第2997号 29.03.15(水)
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敢に勇なれば則ち殺し、不敢に勇なれば則ち活かす。『老子』
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勇気には二つの種類がある。一つは敢、すなわちどんな困難があっても、あえてやるという積極の勇気。他の一つは不敢、すなわちどんなことがあっても、絶対にやらないという消極の勇気である。敢の勇気はややもすると人を殺し、おのれを殺す。これに対し、不敢の勇気は人を生かし、またおのれを生かす。より大切なのは不敢の勇気である。335
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【コメント】積極と消極の勇気を紹介していますが、何れがよいかは、建設的であることだと思います。どのような人であれ、みじめな敗北をしさらに殺されたりしたくはないでしょう。
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であれば、人を活かす方法で人様に接するのがよろしいかと思います。以前も書きましたが、どんなヤクザ者といわれている人でも、他人から親切にされると喜ぶものだということです。
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50年前、夜半に空手の指導をしている処にヤクザといわれている人がおみえになった時、親切に対応したら泣き乍ら抱き付かれました。どんな人間だって他人に認めて貰いたいということだと思います。
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自分の野心のために人を愚弄するような言葉は遣うべきではないと思います。
昨日に続いて『酔古堂剣掃』より、次のところをご紹介致します。
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<表面的にはたしかに贅沢な人であった。世間はどんなにか財産を残しておるだろうと言うておったのだが、死んでみたら何もなかった。財産らしい財産というものは、大磯の別荘、有名な滄浪閣だけだったが、それも彼が造ったのではなく、誰かが献上してものである。伊藤さんがなくなったら跡取りには何も残らなかった。すっかり貧乏してしまって、ずいぶん生活に困った。それくらいあの派手な伊藤さんは資産を持たなかった。持たなくたってあれだけ贅沢に暮らせれば、それはそれでいい。死んで贅沢する必要はないのだからそれでいい。子供は迷惑かも知らんが、子供は子供でやるがいい。
「子孫自ずから子孫の計あり」
という格言もある。達人から言えば、倅は倅でやるがいい。やれんような倅じゃ仕方がない。そこまで伊藤さんなんて達観しておったんでしょう。子孫の計なんかほとんどやってない。西郷さんはもとよりです。
近代で私が感心したのは、山形の上山氏のすぐ近所に赤湯(現在の南陽市)という所があって、そこから出た結城豊太郎さんである。この人は戦前に日本銀行の総裁やら大蔵大臣などを歴任した財界の巨頭でした。しかし非常に教養のある人で、謹厳でなかなか気難しい人であった。どういうわけか、私とは非常に親しくて、亡くなったときに藤山愛一郎さん(結城豊太郎の娘婿)が遺言書を持って私を訪ねてきて、「おやじの遺言状に、墓と詩碑を建てるときは、ぜひとも安岡先生に書いてもらってくれと書いてあるのでお願いします」
と言われたことがある。知己の間柄であったから、墓碑と詩碑とを私が書いて、今日でも建っておるが、その結城さんの生誕百年の記念祭を郷里で行った。私はたまたま参れなかったが、後日、山形へ行ったついでにその土地の人に聞きますと、結城さんは財界の巨頭であり、大蔵大臣もやった人だから、さぞかし財産を遺しているだろうと、言わず語らず非常に興味を持っておったところ、実は何もなかったということだ。東京の自分の家屋敷、郷里の生家の家屋敷くらいなもので何もない。財産も、金もほとんどないといっていいくらいで、税務署の役人が来て、ずいぶん意地悪く探したそうだけれど本当になかった。それで税務署の人間まで、やっぱり「結城さんというのは偉い人なんだな」と言って感心したそうです。>
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『臥牛菅実秀』(第529回)
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大正四年、山居倉庫は日本銀行の指定倉庫となり、その倉庫証券は再担保物件指定(再割引)となった。この日本銀行の再担保物件指定は、きわめて厳格なもので、たとえば三井、三菱の大財閥が経営した倉庫会社でさえ認められなかったのに、一地方の倉庫が、その資本金の三十倍にも当る金額の証券を発行しても、なおかつ、それが日本銀行に指定されるほどの信用の高さを持ったことは、長く記憶されていいことであり、この高い信用性と、そして流通性は、地方に莫大な利益をもたらしたのであった。
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敢に勇なれば則ち殺し、不敢に勇なれば則ち活かす。『老子』
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勇気には二つの種類がある。一つは敢、すなわちどんな困難があっても、あえてやるという積極の勇気。他の一つは不敢、すなわちどんなことがあっても、絶対にやらないという消極の勇気である。敢の勇気はややもすると人を殺し、おのれを殺す。これに対し、不敢の勇気は人を生かし、またおのれを生かす。より大切なのは不敢の勇気である。335
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【コメント】積極と消極の勇気を紹介していますが、何れがよいかは、建設的であることだと思います。どのような人であれ、みじめな敗北をしさらに殺されたりしたくはないでしょう。
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であれば、人を活かす方法で人様に接するのがよろしいかと思います。以前も書きましたが、どんなヤクザ者といわれている人でも、他人から親切にされると喜ぶものだということです。
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50年前、夜半に空手の指導をしている処にヤクザといわれている人がおみえになった時、親切に対応したら泣き乍ら抱き付かれました。どんな人間だって他人に認めて貰いたいということだと思います。
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自分の野心のために人を愚弄するような言葉は遣うべきではないと思います。
昨日に続いて『酔古堂剣掃』より、次のところをご紹介致します。
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<表面的にはたしかに贅沢な人であった。世間はどんなにか財産を残しておるだろうと言うておったのだが、死んでみたら何もなかった。財産らしい財産というものは、大磯の別荘、有名な滄浪閣だけだったが、それも彼が造ったのではなく、誰かが献上してものである。伊藤さんがなくなったら跡取りには何も残らなかった。すっかり貧乏してしまって、ずいぶん生活に困った。それくらいあの派手な伊藤さんは資産を持たなかった。持たなくたってあれだけ贅沢に暮らせれば、それはそれでいい。死んで贅沢する必要はないのだからそれでいい。子供は迷惑かも知らんが、子供は子供でやるがいい。
「子孫自ずから子孫の計あり」
という格言もある。達人から言えば、倅は倅でやるがいい。やれんような倅じゃ仕方がない。そこまで伊藤さんなんて達観しておったんでしょう。子孫の計なんかほとんどやってない。西郷さんはもとよりです。
近代で私が感心したのは、山形の上山氏のすぐ近所に赤湯(現在の南陽市)という所があって、そこから出た結城豊太郎さんである。この人は戦前に日本銀行の総裁やら大蔵大臣などを歴任した財界の巨頭でした。しかし非常に教養のある人で、謹厳でなかなか気難しい人であった。どういうわけか、私とは非常に親しくて、亡くなったときに藤山愛一郎さん(結城豊太郎の娘婿)が遺言書を持って私を訪ねてきて、「おやじの遺言状に、墓と詩碑を建てるときは、ぜひとも安岡先生に書いてもらってくれと書いてあるのでお願いします」
と言われたことがある。知己の間柄であったから、墓碑と詩碑とを私が書いて、今日でも建っておるが、その結城さんの生誕百年の記念祭を郷里で行った。私はたまたま参れなかったが、後日、山形へ行ったついでにその土地の人に聞きますと、結城さんは財界の巨頭であり、大蔵大臣もやった人だから、さぞかし財産を遺しているだろうと、言わず語らず非常に興味を持っておったところ、実は何もなかったということだ。東京の自分の家屋敷、郷里の生家の家屋敷くらいなもので何もない。財産も、金もほとんどないといっていいくらいで、税務署の役人が来て、ずいぶん意地悪く探したそうだけれど本当になかった。それで税務署の人間まで、やっぱり「結城さんというのは偉い人なんだな」と言って感心したそうです。>
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『臥牛菅実秀』(第529回)
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大正四年、山居倉庫は日本銀行の指定倉庫となり、その倉庫証券は再担保物件指定(再割引)となった。この日本銀行の再担保物件指定は、きわめて厳格なもので、たとえば三井、三菱の大財閥が経営した倉庫会社でさえ認められなかったのに、一地方の倉庫が、その資本金の三十倍にも当る金額の証券を発行しても、なおかつ、それが日本銀行に指定されるほどの信用の高さを持ったことは、長く記憶されていいことであり、この高い信用性と、そして流通性は、地方に莫大な利益をもたらしたのであった。
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