「新藤兼人監督の最新作『一枚のハガキ』を観に行ってきたで」
「新藤さんいうたら、広島県の名誉県民じゃね」
「三原市の名誉市民でもあり、現在99歳で、現役最高齢の映画監督でもあるんじゃの。ほいでこの映画が、監督第49作目になるんじゃ」
「すごいね。そんなお歳で映画が撮れるもんなんじゃ。で、内容はどんなん?」
戦争末期に召集された100名の中年兵は上官にクジを引かれそれぞれの戦地に赴任(ふにん)した。
クジ引きの夜松山啓太はひとりの兵から妻からの一枚のハガキを託される。
「今日はお祭りですが あなたがいらっしゃらないので 何の風情もありません」
戦死するだろうから生き残ったらハガキは読んだと妻を訪ねてくれと依頼された。
終戦になり100名の内6名が生き残りふるさとに帰った啓太を待っている者はなかった。
妻は啓太の父と出奔(しゅっぽん)していた。
生きて帰るとは思わなかったのだ。
ハガキを書いた友子は夫の亡き後、義父に懇願(こんがん)され夫の弟と再婚したが弟も赤紙がきて戦死した。
義父がショックで死に義母は自殺した。
貧しい農家に友子はひとり残り滅びようとしていた。
その時、啓太がハガキを持って訪ねてき、実情を知った。
(「一枚のハガキ」東京国際映画祭)
「この映画は、新藤監督の実体験を基にされとるそうじゃ」
「中年兵というのは?」
「新藤監督が召集されたのが1944年(昭和19)、32歳の時。年をとった二等兵の集まりじゃけぇ、映画の中では「おっさん部隊」と言われとったのう」
僕は、昭和19年、松竹のシナリオライターとして仕事をしていた時に招集されました。
32歳だから、老兵です。
帝国海軍二等水兵として呉海兵団に入りました。
そこで100人の隊に編成されました。
それはいわゆる掃除部隊でした。
最初に天理市にいって、1ヶ月ほど予科練が入る施設の掃除をして、そこの掃除がすむと、上官が勝手にクジを引きます。
クジで決まった60人は、フィリピンのマニラへ陸戦隊として就くよう出撃命令が下ります。
(「いかなる正義の理由があっても、戦争には反対する」この人に聞きたい 2007年8月8日)
「掃除部隊いうのが、ほんまにあったんかね?」
「わしも信じられんが、考えてみりゃ、そういう雑用をする人も要(い)るよのう。年とった兵隊ばっかりじゃったけぇ、そういう雑用をやらされたと思うんじゃ。余談じゃが、新藤監督は徴兵検査で丙(へい)種じゃったそうじゃ」
「「丙」って、「甲・乙・丙(こう・おつ・へい)」の「丙」?」
「ほうじゃの。丙種じゃったら、本来は戦地へ行くことはないはずなんじゃが、戦争末期の1944年のことじゃけぇ、そんな人たちでも招集されたんじゃないんかのう」
「甲・乙の人たちは、すでに戦場に送られとったいうこと?」
「たぶんの。天理での掃除が済んだあとは、フィリピンに送られたり、潜水艦に乗るよう命令されたそうじゃ。結局、100人のうち、生き残ったのが6人。新藤監督はそのうちの1人で、兵庫県の宝塚で終戦を迎えられたそうじゃ」
「戦地も大変じゃけど、銃後も大変じゃろうね」
「森川友子(大竹しのぶ)のセリフにこんなのがあったんじゃ」
「みんな、のどに通っとりますけぇ」
「のどに通っとる?」
「どんな運命でも受け入れます、という意味じゃろうの」
「のどを通らないようなものを、無理やり飲み込んだ、という感じがするね」
「友子は夫が戦死した後、夫の弟と再婚するんじゃが、その弟も赤紙が来て戦死。その後、義父母も亡くなってしもうてんじゃ」
「友子さんは家族をなくしてしもうたんじゃね」
「そこへ、友子の夫・森川定造(六平直政)からハガキを託された松山啓太(豊川悦司)が訪ねてくるんじゃ」
「松山さんいうたら、妻が自分の父親と逃げられてしもうた人じゃん」
「ほうじゃの。松山と森川は、天理の掃除部隊で一緒じゃったんよ。クジ運がえかった松山は、戦地から無事に生きて帰ることができたんじゃ。ほいじゃが、家に帰ってみたら誰もおらんかった」
「なんで?」
「戦争が終わった時、「今から帰る」と妻に手紙を書いたんじゃが、義父と不倫をしとった妻は、義父と一緒に夜逃げしてしもうたんよ。旦那は戦死したと思うとったけぇの」
「待っとる人は帰ってこんし、帰ってきて欲しゅうない人は帰ってくるし…。松山さんのところも、家族をなくしてしもうとってんじゃね」
「そんな事情を知らん友子は、松山に向かってこんなセリフを投げつけるんよ」
「あんたはどうして生きとるんじゃ! なんであんたは死なないんじゃ!」
「残された家族の怒り、悲しみじゃ。一度はのどを通したものを、腹の底から吐き出しちゃったんじゃね。松山さんに言う言葉じゃないけど…」
「新藤監督の思いが、役者の体と言葉を借りて出てきとるんよの」
僕は、いわゆる「戦争反対」と言っている人たちとは、少し次元が違うんです。
32歳で召集され、戦争の中身を体験して帰ってきているわけですから。
僕が、戦争になぜ反対かと言うと、それは“個”を破壊し、“家庭”を破壊するからです。
みんな、戦争は良くない、反対だと、口癖のようにいうけれど、そういった、戦争の本来の原点から言っている人は、あんまりいないんじゃないでしょうか。
(略)
僕と一緒に召集されたのは、30歳も過ぎたものばかりだから、みんな家庭の主人なんだ。
主人が亡くなってあと、家庭はどうなりますか?
悲惨な運命です。
(同上)
「ポスターには麦が写っとるよね。うちゃ、『はだしのゲン』を思い出したよ」
「踏まれても、踏まれても、真っ直ぐ伸びる麦になれ! …じゃのう」
「やっぱり、そういうイメージで使われとってんかね?」
「たぶんの。すべてを失った松山と友子は、一緒に生きることを決意するんじゃ」
「新しい家庭を作っていってんじゃね」
「ほいで、畑を作って麦を植え、育て、そして黄金色の穂を実らせるんじゃ」
「戦争にもてあそばされるだけじゃのうて、そこから立ち上がっていってんじゃね」
戦争がすべてを奪った。
戦争が人生を狂わせた。
それでも命がある限り、人は強く生きていく。
↓映画『一枚のハガキ』については、こちら↓
新藤兼人監督作品『一枚のハガキ』公式サイト
↓八丁座については、こちら↓
広島の映画館サロンシネマ、シネツイン、八丁座の広島地場劇場運営会社【序破急】
↓新藤兼人についての関連記事は、こちら↓
映画『原爆の子』 ニューヨークで初上映
「今日は、映画『一枚のハガキ』について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
「新藤さんいうたら、広島県の名誉県民じゃね」
「三原市の名誉市民でもあり、現在99歳で、現役最高齢の映画監督でもあるんじゃの。ほいでこの映画が、監督第49作目になるんじゃ」
「すごいね。そんなお歳で映画が撮れるもんなんじゃ。で、内容はどんなん?」
戦争末期に召集された100名の中年兵は上官にクジを引かれそれぞれの戦地に赴任(ふにん)した。
クジ引きの夜松山啓太はひとりの兵から妻からの一枚のハガキを託される。
「今日はお祭りですが あなたがいらっしゃらないので 何の風情もありません」
戦死するだろうから生き残ったらハガキは読んだと妻を訪ねてくれと依頼された。
終戦になり100名の内6名が生き残りふるさとに帰った啓太を待っている者はなかった。
妻は啓太の父と出奔(しゅっぽん)していた。
生きて帰るとは思わなかったのだ。
ハガキを書いた友子は夫の亡き後、義父に懇願(こんがん)され夫の弟と再婚したが弟も赤紙がきて戦死した。
義父がショックで死に義母は自殺した。
貧しい農家に友子はひとり残り滅びようとしていた。
その時、啓太がハガキを持って訪ねてき、実情を知った。
(「一枚のハガキ」東京国際映画祭)
「この映画は、新藤監督の実体験を基にされとるそうじゃ」
「中年兵というのは?」
「新藤監督が召集されたのが1944年(昭和19)、32歳の時。年をとった二等兵の集まりじゃけぇ、映画の中では「おっさん部隊」と言われとったのう」
僕は、昭和19年、松竹のシナリオライターとして仕事をしていた時に招集されました。
32歳だから、老兵です。
帝国海軍二等水兵として呉海兵団に入りました。
そこで100人の隊に編成されました。
それはいわゆる掃除部隊でした。
最初に天理市にいって、1ヶ月ほど予科練が入る施設の掃除をして、そこの掃除がすむと、上官が勝手にクジを引きます。
クジで決まった60人は、フィリピンのマニラへ陸戦隊として就くよう出撃命令が下ります。
(「いかなる正義の理由があっても、戦争には反対する」この人に聞きたい 2007年8月8日)
「掃除部隊いうのが、ほんまにあったんかね?」
「わしも信じられんが、考えてみりゃ、そういう雑用をする人も要(い)るよのう。年とった兵隊ばっかりじゃったけぇ、そういう雑用をやらされたと思うんじゃ。余談じゃが、新藤監督は徴兵検査で丙(へい)種じゃったそうじゃ」
「「丙」って、「甲・乙・丙(こう・おつ・へい)」の「丙」?」
「ほうじゃの。丙種じゃったら、本来は戦地へ行くことはないはずなんじゃが、戦争末期の1944年のことじゃけぇ、そんな人たちでも招集されたんじゃないんかのう」
「甲・乙の人たちは、すでに戦場に送られとったいうこと?」
「たぶんの。天理での掃除が済んだあとは、フィリピンに送られたり、潜水艦に乗るよう命令されたそうじゃ。結局、100人のうち、生き残ったのが6人。新藤監督はそのうちの1人で、兵庫県の宝塚で終戦を迎えられたそうじゃ」
「戦地も大変じゃけど、銃後も大変じゃろうね」
「森川友子(大竹しのぶ)のセリフにこんなのがあったんじゃ」
「みんな、のどに通っとりますけぇ」
「のどに通っとる?」
「どんな運命でも受け入れます、という意味じゃろうの」
「のどを通らないようなものを、無理やり飲み込んだ、という感じがするね」
「友子は夫が戦死した後、夫の弟と再婚するんじゃが、その弟も赤紙が来て戦死。その後、義父母も亡くなってしもうてんじゃ」
「友子さんは家族をなくしてしもうたんじゃね」
「そこへ、友子の夫・森川定造(六平直政)からハガキを託された松山啓太(豊川悦司)が訪ねてくるんじゃ」
「松山さんいうたら、妻が自分の父親と逃げられてしもうた人じゃん」
「ほうじゃの。松山と森川は、天理の掃除部隊で一緒じゃったんよ。クジ運がえかった松山は、戦地から無事に生きて帰ることができたんじゃ。ほいじゃが、家に帰ってみたら誰もおらんかった」
「なんで?」
「戦争が終わった時、「今から帰る」と妻に手紙を書いたんじゃが、義父と不倫をしとった妻は、義父と一緒に夜逃げしてしもうたんよ。旦那は戦死したと思うとったけぇの」
「待っとる人は帰ってこんし、帰ってきて欲しゅうない人は帰ってくるし…。松山さんのところも、家族をなくしてしもうとってんじゃね」
「そんな事情を知らん友子は、松山に向かってこんなセリフを投げつけるんよ」
「あんたはどうして生きとるんじゃ! なんであんたは死なないんじゃ!」
「残された家族の怒り、悲しみじゃ。一度はのどを通したものを、腹の底から吐き出しちゃったんじゃね。松山さんに言う言葉じゃないけど…」
「新藤監督の思いが、役者の体と言葉を借りて出てきとるんよの」
僕は、いわゆる「戦争反対」と言っている人たちとは、少し次元が違うんです。
32歳で召集され、戦争の中身を体験して帰ってきているわけですから。
僕が、戦争になぜ反対かと言うと、それは“個”を破壊し、“家庭”を破壊するからです。
みんな、戦争は良くない、反対だと、口癖のようにいうけれど、そういった、戦争の本来の原点から言っている人は、あんまりいないんじゃないでしょうか。
(略)
僕と一緒に召集されたのは、30歳も過ぎたものばかりだから、みんな家庭の主人なんだ。
主人が亡くなってあと、家庭はどうなりますか?
悲惨な運命です。
(同上)
「ポスターには麦が写っとるよね。うちゃ、『はだしのゲン』を思い出したよ」
「踏まれても、踏まれても、真っ直ぐ伸びる麦になれ! …じゃのう」
「やっぱり、そういうイメージで使われとってんかね?」
「たぶんの。すべてを失った松山と友子は、一緒に生きることを決意するんじゃ」
「新しい家庭を作っていってんじゃね」
「ほいで、畑を作って麦を植え、育て、そして黄金色の穂を実らせるんじゃ」
「戦争にもてあそばされるだけじゃのうて、そこから立ち上がっていってんじゃね」
戦争がすべてを奪った。
戦争が人生を狂わせた。
それでも命がある限り、人は強く生きていく。
↓映画『一枚のハガキ』については、こちら↓
新藤兼人監督作品『一枚のハガキ』公式サイト
↓八丁座については、こちら↓
広島の映画館サロンシネマ、シネツイン、八丁座の広島地場劇場運営会社【序破急】
↓新藤兼人についての関連記事は、こちら↓
映画『原爆の子』 ニューヨークで初上映
「今日は、映画『一枚のハガキ』について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」