通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

高野虎市とチャップリン

2022年05月24日 | 広島の話題


喜劇王として知られる
チャールズ・チャップリン
(1889年-1977年)の
秘書を務めた、広島出身の
高野虎市(こうの とらいち。
1885年-1971年)
という人をご存じじゃろか?
その高野を紹介する企画展
「チャップリンの日本人秘書
高野虎市-「コーノ」に寄せられた期待-」
が、広島県立文書館で
6月11日(土)まで開かれとるそうじゃ。



↓「チャップリンの日本人秘書 高野虎市-「コーノ」に寄せられた期待-」については、こちら↓

「企画展・収蔵文書展」広島県立文書館



今日は、
高野虎市とチャップリン
についての話でがんす。



高野虎市は1885(明治18)年、
広島県安佐(あさ)郡八木(やぎ)村
(現:広島市安佐南区八木)の
裕福な家庭に生まれる。

1900年、シアトルのいとこを頼って
わずか15歳でアメリカに渡る。

1911年、一時帰国。

1913年、父が亡くなったため、家を継ぐ。
安崎イサミと結婚する。

1914年、父が残した土地の
ほとんどを売り払い、
ロサンゼルスに移住。
パイロットを目指して
飛行学校に通い免許を取る。

飛行学校に通い免許を取る、
と紹介してあったんじゃが、
1914年といえば
ライト兄弟による初飛行から
わずか10年くらいのこと。
15歳でアメリカに渡ったことといい、
飛行学校に通ったことといい、
高野は行動的な人じゃったんじゃないかと
わしゃ勝手に想像してしまうんじゃが。
飛行機に関しては、
事故を起こしたことで妻の反対にあい、
運転手として働くことになったそうじゃ。

1916年、専属運転手を探していた
チャップリンと出会い、
週給30ドルで運転手として雇われる。

このとき31歳だった高野は、
誠実で勤勉に働き、
チャップリンからの
気まぐれな要求によく応えたことで、
信頼を得ていったそうじゃ。

1919年、チャップリンから
撮影所内の屋敷を与えられる。
また、高野の長男スペンサーには、
チャップリン自身が名付け親となり、
自らのミドルネームを与えた。

1921年、チャップリンの秘書となる。

チャップリンは高野を「コーノ」と呼び、
私事に関わることまで任せたという。
また、チャップリンが
日本びいきになったことで、
17人いた使用人がすべて日本人で、
中でも広島出身者が多かったそうじゃ。



チャップリンは1889年、
イギリスのロンドンで
芸人の子として生まれる。

1910年、カーノー劇団の
ニューヨーク公演で
アメリカ初舞台を踏む。

1913年、2回目のアメリカ巡演で
キーストン映画社と契約。

1914年、映画デビュー作『成功争ひ』が
公開される。


ちょびひげに山高帽。ステッキ手に滑稽に歩く独得のスタイルで人気を博した。
中国新聞に初めて載った作品は「チャップリンのパン屋」で、大正6年10月に太陽座の5周年記念興行で公開されている。7年には同館で「生活法」「駈落(かけおち)」「喧嘩(けんか)」「衝突」「スケート」など9本の上映が記事で確認できる。

(山中裕文『広島の映画・劇場史 第2部 花開く大衆文化 大正編4 米国映画の台頭』中国新聞セレクト 2021年3月28日)



文中に紹介されている太陽座は、
当時の地図で調べてみると
東洋座から道路をはさんで東側にあった。
東洋座は今の八丁座になるけぇ、
太陽座は今の天満屋八丁堀ビルがある
場所にあった映画館になるんじゃの。


↓八丁座については、こちら↓

広島の映画館サロンシネマ、八丁座





そのチャップリンは1931年2月、
高野を伴って世界旅行に出かける。
旅の最後の目的地として
高野の母国である日本を選び、
広島にも立ち寄る予定じゃったそうな。


高野氏も「私が広島県人なのでチャップリン氏も是非とも広島を訪れ、あこがれの厳島へ行くと申してゐます」(一九三二年四月十一日付『中国新聞』)という談話を残しています。

(広島県立文書館だより 第46号 6ページ)



高野としては、
チャップリンを伴っての帰国で
故郷に錦を飾るつもりじゃったらしい。


「氏は非常に静かなことを好み、狂的歓迎を嫌ふ性質なので、(中略)皆さんは彼を遇するに自由と解放を与へてやっていただきたいのです。」(同紙)

(広島県立文書館だより 第46号 7ページ)



チャップリンの来日に際しては
大騒ぎすることなく迎えてほしい、
と高野は訴えたんじゃの。
にもかかわらず、船で神戸に着いた
チャップリン一行が
列車で東京駅に着く(入京)と
熱狂的な歓迎を受けた。
1932年5月15日付の都新聞には、
次のような見出しが載った。


人殺し騒ぎの歓迎裡に
喜劇王昨夜入京
懐かしの日本へ来た喜びに
揉まれ揉まれて大ご機嫌

チヤプリンを
押し潰すなと騒ぐ
警官隊警戒の太い麻縄まで
切れさうに押し返す



新聞には、
たくさんの人にもみくちゃにされながら
(人殺し騒ぎの歓迎)、
それでも右手に花束を掲げる
(揉まれ揉まれて大ご機嫌)
チャップリンの写真が載っていた。

先ほど紹介した都新聞は、
1932年5月15日付じゃった。
1932年といえば、
今から90年前で、
昭和7年。
昭和7年5月15日といえば、
あの「五・一五(ごいちご)事件」
が起こった日。
武装した海軍の青年将校たちによって、
当時、内閣総理大臣だった
犬養 毅(いぬかい つよし)が
首相官邸で殺害された事件。

国内での歓迎ムードは自粛となり、
チャップリンは結局、
東京以外には箱根に出かけただけで
広島に立ち寄ることもなく、
6月2日に帰国したんじゃの。



時代は変わっていく。

映画の世界は、それまでの
サイレント映画(無声映画)から
トーキー映画(発声映画)へ。

チャップリンの世界旅行後、
1936年に公開された映画
『モダン・タイムス』は、
一部にセリフが入る以外は
音楽の伴奏と効果音のみによる
部分的なトーキー映画となった。

本作でヒロインを務めた
ポーレット・ゴダード
(1910年-1990年)は
チャップリンのパートナーとなり、
彼の私的なことにまで口出しをする。
高野はゴダードと衝突したことで、
チャップリンと別れることを
決めたそうじゃ。

1934年、秘書を辞めて帰国。
チャップリンらが設立した
ユナイトの日本支社長となる。

1938年、妻・イサミが
ロサンゼルスで死去。
アメリカ女子ソフトボールチームの
日本遠征の副団長として帰国。

1941年、スパイ容疑で逮捕される。
のち、釈放されるが、
日米開戦によって再逮捕、
強制収容所に収容される。

1948年、強制収容所から釈放される。

1956年、日本に帰国。
以後、日本とアメリカを往来し、
1960年から広島に住む。

1957年、渡辺忠雄(わたなべ ただお)
広島市長(1955年-1959年)の紹介で
ある女性と出会い、一緒に暮らす。

1971年、広島で死去。


2017年、広島県立文書館は
高野が広島で余生を共に過ごした
女性の家族から
高野の写真や手紙、旅行バッグ、
チャップリンのポートレイト、
チャップリンの似顔絵が刻まれた小物入れ
などを寄贈された。
今回の企画展には
それらが展示されている。



以下、余談。

明治時代の広島県は、全国で一番多く
移民を送り出していた県じゃった。
中でも安佐郡からの移民は
県内でも一番多かったそうじゃ。

海外へ移民した人たちは、
地元広島へお金を送った。
戦後、故郷・広島の惨状を知った
海外の広島県人会から
援助の手が差し伸べられた。
たとえば、
南カリフォルニア広島県人会からは
400万円の寄付金が届けられ、
このお金を元に児童図書館が建てられ
1953年に完成したんじゃの。

とはいえ、太平洋戦争中は
移民の人たちも大変な目に
遭(お)うとってんじゃ。
日本の敵国となった連合国、
アメリカやカナダやオーストラリアなどで
日系人の強制収容が行われた。
高野も日米が開戦した1941年に
強制収容所に収容され、
以後、収容所を転々としたという。
1948年に釈放されたときは61歳で、
ふたりの子どもは
それぞれ家庭を持っていたそうじゃ。


↓広島県の移民については、こちら↓

広島市デジタル移民博物館



以下、さらに余談。



チャップリンの秘書・高野が
日本人であることが知れると、
チャップリンに会いたいと
彼を頼ってくる人が増えた。
政治家、官僚、外交官、軍人、
実業家、ジャーナリストなど。
広島出身で藤田組(現:フジタ)創業者
藤田一郎(ふじた いちろう)もその一人。
藤田は欧米視察の途中で
チャップリンのスタジオを見学した。
一行の中にいたのが、
同じく広島出身で弁護士、
のち広島市長の渡辺忠雄。
高野は渡辺とその後も交流を続け、
広島に帰った高野に女性を紹介したのは
渡辺じゃったそうな。



今日は、
高野虎市とチャップリン
について話をさせてもろうたでがんす。


ほいじゃあ、またの。

(文中、敬称略)
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