「広島県にある、平清盛ゆかりの地を紹介するシリーズの第7弾」
「前回は、呉市音戸町(おんどちょう)にある御所の浦(ごしょのうら)じゃったね」
「清盛が音戸の瀬戸を切り開いた時、この場所に仮の御殿を建てて、工事を見守ったという場所じゃったよの」
↓御所の浦についての関連記事は、こちら↓
御所の浦 呉市音戸町
「ほいで今回は?」
「広島市東区山根町(やまねちょう)にある尾長天満宮(おながてんまんぐう)なんじゃ」
「えぇ、すぐ近所じゃん!?」
「ほうなんよ。わしも最近まで知らんかったんじゃがの」
「ほいで、尾長天満宮は平清盛とどういう関係があるんかいね?」
「久安(きゅうあん)2年(1146年)、安芸守(あきのかみ)に任ぜられた平清盛は、厳島神社や音戸の瀬戸を整備したんじゃの」
「その話は聞いたことがあるよ」
「尾長天満宮も、そのころに再建されたと伝えられとるそうじゃ」
「へぇ…」
「まずは入口にある随身門(ずいじんもん)の説明から始めようか」
随身門の由来
この随身門は、今から三四六年前、寛永(かんえい)十七年(水戸黄門の時代)に建立された由緒ある建築物です。
そもそも尾長天満宮は、菅原道真(すがわらのみちざね)公が一〇八五年前ここにお立寄りになられたところですが、後の平安時代、当時安芸の守(あきのかみ)であった平清盛が、この峰にさしかかり、大豪雨と激しい落雷にあい、絶体絶命においつめられたとき、はるかに菅大臣のご加護を祈り、不思議にも九死に一生を得ました。清盛は深く神徳(しんとく)を感じ、この一帯を「菅大臣(かんだいじん)の峰(みね)」と名付け峰に社殿を建立したのがはじまりです。
(現在、この裏山の峰に「古天満宮」の跡として石碑が残っている)
そして今から三四六年前、麓の現在地に社殿・随身門が造営されました。
昭和六十一年三月
尾長天満宮
尾長天満宮 随身門の由来の看板
尾長天満宮 随身門
「清盛がここに立ち寄った時、絶体絶命のピンチに陥(おちい)ったんじゃが、九死に一生を得た。ほいで、ここらあたり一帯を「菅大臣の峰」と名付けて、社殿を建立したのが尾長天満宮のはじまりじゃそうな」
「「菅大臣(かんだいじん)」いうたら、誰のことかいね?」
「菅原道真のことじゃの」
「そうか。天満宮(てんまんぐう)いうたら、菅原道真を祀(まつ)った神社じゃったね。随身いうたら、ひな飾りにも左大臣、右大臣として飾られとるよね」
「ひな壇では、向かって右に老人の左大臣を、向かって左に若者の右大臣を置いとるよの」
尾長天満宮 随身門の左大臣
尾長天満宮 随身門の右大臣
↓ひな飾りについての関連記事は、こちら↓
知ってた? ひな人形とひな道具
「さっきの「随身門の由来」にもあったように、寛永17年(1640年)に現在の場所に尾長天満宮が建てられたんじゃ」
「「水戸黄門の時代」とあったけど、水戸黄門が生きとったのはいつ頃のことかいね?」
「水戸藩主でもあった、水戸黄門こと徳川光圀(とくがわ みつくに)は、寛永5年(1628年)に生まれて、元禄(げんろく)13年(1701年)に亡くなられたんじゃ」
「ということは、現在の場所に尾長天満宮が建てられたのは、徳川光圀が数え年で13歳の時ということになるわけじゃね」
「テレビの『水戸黄門』では、「ここにおわす方をどなたと心得る! 先の副将軍・水戸光圀公にあらせられるぞ!!」というセリフがあったよのう」
「助さんが「静まれ! 静まれ!!」と言ったあと、格さんがこのセリフを言って、印籠(いんろう)を取り出すんよね」
「「副将軍」という役職がわからんかったけぇ、ちょっと調べてみたんじゃ」
豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府が開かれたが、幕府内に「副将軍」という役職はなく、江戸時代において副将軍が任ぜられることは一度もなかった。
しかし、徳川御三家の一角である水戸藩主は天下の副将軍または水戸の副将軍と称されることが多い。
これは、水戸藩主の地位が他の大名と違って、参勤交代せずに常に江戸に留まる定府(じょうふ)が義務付けられていたこと、将軍の補佐役としての色彩が強かったことなどから、そのように呼ばれるようになったとされる。
(「副将軍」ウィキペディア)
「「副将軍」という役職は、実際にはなかったんじゃね?」
「水戸藩は将軍の補佐役じゃたことから、幕府もこの俗称を半ば黙認とったそうなんよ。江戸時代、講談師が徳川光圀を「天下の副将軍」とたとえても、取り締まられることはなかったそうじゃ」
「水戸黄門の話が長くなったね」
「おぉ。肝心の、平清盛の時代に社殿が建てられとった場所を紹介しとらんかったわい。尾長天満宮の本殿に向かって右側に進んで、ここの鳥居をくぐって進むと…」
「この水路の左側に、平清盛が建てた社殿があったそうじゃ」
平清盛 社殿建立の地 看板
「この奥には、菅原道真腰掛石もあるんよね」
道真公腰掛石
訪問日:2012年(平成24年)6月7日
↓尾長天満宮については、こちら↓
「尾長天満宮」ひろしま清盛 公式サイト
↓清盛と広島県についての関連記事は、こちら↓
日招き岩 呉市警固屋
疱瘡神社 広島市南区
清盛神社 廿日市市宮島
「今日は、尾長天満宮と平清盛ということで、広島市東区山根町にある尾長天満宮について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
「前回は、呉市音戸町(おんどちょう)にある御所の浦(ごしょのうら)じゃったね」
「清盛が音戸の瀬戸を切り開いた時、この場所に仮の御殿を建てて、工事を見守ったという場所じゃったよの」
↓御所の浦についての関連記事は、こちら↓
御所の浦 呉市音戸町
「ほいで今回は?」
「広島市東区山根町(やまねちょう)にある尾長天満宮(おながてんまんぐう)なんじゃ」
「えぇ、すぐ近所じゃん!?」
「ほうなんよ。わしも最近まで知らんかったんじゃがの」
「ほいで、尾長天満宮は平清盛とどういう関係があるんかいね?」
「久安(きゅうあん)2年(1146年)、安芸守(あきのかみ)に任ぜられた平清盛は、厳島神社や音戸の瀬戸を整備したんじゃの」
「その話は聞いたことがあるよ」
「尾長天満宮も、そのころに再建されたと伝えられとるそうじゃ」
「へぇ…」
「まずは入口にある随身門(ずいじんもん)の説明から始めようか」
随身門の由来
この随身門は、今から三四六年前、寛永(かんえい)十七年(水戸黄門の時代)に建立された由緒ある建築物です。
そもそも尾長天満宮は、菅原道真(すがわらのみちざね)公が一〇八五年前ここにお立寄りになられたところですが、後の平安時代、当時安芸の守(あきのかみ)であった平清盛が、この峰にさしかかり、大豪雨と激しい落雷にあい、絶体絶命においつめられたとき、はるかに菅大臣のご加護を祈り、不思議にも九死に一生を得ました。清盛は深く神徳(しんとく)を感じ、この一帯を「菅大臣(かんだいじん)の峰(みね)」と名付け峰に社殿を建立したのがはじまりです。
(現在、この裏山の峰に「古天満宮」の跡として石碑が残っている)
そして今から三四六年前、麓の現在地に社殿・随身門が造営されました。
昭和六十一年三月
尾長天満宮
尾長天満宮 随身門の由来の看板
尾長天満宮 随身門
「清盛がここに立ち寄った時、絶体絶命のピンチに陥(おちい)ったんじゃが、九死に一生を得た。ほいで、ここらあたり一帯を「菅大臣の峰」と名付けて、社殿を建立したのが尾長天満宮のはじまりじゃそうな」
「「菅大臣(かんだいじん)」いうたら、誰のことかいね?」
「菅原道真のことじゃの」
「そうか。天満宮(てんまんぐう)いうたら、菅原道真を祀(まつ)った神社じゃったね。随身いうたら、ひな飾りにも左大臣、右大臣として飾られとるよね」
「ひな壇では、向かって右に老人の左大臣を、向かって左に若者の右大臣を置いとるよの」
尾長天満宮 随身門の左大臣
尾長天満宮 随身門の右大臣
↓ひな飾りについての関連記事は、こちら↓
知ってた? ひな人形とひな道具
「さっきの「随身門の由来」にもあったように、寛永17年(1640年)に現在の場所に尾長天満宮が建てられたんじゃ」
「「水戸黄門の時代」とあったけど、水戸黄門が生きとったのはいつ頃のことかいね?」
「水戸藩主でもあった、水戸黄門こと徳川光圀(とくがわ みつくに)は、寛永5年(1628年)に生まれて、元禄(げんろく)13年(1701年)に亡くなられたんじゃ」
「ということは、現在の場所に尾長天満宮が建てられたのは、徳川光圀が数え年で13歳の時ということになるわけじゃね」
「テレビの『水戸黄門』では、「ここにおわす方をどなたと心得る! 先の副将軍・水戸光圀公にあらせられるぞ!!」というセリフがあったよのう」
「助さんが「静まれ! 静まれ!!」と言ったあと、格さんがこのセリフを言って、印籠(いんろう)を取り出すんよね」
「「副将軍」という役職がわからんかったけぇ、ちょっと調べてみたんじゃ」
豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府が開かれたが、幕府内に「副将軍」という役職はなく、江戸時代において副将軍が任ぜられることは一度もなかった。
しかし、徳川御三家の一角である水戸藩主は天下の副将軍または水戸の副将軍と称されることが多い。
これは、水戸藩主の地位が他の大名と違って、参勤交代せずに常に江戸に留まる定府(じょうふ)が義務付けられていたこと、将軍の補佐役としての色彩が強かったことなどから、そのように呼ばれるようになったとされる。
(「副将軍」ウィキペディア)
「「副将軍」という役職は、実際にはなかったんじゃね?」
「水戸藩は将軍の補佐役じゃたことから、幕府もこの俗称を半ば黙認とったそうなんよ。江戸時代、講談師が徳川光圀を「天下の副将軍」とたとえても、取り締まられることはなかったそうじゃ」
「水戸黄門の話が長くなったね」
「おぉ。肝心の、平清盛の時代に社殿が建てられとった場所を紹介しとらんかったわい。尾長天満宮の本殿に向かって右側に進んで、ここの鳥居をくぐって進むと…」
「この水路の左側に、平清盛が建てた社殿があったそうじゃ」
平清盛 社殿建立の地 看板
「この奥には、菅原道真腰掛石もあるんよね」
道真公腰掛石
訪問日:2012年(平成24年)6月7日
↓尾長天満宮については、こちら↓
「尾長天満宮」ひろしま清盛 公式サイト
↓清盛と広島県についての関連記事は、こちら↓
日招き岩 呉市警固屋
疱瘡神社 広島市南区
清盛神社 廿日市市宮島
「今日は、尾長天満宮と平清盛ということで、広島市東区山根町にある尾長天満宮について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」