

「前回は、岩鼻から才蔵寺前までを紹介させてもらいました」

「今日は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将・可児才蔵を祀った寺・才蔵寺を紹介していこうかの」





↓二葉の里歴史の散歩道については、こちら↓

「二葉の里歴史の散歩道とは」広島市 東区役所





↓前回記事は、こちら↓

岩鼻から才蔵寺前まで







「才蔵寺へつづく急な階段の右側には…」







「四国八十八ケ所霊場の石仏が祀ってある」







「門をくぐると…」











「正面に、甲冑を身につけ、十文字槍を手にした可児才蔵の像があるんじゃ」

「ここ才蔵寺は、福島正則の家臣じゃった可児才蔵を祀る寺なんよ」

「才蔵は戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)の達人じゃった」

「関ケ原の戦いなどで手柄を立てて、「槍の才蔵」とか「笹の才蔵」と呼ばれたんよね」

「「笹の才蔵」いうのは、討ち取った敵の首に笹の葉をつけて目印したことから、そう呼ばれるようになったそうじゃ」







さざれ石(細石)

小さな石が固まって岩となっているものをさざれ石といい

日本国歌の君が代の中では
「千代に八千代にさざれ石の巌となりて 苔のむすまで…」
と歌われ

小さな石が長い間に固まって、大きな岩となり、その上に苔が生えるほどまでに、長く平和で繁栄することを願うおめでたい石でもあります。

(説明板より)








「賽銭箱の前に置いてある「さすり地蔵」」







「因果必然」

「「因果(いんが)」は「原因と結果」のことじゃの」

「原因の「因」に、結果の「果」」

「仏教では、今している行いがのちの運命を決定する、という考え方があるんじゃ」

「善いことをすると極楽に行けるし、悪いことをすると地獄に堕ちる、ってやつじゃね」







生國尾州葉栗郡楽典郷

かにさいざう藤原吉長

于時慶長十八年十一月廿四日




「かにさいざう藤原吉長?」

「「才蔵」というのはとおり名で、本名を「吉長(よしなが)」というんじゃ」

「生国(しょうごく。生まれたところ)が「尾州葉栗郡楽典郷」って書いてあるけど、「尾州」ってどこ?」

「尾州(びしゅう)は尾張国(おわりのくに)、今でいう愛知県の西部で、葉栗郡(はぐりぐん)は尾張にあった郡じゃそうな。余談じゃが、才蔵の主君・福島正則も同じ尾張の出身になるんじゃの」

「へぇ」

「亡くなった日付が「慶長18年(1613年)11月24日」になっとるが、ウィキペディアでは「慶長18年6月24日」になっとったのう」







「東軍・家康側についた正則が、関ヶ原の功績によって広島藩に移ってきたのに伴って、才蔵も広島に来た」

「才蔵は晩年、仏門に入って、人々の脳病の治療に専念したとも、城下の貧しい人たちに栄養価の高い味噌を配って与えたとも言われとるんよ」

「正則は元和5年(1619年)、水害で壊れた広島城を無断で修理したことを問われて、改易(かいえき)を命じられた。広島藩、そのころは安芸・備後2か国で49万8000石あったのが、信濃の高井野藩(たかいのはん)4万5000石と、領地を約10分の1に減らされたんじゃ」

「その時、幕府と一戦交えることになるかもしれんけぇ、食料となるみそを集めたとも言われとるんよね」

「最近では、マスコミで取り上げられることが増えたこともあって、訪れる人が増えとるそうじゃ」

「特に受験シーズンになると多いよね」

「今は、新年度が始まって間もないということもあって、お供えされとる味噌の数も少なかったのう」







「境内から広島市内を眺める」





訪問日:2017年5月7日





↓才蔵寺についての関連記事は、こちら↓

才蔵寺のみそ地蔵と武将・可児才蔵





「今日は、才蔵寺を紹介させてもらいました」

「次回は、三本松と我羅我羅橋(がらがらばし)を紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩鼻から才蔵寺前まで

2017年05月16日 | 見て歩き
二葉の里歴史の散歩道ぶらり(その2)

岩鼻(いわはな)

才蔵寺前の道しるべ






「広島市の歴史は、今から400余年前、毛利元就(もうり もとなり)の孫にあたる輝元(てるもと)が太田川デルタに城を築いて、この地を「広島」と名づけたことに始まる」

「毛利輝元、福島正則(ふくしま まさのり)、そして浅野家の歴代の広島藩主は、広島城から見て鬼門(きもん)、東北の方角にあたる二葉の里に、領内鎮護のための神社・仏閣を建てたんよね」

「古いものでは、今から1000年以上前までさかのぼることができる、神社・仏閣・史跡をめぐるコースが「二葉の里歴史の散歩道(以下、「歴史の散歩道」と略す)」として整備されとるんじゃ」

「前回は、矢賀駅から才蔵峠(さいぞうとうげ)までを紹介させてもらいました」

「今日は、岩鼻から才蔵寺前までを紹介していこうかの」





↓二葉の里歴史の散歩道については、こちら↓

「二葉の里歴史の散歩道とは」広島市 東区役所





↓前回記事は、こちら↓

矢賀駅から才蔵峠まで







「才蔵峠の上からから南へ向かって下って行くと、曙町5丁目(東)交差点の北側に出て…」







「そこに歴史の散歩道の看板が立っている」







「俗巌鼻とよぶ、全山奇巌重畳す、上古海涯にて山骨を露せしものと見ゆ」

(「矢賀奇巌」『芸藩通志』)




「才蔵峠のふもと、曙町5丁目(東)交差点の北側には、昭和のころまで「岩鼻(巌鼻)」と呼ばれる所があったんよ」

「「奇巌(きがん)」は「珍しい形をした大きな岩」、「重畳(ちょうじょう)は「幾重にも重なること」。つまり、このあたりには、珍しい形をした大きな岩が幾重にも重なっとった」

「あったねぇ」

「「岩鼻」とは「岩が突き出た端(はな)」、文字どおり「広島湾に岩が突き出た場所」という意味じゃった」

「むかしは、このあたりまでが海じゃったん?」

「ほうじゃの。才蔵峠で山越えをしていた中世山陽道が、近世山陽道(西国街道)になって、広島湾を干拓して新開地となった岩鼻の南側、平地を通るようになったんじゃの」

「やっぱり、山道より平地の方が通りやすいよね」

「西国街道が整備されて、広島城下の東端を示す大門が、ここ岩鼻に設けられた。あと、広島城を築城するとき、天守台や石垣の石材として、ここ岩鼻の花崗岩が使われたそうじゃ」







「かつて岩鼻があったところを、下から見上げてみる」







「曙町5丁目(東)交差点から、岩鼻があったあたりに向かって登っていくと才蔵峠の上に着く。そこから峠を下って行くと…」







「才蔵寺前に着く」






「右側に交通安全災難除地蔵尊があって」













「左側には道しるべがある」



正面:才蔵峠経テ矢賀村役場迄 七丁

左面:大正六年一月一日
   尾長町青年會第一区建立

右面:呉市       中央迄 六里十八丁
   安芸郡海田市町  仝   一里十二丁
   仝  府中村   仝     廿一丁
   仝  温品村   仝   一里




「矢賀村役場は、尾長から才蔵峠を越えて矢賀に行ったところ、前回出てきた矢賀中央集会所になるんじゃの」

「「丁(ちょう)」って、どのくらいの距離になるん?」

「1丁(町)は約109メートル。1里は36丁になるけぇ、約3.9キロメートルになるんじゃと」





矢賀中央集会所





訪問日:2017年5月2日・7日






【参考文献】下中邦彦/編『日本歴史地名大系35 広島県の地名』(平凡社 1982年)





「今日は、岩鼻から才蔵寺前までを紹介させてもらいました」

「次回は、才蔵寺を紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする