通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

二葉あき子さんを悼む

2011年08月19日 | 広島の話題
「お父さん、聞いた? 二葉あき子さんが亡くなっちゃったんじゃと」

「えーと…、『岸壁の母』を歌われた方とは違うんよの?」

「『岸壁の母』を歌われたのは、二葉百合子(ゆりこ)さん。二葉あき子さんは、出身地の広島市大須賀町二葉(現:東区二葉の里)から「二葉」の、広島=安芸の国から「あき」の芸名を取っとってんよ」

「えらい詳しいのう」

「いや、これはお母ちゃんの受け売りなんじゃけどね…」



「フランチェスカの鐘」「水色のワルツ」などのヒット曲で戦中、戦後の歌謡界をけん引した歌手二葉あき子(ふたば・あきこ=本名加藤芳江=かとう・よしえ)さんが16日午前3時30分、急性心不全のため広島市内の老人保健施設で死去した。
96歳。
広島市東区出身。
自宅は非公開。
通夜、告別式は家族で執り行う。
喪主は孫加藤英紀(かとう・ひでき)氏。

広島県立広島高等女学校(現皆実高)を経て、東京音楽学校(現東京芸術大)卒業。
県立三次高等女学校(現三次高)で1年間、音楽教師を務めた。

出身地にちなんだ「安芸」「二葉」を芸名に取り1936年にデビュー。
「フランチェスカの鐘」「夜のプラットホーム」「水色のワルツ」などが次々にヒット。
淡谷のり子さんや笠置シヅ子さんらと人気を競った。

45年8月6日、広島市に原爆が投下された時、乗っていた列車がトンネルに入り直撃を免れた。
この体験から「『フランチェスカの鐘』などの曲は、戦争で死んだ人たちへの鎮魂歌として歌っている」と語っていた。

歌謡曲だけでなく、ブルースやシャンソン、演歌も歌いこなし、生涯のレコーディング曲は約700曲に上った。
82年に紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受章した。

(「歌手二葉あき子さん死去」中国新聞 2011年8月17日)




「広島高等女学校から東京音楽学校に進まれたんじゃのう」

「東京音楽学校で、藤山一郎さんのバリトンに感銘を受けられたそうなんよ」

「へぇ、藤山さんも同じ学校で勉強されとっちゃったんじゃ」

「藤山さんの実家が大変な借金を抱えられたんで、それを返済するためにコロムビアでレコードの吹き込みをされとっちゃったんよ。これが学校の規則に違反するけぇ、本名の増永丈夫(ますなが たけお)じゃのうて、芸名の藤山一郎で活動されとったんじゃと」

「藤山さんにも、そんな時代があったんじゃのう…」

「話を二葉さんに戻して…。1935年(昭和10)に東京音楽学校を卒業したあと、三次高等女学校で教鞭を取られて、1年後の1936年(昭和11)にコロムビア専属の歌手としてデビューされちゃったんよ」





「二葉さんは、原爆に遭うとられるんじゃ」

「8月6日の朝は、芸備線に乗って松江に向かっとられたんよ。汽車がトンネル内を走っている、ちょうどそのときに原爆が落ちたんじゃと」

「偶然とはいえ、運がえかったんじゃのう」

「トンネルを出たあと、汽車からきのこ雲と落下傘を見られたそうなんよ」

「アメリカ軍のB-29が原爆を投下する直前、測定装置を投下したんよ。落下傘はそれに付いとったもんじゃの」

「二葉さんは、原爆の直接の被害を受けんですんだんよね。1948年(昭和23)に発売された『フランチェスカの鐘』は、二葉さんが原爆犠牲者への鎮魂歌として歌い続けてこられた曲なんじゃと」

「生き残ったことで、かえって罪悪感みたいなものを持たれたんかのう」

「戦後は『夜のプラットホーム』(1947年)『水色のワルツ』(1950年)などのヒット曲に恵まれ、NHK紅白歌合戦は第1回(1951年)から第10回(1959年)まで10回連続で出場されとってんよ」

「ん? 第1回が1951年(昭和26)で第10回が1959年(昭和34)というのは、計算が合わんじゃん」

「えぇっとね、第3回までは年始にやりよったんじゃけど、第4回から今のように大みそかにすることになったんよ。ほいじゃけぇ、第3回と第4回は1953年(昭和28)の1月2日と12月31日にあったんよ」

「なるほど。この年は年始と年末の2回、紅白があったことになるんじゃのう」

「ちなみに、第4回からテレビでの放送が始まったんよね」

「ほうか。NHKがテレビの放送を始めたのが1953年の2月1日じゃったけぇの」

「このころ、二葉さんは声帯を壊して高音が出なくなったそうなんよね。1956年(昭和31)の夏、自殺を図ったんじゃけど未遂に終わったんよ」



昭和30年(1955年)前後に高音が出なくなり、意気を喪失して帰郷。
実家から刃物を持ち出し自殺を図るが未遂に終わる。
その後、作曲家の服部良一(はっとり りょういち)に「高音だけが歌じゃない」と励まされ復帰する。
自ら低音発声法を作った。

(「二葉あき子」ウィキペディア)




「で、二葉さんはいつごろまで活躍されちゃったんかいの?」

「2003年(平成15)に広島に戻られて、それから舞台に立たれることはなかったんじゃと」

「1936年にデビューされとってじゃけぇ、67年か。長い間、活躍されちゃったんじゃのう」



二葉さんは2002年の大みそかの歌番組で音程を外したまま1曲を歌った。
満面の笑みのまま、舞台袖に引っ込んだ。
ところが、後輩歌手の菅原都々子(すがわら つづこ)さんは「楽屋に入るなり、おえつ交じりで泣いた姿を見た」という。
この頃、既に耳が聞こえにくく、音程が合わせられなかったのではないかと話す。

(「生涯貫いた歌への思い 二葉あき子さんを悼む」中国新聞 2011年8月17日)






「余談じゃが、二葉さんは『めんこい仔馬』(1941年)も歌うとられるんじゃのう」

「お父さん、この曲知っとるん?」

「知っとるもなにも、映画『ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌』(1992年)で初めて聞いての、涙、涙じゃったんよ。この映画は、わしが今まで観た中で一番泣けた映画じゃないんかの」

「へぇ。どんな話なん?」



学校で「めんこい仔馬」という歌を習ったまる子ことさくらももこは、それを図工の時間の絵のテーマにするがどのように描いたらいいか分からなかった。
ある日、静岡の祖母の家近くで似顔絵描きのお姉さんに出会い、「めんこい仔馬」は、実は戦争で馬と少年が別れなければならない悲しい歌なのだと3番の歌詞まで教えてもらう。
まる子は少年の気持ち、いつまでも忘れないよという心を描く。
(後略)

(「ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌」Movie Walker)




「今度、DVDを借りてきて観たいね」

「それがのう、映画の中で音楽をたくさん使うとるけぇ、その著作権の関係で発売されとらんのじゃ」

「えぇ~」





↓「フランチェスカの鐘」については、こちら↓

「二葉あき子 フランチェスカの鐘 1971」YouTube





↓「夜のプラットホーム」については、こちら↓

「夜のプラットホーム 二葉あき子」YouTube





↓「水色のワルツ」については、こちら↓

「二葉あき子 水色のワルツ 1990」YouTube





↓「めんこい仔馬」については、こちら↓

「めんこい子馬 二葉あき子 高橋祐子 愛唱歌謡」YouTube





↓ちびまる子ちゃんの「めんこい仔馬」については、こちら↓

「映画 "ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌" 「めんこい仔馬」」YouTube





「今日は、8月16日に亡くなられた二葉あき子さんについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『はだしのゲン』 ポーランド語版が完成

2011年08月18日 | まんが・テレビ・映画
「このたび、漫画『はだしのゲン』のポーランド語版が完成したそうじゃ」



広島で被爆した少年がたくましく生きる姿を描いた漫画「はだしのゲン」の全10巻を、山口県立大(山口市)国際文化学部の渡辺克義准教授(51)が、8年かけてポーランド語訳版を完成させた。

渡辺さんは1986年から4年間、ポーランドのワルシャワ大に留学。
ポーランド文化を学んだ。
帰国後、中学の講師をしていたころ、生徒が一心不乱に読むのを見て、自身もゲンの力強さに心を打たれた。

2000年に県立大の教員になったのを機に「世話になったポーランドでぜひ紹介したい」と同国で出版社を経営する友人に相談。
翻訳は03年4月から始め、04年1月に「HIROSZIMA 1945 BOSONOGI GEN」の第1巻を出版。
第10巻の翻訳は3月に終えた。

ポーランド語は擬音語が乏しく、足音の「タッタッタ」は「TUPTUPTUP(トゥップトゥップトゥップ)」など、オリジナルの擬音語を充てた。

原作者の中沢啓治さん(72)は「ポーランドはアウシュビッツなど戦争の悲劇を知る国。周りの国にも広がって戦争や核兵器の恐ろしさが伝われば」と完成を喜ぶ。
渡辺さんは「ゲンの力強さを感じるとともに、原爆文学や日本文化に興味を持つポーランド人が増えたらうれしい」と話す。(藤田龍治)

(「ポーランド語版の「ゲン」全10巻完成」中国新聞 2011年8月16日)




「8年もかけてポーランド語に翻訳されちゃったんじゃね。ご苦労さまでした」

「大学の仕事の合間を見ての翻訳作業じゃろうけぇ、時間もかかっちゃったじゃろうの」

「足音の「タッタッタ」は、「TUPTUPTUP(トゥップトゥップトゥップ)」いうて表現してんじゃ。タップダンスの「タップ (TAP)」と関係がありそうな感じがするね」

「擬音語や擬態語を翻訳するのは大変じゃけぇ、オリジナルの擬音語を作って対応しちゃったんじゃろうの。あと、広島弁をポーランドの方言に訳しとってんじゃそうな」

「なるほど。標準語じゃのうて方言で表現しとってんじゃね。ところで、『はだしのゲン』は何ヶ国語に翻訳されとるんじゃろうか?」

「プロジェクト・ゲンによると、以下のとおりじゃ」



■全巻出版
英語版・ロシア語版・朝鮮語版・スペイン語版・タイ語版・フランス語版・ポーランド語版

■出版中
ドイツ語版・オランダ語版・イタリア語版・トルコ語版・エスペラント語・ウクライナ語版・フィンランド語・ポルトガル語

■出版準備中
中国語・ウズベキスタン語版・フィリピン語版・ヴェトナム語版・ペルシャ語・インドネシア語






↓プロジェクト・ゲンについては、こちら↓

プロジェクト・ゲン





「今日は、漫画『はだしのゲン』のポーランド語版が完成したことについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広島とスポーツ 広島市中央図書館

2011年08月17日 | 広島の話題
「今、広島市中央図書館で「広島とスポーツ」という企画展をやっとるけぇ、見に行ってきたんじゃ」



原爆で廃墟と化した広島から、復興に向けて立ち上がる市民の心のよりどころとして、人々に勇気を与えてくれた「スポーツ」について、図書館所蔵資料やパネル、写真、記念グッズなどで紹介します。
サッカーやバレーボール、高校野球から広島カープなど多くのスポーツに関する資料から、苦難を乗り越えて復興していく広島のたくましさを感じていただけると思います。
戦後初めて広島で開催された第6回国民体育大会秋季大会(ひろしま国体)の写真や記念バッジ、カープ樽募金の「樽」なども展示します。

(「企画展「広島とスポーツ-廃墟からの復興-」」人が、本が、めぐるステーション 広島市立図書館)




「戦後復興期の広島のスポーツを取りあげとってんじゃね」

「「マックアーサー元帥杯競技大會(マッカーサー元帥杯競技大会)」という大会があったのには驚いたのう。しかもその第3回大会が、1949年(昭和24)の8月に広島で開催されたんじゃ」

「1949年といえば、日本はまだ連合軍の占領下にあったんよね。ほいで、どんな競技をされたん?」

「硬式・軟式のテニスと、卓球だけの競技大会じゃ。とはいえ、全国から約2,000人の選手が集まったそうじゃ」

「戦後4年で、広島市内で全国大会が開かれるようになったというわけじゃね」

「このときに作られたのが、広島市民中央運動場庭球場(現:広島市中央庭球場)と市民会館(現:中央公民館)じゃ」

「場所は?」

「中央庭球場は今と同じ場所じゃが、中央公民館は旧広島市民球場の電車通り側にあったんじゃ。今は、基町高校から道路を隔てて西側にあるんじゃがの。ちなみに1949年の広島のスポーツは、こんな出来事があったんじゃ」



1月 第27回全国高等学校蹴球選手権大会で鯉城高校(現:広島県立広島国泰寺高校)が優勝

9月 広島野球倶楽部カープが創設され、日本野球連盟に届け出る






「ほいで、2年後の1951年(昭和26)に開かれた第6回国民体育大会(以下「広島国体」と略す)でも、中央庭球場が使われたんじゃ」

「昭和26年で第6回ということは、国体は戦後間もなく始まったんじゃね」

「ほうじゃのう。第1回の夏季大会は、長崎に原爆が投下されてからちょうど1年後にあたる、1946年(昭和21)の8月9日に兵庫県で開幕しとるんじゃ」



戦後の混乱から日本のスポーツ振興を役目を立てようと初めて開催された。
沖縄を除く46都道府県5,377人が全員、食糧を持参した。

(「第1回国民体育大会」ウィキペディア)




「参加者全員が食糧を持参した、というのが時代を感じるねぇ」

「広島国体は全国から約1万3,000人が参加されて、広島市を主会場に福山・尾道・三原・呉などで開催されたんじゃ。会場については、以下のとおり」



水泳:呉市市営プール

漕艇(そうてい。ボート):宮島町宮島口コース

ヨット:宮島町包ヶ浦ヨットハーバー

陸上:広島市県営総合グランド

サッカー:広島市国泰寺高グラウンド

ホッケー:広島市山陽高グラウンド 他

ボクシング:尾道市千光寺公園

バレーボール:呉市二河コート 他

体操:広島市広大付高体育館

バスケットボール:福山市福山南高 他

レスリング:広島市本川小講堂

ウエイトリフティング:三原市広大三原分校

ハンドボール:広島市皆実高グラウンド 他

ソフトテニス(軟式庭球):呉市稲荷町庭球場

卓球:呉市宮原高 他

軟式野球:呉市呉広球場 他

相撲:三原市西宮相撲場

馬術:福山市市営競馬場

柔道:福山市八幡宮境内

ソフトボール:尾道市千光寺公園

フェンシング:三原市三原小講堂

バドミントン:広島市広大東雲分校

弓道:広島市広大本部グラウンド

射撃:呉市三河狭射撃場

ラクビー:広島市県営ラグビー場 他

高校野球:福山市市営球場

(「第6回国民体育大会」ウィキペディア)




「学校の施設を借りて開かれた競技もあったんじゃね」

「そういう施設がまだまだ足りんかった時代じゃけぇの」

「お金も足らんかったじゃろうね」

「資金を調達するために、体育宝くじが発売されたそうじゃ。1枚25円。特等から5等まであって、特等は50万円が1本じゃったそうな」

「相撲は大食の人が多かったじゃろうけぇ、食料の調達が大変じゃったろうね」

「会場となった三原市では、500人の選手を受け入れられたそうじゃ。それでどれだけの量を食べたかというと…」



大会3日間で、米約1,800kg(1俵60キログラムと換算)、野菜約1,900キログラム、魚約260キログラム、肉225キログラム、卵約1万個を食べ、これに酒900リットルを消費したという。

(「被爆50周年 図説戦後広島市史 街と暮らしの50年」広島市 1996年)




「単純計算すると、1人1食で1.2キログラム(約8合)の米を食べたことになるんじゃ」

「茶わん1杯を200gとすると、1食で6杯も食べちゃったことになるんじゃね」

「卵なんか、1人1食で約7個も食べた計算になるんで」

「う~ん、すごい…」

「おかげで、市民に配給されるはずの米が足らんようになってしもうたけぇ、パンやうどんの代用食でまかなった市民の方もおられたんじゃと」



「余談じゃけど、広島城が再建されたのも、この年じゃなかったっけ?」

「木造の天守閣が建てられたんじゃが、これは国体が終わった後に解体されとるんよ。鉄骨鉄筋コンクリート造で復元されたのは、1958年(昭和33)のことじゃ」





↓広島市中央庭球場については、こちら↓

「中央庭球場・中央バレーボール場」公益財団法人広島市スポーツ協会





↓中央公民館については、こちら↓

広島市中央公民館 トップページ





↓広島城については、こちら↓

広島城ホームページ メイン





「今日は、戦後間もなくの広島とスポーツについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戸坂の供養塔 広島市中区戸坂

2011年08月16日 | 広島の話題
「先日、NHKで『碑(いしぶみ)の彼方に』という番組をやっとったのう」

「広島の街のあちこちに、原爆に関する碑がたくさんあるよね」

「この番組では、広島は碑の最も多い街で400近くある、と言うとられたんじゃ」

「そんなにたくさんあるもんなんじゃ…」

「で、この番組の冒頭で紹介されとったのが、戸坂(へさか)にある供養塔。原爆慰霊碑の中でももっとも早い時期に建てられたものの一つで、なんと、原爆投下から2ヶ月後の昭和20年10月に建てられたそうじゃ」



戸坂の供養塔
(広島市東区戸坂長尾台 戸坂やすらぎ墓苑内)




戸坂の供養塔(左)と説明文碑(右)



「そんなに早く?」



供養塔は昭和二十年十月に建てられたものであるが戸坂村が広島市に合併して四十周年の節目に当り説明文碑を建立して後世に残す
  平成七年四月十日
    戸坂連合社会福祉協議会

(供養塔の説明文碑(裏))




「番組のスタッフがこの供養塔を訪ねて歩くんじゃが、この供養塔のことを知っとられる方がほとんどおらんかったんじゃ」

「むかしのもんじゃけぇかね?」

「それもあるじゃろうし、建てられとる場所が団地から離れた、山に入った場所ということも関係しとるんかもしれん。それにしても、この供養塔のことを知らん方が多いというのは、やっぱり記憶が風化じゃろうの。そのことに心を痛められたのか、こんな活動をされとる方もおられるんじゃ」



昭和20年8月6日、広島市に1発の原子爆弾が投下されました。
爆心から約6キロメートル、当時の人口1440人、今日の24000人からは、想像もつかないほどの静かな農村戸坂に、“あの日何が起こったのか”

この記録は、わずかな手がかりをもとに、昭和51年の初夏から1年がかりで、地域のかたがたを中心に、聞き込み、あるいは、寄せられた手記をまとめたものである。

(「村人の手記・証言/はしがき」一軍医と村人の記録 ―戸坂原爆の記録―)






「被爆者の方は、なぜ戸坂に逃げて来られたんかね?」

「市内から近いということもあるんじゃろうが、戸坂には陸軍病院の分院があったんじゃ」



昭和二十年八月六日原子爆弾が投下され広島市は壊滅し多くの被爆者が陸軍病院戸坂分院(戸坂小学校等)に避難し死亡された方々の遺骨を仮埋葬しその標識としてこの供養塔が建立された

(供養塔の説明文碑(表))




「なるほど。どれくらいの方が、広島市内から逃げて来られたんかね?」



戸坂分院にやってきた負傷者は、太田川沿いの県道筋から約6000人、東練兵場(ひがしれんぺいじょう)や尾長(おなが)・矢賀(やが)から中山峠を越えて約3500人、大芝(おおしば)や長束(ながつか)方面から太田川を渡って来たのが約1500人、市内から太田川を舟で運ばれて来た約2000人と、合わせておよそ1万3000人ぐらいだといわれています。
そして後に汽車で各地に運ばれて行った約6500人と少し良くなって病院に来なくなった約2000人を除(のぞ)く約4500人が治療(ちりょう)を受けていました。
このうち死んだ人は21%の1300人だといわれています。

「戸坂の歴史 第6章 原爆と戸坂」戸坂城山小学校




「ここだけで1300人もの方が亡くなっちゃったんじゃね」

「黒川万千代『原爆の碑』(新日本出版社 1982年)によると、1959年(昭和34)の4月、約600の遺骨がこの供養塔から平和公園の納骨堂に納められたそうじゃ」





↓戸坂の供養塔については、こちら↓

「『碑(いしぶみ)の彼方に』 1/6 戸坂の供養塔」YouTube





「今日は、戸坂の供養塔について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広島のお盆の風物詩 盆灯籠

2011年08月15日 | 季節の話題
「自分たちが当たり前だと思ってやっていることが、ほかの地方の人から「なに、それ?」と見られてしまうことがあるよのう」

「『秘密のケンミンSHOW』を観よったら、よう出てくるよね」

「広島県西部でお盆のお墓参りに飾るもの、といえば盆灯籠(ぼんどうろう)じゃのう」

「お盆には、ごく当たり前に飾っとるけぇね。逆に、「えぇ? 全国の皆さんはこれを飾られんの!?」と思うたもんね」

「ご存知ない方に、説明しとこうかの。盆灯籠は、長さ約1・5メートルほどの竹の先を6つに割って、そこに赤、黄、紫などの紙を張り合わせたもんじゃ。紙が張っていない方の竹の先を斜めにカットして、地面に突き立てる。または、あらかじめ穴を掘っておいて、そこに刺す」

「値段は、500円から1000円くらいかね」

「映画『夕凪の町 桜の国』(2007年)でも、堺正章(さかい まさあき)演じる石川(旧姓:平野)旭が、広島で墓参りをするシーンにも出てきとったのう」

「この盆灯籠がたくさん並ぶと、カラフルで、とってもきれいなんよね」

「お盆にお墓参りに来た、という感じがするよのう」




「初盆を迎えたお墓には、色のない、白一色の盆灯籠が飾ってあります」







「そういや、この盆灯籠の由来は?」

「広島県西部には、安芸門徒(あきもんと)いうて浄土真宗(じょうどしんしゅう)の信者が多いんじゃ。その安芸門徒が江戸時代に飾り始めたのが起源とされとるんじゃの」



一説によれば、江戸時代の後期、広島城下の八丁堀(はっちょうぼり)界隈(かいわい)に立ち並んでいた町家。
現在の紙屋町(かみやちょう)あたりに住む紙商人の愛娘が死去したときに、両親がその死を悼(いた)んで灯ろうを作って墓に飾ったのが始まりといわれている。

「Q.「何故、広島だけお盆に盆灯ろうを立てるの?」」広島ホームテレビ




「余談じゃが、紙屋町という町名は、江戸時代、このあたりに紙を扱う商人が住んどったことに由来するそうじゃ」

「うーん。そりゃ、知らんかったね…」





「そういや、お義父(とう)さんのお墓には今年、盆灯籠を飾らんかったのう」

「盆灯籠は、後片付けが大変なんよね。墓守(はかもり)をしてもろうとる、実家の伯父さんが年を取っとってじゃけぇ、今年から飾らんことにしたんよ」

「後片付けの問題もあるし、竹と紙の燃えやすい材料で作ってあるけぇ、火事になりやすいという問題もあるんよの」

「むかしは、盆灯籠に火を灯(とも)しよったけぇね」

「ほいじゃけぇ、最近は盆灯籠を自粛するよう呼びかけとる墓地があるんじゃ。大きい墓地になったら、千・万単位で盆灯籠を処分せんにゃいけんけぇの」

「うーん、この盆灯籠が広島で見られんようになったら残念じゃね」

「かといって、お墓参りに盆灯籠を持って行って、お墓参りの後、すぐに持って帰るようじゃ意味がないしのう。なんかええ方法はないもんかのう…」





「今日は、広島の盆灯籠について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする