通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

岩鼻から才蔵寺前まで

2017年05月16日 | 見て歩き
二葉の里歴史の散歩道ぶらり(その2)

岩鼻(いわはな)

才蔵寺前の道しるべ






「広島市の歴史は、今から400余年前、毛利元就(もうり もとなり)の孫にあたる輝元(てるもと)が太田川デルタに城を築いて、この地を「広島」と名づけたことに始まる」

「毛利輝元、福島正則(ふくしま まさのり)、そして浅野家の歴代の広島藩主は、広島城から見て鬼門(きもん)、東北の方角にあたる二葉の里に、領内鎮護のための神社・仏閣を建てたんよね」

「古いものでは、今から1000年以上前までさかのぼることができる、神社・仏閣・史跡をめぐるコースが「二葉の里歴史の散歩道(以下、「歴史の散歩道」と略す)」として整備されとるんじゃ」

「前回は、矢賀駅から才蔵峠(さいぞうとうげ)までを紹介させてもらいました」

「今日は、岩鼻から才蔵寺前までを紹介していこうかの」





↓二葉の里歴史の散歩道については、こちら↓

「二葉の里歴史の散歩道とは」広島市 東区役所





↓前回記事は、こちら↓

矢賀駅から才蔵峠まで







「才蔵峠の上からから南へ向かって下って行くと、曙町5丁目(東)交差点の北側に出て…」







「そこに歴史の散歩道の看板が立っている」







「俗巌鼻とよぶ、全山奇巌重畳す、上古海涯にて山骨を露せしものと見ゆ」

(「矢賀奇巌」『芸藩通志』)




「才蔵峠のふもと、曙町5丁目(東)交差点の北側には、昭和のころまで「岩鼻(巌鼻)」と呼ばれる所があったんよ」

「「奇巌(きがん)」は「珍しい形をした大きな岩」、「重畳(ちょうじょう)は「幾重にも重なること」。つまり、このあたりには、珍しい形をした大きな岩が幾重にも重なっとった」

「あったねぇ」

「「岩鼻」とは「岩が突き出た端(はな)」、文字どおり「広島湾に岩が突き出た場所」という意味じゃった」

「むかしは、このあたりまでが海じゃったん?」

「ほうじゃの。才蔵峠で山越えをしていた中世山陽道が、近世山陽道(西国街道)になって、広島湾を干拓して新開地となった岩鼻の南側、平地を通るようになったんじゃの」

「やっぱり、山道より平地の方が通りやすいよね」

「西国街道が整備されて、広島城下の東端を示す大門が、ここ岩鼻に設けられた。あと、広島城を築城するとき、天守台や石垣の石材として、ここ岩鼻の花崗岩が使われたそうじゃ」







「かつて岩鼻があったところを、下から見上げてみる」







「曙町5丁目(東)交差点から、岩鼻があったあたりに向かって登っていくと才蔵峠の上に着く。そこから峠を下って行くと…」







「才蔵寺前に着く」






「右側に交通安全災難除地蔵尊があって」













「左側には道しるべがある」



正面:才蔵峠経テ矢賀村役場迄 七丁

左面:大正六年一月一日
   尾長町青年會第一区建立

右面:呉市       中央迄 六里十八丁
   安芸郡海田市町  仝   一里十二丁
   仝  府中村   仝     廿一丁
   仝  温品村   仝   一里




「矢賀村役場は、尾長から才蔵峠を越えて矢賀に行ったところ、前回出てきた矢賀中央集会所になるんじゃの」

「「丁(ちょう)」って、どのくらいの距離になるん?」

「1丁(町)は約109メートル。1里は36丁になるけぇ、約3.9キロメートルになるんじゃと」





矢賀中央集会所





訪問日:2017年5月2日・7日






【参考文献】下中邦彦/編『日本歴史地名大系35 広島県の地名』(平凡社 1982年)





「今日は、岩鼻から才蔵寺前までを紹介させてもらいました」

「次回は、才蔵寺を紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」

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