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映画『愛と死の記録』 広島市映像文化ライブラリー

2011年08月09日 | まんが・テレビ・映画
「今、広島市映像文化ライブラリーで「平和のシネマテーク2011」、八丁座で「ヒロシマ平和映画祭プレ」ということで、平和をテーマにした映画が上映されとります」

「8月じゃけんね」

「先週の金曜日、8月5日は『愛と死の記録』という映画を映像文化ライブラリーで観てきたんじゃ」

「どんな映画なん?」



渡哲也と吉永小百合が主演した純愛映画。
楽器店に勤める松井和江は店の前でバイクに轢(ひ)かれそうになるが、バイクを運転していた三原幸雄と恋に落ちる。
仕事中に貧血で倒れた数日後、幸雄は平和公園で、自分が四歳の時に被爆したこと、原爆で両親を亡くしたこと、原爆症を発症したことを告白した。
原爆病院に入院した幸雄を、和江は毎日看病し、回復を祈って千羽鶴を折り続けた。
しかし幸雄は八月の終わりに病死してしまう。

(『愛と死の記録(1966)』映画データベース-allcinema)




「日活の純愛映画といえば、吉永小百合と浜田光夫(はまだ みつお)のコンビ。『愛と死をみつめて』(1964年)なんかがが有名じゃのう」

「♪まこ 甘えてばかりでごめんね… の歌の映画?」

「ほうじゃの。この映画も吉永・浜田コンビの予定じゃったんじゃが、この映画の撮影に入る前に浜田光夫がケガをされたけぇ、代わりに渡哲也が出演することになったそうじゃ」

「そんなことがあったんじゃ」

「渡の親友役に中尾彬。ほかには、芦川いづみ、佐野浅夫、滝沢修も出とっちゃったのう」

「うちは、吉永さん、渡さん、中尾さんの若いころって見たことがないね」

「わしも初めて見たんじゃ。中尾彬は、意外とかわいい顔をしとっちゃったのう」

「へぇ」

「とにかく、この映画は45年前の映画じゃけぇ、出演者がみんな若い! しかも、全員が広島弁で話してんじゃ」

「そういや、吉永さんは原爆詩の朗読なんかをやっとってじゃろ。この映画もなにか関係あるんかね?」



広島を舞台にした『愛と死の記録』の出演や、『夢千代日記』(NHK)で原爆症に苦しむ主人公を演じたことをきっかけに、1986年(昭和61年)からボランティアで原爆詩の朗読会をスタートさせている。
現在では女優としての活動のほか、反戦・反核運動をライフワークとして力点を置いている。

(「吉永小百合」ウィキペディア)




「へぇ、そうじゃったんじゃ」

「ちなみに、広島平和記念資料館の音声ガイドは、吉永小百合さんが吹き込まれとってんじゃ」





「この映画は、大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』で紹介された実話を基にしとるんじゃ。4歳の時に被爆した青年が、20歳で白血病にかかったんよ。医師たちの治療によって2年間、青年は病気の進行を抑えることができたんじゃ」



しかし、青年は、かれの二年間を猶予の時とは見なさなかった。
かれは敢然(かんぜん)として、人間らしく生活し、社会的存在たることを希望した。

(大江健三郎『ヒロシマ・ノート』岩波新書 1965年)




「医師たちは青年のために仕事を探し、青年は印刷会社に就職することができたんじゃ」



青年は、この二年間を本当に生きようとしたのだ。

(略)

かれがどのように真実に生きようとしたか、贋でもなければ、ツクリモノでもない、真の現実生活を生きようとしたかれは、青年がひとりの娘と愛しあうようになり、婚約したということで、いかにもあきらかであろう。
恋人は楽器店につとめていた二十歳だった。

(同上)




「青年は、いじけたり、引きこもったりすることなく、自分の命を精一杯生きて、人を愛して、そして死んでいったんじゃの」

「『ヒロシマ・ノート』が出版されたのが1965年(昭和40)で、『愛と死の記録』が公開されたのが1966年(昭和41)。戦後20年たったころの話なんじゃね」





「この映画は広島でロケをやっとるけぇ、今から45年前の1966年(昭和41)の広島がよぉけ出てくるんよ。まずは、荒神橋(こうじんばし)」

「市内電車で広島駅を出ると、一番最初に渡る橋じゃね」

「ここをまっすぐ行くと八丁堀・紙屋町方面へ、左に曲がると比治山方面へ行くんじゃ」

「むかしからある橋じゃけぇ、橋自体は今とほとんど変わりがないじゃろうね」

「今の橋が作られたのが1939年(昭和14)じゃけぇの。もっとも、橋の周囲の景色は、今とまったく違うとるがのう」

「ほうじゃね」

「幸雄(渡)と藤井(中尾)が、それぞれバイクの後ろに彼女を乗せてツーリングに出かけるシーンがあるんよ。広島市内から国道31号線を通って音戸大橋を渡って行くんじゃが、音戸大橋は1961年(昭和36)に開通したばかりで、このころはまだ有料じゃったんじゃ」

「バイクの2人乗り?」

「今じゃたら、ヘルメットをかぶって、スタントで吹き替えをしたりするんじゃろうが、当時は、吹き替えなし。しかも、砂利道や電車の軌道上も平気で走っとったけぇの」

「すごいね」

「2人とも仕事をしとるけぇ、仕事場も出てくる。和江の勤めとったレコード屋はわからんが、幸雄と藤井が働いとったのが中本総合印刷という、実在の会社じゃ」

「印刷会社じゃったら、印刷する人の役?」

「製版いうて、印刷用の版を作る部署じゃ。印刷の前の段階になるんじゃが、写真の原理を応用しとるけぇ、暗室の中でライトをつけて作業せんにゃいけんのじゃ」

「夏は暑いじゃろうね」



蔵原惟繕(くらはら これよし)監督の1966年日活作品「愛と死の記録」。
中本総合印刷の社屋は、そのロケ地として同年夏の1ヶ月間、撮影に使用されました。

被爆経験を持つ青年(渡哲也)とその恋人(吉永小百合)の悲恋を描いた純愛ドラマである本作では、主人公の青年の勤務先として中本総合印刷が実名で登場し、社屋の内外はもちろん、写真製版などの作業場面も登場します。
また、的場や平和公園など、復興がすすむ60年代広島の町並みも見ることができます。

弊社には、撮影終了後に出演者の方々から贈られた寄せ書きが残っております。

(「1966年夏、広島で撮影された、映画「愛と死の記録」で中本総合印刷が舞台となりました。」広島 印刷 中本総合印刷 ユニバーサルポストグループ)




「ほかには、1957年(昭和32)に完成した旧広島市民球場や、1958年(昭和33)に作られた原爆の子の像も出てきとったのう。自分の過去について幸雄が和江に告白するのが、原爆ドームの中じゃ」

「このころは、まだドームの中に入ることができたんじゃね」

「幸雄が入院するのが、1956年(昭和31)に広島赤十字病院の構内に建てられた原爆病院」

「原爆病院に入院して、そのまま亡くなってんじゃね」

「広島といえば、川の街。幸雄の下宿からも、和江の家からも川が見えという設定になっとるんじゃ」





↓広島市映像文化ライブラリーについては、こちら↓

広島市映像文化ライブラリー





↓八丁座については、こちら↓

広島の映画館サロンシネマ、シネツイン、八丁座の広島地場劇場運営会社【序破急】





「今日は、映画『愛と死の記録』について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」

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