水害記念碑
大正15年の水害
被害状況
水害は2度、襲ってきた
「前回(「榎川沿いを歩く」)は、西日本豪雨で氾濫した榎川(えのきがわ)の話じゃったね」
「今回はその榎川の近くにあって、えの宮公園内に建つ「水害記念碑」についてじゃ」
「この碑があるのは、知っとった?」
「もちろん、知っとった。が、子どものころは全然興味なかったし、大人になってからも、水害に対してはほとんど興味がなかったけぇの、正直な話」
(撮影日:2018年8月5日)
[表面]
水害記念碑
正四位勲三等 法學博士 正木 亮 書
[裏面]
大正十五年九月十一日前夜半来大豪雨アリ榎川其他ノ各河川氾濫シ堤防決潰三千五百間橋梁流失二十余家屋流出二十六半潰埋没百一耕地白磧化六十六町歩田畑山林河川等被害枚挙ニ遑非ズ更ニ死者三名負傷者数名被害総額百萬円ヲ突破ス此惨状 天聴ニ達シ畏クモ御内幣金ヲ下賜セラル聖恩ノ無窮恐懼感激ノ極地也爾来倉本村長陣頭指揮里民一致団結県民全般ノ労力奉仕ニヨリ此大災害ヲ克服シテ今日ノ隆昌ヲ致セリ至尊ノ御聖徳仰賛ノ為建碑焉
昭和十九年九月
(碑文より)
「これを読んでいくと…、
大正15年(1927年)9月11日、前日の夜から大雨が降ったため、府中村では榎川をはじめとする河川が氾濫。
堤防が決壊(決潰)し、橋や家屋は流され、田畑や山林も被害を受けた。
死者3名、負傷者数名。
被害総額は100万円を超えた。
…といったところかの」
「この惨状が天皇のお耳にも入って御内幣金(ごないどきん)を賜った、ってあるね」
「天皇のご恩に「恐懼感激(きょうくかんげき。嬉しさのあまりに、恐れかしこまりながらも喜ぶこと)」したともあるのう」
「いきなり天皇の話になってしもうたのは、なんで?」
「この碑が建てられたのは、水害から18年後の昭和19年(1944年)9月」
「昭和19年9月といえば、太平洋戦争も末期。なぜこの時期に建てられたんじゃろ?」
「大正15年の大水害を克服したからこそ、今日の隆昌(りゅうしょう。栄えること)がある。今の戦争という国難も、みんなで克服すれば将来の隆昌がある、と村民を鼓舞するためにこの碑が建てられた、とわしゃ想像するんじゃがの」
「このときの被害がどのくらいあったか、具体的に見ていくと…」
死亡者:3名
負傷者:3名
家屋被害:156戸
全流出:20戸、全潰:10戸、
全埋没:49戸、半壊埋没:42戸、
附属建物流出:6戸、床上土砂流入:29戸
山林崩壊:230反6畝
水稲減収
収穫皆無:490反、1,225石
5割以上減少:560反、900石
3割以上減少:410反、410石
(『安芸府中町史 第2巻 資料編』1977年9月)
「1反(たん)って、今の面積でいうと、どのくらいの広さ?」
「約10アール。米1石(こく)分が収穫できる広さが「反」という単位じゃった」
「1石っていうと、成人が1年間で消費するお米の量じゃね。でも、これだけじゃどのくらいの被害があったか分かりづらいね」
「ほいじゃ、当時の新聞記事から抜き書きしてみよう」
早稲は出穂期に入り秋の豊作を予想されていた稲田は浸水のため沃土と共に流され後は崩壊した山の土砂で埋められ一夜のうちに見るも惨憺たる荒地と化して仕舞った、残った住宅には根こそぎ流出された大木岩石等がはまり込み土砂は二階に迄浸入して居て(後略)
(『芸備日日新聞』大正15年9月13日)
「収穫皆無=収穫がゼロ=収入無し。というわけで翌、昭和2年(1927年)、収穫皆無地の課税は免除されたそうじゃ」
「この年の水害は、実は2回あったそうじゃ」
「2回も? それは、いつ?」
「9月11日と、その水害の応急工事がほとんど完成し、いよいよ本格的な復旧工事に入ろうとした矢先の9月23日」
「今年(2018年)でいうと、7月6日から7日にかけての豪雨後の、28日から29日にかけての台風12号接近のようなもんかね?」
「台風12号は、幸いなことに、広島にはほとんど被害がなかったが」
「厳島神社の管絃祭(かんげんさい)や、広島みなと夢花火大会は中止になってしもうたけどね…」
「話を元に戻して…、村民たちが9月11日の水害の後始末で疲れ切っていたため、村長は広島市に応援を求めたそうじゃ」
「で、応援を派遣してもろうたと」
「一般市民の有志者、在郷軍人会、青年団などで復旧の応援をすることになった」
復旧工事は延長二十五町に及び一日約七百人の手を要し主として埋没土砂の浚渫を行ふものである。
(『芸備日日新聞』大正15年9月29日)
「昭和2年にまとめられた府中村水害誌稿本によると、9月11日から11月15日まで、195団体、のべ1万8,000人の方が、村外からこの水害の復旧応援に来られたそうじゃ」
「今も広島には、公や私(ボランティア)を含めて、たくさんの方が復旧の手助けをされとってじゃね」
「皆さん、おとついくらいから朝晩が少し涼しくなってきたとはいえ、この猛暑の中、お疲れさまです。そして、ありがとうございます」
「今日は、安芸郡府中町にあって、先月氾濫した榎川の近くにあるえの宮公園内に建つ「水害記念碑」について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
大正15年の水害
被害状況
水害は2度、襲ってきた
「前回(「榎川沿いを歩く」)は、西日本豪雨で氾濫した榎川(えのきがわ)の話じゃったね」
「今回はその榎川の近くにあって、えの宮公園内に建つ「水害記念碑」についてじゃ」
「この碑があるのは、知っとった?」
「もちろん、知っとった。が、子どものころは全然興味なかったし、大人になってからも、水害に対してはほとんど興味がなかったけぇの、正直な話」
(撮影日:2018年8月5日)
[表面]
水害記念碑
正四位勲三等 法學博士 正木 亮 書
[裏面]
大正十五年九月十一日前夜半来大豪雨アリ榎川其他ノ各河川氾濫シ堤防決潰三千五百間橋梁流失二十余家屋流出二十六半潰埋没百一耕地白磧化六十六町歩田畑山林河川等被害枚挙ニ遑非ズ更ニ死者三名負傷者数名被害総額百萬円ヲ突破ス此惨状 天聴ニ達シ畏クモ御内幣金ヲ下賜セラル聖恩ノ無窮恐懼感激ノ極地也爾来倉本村長陣頭指揮里民一致団結県民全般ノ労力奉仕ニヨリ此大災害ヲ克服シテ今日ノ隆昌ヲ致セリ至尊ノ御聖徳仰賛ノ為建碑焉
昭和十九年九月
(碑文より)
「これを読んでいくと…、
大正15年(1927年)9月11日、前日の夜から大雨が降ったため、府中村では榎川をはじめとする河川が氾濫。
堤防が決壊(決潰)し、橋や家屋は流され、田畑や山林も被害を受けた。
死者3名、負傷者数名。
被害総額は100万円を超えた。
…といったところかの」
「この惨状が天皇のお耳にも入って御内幣金(ごないどきん)を賜った、ってあるね」
「天皇のご恩に「恐懼感激(きょうくかんげき。嬉しさのあまりに、恐れかしこまりながらも喜ぶこと)」したともあるのう」
「いきなり天皇の話になってしもうたのは、なんで?」
「この碑が建てられたのは、水害から18年後の昭和19年(1944年)9月」
「昭和19年9月といえば、太平洋戦争も末期。なぜこの時期に建てられたんじゃろ?」
「大正15年の大水害を克服したからこそ、今日の隆昌(りゅうしょう。栄えること)がある。今の戦争という国難も、みんなで克服すれば将来の隆昌がある、と村民を鼓舞するためにこの碑が建てられた、とわしゃ想像するんじゃがの」
「このときの被害がどのくらいあったか、具体的に見ていくと…」
死亡者:3名
負傷者:3名
家屋被害:156戸
全流出:20戸、全潰:10戸、
全埋没:49戸、半壊埋没:42戸、
附属建物流出:6戸、床上土砂流入:29戸
山林崩壊:230反6畝
水稲減収
収穫皆無:490反、1,225石
5割以上減少:560反、900石
3割以上減少:410反、410石
(『安芸府中町史 第2巻 資料編』1977年9月)
「1反(たん)って、今の面積でいうと、どのくらいの広さ?」
「約10アール。米1石(こく)分が収穫できる広さが「反」という単位じゃった」
「1石っていうと、成人が1年間で消費するお米の量じゃね。でも、これだけじゃどのくらいの被害があったか分かりづらいね」
「ほいじゃ、当時の新聞記事から抜き書きしてみよう」
早稲は出穂期に入り秋の豊作を予想されていた稲田は浸水のため沃土と共に流され後は崩壊した山の土砂で埋められ一夜のうちに見るも惨憺たる荒地と化して仕舞った、残った住宅には根こそぎ流出された大木岩石等がはまり込み土砂は二階に迄浸入して居て(後略)
(『芸備日日新聞』大正15年9月13日)
「収穫皆無=収穫がゼロ=収入無し。というわけで翌、昭和2年(1927年)、収穫皆無地の課税は免除されたそうじゃ」
「この年の水害は、実は2回あったそうじゃ」
「2回も? それは、いつ?」
「9月11日と、その水害の応急工事がほとんど完成し、いよいよ本格的な復旧工事に入ろうとした矢先の9月23日」
「今年(2018年)でいうと、7月6日から7日にかけての豪雨後の、28日から29日にかけての台風12号接近のようなもんかね?」
「台風12号は、幸いなことに、広島にはほとんど被害がなかったが」
「厳島神社の管絃祭(かんげんさい)や、広島みなと夢花火大会は中止になってしもうたけどね…」
「話を元に戻して…、村民たちが9月11日の水害の後始末で疲れ切っていたため、村長は広島市に応援を求めたそうじゃ」
「で、応援を派遣してもろうたと」
「一般市民の有志者、在郷軍人会、青年団などで復旧の応援をすることになった」
復旧工事は延長二十五町に及び一日約七百人の手を要し主として埋没土砂の浚渫を行ふものである。
(『芸備日日新聞』大正15年9月29日)
「昭和2年にまとめられた府中村水害誌稿本によると、9月11日から11月15日まで、195団体、のべ1万8,000人の方が、村外からこの水害の復旧応援に来られたそうじゃ」
「今も広島には、公や私(ボランティア)を含めて、たくさんの方が復旧の手助けをされとってじゃね」
「皆さん、おとついくらいから朝晩が少し涼しくなってきたとはいえ、この猛暑の中、お疲れさまです。そして、ありがとうございます」
「今日は、安芸郡府中町にあって、先月氾濫した榎川の近くにあるえの宮公園内に建つ「水害記念碑」について話をさせてもらいました」
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