「広島城で「江戸時代の学び」をやっとるけん、見に行ってきたで」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/30/ad5b5139ae27b16c0c2dcb01b43a1da9.jpg)
義務教育ではなかった江戸時代、こどもたちはその立場や家業に応じて様々な教育を受けていました。
時代劇でおなじみの寺子屋とはどんな場所だったのでしょうか?
試験もあったのでしょうか?
現代の学校と比較しながら、江戸時代のおおらかな学びの世界を紹介します。
会期:平成23年2月18日(金)-4月10日(日)
会期中無休
開催場所:広島城天守閣 第四層 企画展示室
開館時間:【2月中の土・日と3・4月中】9:00-18:00
【2月中の平日】9:00-17:00
入館はいずれも閉館の30分前まで
(「江戸時代の学び ~手習いからお受験まで~」広島城ホームページ)
http://www.rijo-castle.jp/rijo/main.html
「江戸時代の勉強の場いうたら、寺子屋(てらこや)じゃねぇ」
「寺子屋は庶民向けの教育をしとったんよ。武士向けの教育機関も別にあったんじゃ」
「えーと、藩校かいね?」
「藩校とか学問所とか呼ばれとったんじゃが、それぞれの藩が運営しとったんよの」
「今日は、「武士の教育」「庶民の教育」「寺子屋」について調べてみようかの」
【武士の教育】
「武士の家に生まれたら大変じゃったろうね。武術だけじゃのうて、ふつうの学問もせんにゃいけんかったけん」
「ほうじゃの。江戸時代の初めのころは武術が必要じゃたろうが、戦(いくさ)のない時代になると、算術や書類を処理する能力が必要となってくるけんの。算術といえば、昨年『武士の家計簿』という映画も公開されたよのう」
「お殿様への忠義や礼儀なんかも学ばんにゃいけんかったじゃろうね」
「そのほかにも、和歌や漢詩を詠んだり茶道をたしなんだりと、いろいろな教養を身につけんといけんかったそうじゃ」
「広島藩の藩校が今の修道中・高校に、福山藩の藩校が今の県立福山誠之館高校になったんよね」
「よう知っとるじゃん。広島藩の学問所は第7代藩主・浅野重晟(あさの しげあきら)が天明2年(1782)に、福山藩の誠之館(せいしかん)は第7代藩主・阿部正弘(あべ まさひろ)が安政元年(1854)に、それぞれ創設されたんじゃ」
「私塾(しじゅく)というのもあったよね?」
「昨年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』で話をすると、吉田東洋(よしだ とうよう)が少林塾という私塾を開いて、そこで後藤象二郎(ごとう しょうじろう)や岩崎弥太郎(いわさき やたろう)なんかも学んどるんじゃ」
「武市半平太(たけち はんぺいた)は道場を開いとっちゃったよね?」
「ほうじゃの。この道場が、後の土佐勤王党(とさきんのうとう)の基になったんじゃがの」
「お殿様はどんな教育を受けとっちゃったんかね?」
「ふつうの武士が学ぶものに加えて、政治・経済・軍学(ぐんがく)なんかも学んじゃったんじゃそうな」
「軍学いうたら、戦(いくさ)の勉強かいね?」
「ほうじゃの。たとえば、城を攻めるには城の構造を知っとく必要があるけん、その勉強なんかもされたそうじゃ」
↓映画『武士の家計簿』については、こちら↓
『武士の家計簿』オフィシャルサイト
http://www.bushikake.jp/index.php
【庶民の教育】
「庶民の教育といえば、「読み・書き・そろばん(読書・習字・算術)」じゃね」
「たとえば、商人は帳簿をつけるために、読み・書き・そろばんができんと困るよの」
「農民は?」
「お触れ書きいうて、橋のたもとや辻などに立て札が立てられとったのは、知っとるじゃろ?」
「ああ、あれが読めんと困るよね」
「あとは、土地の面積を測ったり、年貢の量を計算するのにそろばんが必要になったそうじゃ」
「習字に使う半紙はどうしよっちゃったんかね? 今みたいに、紙をぜいたくに使えたわけじゃないじゃろ?」
「半紙は真っ黒になるまで書いて、その上からまた字を書いたそうじゃ」
「ありゃま、そこまで使うちゃったんかいね?」
「真っ黒になった上から書いても、新しく書いた文字は光るけんの、困ることはなかったということじゃ」
「すごいねぇ」
【寺子屋】
「寺子屋って、全国にどのくらいあったんかね?」
「ウィキペディアによると、幕末には全国で16,560軒の寺子屋があったそうじゃ」
「へぇー」
「寺子屋の先生となったのは、僧侶や神官、武家の方が多かったそうじゃ。先生になると、生徒から「お師匠様」と呼ばれ、周囲からも尊敬されるんじゃが、暮らし向きが苦しい先生も多かったそうじゃ」
「授業料なんか、どのくらい払いよっちゃったんかね?」
授業料の一例
(年に5回払う)
最上:金1分(約30,000円)
上:金2朱(約15,000円)
中:金1朱(約7,500円)
下:銭200文(約6,000円)
「3万円×5回=15万円。1年間で15万円も払いよっちゃったん?!」
「もちろん、これは一例じゃけんの。基本としては、お金持ちの人からはしっかり頂いて、貧しい家の子どもからは、無理に徴収することはなかったそうじゃ」
「不公平とは思うてんなかったんかね?」
「そのころは、町や村ぐるみで子どもを育てるという意識があったそうじゃけぇ、そういう風には考えてんなかったんじゃろうの。あと、先生、生徒という言葉を使うたが、先生のことは「師匠」、生徒のことを「寺子(てらこ)」「筆子(ふでこ)」などと呼ばれとったそうじゃ」
「今の学校のように担任が1・2年で替わったりせんけん、一度、師匠になったらずっと面倒をみてもらえたんかね?」
「筆子塚(ふでこづか)というのがあるんじゃが、師匠が亡くなったときに筆子たちがお金を出し合って供養塔を建てたりすることもあったそうじゃ」
「寺子屋の師匠は、「あれをしなさい」「これをしなさい」と口うるさくいうとっちゃったんかね?」
「師匠は、筆子たちが騒いでも、いちいち怒ったりせんかったし、あれこれ強制をせんかったそうじゃ。というのも、勉強は自分から進んでやらんと意味がない、という意識があったんよ」
「うーん…」
「今の義務教育とは違うて、無理に勉強する必要はなかったんよ。筆子たちは、自分のため、生活のために勉強しに来よったけんの」
「そのへんは今の時代、見習わんといけんね」
↓江戸時代の教育についての関連記事は、こちら↓
広島藩の藩校の流れをくむ学校は?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20100918
「今日は、「武士の教育」「庶民の教育」「寺子屋」について勉強をさせてもらいました」
「今日もひとつ勉強になったでがんす」
「子どもには「自分から学ぶ姿勢」いうのを身につけさせんといけんね」
「子どものことを言う前に、自分を省(かえり)みてみんといけんのう。ほいじゃあ、またの」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/30/ad5b5139ae27b16c0c2dcb01b43a1da9.jpg)
義務教育ではなかった江戸時代、こどもたちはその立場や家業に応じて様々な教育を受けていました。
時代劇でおなじみの寺子屋とはどんな場所だったのでしょうか?
試験もあったのでしょうか?
現代の学校と比較しながら、江戸時代のおおらかな学びの世界を紹介します。
会期:平成23年2月18日(金)-4月10日(日)
会期中無休
開催場所:広島城天守閣 第四層 企画展示室
開館時間:【2月中の土・日と3・4月中】9:00-18:00
【2月中の平日】9:00-17:00
入館はいずれも閉館の30分前まで
(「江戸時代の学び ~手習いからお受験まで~」広島城ホームページ)
http://www.rijo-castle.jp/rijo/main.html
「江戸時代の勉強の場いうたら、寺子屋(てらこや)じゃねぇ」
「寺子屋は庶民向けの教育をしとったんよ。武士向けの教育機関も別にあったんじゃ」
「えーと、藩校かいね?」
「藩校とか学問所とか呼ばれとったんじゃが、それぞれの藩が運営しとったんよの」
「今日は、「武士の教育」「庶民の教育」「寺子屋」について調べてみようかの」
【武士の教育】
「武士の家に生まれたら大変じゃったろうね。武術だけじゃのうて、ふつうの学問もせんにゃいけんかったけん」
「ほうじゃの。江戸時代の初めのころは武術が必要じゃたろうが、戦(いくさ)のない時代になると、算術や書類を処理する能力が必要となってくるけんの。算術といえば、昨年『武士の家計簿』という映画も公開されたよのう」
「お殿様への忠義や礼儀なんかも学ばんにゃいけんかったじゃろうね」
「そのほかにも、和歌や漢詩を詠んだり茶道をたしなんだりと、いろいろな教養を身につけんといけんかったそうじゃ」
「広島藩の藩校が今の修道中・高校に、福山藩の藩校が今の県立福山誠之館高校になったんよね」
「よう知っとるじゃん。広島藩の学問所は第7代藩主・浅野重晟(あさの しげあきら)が天明2年(1782)に、福山藩の誠之館(せいしかん)は第7代藩主・阿部正弘(あべ まさひろ)が安政元年(1854)に、それぞれ創設されたんじゃ」
「私塾(しじゅく)というのもあったよね?」
「昨年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』で話をすると、吉田東洋(よしだ とうよう)が少林塾という私塾を開いて、そこで後藤象二郎(ごとう しょうじろう)や岩崎弥太郎(いわさき やたろう)なんかも学んどるんじゃ」
「武市半平太(たけち はんぺいた)は道場を開いとっちゃったよね?」
「ほうじゃの。この道場が、後の土佐勤王党(とさきんのうとう)の基になったんじゃがの」
「お殿様はどんな教育を受けとっちゃったんかね?」
「ふつうの武士が学ぶものに加えて、政治・経済・軍学(ぐんがく)なんかも学んじゃったんじゃそうな」
「軍学いうたら、戦(いくさ)の勉強かいね?」
「ほうじゃの。たとえば、城を攻めるには城の構造を知っとく必要があるけん、その勉強なんかもされたそうじゃ」
↓映画『武士の家計簿』については、こちら↓
『武士の家計簿』オフィシャルサイト
http://www.bushikake.jp/index.php
【庶民の教育】
「庶民の教育といえば、「読み・書き・そろばん(読書・習字・算術)」じゃね」
「たとえば、商人は帳簿をつけるために、読み・書き・そろばんができんと困るよの」
「農民は?」
「お触れ書きいうて、橋のたもとや辻などに立て札が立てられとったのは、知っとるじゃろ?」
「ああ、あれが読めんと困るよね」
「あとは、土地の面積を測ったり、年貢の量を計算するのにそろばんが必要になったそうじゃ」
「習字に使う半紙はどうしよっちゃったんかね? 今みたいに、紙をぜいたくに使えたわけじゃないじゃろ?」
「半紙は真っ黒になるまで書いて、その上からまた字を書いたそうじゃ」
「ありゃま、そこまで使うちゃったんかいね?」
「真っ黒になった上から書いても、新しく書いた文字は光るけんの、困ることはなかったということじゃ」
「すごいねぇ」
【寺子屋】
「寺子屋って、全国にどのくらいあったんかね?」
「ウィキペディアによると、幕末には全国で16,560軒の寺子屋があったそうじゃ」
「へぇー」
「寺子屋の先生となったのは、僧侶や神官、武家の方が多かったそうじゃ。先生になると、生徒から「お師匠様」と呼ばれ、周囲からも尊敬されるんじゃが、暮らし向きが苦しい先生も多かったそうじゃ」
「授業料なんか、どのくらい払いよっちゃったんかね?」
授業料の一例
(年に5回払う)
最上:金1分(約30,000円)
上:金2朱(約15,000円)
中:金1朱(約7,500円)
下:銭200文(約6,000円)
「3万円×5回=15万円。1年間で15万円も払いよっちゃったん?!」
「もちろん、これは一例じゃけんの。基本としては、お金持ちの人からはしっかり頂いて、貧しい家の子どもからは、無理に徴収することはなかったそうじゃ」
「不公平とは思うてんなかったんかね?」
「そのころは、町や村ぐるみで子どもを育てるという意識があったそうじゃけぇ、そういう風には考えてんなかったんじゃろうの。あと、先生、生徒という言葉を使うたが、先生のことは「師匠」、生徒のことを「寺子(てらこ)」「筆子(ふでこ)」などと呼ばれとったそうじゃ」
「今の学校のように担任が1・2年で替わったりせんけん、一度、師匠になったらずっと面倒をみてもらえたんかね?」
「筆子塚(ふでこづか)というのがあるんじゃが、師匠が亡くなったときに筆子たちがお金を出し合って供養塔を建てたりすることもあったそうじゃ」
「寺子屋の師匠は、「あれをしなさい」「これをしなさい」と口うるさくいうとっちゃったんかね?」
「師匠は、筆子たちが騒いでも、いちいち怒ったりせんかったし、あれこれ強制をせんかったそうじゃ。というのも、勉強は自分から進んでやらんと意味がない、という意識があったんよ」
「うーん…」
「今の義務教育とは違うて、無理に勉強する必要はなかったんよ。筆子たちは、自分のため、生活のために勉強しに来よったけんの」
「そのへんは今の時代、見習わんといけんね」
↓江戸時代の教育についての関連記事は、こちら↓
広島藩の藩校の流れをくむ学校は?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20100918
「今日は、「武士の教育」「庶民の教育」「寺子屋」について勉強をさせてもらいました」
「今日もひとつ勉強になったでがんす」
「子どもには「自分から学ぶ姿勢」いうのを身につけさせんといけんね」
「子どものことを言う前に、自分を省(かえり)みてみんといけんのう。ほいじゃあ、またの」