通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

広島藩の藩校の流れをくむ学校は?

2010年09月18日 | 広島の話題
【問題】
江戸時代、広島藩には藩校(学問所)があり、その藩校の蔵と思われる土蔵が広島市東区にあることがわかりました。
藩校の流れをくむ学校がその蔵を譲り受けて、調査することになりました。
この、藩校の流れをくむ学校とは、次のうちどれでしょうか?

1.広島学院中学・高校
2.広島修道中学・高校
3.広島城北中学・高校
4.広島崇徳中学・高校









【正解】
2.広島修道中学・高校




【解説】
広島城から移築され、貴重な建築物とみられながら取り壊しの危機にあった江戸時代後期の土蔵(広島市東区愛宕町)を、修道中・高(中区)が譲り受ける。
同校の前身で、かつて城内にあった学問所の蔵の可能性が浮上。
調査のうえ、復元を検討する。

土蔵は、間口3・8メートル、奥行き5・7メートルの2階建て。
老朽化のため取り壊し、マンション建設の計画がある。
15年近く独自に土蔵を調べてきた西区の建築士加藤早苗さん(63)が、江戸期の広島城の図面に同じ寸法の学問所の蔵を確認。
同校関係者に伝え、保存の道が開けた。

土蔵を所有する東区の重谷昌江さん(73)方には「明治期に城の蔵を譲り受けた」との言い伝えが残る。
加藤さんは、広島大大学院の三浦正幸教授(日本建築史)と調べ、梁(はり)の作り具合などから「江戸後期、城内にあった蔵にほぼ間違いない」とみている。

同校は土蔵を無償で譲り受け、市などの協力を得て近く解体、調査する。
柱や瓦は保管し、学問所の蔵と同一かなど調査結果を見て同校敷地内への復元を具体化させる方針だ。

同校を運営する修道学園は「学校の歴史をたどれる建物の可能性が高い。被爆建物でもあり、有効に活用したい」としている。

(「広島城から移築?土蔵復元へ」中国新聞 2010年9月18日)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201009180042.html



実はこの土蔵、わしの家の近くにあるんじゃ。
今日、見に行ってみたんじゃが、正直な話、「そんな価値のある土蔵かいの?」と思うてしもうた。
今まで、スーッと通り過ぎてしもうとって、そこにあることさえ意識しとらんかったもんの。





今日は、「広島藩の藩校」「福山藩の藩校」「中庸(ちゅうよう)」について調べてみようかの。



まずは、広島藩の藩校について。

修道中学・高校は記事に書いてあるとおり、元をたどっていくと、広島藩の藩校にたどりつくそうじゃ。


1725(享保10)年、広島藩第5代藩主・浅野吉長(あさの よしなが)が、白島(はくしま)稽古屋敷内に藩校「講学所」を創設する。
「講学所」は、のちに「講学館」と名前を改める。

1743(寛保3)年、経費節減を理由に講学館が廃止される。

1782(天明2)年、広島藩第7代藩主・浅野重晟(あさの しげあきら)が「学問所」を開設する。

1870(明治3)年、「修道館」と名前を改める。

1871(明治4)年、廃藩置県により「修道館」が閉校となる。

1878(明治11)年、元広島藩第12代藩主・浅野長勲(あさの ながこと)が、私立浅野学校を開設する。

1886(明治19)年、山田養吉が淺野学校の施設を譲り受け、修道校を設立する。


これが、現在の修道中学・高校になっていくわけじゃ。

「修道」という校名は、「中庸(ちゅうよう)」という中国の書物にある、「天の命 これを性といい、性に率(したが)う これを道という。道を修むる これを教えという(率性之謂道、修道之謂教)」から採ったものじゃそうな。


↓修道中学・高校については、こちら↓

修道中・高等学校ウェブサイト
http://www.shudo-h.ed.jp/



次に、福山藩の藩校について。

広島藩の藩校から修道中学・高校ができたなら、福山藩からも何か学校ができとるはずじゃのう。


1786(天明6)年、福山藩第4代藩主・阿部正倫(あべ まさとも)が藩校「弘道館(こうどうかん)」を設立する。

1855(安政2)年、福山藩第7代藩主・阿部正弘(あべ まさひろ)が「弘道館」を廃止し、新たに「誠之館(せいしかん)」を設立する。

1872(明治5)年、誠之館が閉校となる。

1879(明治12)年、広島県福山中学校が開校する。


これが、現在の広島県立福山誠之館高等学校になっていくわけじゃ。

「誠之館」という校名は、修道と同じく「中庸」という書物の、「誠は天の道なり、誠之は人の道なり(誠者天之道也、誠之者人之道也)」から採られとるそうじゃ。


↓福山誠之館高校については、こちら↓

福山誠之館高等学校ホームページ
http://www.fukuyamaseishikan-h.hiroshima-c.ed.jp/



最後に、中庸について。

「修道」も「誠之」も、中国の「中庸」という書物から採られとる、という話をしたんじゃが、なんでこの書物なんじゃろうか。

儒教で重要な経典(きょうてん)とされたのが、四書(ししょ)。
これは、「大学(だいがく)」「孟子(もうし)」「論語(ろんご)」、そして「中庸」の4冊からなっとるんじゃ。

儒教を始めたのが、孔子(こうし。紀元前551ころ~前479)。
儒教の中から、朱子学(しゅしがく)が生まれたんじゃ。
朱子学とは、中国の宋(そう)の時代に朱子(しゅし。1130~1200)がまとめた考え。
上下の秩序を重んじるという、封建制度を支える思想じゃったんで、江戸幕府の御用学問となっとったんじゃ。
朱子学といえば、林羅山(はやし らざん)や、孔子をまつった湯島聖堂(ゆしませいどう)などが有名じゃのう。

儒教の一派として、陽明学(ようめいがく)があるんじゃ。
広島に育ち、「日本外史(にほんがいし)」の著作がある頼山陽(らい さんよう)は、陽明学の学者じゃったんじゃ。


↓頼山陽については、こちら↓

頼山陽史跡資料館ホームページ
http://www.ccv.ne.jp/home/raisanyo/top.htm



今日は、「広島藩の藩校」「福山藩の藩校」「中庸」について勉強をさせてもらいました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。



今回は、「広島県の百年」(山川出版 1983年)、「広島県の歴史」(山川出版 1999年)を参考にさせてもらいました。感謝!



ほいじゃあ、またの。
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