通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

映画『TOMORROW/明日』 広島市映像文化ライブラリー

2011年08月24日 | まんが・テレビ・映画
「先週の金曜日、8月19日は映像文化ライブラリーで『TOMORROW/明日』(1988年)という映画を観てきたんじゃ」

「どんな映画なん?」

「1945年(昭和20)8月8日に長崎で行われた、ある結婚式に参列した人々のありふれた日常生活を、翌日に原爆が落とされる瞬間まで、並行的に、淡々と描いた映画じゃの」

「長崎に原爆が落とされる前の話なんじゃね」

「原爆が投下された後のことには一切触れとらんのじゃ」

「ふーん。そういう話の展開の仕方もあるんじゃね」



「映画は、工員の中川(演:佐野史郎)と、看護婦のヤエ(演:南果歩)の結婚式に集まってくる人たちを描くところから始まるんじゃ」

「あのころの結婚式って、どんな食べ物が出たんかね?」

「細かいことはわからんが、精一杯のごちそうを出されとったと思うで。中川は自分の時計を売ったお金で、鯛の尾頭(おかしら)つきを買うて来とっちゃったんじゃ。ほいじゃけぇ、「鯛を口に入れたら、カチカチ音がするかも…」と言われとったがの」

「お金を出せば、ちゃんとした鯛も買えたんじゃね。そういや、結婚式の途中で空襲警報が出たらどうするんじゃろうか?」

「防空壕に逃げるしかないじゃろうの。ほいじゃけぇ、空襲警報が出んうちに粛々(しゅくしゅく)と式を済ませ、記念写真を撮っておわり、というわけじゃ」

「結婚式も無事に終わって一安心、というところじゃろうね」



「その結婚式の途中で産気づくのが、ヤエの姉のツル子(演:桃井かおり)なんじゃ」

「結婚式の次は出産か。忙しいね」

「先に家に帰って休むんじゃが、その日の夕方、母親(演:馬渕晴子)が炊いてくれた小豆をおいしそうに食べるシーンがえかったのう」

「甘いもんが手に入りにくい時代じゃ、おいしかったじゃろうね」

「さて、この小豆はどうやって手に入れたでしょうか?」

「娘のために、ヤミで買うてきた」

「ブー。はずれ」

「うーん……」

「実は、身近なところに使うてあるんじゃが、わしゃ気がつかんかった。女性ならわかるんじゃないんかのう?」

「えー、ひょっとしてお手玉とか?」

「ピンポン! 正解じゃ」

「なるほど。お手玉の中には小豆を入れとるもんね。で、出産の方はどうなったん?」

「8月9日の早朝、無事に男の子を産むんじゃ」

「やれやれじゃね。ご苦労さんでした」



「結婚式の夜、中川はヤエに母親の形見の指輪を渡すんじゃの」

「こんな時代でも、ちゃんと指輪を渡しちゃったんじゃね」

「ほいで、中川が「母のことを聞いてもらいたい」と言いかけるんじゃが、「電報!」の声に邪魔されて、言うことができんかったんじゃ」

「普通なら「また今度」ですむんじゃろうけど、この映画を観とる人は、この人たちに「明日」がないということを知っとるけぇね」

「ほいじゃけぇ、映画の中の人たちが「明日」という言葉を使うのを聞くと、何ともいえん気持ちになるんじゃの。この時もヤエが中川にこう言うんじゃ。「明日でもあさってでも、まだ時間はいっぱいありますから、いつでもいいですよ」」

「この映画に出てくる人は、次の日に原爆が投下されて、自分たちが死ぬ運命にあることを知るはずもないんよね」

「もちろん、すべての人が死ぬとは限らんが、ほとんどの人が命を落とすことは確実じゃし、被爆したら今までとはまったく違う人生になってしまうけぇの」

「うちらは、このささやかな日常が、明日もあさっても続くと信じとるけど、その日常が一瞬にして消え去ってしまうんじゃね」

「全てが一瞬にして消え去ることの不条理じゃのう」

「原爆が奪っていったものに思いをはせることで、映画を観る人が想像して補っていく、そういう映画なんじゃね」

「ほいじゃけぇ、原爆が投下された時の悲惨さ、そこから生き残った人の苦しみを、わざと描いとってんないんじゃろうの」



人間は父や母のように
霧のごとくに
消されてしまって
よいのだろうか

(若松小夜子「長崎の証言」・5)






↓映画『TOMORROW/明日』については、こちら↓

「TOMORROW 明日」goo映画





「今日は、映画『TOMORROW/明日』について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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広島市公会堂、新広島ホテル フィルムに残された広島の風景

2011年08月23日 | まんが・テレビ・映画
「今の広島国際会議場がある場所に、広島市公会堂があったのは覚えとるかいの?」


広島国際会議場
(広島平和記念資料館本館西側)


「もちろんよね。入口にあった長いスロープは、よう覚えとるよ。どの映画に出てきたん?」

「『千羽鶴』(1958年 木村荘十二監督)という映画で、佐々木禎子(ささき さだこ)さんをはじめとする、原爆で亡くなったすべての子供の霊を慰めるための像を建てようと、禎子さんの同級生8人が、全国校長会で集まった校長先生たちにビラを渡した場所なんじゃ」



全日本中学校長会議の全体会場となった広島市公会堂は、公園内の南、原爆資料館に隣接した巨大な建物だった。
鉄筋コンクリートの屋根が凹状(おうじょう)にわん曲した特異な形をしている。
平和公園内の他の建築物は、公園全体の設計にたずさわった丹下健三(たんげ けんぞう)氏の手によるが、この公会堂だけは、柴田斉男(しばた としお)氏の設計である。
完成したのは昭和30(1955)年3月だった。
内部は大講堂とホテルにわかれ、広島で開かれる種々のもよおし物の会場や宿舎に利用されるようになっていた。

(那須正幹「祈り鶴の子どもたち」PHP研究所 1984年)




「公会堂って、1955年にできたんじゃね。ほいで、校長会はいつあったん?」

「1955年の11月に3日間、広島で開かれて、最終日の全体会がこの公会堂で行われたそうじゃ」

「そこでビラを渡しちゃったんじゃね」

「会の途中じゃのうて、会が終わって公会堂から出てきた校長先生たちに、ビラ2000枚を手渡したんじゃと」

「2000枚も!?」

「あのころのことじゃけぇ、学校のガリ版を使うて印刷されちゃったんよ」

「そりゃ大変じゃったねぇ…」

「ビラを配った反響は大きゅうての、全国の中学校から寄付金が寄せられたんよ。途中は省略するんじゃが、原爆の子の像は1958年(昭和33)の5月5日に完成したんじゃ。映画には、取り付けられる前の原爆の子の像や、除幕式の様子なども映っとったのう」

「話を公会堂に戻すけど、どういう経緯で建てられたんかね?」

「広島にはたくさんの人を収容できる公共の施設がない、ということで広島の財界の有志が建設を計画されたんよ。1955年の3月に、落成式と広島市への贈呈式が行われたそうじゃ」

「とにかく大きな建物じゃったという記憶はあるよね」

「客席が1200あって、当時としては全国屈指の施設じゃったそうな。完成した年の8月には、第1回原水爆禁止世界大会も開かれとるんじゃ」

「バレエの森下洋子(もりした ようこ)さんが初舞台を踏んだのが公会堂じゃった、という話を聞いたことがあるよ」

「公会堂はその後建て替えられて、1989年(平成元)7月に広島国際会議場と名前を変えてオープンしたんじゃ」





「新広島ホテルは?」

「広島市公会堂に合築(がっちく)されとったホテルで、部屋数が25あったそうじゃ」

「知らんねぇ…」

「わしもじゃ」

「このホテルは、どの映画に出てきたん?」

「『ヒロシマ・モナムール』(1959年 アラン・レネ監督)と『その夜は忘れない』(1962年 吉村公三郎監督)」

「「モナムール(mon amour)」って、フランス語じゃない?」

「ほうじゃの。日仏合作の映画じゃ。日本では『二十四時間の情事』というタイトルで上映されたけぇ、こちらの方がわかりやすい方もおってじゃろうの」

「どんな話なん?」

「簡単に言うと、映画のロケで広島を訪れたフランス人女優(エマニュエル・リヴァ)と、日本人の建築家(岡田英次)が束の間の情事にふける、という話じゃの。観念的な内容じゃけぇ、すんまへんが、わしにはよう説明できまへん。映画の中で気になったのが、ホテルのドアノブがフランス人女性が胸のあたりについとったことかの」

「えらい高い位置についとるんじゃね」

「あれが、すげぇ気になってのう。見た目に、とても使いづらそうじゃったんじゃ」





「『その夜は忘れない』は?」

「田宮二郎(たみや じろう)演じる週刊誌の記者が、原爆の取材をするために広島にやって来る。彼が泊るのが新広島ホテルという設定なんじゃ」

「1962年いうたら、まだ夜行列車で移動しよったんじゃろうね」

「ほうじゃのう。田宮は寝台車で広島駅に着いた後、駅から新広島ホテルまでタクシーで移動するんよ。広島駅から新広島ホテルまでの道のりが、映画のタイトルバックで流れるんじゃ」

「そういや、新広島ホテルはどうなったん?」

「ウィキペディアによると、1973年(昭和48)5月に閉鎖されとるんよ。ホテルを経営しとった株式会社新広島ホテルは、リーガロイヤルホテル広島に吸収合併されたそうじゃ」





「この3本の映画は、広島でロケされとるんじゃね」

「3本とも、1960年前後に撮影されとるんじゃ。このころの平和公園は今のように整備されとらんかったんよ。芝生はまだ植えられとらんかったし、高いビルがなかったけぇ見通しがええんよ。公園内を車が平気で走りよったのにはびっくりしたがの」

「原爆の子の像のあたりは?」

「あそこの周りも、なーんもなかったのう。平和公園内に木が植えられとるんじゃが、戦後に植えられたもんじゃけぇ、今のように大きゅうなっとらんのよ」

「木だけ見ても、時代を感じるんじゃね」

「そうそう、原爆の子の像の近くで何か足らんよのうと思うとったら、平和の灯(ともしび)なかったんよ。あれが作られたのが1964年(昭和39)じゃけぇの」





↓映画『千羽鶴』については、こちら↓

映画「千羽鶴」を世界に





↓映画『ヒロシマ・モナムール』については、こちら↓

「二十四時間の情事」ウィキペディア





↓映画『その夜は忘れない』については、こちら↓

「その夜は忘れない」ウィキペディア





↓広島国際会議場については、こちら↓

広島国際会議場





↓リーガロイヤルホテル広島については、こちら↓

リーガロイヤルホテル広島





↓映画についての関連記事は、こちら↓

映画『原爆の子』 フィルムに残された広島の風景





「今日は、フィルムに残された広島の風景ということで、広島市公会堂と新広島ホテルについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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映画『アトムの足音が聞こえる』 横川シネマ

2011年08月22日 | まんが・テレビ・映画
「『アトムの足音が聞こえる』という映画を観てきたで」

「アトムの足音って、アトムが歩く時の「ピョコ、ピョコ」というやつ?」

「ほうじゃの。あれは何の楽器の音を元に作られとるか、わかる?」

「うーん、わからんねぇ…」

「マリンバの音を電子的に加工したテープを、手で反転させたものじゃそうな。手で作業しとるけぇ、1回1回微妙に音が違うとるそうじゃ」

「なるほどねぇ。今にして思えば「ピョコ、ピョコ」で合うとるけど、ロボットは固い金属でできとるはずじゃけぇ、「ガチャン、ガチャン」とか、「カキン、カキン」とかもあったはずなんじゃないんかね?」

「ジャイアントロボやマジンガーZなんかの巨大ロボットじゃったら、それもありじゃろうの。見た目に柔らかそうじゃけぇ、アトムはゴムか樹脂製だろうということで、「ピョコ、ピョコ」という音にされたそうじゃ」

「そういえば、このアトムの足音を作られたのは誰なんかね?」

「大野松雄(おおの まつお)という方じゃ。映画『惑星大戦争』(1977年)に「音響デザイン」という名前でクレジットされとって、わしゃそこで知ったんじゃがの」

「音響デザイン?」

「映像に効果音をつけるのだけじゃのうて、その映像につく音の全体をプロデュースするという役割じゃそうな」

「映画やテレビを観ても、音楽は印象に残ったりCDで繰り返し聴いたりするけど、音はあんまり意識することがないよね」

「ほいじゃけぇ、大野さんは「効果マン」と呼ばれることを嫌ったそうじゃ。地位も低うて、録音部の助手のような扱いじゃったらしいけぇの。ま、意識はしとらんでも、聞きなれた効果音というのは結構あるはずじゃ」

「たとえば?」

「『宇宙戦艦ヤマト』の波動砲の発射音、『機動戦士ガンダム』でガンダムが立ち上がる時の音、『サザエさん』のタラちゃんの足音とか、考えてみるといろいろあるじゃろ?」

「文字ではうまく表現はできんけど、音は頭の中に思い浮かべることができるね。これらの音も大野さんが作られたん?」

「大野さんの弟子にあたる柏原満(『サザエさん』『ドラえもん』『宇宙戦艦ヤマト』など)や、大野さんから影響を受けた松田昭彦(まつだ あきひこ。『機動戦士ガンダム』『伝説巨人イデオン』など)が作られた音なんじゃ」

「タラちゃんの足音は実際にはありえん足音じゃろうけど、タラちゃんが走ったらあんな足音になるんじゃろう、と想像できるよね」

「タラちゃんの足音には、アトムの足音の名残りがあるらしいんじゃ」

「へぇ…」

「大野さんは、プロの条件を2つあげとられたのう」



1.いつでもアマチュアに戻れる

2.どんなに手を抜いても、相手をだませる

(大野松雄)




「最初の、「いつでもアマチュアに戻れる」というのは、発想を自由にして、自分の思い込みで作るな、ということじゃ。既成のもの、特に自分が今までに作り上げてきたものに引っ張られると、創造性が失われたり、新しい発想ができんようになってしまうけぇの」

「常に自分を変えていくためには、それが必要なんじゃろうね。なかなかできることじゃないけど…」

「次の、「どんなに手を抜いても、相手をだませる」というのは、奥が深いと感じたよのう。アトムの足音にしても、「適当にやったらできて、できたから使った」、と大野さんは映画の中で言われとったんじゃ」

「適当に?」

「人間、ここ一番のときは全力投球をするけど、いつもはそこそこの力で仕事をしとるじゃろ?」

「まぁ、そうじゃね」

「適当に手を抜きながらも、いかに結果を残すかがプロの仕事というわけじゃ。アトムの足音も「適当に」作られたもんじゃが、観とる人には、世界にただひとつの「アトムの足音」になっとるわけじゃけぇの」

「うーん、ちょっと夢がなくなってしもうたねぇ…」

「大野さんの生き様についても話したいんじゃが、これは映画を見てのお楽しみということで…」





↓映画『アトムの足音が聞こえる』については、こちら↓

映画『アトムの足音が聞こえる』公式HP





↓大野松雄の音楽については、こちら(試聴できます)↓

「[大野松雄の音響世界(1)]「鉄腕アトム・音の世界/大和路/Yuragi・他」アマゾン

「[大野松雄の音響世界(2)]「そこに宇宙の果てを見た/「惑星大戦争」電子音響」」アマゾン

「[大野松雄の音響世界(3)]「『はじまり』の記憶」」アマゾン






「今日は、映画『アトムの足音が聞こえる』について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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第3回広島市一周駅伝大会 1948年

2011年08月21日 | スポーツ
「広島市中央図書館の「広島とスポーツ」という企画展を見よったら、第3回広島市一周駅伝大会の実施要綱が展示してあったんじゃ」

「へぇ、広島市内を走る駅伝大会か。面白そうじゃけど、こんなのに興味を持つのはお父さんくらいじゃないんかね」

「ほっとけ!」

「ほいで、いつごろあったん?」

「1948年(昭和23)の11月14日じゃそうな」

「戦争が終わって3年か…。どんなコースを走っちゃったんかね?」



第一区 四.四キロ 市役所前-横川駅前

第二区 三.四キロ 横川駅前-己斐(こい)駅前

第三区 三.四キロ 己斐駅前-荒手(あらて)魚市場前

第四区 五.四キロ 荒手魚市場前-水主町地蔵前

第五区 五.〇キロ 水主町地蔵前-神田神社前

第六区 五.七キロ 神田神社前-仁保小学校前

第七区 三.三キロ 仁保小学校前-駅前郵便局前

第八区 四.八キロ 駅前郵便局前-市役所前

(「第3回広島市一周駅伝大会実施要綱」広島市公文書館 1948年)




「8区間、計35.4キロじゃの」

「コースがわかったような、わからんような…」

「ほいじゃ、説明していってみようかの。当時のコースを今の道路で説明しとりますけぇ、多少のズレはあるし、わしが理解できてないところもありますけぇの。そこは勘弁してください。あと、1948年の広島市の地図がないけぇ、あき書房発行の『戦時下の廣島 復刻 昭和14年当時の地図と職業別明細図』を参考にさせてもろうとります」

「ほいじゃ、いってみようかね!」



↓あき書房については、こちら↓

あき書房のウェブサイトへようこそ!





【1区】

「選手たちは広島市役所前をスタートして、まずは鯉城(りじょう)通りを北に向かって進むんよ。紙屋町交差点を右折して、相生(あいおい)通りを東に向かってに進んでいくんじゃ」


広島市役所
(画面左へ進む)


紙屋町交差点
(交差点を右折する)


「広島の繁華街を走っていくんじゃね」

「広島の繁華街いうたら、江戸時代から大正時代ぐらいまで、今の広島平和記念公園がある中島町や、広島市文化交流会館やアステールプラザがある水主町(かこまち)あたりじゃったんよ」

「ありゃま、ほうじゃったん。そりゃ知らんかったねぇ」

「1912年(大正元)に、広島城の外壕(そとぼり)を埋め立てて、広島駅-相生橋(あいおいばし。現在の原爆ドーム前電停)間で広島電鉄(以下、広電と略す)が開業したんよ」

「交通の便がええけぇ、街の中心が東に移っていったというわけ?」

「ほうじゃのう。中島町や水主町には電車が通っとらんけぇの。1921年(大正10)には、新天地歓楽街(現:中区新天地)が開発されて、八丁堀や紙屋町(かみやちょう)が新しい繁華街になっていったんよ」

「そういや八丁堀にある福屋がオープンしたのは、いつじゃったっけ?」

「1938年(昭和13)じゃ。当時は広島で唯一の百貨店じゃったんよの。ええと、話を駅伝のコースに戻して…。福屋手前の八丁堀西交差点を左折して北に進むんじゃ」

「ありゃ、福屋と天満屋の間にある八丁堀交差点を曲がるんじゃないん?」


八丁堀西交差点
(画面左から来て、交差点を左折して奥へ進む)


広島城八丁堀外濠跡
(画面奥は福屋)


「このころは、今の白島(はくしま)通りより1本西の通りを広電・白島線が走っとっての、こっちがメインの通りじゃったんじゃ。今のように白島線が白島通りを走るようになったのは、1952年(昭和27)からなんじゃ」

「うーん、これも知らんかったねぇ…」

「白島交差点で左折して、城北通りを西に進む。54号線を越えて、三篠(みささ)橋を渡ると横川駅に着くんじゃ。ここまでが1区じゃの」


三篠橋

「1区は広島市内を抜けて、広島市の北側を走るんじゃね」



↓広島市役所については、こちら↓

広島市トップページ



↓福屋については、こちら↓

広島の百貨店 福屋



↓広島電鉄については、こちら↓

ひろでんアベニュー





【2区】

「2区は横川駅を出て、寺町(てらまち)通りを南に進んで、横川橋を渡るんじゃ」

「横川橋?」


横川橋
(画面右から来て、交差点を右折して橋を渡る)


「今じゃったら、まっすぐ新横川橋を通るんじゃが、そのころの新横川橋は電車専用の橋じゃったけぇ、人間は通れんかったんよ。ほいじゃけぇ、すぐ東側にある横川橋を渡らんといけんかったんじゃ。ちょいと遠回りになるんじゃがの」

「うーん、広島市内のこととはいえ、知らんことばっかりじゃね…」

「寺町通りに戻ったあと、さらに南に進んむんじゃ。土橋(どばし)電停の手前の堺町交差点を右折して西に進むんよ。そこから天満(てんま)橋・福島橋・己斐橋と橋を3つ渡ったあとに左折すると、己斐駅(現:JR西日本山陽本線の西広島駅)に着くんじゃ」


天満橋


己斐橋


「福島橋ってあったっけ?」

「福島川に架かっとった橋が福島橋で、今の都町交差点あたりになるそうじゃ」

「あぁ、そうか。山手川と福島川の2つの川を合わせて、今の太田川放水路を作ったんじゃったね」

「ほうじゃの。太田川放水路が完成したのが1967年(昭和42)じゃけぇ、このころはまだ福島川があったし、福島橋もあったんじゃ」

「2区は、広島市を北から西へ向かって走るんじゃね」



↓太田川放水路については、こちら↓

「太田川放水路」社団法人 中国建設弘済会





【3区】

「続く3区は、己斐駅を広電・宮島線の西側の道を南に進んで、西区己斐本町3丁目にある別れの茶屋で線路を横切るんじゃ」


別れの茶屋踏切付近
(赤いテントの店の前を左折する)


「別れの茶屋って、ちょっとシャレた名前じゃん」

「ここには茶屋があったそうじゃ。西国街道を西へ旅する人と、広島城下から見送りに来た人はここで別れることになるけぇ、「別れの茶屋」と名前がつけられたそうじゃ」

「うーん、うちの知らん広島の話がいっぱいあるんじゃね」

「話を駅伝のコースに戻して…。別れの茶屋で宮島線を東側に渡って、宮島街道に沿ってさらに南に行くと、荒手魚市場に着くんじゃ」

「荒手魚市場って?」

「そのころの魚市場で、今の中小企業大学広島校あたりにあったんじゃないかと思うんよ。これは、わしの推測じゃがの。今の草津(くさつ)南駅は、そのころは荒手駅と呼ばれとったそうじゃ」

「3区は、広島市の西側を南に向かって走るんじゃね」





【4区】

「4区は、宮島街道を戻るように北に進んで、西広島バイパス入口交差点を右折して東に進むんよ。旭橋と、今はない西大橋と観音橋の3つの橋を渡って行くんじゃ」


旭橋

「西大橋って橋が、今もあるよね」

「あれは、西風新都へ行く広島高速4号線にある橋のことじゃ。むかしの西大橋は福島川に架かっとった橋で、今の観音町にあったんよ。観音橋も、今は撤去されてしもうたよのう」

「舟入病院の北側にあった、古い橋じゃろ?」

「ほうじゃのう。新観音橋はなくなったけぇ、今の新観音橋を渡って、舟入通りを越えて、住吉橋を渡ると、水主町地蔵前に着くんじゃ」

「水主町地蔵って?」

「住吉橋西詰の北側、住吉神社の南側に祀(まつ)ってあるお地蔵さまじゃそうな」


水主町地蔵

「4区で、広島市の中心部近くまで戻ってくるんじゃね」





【5区】

「水主町地蔵を出て西に吉島通りを越えて、明治橋を渡ると、鷹野橋(たかのばし)に出るんじゃ」


明治橋

「鷹野橋を左折して北へ進むと、市役所に戻るんよね」

「ほいじゃけぇ、鷹野橋で右折して、千田通りを南東方向へ進むんよ。御幸(みゆき)橋を渡ったあと、皆実町6丁目交差点を右折して、宇品通りじゃのうて御幸通りに入って、南へ進むんじゃ」


御幸橋

「宇品通りは、広電・宇品線が走っとる通りじゃね」

「御幸橋、御幸通りと、御幸という言葉が続いたんじゃが、これは天皇が外出するときに用いられる行幸(ぎょうこう、みゆき)という言葉からきとるんじゃ」

「えぇっと…、日清戦争のときに明治天皇が広島に来られたんよね?」

「それより前の1885年(明治18)に、広島に来られたんじゃの。それにちなんで、御幸という名前がつけられたそうじゃ。御幸橋にはもともと「長橋(ながはし)」という名前がついとったんよ。そのころ、広島で一番長い木造の橋じゃったそうなけぇの」

「へぇ…。ほんまに知らんことがいっぱいあるねぇ」

「話を駅伝のコースに戻して…。御幸通りを南に進んで、宇品海岸2丁目交差点を左折。広島南道路の下を少し走ったあと、宇品海岸3丁目交差点をもう一度左折して、宇品通りに入るんじゃ。宇品通りを広電・宇品線にそって北に進むと、宇品4丁目電停近くの神田神社に着くんじゃの。ここまでが5区じゃ」


神田神社

「5区は、中心部近くから南へ走るんじゃね」





【6区】

「6区は、神田神社から御幸通りを北に進んで、県病院入口交差点を右折する。この交差点の西側にジャスコがあるんじゃが、むかしは広陵中学(現:広陵高校)があったんよ」

「広陵高校いうたら、安佐南区沼田町にあるじゃん。移転する前は、ここにあったん?」

「1973年(昭和48)までここにあったけぇの。わしが小さい頃は野球の練習を見に、親父に自転車の後ろに乗せて連れてきてもらいよったんじゃ。ほいじゃけぇ、今の県病院前の電停も、そのころは広陵中学前という名前じゃったんよ」

「へぇ」

「県病院入口交差点を右折して、黄金山(おうごんざん)通りを東に進むんじゃ。廃線になった国鉄・宇品線を越えて、旧丹那(たんな)橋を渡る。今の南署のあたりじゃの」

「あぁ、ちょっとした橋が残っとるよね」


旧宇品線・丹那駅付近のモニュメント


旧丹那橋


「旧丹那橋を渡って、黄金山をぐるりと半周すると、仁保小学校に着くんじゃ」

「6区は、広島市を南から東へ向けて走るんじゃね」


広島市立仁保小学校



↓広陵高校については、こちら↓

広陵学園 広陵高等学校





【7区】

「7区は、道がようわからんのじゃ」

「えぇ!?」

「駅伝の実施要綱の地図にも、仁保小学校から荒神(こうじん)橋までの間の詳細が書いてなかったんよ。今じゃったら、仁保小学校を出発して、国道2号線に沿って進む。あとは、出汐(でしお)町交差点で右折して比治山の東側を通るか、平野橋東交差点を右折して比治山通り、つまり西側を通るか、のどっちかじゃろうの」

「段原(だんばら)は再開発が進んだけぇ、道がようわからんようなっとるんじゃね」

「地図に通過点が書いてあったら、推測はできるんじゃがのう。地図に従って説明すると、仁保小学校をスタートしたあと北西に向かって進み、国鉄・宇品線を越えて段原を抜ける、というルートじゃ」

「段原を過ぎて、的場町に入るんじゃね」

「ここから先は、今の道路で説明できるんじゃ。的場町交差点を右折して荒神(こうじん)橋を渡って、広電・本線に沿って進むんよ。ほいで、広島駅の西側にあるのが駅前郵便局(現:広島東郵便局)じゃ」


荒神橋
(画面右から来て、交差点を右折して橋を渡る)


広島東郵便局


「7区は、広島市の東側を走るんじゃね」





【8区】

「ほいで、最終区の8区。駅前郵便局をスタートして城北通りに沿って北西方向に進み、常葉(ときわ)橋東詰交差点を右折して、饒津(にぎつ)ガード下をくぐってすぐに左折するんじゃ。牛田の町に入って、神田橋交差点を左折して神田橋を渡るんじゃ」


饒津ガード
(画面右手前から来て、ガード下をくぐってすぐに左折する)


「神田橋を渡って少し進むと、白島通りへ戻ってくるんじゃね」


神田橋
(画面左から来て、交差点を左折して橋を渡る)


「あとは、広電・白島線に沿って南に進み、八丁堀交差点を右折。紙屋町交差点を左折して、広島市役所に戻ってくる、というコースじゃ」





「うん、だいたいのコースがわかった。うちが知らんむかしの広島も知ることもできたけぇ、えかったよ。ところで、この駅伝大会には何チームくらい参加されたんかね?」

「それがのう…、実施要綱だけ展示してあって、何チーム参加したのか、どこのチームが優勝したのか、というのが全然なかったんよの」

「うーん、片手落ちじゃね…」

「ご存知の方、ご連絡ください。よろしゅうお願いします」





↓駅伝についての関連記事は、こちら↓

「てっぱん」駅伝くん 幻のひろしま男子駅伝

ゆるキャラinひろしま男子駅伝

第60回全国高校駅伝男子で、世羅高校は何度目の優勝を果たしたか?






↓広島とスポーツについての関連記事は、こちら↓

広島とスポーツ 広島市中央図書館





「今日は、広島市一周駅伝大会について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」



(2011年8月28日 写真追加)
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熊野町の化粧筆 国民栄誉賞の記念品

2011年08月20日 | 広島の話題
「おとつい、国民栄誉賞の表彰式があったのう」

「サッカーのなでしこジャパンが受賞したんよね」

「その記念品として、広島県熊野町(くまのちょう)特産の化粧筆が贈られたそうじゃ」



サッカーの女子ワールドカップ(W杯)で初優勝した「なでしこジャパン」の国民栄誉賞表彰式が18日、官邸であった。
菅直人首相が沢穂希主将(INAC)らに表彰状と盾を手渡した。
記念品に広島県熊野町の特産品化粧筆も贈られた。

国民栄誉賞の団体受賞は初。
式には佐々木則夫監督や選手、スタッフ25人が出席。
化粧筆には各自の名前が刻まれ、1人ずつチークブラシなど7本が贈呈された。
枝野幸男官房長官は「世界に誇れる日本の伝統工芸品で、なでしこジャパンにふさわしい」と記者会見で説明した。

宮間あや選手(岡山湯郷ベル)は「日常生活でぜひ活用します」と笑顔で話していた。

(「なでしこ表彰記念品は熊野筆」中国新聞 2011年8月19日)




「へぇ、筆に自分の名前が彫ってあるんじゃね」

「桐の箱に入れられて贈られたそうじゃと」

「どんな商品なんかね?」

「新聞によると、熊野町にある竹田ブラシ製作所の「基本ブラシセット ベーシック 椿」という商品で、化粧筆が7本入って、1セット3万3075円するんじゃと」

「3万円か…。国民栄誉賞の記念品としては安くないかね?」

「ふつうなら、100万円くらいの品物を贈るそうなんよ。ほいじゃが、今回は選手・監督・スタッフを含めて35人が受賞されとってじゃけぇ、割り算すると3万円くらいになるよのう」

「それにしても女性に化粧筆を贈るとは、考えちゃったねぇ」

「選手はみなさんは女性じゃが、監督・スタッフの中には男性もおってんじゃがのう…」

「そういう時こそ、奥さん孝行すりゃあええんよね!」



なでしこJAPANの皆様

国民栄誉賞の受賞、誠におめでとうございます。

日本に、そして、私達に、「あきらめず困難に立ち向かう力」をありがとうございました。

作業は入念にさせていただきましたが、万が一、不備があったり、
または、製品説明カードの内容不足などで使用面での質問などございましたら、
弊社まで遠慮なくお申し付けください。

尚、修理や再加工等、承りますので、遠慮なくお使いいただけましたら幸いです。


推薦してくださった方々、竹田ブラシサポーターの皆様、
製造、販売などでご協力くださっている皆様・・・・

皆様のお陰で

熊野化粧筆製造メーカーの中でも ひときわ小さな会社が、

「国民栄誉賞 副賞の製品を作る」という、大変、名誉な仕事をさせていただく事ができました。

心からお礼を申し上げます。


■追記

「伝統産業 熊野化粧筆」という一つのジャンルへの反響の大きさと
そこへの対応の速さ、迫力の凄まじさに少し気後れしてしましそうではありますが、、

私ども竹田の者としては、

熊野筆はもちろん、製造業だけでなく、
農業や畜産も含めた 日本の全ての「生産業」の中にあり、
「大型宣伝と量産」の波に流されることなく、
小さくとも地道にコツコツと信念・哲学を持ってモノ作りを続けている人達が、
(私達の知人達も含め)
今回のことで少しでも勇気・希望を感じていただけましたら、とても嬉しく思います。

(「2011/8月 「なでしこJAPAN」 国民栄誉賞 副賞の化粧筆の製造・納品について」竹田ブラシ製作所)






「熊野の筆は知っとっても、熊野の化粧筆は知らん、という方もおってんじゃないかね?」

「ほいじゃ、熊野筆の歴史を簡単に説明しとこうかの。熊野は山が多いけぇ、農耕地が少ないんじゃ。江戸時代、農閑期になると熊野村から大和国(やまとのくに。今の奈良県)に出稼ぎに行かれとったんよ。その帰りに奈良で筆や墨を仕入れて、行商しながら帰ってこられたそうじゃ」

「そのうち、熊野でも筆づくりを始めちゃったんよね」

「広島藩の勧めもあって、職人を呼んで技術を習得し、筆づくりが発展していったんよ。明治になって学校教育が始まると、習字で筆が使われるようになったんよの。ほいで需要が増えて、熊野の筆の生産量が増えたんよ」

「戦後は、筆を使うことが減ったよね」

「わしが子どものころは、習字を習うというのがまだまだあったんじゃがのう…。昭和30年代から絵筆や化粧筆の生産を始められたそうじゃ」

「熊野は筆の全国生産量の8割を占めとって、伝統的工芸品の指定も受けられたんよね」

「指定を受けられたんは、1975年(昭和50)のことじゃのう。大量生産の時代じゃが、伝統の技術にこだわって品質の高い筆をつくりたい、という要望もあったんよの。問屋を通さんと品物は流通せんが、問屋を通すと、筆の機能や使いやすさといった面がおろそかになってしまう、というジレンマがあったそうじゃ」

「ほいじゃったら、直販にすりゃええじゃん」

「そうなんよ。熊野町に白鳳堂(はくほうどう)という会社があるんじゃが、そこの高本社長がアメリカへ渡って、メーキャップアーティストからカナダの会社を紹介してもろうたんよ。そこで白鳳堂の化粧筆を使うてみてもろうたら、大変気に入ってもらえたそうじゃ」

「ほほぉ、すごいね」

「メーキャップアーティストが化粧するのは、女優さんじゃけぇの。そこから口コミで伝わって、ハリウッドの有名な女優さんにも名前を知られるようになったということじゃ」

「そこから、日本に逆輸入の形で熊野の化粧筆も知られていったということじゃね」





「最後になったが、監督と選手の22人に、1台が289万円もするアウディA1という車が贈られたそうじゃ」

「どひぇー!!」

「3年間の無償リースということじゃけぇ、もらえるわけではないらしいんじゃがの」

「なでしこの中には、アルバイトしながらサッカーを続けとっての選手もおってんじゃろ。車もええけど、プレーに専念できるような環境に継続して支援してあげるべきじゃと、うちは思うんじゃけどね」

「中には、プロ契約をしてもらうほうがうれしい、という選手もおってじゃろうの」

「国民栄誉賞をもろうても、年金が増えたりするわけでもないんじゃろ?」

「ほうじゃのう。やっぱり次のロンドン五輪での活躍次第、というところじゃろうの」





↓竹田ブラシ製作所については、こちら↓

広島熊野 化粧ブラシ専門メーカー 有限会社竹田ブラシ製作所





↓白鳳堂については、こちら↓

白鳳堂





↓熊野筆については、こちら↓

筆の里工房





↓アウディについては、こちら↓

Audi Japan





「今日は、熊野町の化粧筆が国民栄誉賞の記念品として贈られたということについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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