通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

甲越峠~古代山陽道を歩く(その3)

2022年05月08日 | 見て歩き
古代山陽道をちんたら歩きながら
紹介していくこのシリーズ。


↓古代山陽道については、こちら↓

「ひろしま八区ぐるっと散策「みち」めぐり 古代山陽道」広島市公式ホームページ


前回は、
砂走(すなばしり)橋から
畑賀(はたか)小学校まで
についての話をさせてもろうた。


↓前回については、こちら↓


砂走橋から畑賀小学校~古代山陽道を歩く(その2)




今日は、
甲越(こうごえ)峠
についての話でがんす。



甲越峠(標高約200メートル)は、
広島市安芸区畑賀と
安芸郡府中町を結ぶ峠で、
今は県道84号
東海田(かいた)広島線が通っている。

古代山陽道は、東から西へ、
荒山駅家(現:安芸区中野東地区)から、
国府(今の県庁にあたる)の置かれた
安芸駅家(現:安芸郡府中町)を通って、
伴部駅家(現:安佐南区伴地区)へと
つながっていた。
荒山駅家から安芸駅家へは、
この峠を越えて行ったことから、
国府越え(こくふごえ)と名付けられた。
江戸時代に書かれた広島藩の地誌
『芸藩通志(げいはんつうし)』にも、
「国府越え」と記してある。
国府は「こふ」とも呼ばれたため、
「こふごえ」が「こうごえ」に、
「国府越え」が「甲越」に
なったといわれるそうじゃ。

府中町に住んでいたわしは、
中学の部活で府中から畑賀に向かって
何度か走ったことがあるんじゃの。



瀬野川から畑賀川に沿って上ってきて、
この交差点を左に曲がり甲越峠に入る。
府中町まで3.5キロメートル。



道路改修記念碑。

表面には寄付者の名前が刻んであるが、
…わしには読めんかった。
裏面には
「いろは順」と刻んであったので、
寄付金の多い少ないではなく、
いろはの順番で
名前を刻んどってんじゃろうの。

また、「昭和五年一月吉日建立」
とも刻んであった。
ということは、
1926年(大正15年)9月の
水害からの復旧を記念して
建てられたものかもしれん。
昭和5年1月は1930年1月じゃけぇ、
水害が起こってから3年半後に
なるけぇの。



為角(ためずみ)川沿いに立てられた
土石流危険渓流の看板。



鯉のぼりが、五月(さつき)晴れの空を
気持ちよさそうに泳いどって…、



つつじもきれいに咲いとった。
おぉ、甲越峠を越えるしんどさも
吹き飛ぶようじゃ。



船越(ふなこし)方面への分岐点。
ここを左に進むと、
船越中学校に行くそうじゃ。


↓船越中学校については、こちら↓

広島市立船越中学校



ランニングをする人が
追い越していった。
「このあたりを走って上る
物好きな人なんて
絶対におらんじゃろ」
と思うとったら、おっちゃったで。

ま、このあたりをちんたら歩く物好きも
ここにおったりしますがの。



4年前、2018年7月の
西日本豪雨の爪跡が残る。



甲越峠の頂上に着いた。
畑賀側から見たところ。



府中町側から見たところ。



新しい砂防ダム。
2018年7月の西日本豪雨の後に
作られたもののようじゃ。



峠を越えて府中町側に出ると、
視界が一気に開けて
広島市街が一望できる。
甲越峠を越えてきた疲れも
吹き飛ぶようじゃ。
絶景かな、絶景かな。

左手側(東側)には、
黄金山の向こうに宮島が見え、
右手側(西側)には、
比治(ひじ)山が見える。



瀬戸ハイムへ下りる道路の近くに、
「農士を称ふる碑」があった。


農士を称ふる碑

むかし里のひとびと深くこの辺りの山谷に分け入り手をもって石をおこし土を寄せ粒々猫額の水田を拓き岩間より湧き出づる水を引き里方より苗を背負いて細径を越え水稲一株一株を手植えては一歩を満たし能く一畝また一畝となす 国のため郷土の食糧自足のため汗と土にまみれ耕作を続けし頃の農士を偲び感慨転た措かざるものあり
仍ってここに之を誌す

昭和五十年晩秋
財団法人 広島青少年文化センター
理事長 筒井留三



【参考文献】
『日本歴史地名大系 第35巻 広島県の地名』平凡社 1982 641ページ
大坂佳照『あの峠を越えて 広島県の二百峠を歩く』文芸社 2013年 108ページ



訪問日:2022年4月30日




今日は、
安芸区畑賀と安芸郡府中町を結ぶ甲越峠
について話をさせてもろうたでがんす。

次回は、
揚倉(あげくら)山健康運動公園から
松崎八幡宮(はちまんぐう)跡
までの予定じゃ。


ほいじゃあ、またの。
コメント
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