二葉の里歴史の散歩道ぶらり(その3)
才蔵寺(さいぞうじ)
武将・可児才蔵(かに さいぞう)
「広島市の歴史は、今から400余年前、毛利元就(もうり もとなり)の孫にあたる輝元(てるもと)が太田川デルタに城を築いて、この地を「広島」と名づけたことに始まる」
「毛利輝元、福島正則(ふくしま まさのり)、そして浅野家の歴代の広島藩主は、広島城から見て鬼門(きもん)、東北の方角にあたる二葉の里に、領内鎮護のための神社・仏閣を建てたんよね」
「古いものでは、今から1000年以上前までさかのぼることができる、神社・仏閣・史跡をめぐるコースが「二葉の里歴史の散歩道(以下、「歴史の散歩道」と略す)」として整備されとるんじゃ」
「前回は、岩鼻から才蔵寺前までを紹介させてもらいました」
「今日は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将・可児才蔵を祀った寺・才蔵寺を紹介していこうかの」
↓二葉の里歴史の散歩道については、こちら↓
「二葉の里歴史の散歩道とは」広島市 東区役所
↓前回記事は、こちら↓
岩鼻から才蔵寺前まで
「才蔵寺へつづく急な階段の右側には…」
「四国八十八ケ所霊場の石仏が祀ってある」
「門をくぐると…」
「正面に、甲冑を身につけ、十文字槍を手にした可児才蔵の像があるんじゃ」
「ここ才蔵寺は、福島正則の家臣じゃった可児才蔵を祀る寺なんよ」
「才蔵は戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)の達人じゃった」
「関ケ原の戦いなどで手柄を立てて、「槍の才蔵」とか「笹の才蔵」と呼ばれたんよね」
「「笹の才蔵」いうのは、討ち取った敵の首に笹の葉をつけて目印したことから、そう呼ばれるようになったそうじゃ」
さざれ石(細石)
小さな石が固まって岩となっているものをさざれ石といい
日本国歌の君が代の中では
「千代に八千代にさざれ石の巌となりて 苔のむすまで…」
と歌われ
小さな石が長い間に固まって、大きな岩となり、その上に苔が生えるほどまでに、長く平和で繁栄することを願うおめでたい石でもあります。
(説明板より)
「賽銭箱の前に置いてある「さすり地蔵」」
「因果必然」
「「因果(いんが)」は「原因と結果」のことじゃの」
「原因の「因」に、結果の「果」」
「仏教では、今している行いがのちの運命を決定する、という考え方があるんじゃ」
「善いことをすると極楽に行けるし、悪いことをすると地獄に堕ちる、ってやつじゃね」
生國尾州葉栗郡楽典郷
かにさいざう藤原吉長
于時慶長十八年十一月廿四日
「かにさいざう藤原吉長?」
「「才蔵」というのはとおり名で、本名を「吉長(よしなが)」というんじゃ」
「生国(しょうごく。生まれたところ)が「尾州葉栗郡楽典郷」って書いてあるけど、「尾州」ってどこ?」
「尾州(びしゅう)は尾張国(おわりのくに)、今でいう愛知県の西部で、葉栗郡(はぐりぐん)は尾張にあった郡じゃそうな。余談じゃが、才蔵の主君・福島正則も同じ尾張の出身になるんじゃの」
「へぇ」
「亡くなった日付が「慶長18年(1613年)11月24日」になっとるが、ウィキペディアでは「慶長18年6月24日」になっとったのう」
「東軍・家康側についた正則が、関ヶ原の功績によって広島藩に移ってきたのに伴って、才蔵も広島に来た」
「才蔵は晩年、仏門に入って、人々の脳病の治療に専念したとも、城下の貧しい人たちに栄養価の高い味噌を配って与えたとも言われとるんよ」
「正則は元和5年(1619年)、水害で壊れた広島城を無断で修理したことを問われて、改易(かいえき)を命じられた。広島藩、そのころは安芸・備後2か国で49万8000石あったのが、信濃の高井野藩(たかいのはん)4万5000石と、領地を約10分の1に減らされたんじゃ」
「その時、幕府と一戦交えることになるかもしれんけぇ、食料となるみそを集めたとも言われとるんよね」
「最近では、マスコミで取り上げられることが増えたこともあって、訪れる人が増えとるそうじゃ」
「特に受験シーズンになると多いよね」
「今は、新年度が始まって間もないということもあって、お供えされとる味噌の数も少なかったのう」
「境内から広島市内を眺める」
訪問日:2017年5月7日
↓才蔵寺についての関連記事は、こちら↓
才蔵寺のみそ地蔵と武将・可児才蔵
「今日は、才蔵寺を紹介させてもらいました」
「次回は、三本松と我羅我羅橋(がらがらばし)を紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
才蔵寺(さいぞうじ)
武将・可児才蔵(かに さいぞう)
「広島市の歴史は、今から400余年前、毛利元就(もうり もとなり)の孫にあたる輝元(てるもと)が太田川デルタに城を築いて、この地を「広島」と名づけたことに始まる」
「毛利輝元、福島正則(ふくしま まさのり)、そして浅野家の歴代の広島藩主は、広島城から見て鬼門(きもん)、東北の方角にあたる二葉の里に、領内鎮護のための神社・仏閣を建てたんよね」
「古いものでは、今から1000年以上前までさかのぼることができる、神社・仏閣・史跡をめぐるコースが「二葉の里歴史の散歩道(以下、「歴史の散歩道」と略す)」として整備されとるんじゃ」
「前回は、岩鼻から才蔵寺前までを紹介させてもらいました」
「今日は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将・可児才蔵を祀った寺・才蔵寺を紹介していこうかの」
↓二葉の里歴史の散歩道については、こちら↓
「二葉の里歴史の散歩道とは」広島市 東区役所
↓前回記事は、こちら↓
岩鼻から才蔵寺前まで
「才蔵寺へつづく急な階段の右側には…」
「四国八十八ケ所霊場の石仏が祀ってある」
「門をくぐると…」
「正面に、甲冑を身につけ、十文字槍を手にした可児才蔵の像があるんじゃ」
「ここ才蔵寺は、福島正則の家臣じゃった可児才蔵を祀る寺なんよ」
「才蔵は戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)の達人じゃった」
「関ケ原の戦いなどで手柄を立てて、「槍の才蔵」とか「笹の才蔵」と呼ばれたんよね」
「「笹の才蔵」いうのは、討ち取った敵の首に笹の葉をつけて目印したことから、そう呼ばれるようになったそうじゃ」
さざれ石(細石)
小さな石が固まって岩となっているものをさざれ石といい
日本国歌の君が代の中では
「千代に八千代にさざれ石の巌となりて 苔のむすまで…」
と歌われ
小さな石が長い間に固まって、大きな岩となり、その上に苔が生えるほどまでに、長く平和で繁栄することを願うおめでたい石でもあります。
(説明板より)
「賽銭箱の前に置いてある「さすり地蔵」」
「因果必然」
「「因果(いんが)」は「原因と結果」のことじゃの」
「原因の「因」に、結果の「果」」
「仏教では、今している行いがのちの運命を決定する、という考え方があるんじゃ」
「善いことをすると極楽に行けるし、悪いことをすると地獄に堕ちる、ってやつじゃね」
生國尾州葉栗郡楽典郷
かにさいざう藤原吉長
于時慶長十八年十一月廿四日
「かにさいざう藤原吉長?」
「「才蔵」というのはとおり名で、本名を「吉長(よしなが)」というんじゃ」
「生国(しょうごく。生まれたところ)が「尾州葉栗郡楽典郷」って書いてあるけど、「尾州」ってどこ?」
「尾州(びしゅう)は尾張国(おわりのくに)、今でいう愛知県の西部で、葉栗郡(はぐりぐん)は尾張にあった郡じゃそうな。余談じゃが、才蔵の主君・福島正則も同じ尾張の出身になるんじゃの」
「へぇ」
「亡くなった日付が「慶長18年(1613年)11月24日」になっとるが、ウィキペディアでは「慶長18年6月24日」になっとったのう」
「東軍・家康側についた正則が、関ヶ原の功績によって広島藩に移ってきたのに伴って、才蔵も広島に来た」
「才蔵は晩年、仏門に入って、人々の脳病の治療に専念したとも、城下の貧しい人たちに栄養価の高い味噌を配って与えたとも言われとるんよ」
「正則は元和5年(1619年)、水害で壊れた広島城を無断で修理したことを問われて、改易(かいえき)を命じられた。広島藩、そのころは安芸・備後2か国で49万8000石あったのが、信濃の高井野藩(たかいのはん)4万5000石と、領地を約10分の1に減らされたんじゃ」
「その時、幕府と一戦交えることになるかもしれんけぇ、食料となるみそを集めたとも言われとるんよね」
「最近では、マスコミで取り上げられることが増えたこともあって、訪れる人が増えとるそうじゃ」
「特に受験シーズンになると多いよね」
「今は、新年度が始まって間もないということもあって、お供えされとる味噌の数も少なかったのう」
「境内から広島市内を眺める」
訪問日:2017年5月7日
↓才蔵寺についての関連記事は、こちら↓
才蔵寺のみそ地蔵と武将・可児才蔵
「今日は、才蔵寺を紹介させてもらいました」
「次回は、三本松と我羅我羅橋(がらがらばし)を紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
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