通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

広島刑務所の土塀

2022年05月20日 | 見て歩き

広島刑務所の土塀
(明治19年~平成30年)

広島刑務所の土塀は 明治19年、前身の広島県監獄署の時代に、愛知県出身の左官服部長七氏により、土や砂を独自の配合で固めた「人造石」工法で建造されました。
土塀は、今日に至るまで、幾多の自然災害に耐え、さらに昭和20年8月6日、広島市に投下された原子爆弾の熱線や爆風により、広島刑務所の建物は全壊しましたが、倒壊することなく耐え抜き、以降も広島刑務所の最後の砦として建ち続けてきました。
広島刑務所の改築に伴い、この外塀が新しいコンクリート塀に変わっていく中で、地元住民の多くの声を背景に、保存が決定しました。

(説明板より)



先日、広島市内を流れる
本川沿いの桜を見ながら歩いていると、
吉島町にある広島刑務所で
こんなものを見つけた。



今日は、
広島刑務所の土塀
についての話でがんす。



原子爆弾は、
その破壊効果を最大限に発揮するため
空中で爆発させる。
原子爆弾が爆発した
空中での地点を「爆心点」、
その真下の地表面を「爆心地」と呼ぶ。

広島に投下された原子爆弾も、
早い段階から爆心地の確定が行われた。
爆心地を確定するための
手段のひとつとして用いられたのが、
壁、門柱、石灯ろう、橋の欄干などに
残された影。





爆心地周辺の地表面の温度は
3,000~4,000度にも達したといわれる。
ちなみに、鉄が溶ける温度が約1,500度。
それだけの高温であったため、
広島刑務所の壁にも、
影がはっきりと焼きつけられた。





市内各所に残る影の方向を調べることで
「爆心地」を、
また、その影の角度を調べることで
「爆心点」を確定することができる。

爆心地は現在、広島市中区大手町1丁目
島病院の南西側(東経132度27分27秒、
北緯34度23分29秒)
の上空約600メートルとされている。








以下、余談。


ここから先は、
こわぁい大人の話になるけぇの、
坊ちゃん、嬢ちゃんは
読んじゃいけんでぇ。

広島刑務所に収容された受刑者に、
美能幸三(みのう こうぞう)、
山上光治(やまがみ みつじ)いう、
有名なヤクザの方がおられるのは
ご存じのとおりじゃ。

美能は、美能組の組長で、
戦後の1950年ころから広島と呉を中心に
行われた暴力団同士の抗争事件、
「広島抗争」の中心人物のひとり。
網走刑務所での服役中、
そのあたりの経緯について綴った手記が
『仁義なき戦い』じゃった。
これがのちに映画化され、
菅原文太(すがわら ぶんた)さん演じる
広能昌三(ひろの しょうぞう)
のモデルとなった。

山上は、映画2作目
『仁義なき戦い 広島死闘篇』の主人公、
山中正治(やまなかしょうじ)
のモデルとなった、岡組の組員。
「殺人鬼」と呼ばれた
伝説のヒットマンで、
予科練の歌を口ずさみながら、
次々に人を殺していく。
演じたのは、
北大路欣也(きたおおじ きんや)さん
じゃったの。



訪問日:2022年4月3日



今日は、
広島刑務所の土塀
について話をさせてもろうたでがんす。


ほいじゃあ、またの。
コメント
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