晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 空白の古代史-2 10/15

2013-10-16 | 雨読

2013.10.15(火)雨

 14日(月)の讀賣新聞に追悼抄として、8月6日に死去された森浩一氏が紹介されている。「遺跡を愛した反骨の人」というタイトルである。
 昨年11月の最後の講演で、「古代史のおもしろさは地域ごとの歴史にある。現地主義でない人に歴史は語れない」と語っておられる。和歌山の御坊市での講演だが、右足切断手術の後で周囲の制止を振り切って入院先から駆けつけたという。
先ほどの言葉も声の力は無く震えていたという。P1010522

 


 地域と現地、これこそが森先生の真骨頂であり、考古学や史学を志すものに残された金科玉条ではないだろうか。
「考古学は地域に勇気をあたえる」というのは森先生の有名な言葉である。地方で発見された遺物、遺跡について、何でもかんでも大和朝廷と関連づけて考える風潮、例えば前方後円墳なら大和政権の勢力がおよんでいた所などと決め付けるのはおかしいと言っておられる。ある時期が来たらいきなり米作が始まる、ある時期が来たらいきなり統一国家が出来上がるなどという既製概念では歴史の真実は見えてこない。
 「調査は自分の力でやりなさい。人の金をあてにするな」と言われたことも載っていた。資金も組織も無い地方の研究者には、身近な地域の調査しかできない。しかしそういった集合こそが歴史の真実を解き明かすのだろうと思うし、そういった人たちにとって森氏は灯台のような存在である。
 もう一つは現地主義である。
 
先日、ある弥生文化の研究者から「まだ対馬に行ったことがないが、あなたはどうですか」とたずねられ絶句してしまった。対馬をぬきにしては、弥生文化について多くを語る資格がない。(古代史津々浦々)
 という文があるし、今回の追悼抄にも、
 
最近の考古学者をどう見ているか尋ねると「なんぼでもパソコンでデータが出るからって、現地に行かない人の本は読むに値せん」
とある。
 私事であるが、現在日置氏が太陽観測をしたと仮定し、その場所を見つけようとしている。先日天文博物館に行ったら、どこどこの場所で何時何日、太陽がどの位置にあるか分かるソフトを見せてもらった。そして今や3Dの地図で、どこから何処を眺めたらどのように見えるかわかるソフトもある。これさえあれば現地に赴かなくても場所を発見することはできると、ソフトの資料など取り寄せたところである。
 しかし思い直して導入は中止した。今までの調査でも現地を訪れることで、新しい発見を数多くできることがあったし、逆に自分の立てた予想が打ち砕かれることもあった。そっしてなにより、現地に立たない限りその場に生きた人間の思いに近づくことはできないと思ったからだ。
 考古学だ歴史だと言っても所詮人間と自然、人間と社会との関わりの中で行った行動の結果を探ることであろう。その時代、その場所での人間の思いはパソコンの画面からは決して見いだせない。
 森先生はそういうことをおっしゃっているのではないだろうか。おわり

【今日のじょん】台風が去ると寒くなると言うので冬物衣料など買い出しにゆく。ご存じ庶民の味方の東舞鶴、ダイコーさんでベストやタイツなど数百円の買い物をする。福知山のユニクロでこれまた900円のバーゲン品を買って、イルマンさんにゆく。冬のベッドを買ってやろうかと思うが、サイズが合わなくて断念。
P1010512
P1010515



看板犬の光秀とかわいい柴、誰か飼ってくれい。
 数軒寄ってもなかなか合わなくて、ストックでピンクのベッドを買う。一日中バーゲンセールを巡って数百円の買い物をし、気がついたらじょんのベッドが3,500円でダントツに高い。情けない気もするがまっいいか
P1010517
これ500円、ベッドは7倍。


P1010518P1010520



ごそごそやってたが、すぐに慣れたのでまあ正解。
 

 
 

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雨読 空白の古代史-1 10/14

2013-10-15 | 雨読

2013.10.14(月・祝)快晴

 今夏亡くなられた考古学者の森浩一氏と歴史学者の水野祐氏の対談集である。森先生については「森浩一さん逝く(2013.8.25)」で書いたところなのだが、水野氏は、三王朝交替説など斬新というか画期的な説を出されている。
 一般的に学者の対談なんてのは面白くも何ともないのだが、この対談に限っては実に面白くて、あっという間に読んでしまった。
 「空白の古代史 海・山・道の視点から」 社会思想社1980年3月初版 古書
P1010508



   本書のおもしろさは既成概念にとらわれない両氏の姿勢のなせる技だろうが、対談という論文とは違ったある程度奔放に物が言える舞台であるせいかもしれない。論文のようにデータをあげる必要は無いし、立証する必要も無い。われわれアマチュアが疑問に思っていることもいわゆる学者は素直に答えてくれない。それを答えるということは、従来の殻を破らなければならないし、そのことについて立証しなければ立場がないと言うことだろう。
 ところが対談という席では随分フランクに答えてくれている。その例を挙げてみたい。
 
 伊勢神宮の外宮の神は誰がもたらしたか。
 大江町の元伊勢外宮豊受大神がなぜ伊勢に祀られることとなったのか、これは誰もが不思議に思うところだろう。
 遠くて伊勢にお参りできない地域に元伊勢と称して祭神を祀り伊勢参りの代わりとした、なんて説もあるようだが、どうもことはそれほど単純ではなさそうだ。
 水野氏は、日本海側にいた潜水漁撈民(魏志倭人伝にも出てくる)が五世紀に伊勢・志摩に移動したというのである。それは丹波から御饌津(みけつ)の神が新しく伊勢に来てからアワビが神饌として重要になってきたという。それまでの神饌は米や川魚だったというのである。
 この海人族の移動は古墳時代の気温の低下、海水温の低下が原因で、日本海側の潜水漁撈民が温かい太平洋岸の海に移動したというと考えている。
 もちろん仮説なのだが、なんとも理路整然とした、目から鱗の説ではないか。
 
Img_2107Img_3792



2006.12.8伊勢を訪れるが内宮外宮とも通過。(左)
2011.9.20大江町内宮、岩戸神社を訪れるが大雨のため外宮は通過。(右)


 稲作に関することも面白い。例えば稲作の伝搬について江南、東南アジア、朝鮮半島などいろいろ言われているが、わたしたちの概念では何年も何世紀もかけてじわじわと伝搬してきたように思っているが、種籾というのは秋に採種して、翌年の春には播種しなければならない性格のものである。つまり時間的にもっともっと性急な事象なのである。
 穀倉地帯についても近江を例に挙げて、現在の穀倉地帯と弥生時代の稲作地帯とは別問題であると説かれている。つまり琵琶湖にいくら水があってもそれは水田より下にある水だから、稲作には使えない。近江が穀倉地帯となったのは、渡来系の氏族によって川水の灌漑が可能になって初めてのことであるといわれている。
 このことについてはわたし自身疑問に思っていたことで、稲作が始まって以来、稲作に適した土地というのは河川の周辺と思いがちだが、実は山間の谷水の引ける所ではないかと考えるようになってきたのである。海岸沿いに住まいしていた海人族が谷を遡って新天地を求めたのは、木材資源や鉱物資源を探し求めた結果としていたわたしの「峠越し文化論」は見直しが必要かも知れない。つまり彼らは水田を求めて谷を遡ったとも考えられるのだ。つづく

【今日のじょん】昨日あんなに遊べたのに今日はワン来が無いなあと思っていたら、午後になって二組来られた。じょんは大喜びで、「出してくれい」というのだが、ちょっと一緒に遊べそうにないので出さなかった。いじけること。
P1010498
 


「出してくれい」「だめ」「え゛~ん」
P1010501

豆柴の小雪ちゃん(八ヶ月)凄い俊敏。

P1010506

こころちゃん、ドッグランどできる前から来てもらってマス。 
 

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日置のこと(40) 日置部とは-4

2013-10-14 | 上林地名考

2013.10.13(日)晴れ

 日置部に対しては諸説あるものの、具体的な証拠を見つけようとはされていないようだ。全国に数え切れないほどの日置があるのにだ。ただ文献についてはいくつかのものが諸説の根拠としてあげられている。
 その中で著名的なものは「出雲国風土記」にある次の文章である。

 日置の里(ひおきのさと)
 郡家(こおりのみやけ)の正東(まひがし)四里なり。志紀嶋(しきしま)の宮にあめのしたしろしめしし天皇の御世、日置の伴部(ともべ)ら、遣(つかわ)され来て、宿停(とど)まりて、政(まつりごと)なせし所なり。故(かれ)、日置という。
      ー「知られざる古代」(水谷慶一著)から抜粋ー
 
 
 この日置の里は出雲市上塩冶町付近、神戸川北岸(日本古典文学大系頭注による)と書いてある。
Img_4518_2
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2007.4.20、神戸川を下って出雲市に向かった。この下流域が日置郷だが、当時はなんの何の関心も無かったので写真もない。


 大和の朝廷から日置の伴部が派遣されて政をなしたという単純な文章なのだが、政(まつりごと)とはどのようなことかと言うところが問題である。
 政とは、政治、領土・人民を支配することの意味がある。また、まつりごとのまつりは祭りであり、祭祀を意味することもある。
 これは実に悩ましいことで、①③どちらの説にも当てはまることである。
 水谷氏は政とは、租税を徴収することであり、そのために土地を測量し人民の戸数を調べたと結論づけている。そのために太陽を観測し、地上に一本の線を引くことから始めたとある。つまり①③説どちらにも通じるのである。
 律令国家となって租庸調の徴税が始まったことは周知のことであるが、その税の執行の前段階で、いわゆる検地のような作業が必要なことも理解できる。誰かがその任に当たったことだろうが、それが日置氏である可能性はあると思う。
 日置氏が観測や測量に長けていたとすると、面積や距離を測るのは得意な分野であるからだ。調などは都へ直納と言うことも聞いているので、そうなると都からの距離も必要な事項となる。
 また、課税の統一性という点からも、様々な氏族や部に任せるよりも単一の氏族、部に任に当たらせる方が統一がとれると考える。
 こういった任務で日置部が各地に散らばったために、東北など当時の大和政権の勢力が及んでいない地域を除いて日置があるというのは一理あると思われる。つづく
【今日のじょん】
虫も獣も植物もその年によって出具合が違う。今年は梅、柿、栗は豊作、柚は不作。ムカデ、マムシ多く、カメムシは未定。猿の出現少なく、イノシシ多し。鹿は平年並みか。P1010487


写真では見にくいが、三個所のイノシシのあらした跡。
 

 

 

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日置のこと(39) 日置部とは-3  10/12

2013-10-12 | 上林地名考

2013.10.12(土)曇り

 上林風土記(平成16年12月)に日置谷について次の記述がある。

(一)山間に点在して実態の確かめにくい所。・・・・・必要に応じて戸数調査に当たったとも考えられ、そうした現地の役所ようなものを日置、置かれた地名、郷名となった。郡郷制発生後も必要に応じて使用されたのではないかという推定をもつ。つまり部曲名ではなく、郡司に属して設けられた役民か。云々「古代何鹿郡の古墳成立にどんな歴史が考えられるか」岩田実より抜粋
 

 この文献が如何なるものか、また岩田実氏がどのような人物かわからないのだが、戸数調査に当たった氏族なり集団が居て、それは地方、この場合郡といえようか、の役所的なものという説と考える。
 何鹿郡誌、綾部市史、上林風土記も同様な方向でとらえられているようだ。
日置が大体郡単位に存在することをもって、地方政治的な意味合いをもたれることと、山間部に多いことは、戸数を把握しにくい所にあえて役所を置くという風に考えておられるようだ。
 
 

 これら日置部に関する職掌の説についての問題は、いずれの説も「日置」の読みや字面についての考察だけで具体的な証拠になる文書や遺物を示しているものではないということだ。
ただ②の宮廷内での浄火の管理等という説については律令以後の事ということも言われており、確認はしていないが文書に記されていることではないだろうか。おそらく史実だと思うが、それが本来の日置部の職掌ではないだろう。
 それは日置が当時の大和朝廷の権力の及ぶ範囲に均等に散らばって存在することからいえる。それが中央の日置氏を養う領田だとしても、全国に点在する必要は無いわけである。
P1010468



霧の中の日の出、日置が山間部に多いのは霧が関係するのでは、、、。

それは「日置」の「日」か「戸」かと言うだけのものではなかろうか。「置」についてはどの説も一致しており、計算するという意味でいいだろう。
 例えば日置が地方の出張所的な役所であって、全国で徴税のための戸数や面積などを調べたとしたら、その行動や調査結果が何らかの文書に残ってもおかしくはないだろう。ところがどうもそのようなものは見当たらない。
 逆に日置が暦や卜占に関連した太陽や天体の観測をしていた場合、その経緯や結果は絶対に秘密でなければならない。このことは後述する予定だが、そう考えると日置部は暦や卜占に関連し、太陽や天体の観測を職掌としていたという説がもっとも妥当に思えるのだが。つづく

【作業日誌 10/12】
ドッグランど草刈り
薪割り

【今日のじょん】千客ワン来
やっとドッグランどの季節がやってきた、今日は連休初日とあって1ニャン3ワンのお客様が来じょんされ、じょんも接客でくたくたのご様子。
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日置のこと(38) 日置部とは-2 10/11

2013-10-11 | 上林地名考

2013.10.11(木)曇り、雨

 古代地名語源辞典(楠原佑介ほか編著)でも日置は品部である日置部に由来する地名としている。この辞典は自然地名説に基づいており、古代地名のほとんどが自然地名特に地形由来としている。しかもその多くが崩壊地形であり、日本中が崖となっている。
 その辞典でさえ「日置部に由来する」といわざるを得ないのだから、日置部に由来する確率は高いだろう。ただ、「ただし、ヘキ、ヒキの地名の中には自然地名に由来するものもあるか」と書いているが、その例、根拠は示されていない。
 日置の自然地名由来説について、「日の当たる南向きの土地」というのをどこかで見つけたことがある。上林の日置谷、宮津の日置など確かに南向きで日当たりは良く、宮津の日置などはリゾート地になっているのだが、日置のすべてがそのような地形ではなく、北向きの地であるケースもあり、納得のいかないものである。
 日置部の職掌についての三つの説についてそれらの原文を見たわけではないのだが、一応①②については妥当な説だと考えている。
 ①と②は地方と中央という地域的な相違、あるいは律令制以前と以後という時間的な相違であると思っている。
 日置氏が宮廷内で浄火の管理に携わったというのはなにがしかの文書に出てくるのだろうがおそらく史実なのだろうが、地方に散らばった日置にとっては無関係なことであって、彼らの職掌はあくまで暦法、卜占のための観測、測量なのだろう。
 問題は③の戸数を調べて租の徴収と関係するという説である。
両氏の原文を読んだことはないのだが、いくつかの書物で見る限り、伴信友は「日置の古訓はヘキであり、へは戸を表す、従って日置は戸数を調べ置く品部」と言っているようだ。同様に大田亮は伴信友の説を肯定し、「戸数を調査するのは税(租)を徴収するためのもの」と言っているのではないだろうか。
 水谷慶一氏は当初この説に否定的であったのだが、「太陽の道」を測量したのが日置氏であるとすればこの説は妥当であると述べている。
つまり大和から伊勢に至る直線「太陽の道」を作った目的は、と考えた場合に、租税を徴収することというのがもっとも妥当だと考えたからである。氏は日置氏の観測、測量に秀吉の太閤検地をイメージさせている。土地を測量し、戸数を調べることは徴税の基本である。歴代の支配者は常に検地を行ってきた。
 地図を作るということの最初の目的は人民の支配、即ち徴税であると思う。もちろん戦略上の必要性という事もあろうが、戦って領土を広げてもその地の人民を氏はしなければ何の意味も無いことである。
 秀吉が天下を統一してまず太閤検地を行ったように、大和の国家が成立するとすぐに測量、調査は始まったのではないだろうか。その任に日置氏があたり、日置部が実際の業務を行ったのかも知れない。
 しかし各地にある日置がその役所の役目をしていたという説には頷けない。つづく
P1010168


この山深い村に、古代の役所があったとは思えない。

【作業日誌 10/11】
薪割り

【今日のじょん】                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                寝ている間に雨が降っているようだったが、起きるとすっかり晴れている。これは前線の間の疑似好天というやつで、やがて雨風になるでと予想したら的中した。便利な機器ができて観天望気の必要がなくなってきている。
不便益天気予報てえのはいかがでしょう。
P1010464
P1010466



朝の散歩時は晴れていたのだが、次は雨となった。
好天の空にもレンズ雲あり、荒天の兆し。

 

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日置のこと(37) 日置部とは-1  10/10

2013-10-10 | 上林地名考

2013.10.10(木)晴れ

 綾部市史は日置部を伴信友(ばんのぶとも・江戸時代の国学者、小浜藩士)の説、つまり戸数調査を任務とする部であろうとし、上林の日置、日置村中、日置殿などについて何鹿郡にも日置部の小規模のものが置かれていたのでは、と書いている。(上巻79ページ)上林にある草壁、弓削についても御名代部、弓削部に基づくものとしているが、果たしてそうなのだろうか。根拠は何も示されていない。
 部あるいは部民制については歴史の教科書にも載っており、授業で習うわけだがその実態というものは実に不可解なものである。事実古代の史料に「部民制」と呼びうる制度があったことを示す確実な記載は一つもないということである。(研究史 部民制)そして部民制に関する書物を読んでも、様々な説が頻出するばかりで本当はどのようなものであったかということが確定できない。
 教科書にあるような一般的な考えとして、職業部としてある一定の特殊な技能をもって朝廷に仕えるのがひとつの部といわれている。
 日置部がある一定の職種を持って各地に定住したとして、ある地域に日置の地名があるだけで日置部がその地で所掌の業務を行ったと判断するのは早計であると思う。やはりその地で特定の作業、業務を行ったという証拠が必要ではないだろうか。
P1010162



日置谷から沈む夕日、とても観測という雰囲気ではない。(2013.9.13)
 

 具体的な証拠探しの前に、日置部は一体何をしていたか考えてみたい。
「知られざる古代」(水谷慶一著)にわかりやすく整理されているのでご紹介しよう。

①太陽神をまつり、暦法・卜占と関係のある集団とみる説。これについては第四章でかなり詳しく述べた。柳田国男や折口信夫によって代表される。
②浄火を常置し、これを管理する集団とみる説。いわゆる「消えずの火」や「火継ぎの神事」にかかわったものとし、のちに宮廷で油火と蝋燭の供給を受け持ったとする。これは民俗学者の中山太郎らによって代表される。
③日置は「ヘキ」と読むのが正しく、もともと戸置の字を当てるべきで、これは租税を徴集するために戸数を調べ置く意味だという説。江戸時代の国学者、伴信友や太田亮によって代表される。

 
様々な文献を見ても、概ねこの三つの説に集約されるようだが、意外なのは伴信友の戸置説が郷土史などでは有力な様子だ。つづく

【作業日誌 10/10】
大根間引き

【今日のじょん】最近夜中の吠えが頻繁になってきた。昨晩も3回ばかり吠えて、みんな寝不足となる。じょんは昼間に寝られるからいいけど、こちとらビョーキになりそう。お騒がせのうり坊もここん所姿を見せないし、どうやら例のカメムシらしい。P1010433
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           


もうカメムシバスターⅢが活躍中。 

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飯盛山(19) 四條畷・飯盛山-2 10/9

2013-10-09 | 飯盛山

2013.10.9(水)雨後晴れ

 神社の右の道を上ってゆくと飯盛山登山道となる。登山道といってもほとんどが階段で歩きにくいこと甚だしい。傾斜が急で、崩壊を防ぐためにはやむを得ないことだ。
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階段登山道は辛い、道中にいたのら猫。

 時間的制約があるのでいいペースで登ってゆくが、とにかく暑い。ジーパンでは仕方が無いか。汗びしょになって尾根に上がると少し風も出てきた。ぽこぽこと小さなピークを越えると、展望台に出る。西側の展望は最高で、晴れていれば高槻辺りから淡路島辺りまでの山々が遠望できるのだろう。今日は曇っていてかすんでよくわからない。真西には摩耶山が見えるはずなのだけど。
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展望台から真西、西南西方面、うっすらと山影が見えるだけ。

南には小高い丘が見える、あれが頂上かなと思い歩を進める。降りて登ってたどり着くと磐座らしきものがあり、何か記念の石柱が立っている。これだけ多くの人に親しまれている山だから、山頂なら山頂と示されているはずだ、でも約束の時間は来ているので、今日はここまでにしておこう。南面にもこもことした林が望まれて、それが頂上かも知れない。しかしこの磐座は何だ。
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頂上手前の岩塊のピーク、「参百回登山記念」という個人の石柱が建っている。岩の向きに何か脈絡がないか方向を調べてみる。

 道中花崗岩の岩塊が転がっているのは見かけたが、ここまでまとまって積み上げられているのは不思議だ。自然の石積みとしてはやや不自然な気がして観察するが、何とも言えない。突き出ている岩の方角など見てみるが脈絡はなさそう。
 岩田女史の説では飯盛山の頂上に人工的に手を入れたところがあるということだ。こういう感じかなと眺めるが結論は出ない。でもこういうものが測量のために人工的に作られていたらと考えると、なにかわくわくするものがある。最近耳にするペトログラフとか盃状穴が無いものかと目を凝らすが、そんなに簡単にそういうものが見つかるはずがない。人工の可能性は高いと思うが、登山記念の石柱を立てたお金持ちがその辺の石を集めたものかも知れない。
 時間が気になるので下山することにする、携帯電話を見ると圏外となっている。眼下に街が拡がっているだけに不思議な感がする。
 下山中に出会った人に聞くと、やはり先ほどの場所は山頂ではないようだ。
 思うに古代測量の基準点とする場合、必ず最高地点である必要は無いわけだし、あの岩塊のピークが人工のものとしたらそれが基準点であったかも知れないなと仁和寺の法師になったことを慰める。
 
 時間が気になるので転がるように下山する。暑くてたまらないので上半身裸で下るが、何人か登山の人に出会って困ってしまった。
 行きがけに気になっていた古本屋で柳田国男集を見つける、各200円というので2冊買った。同時に携帯電話が鳴った。終わり
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らしい古本屋さんで柳田国男集を購入。


【今日のじょん】朝から台風23号の雨風が強い。前回被害に遭った地域では余計恐怖だろう。幸いすぐに治まって晴れ間も出てきた。じょんはマイフリーガードをし
たところなのでレインコートを着せられ、いきなり草を喰っていた。P1010463
P1010462






 
 

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飯盛山(18) 四條畷・飯盛山 10/8

2013-10-09 | 飯盛山

2013.10.8(火)曇り 飯盛山(17)は2013.7.29

 岩田女史から連絡があり、上林のイモリヶ嶽(丸山)にもレイラインが発見されたとのこと。すぐ隣の小浜の飯盛山との位置関係でかなり苦労されていたのではないだろうか。飯盛山を基点とする測量について理解できているわけではないが、二等辺三角形を使った測量法が古代にあったとして、その基準点が飯盛山を代表する山々であったことは想像できることである。
 イモリヶ嶽、生守村を金属で解こうとしたが、限界を感じている。測量の基準点としてのイモリヶ嶽なら謎が解けそうな予感もするのである。
 岩田女史の飯盛山レイライン地図を見たときに、畿内でラインが集中している山の一つが四條畷の飯盛山である。前回訪問時には遠くから眺めただけであったが(2013.4.16参照)今回は時間の許す限り登ってみようとチャレンジする。
 四條畷駅 11:00 スタート
 四條畷神社 11:13着 11:20発
 磐座のピーク12:00着 12:10下山開始
 四條畷神社 12:30着
 四条畷駅 12:50着

 かみさんの病院診察時間の間に登ろうというのが無理であり、頂上には行けなかった。往路を12:00と決めていたからだ。頂上は次回の楽しみにしておこう。
 一月ほど前に角淳一さんの出演するテレビ番組で四條畷を紹介していた。四條畷という町についてはあまり知らなかったのだが、新しい町と下町的な古い町がミックスした町のようである。
P1010437P1010438

 


参道は古い店が並んでいて楽しい。鳥居をくぐると坂道になり住宅が増えてくる。

四条畷駅は市の表玄関と言ったところだが、実は大東市に含まれるのだ。駅から北に進み、四條畷神社の参道は四條畷市だ。参道は生活に密着した古い店と新しい店が軒を連ねているが、郊外に並んでいるようなフランチャイズのチエン店が無いのは嬉しい。鳥居を過ぎてやや上り坂になると、閑静な住宅街という感もしてくる。四條畷神社は楠正行他の祭神が祀られており、四條畷きっての大社である。テレビ番組でみた旅館やショットバーなども出てきて、寄ってみたいなという気もしたが時間が早いのかしまっていそうだ。
P1010440P1010441



テレビに出てきた風景、四條畷神社境内。

 社務所で飯盛山登山道の入口を聞き、すぐにスタートする。台風の影響でやたら暑くてすぐに汗びっしょりになる。つづく

【今日のじょん】フロントラインならぬジェネリックのマイフリーガードの投薬日である。ぷちんと薬剤のふたを取るだけで逃げ出すくらい大嫌いである。背中に薬剤を垂らすだけなんだが、大騒ぎで暴れ回る。そしてサークルの布団をくちゃくちゃにしてふてくされている。ヘンなやつ。P1010436

 

 
 

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雨読 続々・暦の語る日本の歴史 10/7

2013-10-07 | 雨読

2013.10.7(月)

 明治のはじめまで日本では太陰太陽暦であったことから、暦の歴史は改暦とそれに翻弄される為政者そして学者達の歴史なのだろう。暦の作製販売で金儲けを企む連中や能力も無いのに天文方の役人として出世を企む連中が悲喜劇を演ずる中、自然科学の探究に心血を注いだ一人の学者のことを知る。

 麻田剛立(あさだごうりゅう)、亨保19年2月6日(1734年3月6日)生まれの江戸時代の天文学者。生まれは豊後国杵築藩、儒学者綾部安正の四男として生まれる。幼い頃より天文に興味を持ち、独学で天文学、医学を学ぶ。藩侯の侍医(じい)として仕えるが、天文の研究に専念したく、辞職を申し出る。何度申し出ても受理されず、遂に脱藩し、大坂で医業の傍ら研究に専念する。このときに追っ手に覚られないためにか祖先の出た村の名麻田を名乗ったという。それまでは綾部姓だったのだ。綾部家の元々の先祖こそ現在の綾部市であったそうだ。綾部の市史にも見当たらないようで、天文館パオでも把握されていないようである。
 鎖国の時代に西洋の天文学を研究するということは相当の困難があったと思うが、剛立はそれを成し遂げ、理論を実測、観測を基盤に作り上げ、反射望遠鏡による月面観測の記録は日本最古のものである。月面クレーター、アサダは彼の名を取ったものと言われる。
 弟子の高橋至時、間重富らが日本初の西洋天文学にもとずく暦、寛政暦を作り上げた。
 ちなみに大分麦焼酎ゴーリュウが某酒造会社から売り出されている。宇宙に夢を馳せながら月を眺めて?めばさぞかしうまいことだろう。
 また、麻田の天体観測技術は伊能忠敬にも大きな影響を与えたという。直接の交流は至時のようだが、忠敬は暦学についても高度な知識を持っていたのだが20才ちかく若い至時に弟子入りしている。天体観測と測量というのは同一の基盤にあるものかも知れない。おわり
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伊能図、舞鶴の図書館で展示されていたもの。

【今日のじょん】ドッグランどにお客様が来るようになって困ったことが出てきた。みんな同じところでおしっこすることだ。柱や石はどうってことないのだが、花や木はちと具合が悪い。見ていると、まずじょんがしているところに誰かがして、その後またじょんがするという悪循環をしているようだ。
 じょんは障害物があるとしないので、とりあえず柵をつけることにする。
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この辺の木が危ないのよね、そんなのカンケーねえぴっぴー。

 
 
 

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雨読 続・暦の語る日本の歴史 10/6

2013-10-06 | 雨読


2013.10.6(日)晴れ 

 氏は「月の人間生活に与えるものといえば潮汐(ちょうせき)と月明かりぐらいのもので、太陽のもたらす大きな恩恵と比べれば問題にならないぐらい小さい。それならばこそ世界各国は古くから太陽暦を用いてきたのである。しかし日本人のそぼくな太陽暦思想は、中国流太陰太陽暦の輸入、実施によって完全にぬぐい去られてしまった。」と記している。
 日本人のそぼくな太陽暦思想とは、先に紹介した春耕秋収の意味する季節循環、自然暦の思想の根底にあるもので、それは太陽暦の概念である。
 しかし先ほどの文の4ページあとで、古代文明の栄えた国々で、エジプトやペルシャなどでは太陽暦が使われたが、多くは太陰太陽暦であったと、先ほどと矛盾することを述べておられる。エジプトでさえ歴史以前は太陰暦が使われていたのでないかとも書かれている。

 「知られざる古代」のなかで、ごく当たり前と思われる太陽信仰は実は少数派なのだ、というようなことが書かれていたのは、関係することなのだろうか。
 なぜ不便で非合理的な太陰暦が多くの国で使われていたかという理由は本書には出てこない。
 わたしなりに考えてみれば、まぶしくて見つめることのできない太陽より、じっくりと観測できてしかも定期的な満ち欠けがある月の方が親しみがあり、暦を作る際に有利だったのでは無いだろうか。
 しかし暦のない時代に、農耕の指針として人々が採用したのは太陽の運行であろう。それは太陽の出入りや軌跡によって季節がわかるからである。
P1010322

 
 

 
毎日同じ時間に朝日を見ていると、その位置が随分変化することに気づく。
 知っているようで知らないことがあるものなのだが、夏至と冬至の真ん中の日に秋分があり、冬至と夏至の真ん中に春分があるものだと思っていたのだが、そうではないのだ。例えば今年の例を見てみると、昨年の冬至から春分まで89日、春分から夏至まで92日、夏至から秋分まで94日、秋分から冬至まで90日となる。
 春分から秋分までは186日、秋分から来年の春分までは178日となる。
 これは太陽と地球の距離が一定でないためであり、地球からみると季節によって太陽が早く動いたり(近日点)遅く動いたり(遠日点)するためである。(中心差)
 このことは太陽の位置で冬至、夏至の日は確定できるが、その両日をもって春分、秋分の日を確定することはできないことがわかる。つづく

【作業日誌 10/6】
ドッグランど芝張り
P1010427



芝張りたって河原の野芝や拡がった高麗芝を剥がして使うので経費は無料、これが来春グリーンに変わるのがとても楽しみ。

【今日のじょん】来じょんするワン達にも相性があるみたいで、仲良く遊べるワンと遊べないワンがいる。レオが来たのでどやったかなと思いつつ、作業をしていると「ウ~ワンワン」と唸られている。
「やっぱり吠えられてるな」と思ったら、吠えているのはじょんだった。「偉そうに吠えんと遊んだげや」と言ったが、そうやって上下関係を作ってしまうものらしい。

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雨読 暦の語る日本の歴史 10/5

2013-10-05 | 雨読

2013.10.5(土)雨、曇り

 古代人が天体観測をしたのは暦を作るためだろう。暦ったって現在のように、仕事の段取りを付けたり、借金の返済日を数えたり、物の納期を数えたり、ゴルフ場の予約を取ったりするものではない。
 人類が最初に使った暦は何時種を蒔いたらいいかという農事暦であろう。
エジプトで太陽暦ができたのも、ナイル河の増水が始まるとき、日の出の太陽と同時にシリウスが輝くことに気づいたからだそうだ。ナイル河の氾濫は肥沃な土を運び、そして播種、やがて収穫となる。
 では日本の場合はどういう歴史があって今日に及んだのだろう。暦はどうして作られるのだろう。旧暦いわゆる陰暦とはどのようなものだろう。こういった暦の疑問に答えてくれるのが本書である。
P1010411



「暦の語る日本の歴史」内田正男著 そしえて文庫5 1978年3月第一刷発行
府立図書館借本

 
 本書は一般向けにわかりやすく書かれているのだが、太陰太陽暦を理解するのは一度読んだだけでは無理で、理解してから次に進んでいてはとても読了できない。どんどん読み進めて、多くのことを知ることとなった。いくつかを紹介してみたい。
 日本の最初の暦は宋の元嘉暦で百済から6世紀には入ってきたようだ。それではそれまでは暦が無かったのだろうか。本書では「魏志倭人伝 注」(5世紀頃書き加えられたもの)に次の文があることを書いている。

 
「其の俗、正歳四時を知らず、但、春耕秋収を記して年紀となす」

 これは暦が無かったことを表すが、暦の概念は存在したことを表している。
思うに、日付こそは無くても、太陽や天体の位置、自然現象による季節の変化を農耕の諸作業と結びつけて習慣としてあるいは集団の掟として持っていたのではないだろうか。
 
 日本が太陰太陽暦を採用したことが、自然科学としての天文学の発達が遅れ、非科学的な暦注が無益な迷信的風潮を植え付けたと内田氏は批判されている。
歴史的な事実だから致し方無い事とは思うが、鎖国、陰暦の採用は暦や天文学にとって大きなデメリットであったことは間違いない。つづく

【作業日誌 10/5】
ドッグランど芝張り

【今日のじょん】
予報通り雨が降った、ドッグランど芝張りの状況をじょんのレインコート姿で紹介しよう。
P1010405P1010406




 
 

 

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日置のこと(36) 天文館パオ-2 10/4

2013-10-04 | 上林地名考

2013.10.4(金)晴れ

 里町の山を上がってゆくと、清山荘、中丹文化会館、郷土資料館、天文館パオと綾部市の文化が凝縮されたような一画がある。そろそろ文化に親しむ生活をしなければ思いつつ、なかなかこれないところである。
 パオはウイークディとあって空いている、展示を見ている時間は無いので、係の方に訪問理由を告げて案内をしてもらう。
 まず「日の出日の入方位板」が正しく太陽の位置を示しているのか訪ねる。即答は無かったが、特別に日時、場所による太陽の位置を示すプログラムを見せてもらった。今年の夏至(6月21日)や秋分(9月23日)の日の出日の入を見ることが出来る。秋分の日の出は東、夏至の日の出は東から30度北となり、秋分の日の入は西、夏至の日の入は西から北に30度付近となっている。
「なんで30度なんですか?」「ちょっと宿題にさせてください」というやりとりだったが、天球儀を見て何となくその理由がわかった。
P1010373P1010374


 

天球儀を見て30°の意味がわかった。太陽の観測はフィルターを透して投影板を使うそうだ。あっという間に太陽の影は移動し、地球の自転が実感できる。

 春分秋分ではどの地点でも太陽は東から出て西に沈むが、赤道上では夏至、冬至の日の出日の入は南北に23°27′傾く。これは地軸が傾いているためで、黄道と赤道の傾きと同じである。これが赤道より北の地域である日本などで測ると、地球は球体なので、例えば夏至の場合だと時間的には赤道の場合より早く日の出がある。つまり太陽の位置は赤道の場合より北に傾く、それが大体30°なのだ。赤道での日の出時刻の日本での太陽の位置は北に23°27′傾いているのではないだろうか。
 これがわたしの考えた30°の結論である。天文に詳しい方があれば指摘していただきたい。
 そして太陽の軌跡も日本の場合はいつも南に寄っていることも理解できた。パオの庭に日時計がある。太陽が最も頭上に近くなる夏至の12時の場合でも、影は短いながらも北を指すのだ。
P1010376P1010377



時刻は16:10、日時計も使えるものだ。
文字盤と月々の立ち位置を見ると太陽が頭上に来ない事が理解できる。


 そしてそのことは、水平線の無い丹波で観測をする場合、必ず誤差が出ることとなる。例えば春分の日の出は標高のある山から出る場合厳密に言うと真東から少し南にずれることとなる。このことは古代の太陽観測を考えるとき、観測点の設定に大きな影響を与えると考えられる。
 暦にも興味があることを知らせると、簡単なビデオを見せていただいた。暦を作るとなると太陽のみでなく、月や星座のことも知らなければならないので、パオとのおつきあいは続くことになるだろう。この項終わり

【作業日誌 10/4】
大根間引き
ドッグランど芝張り

【今日のじょん】肛門腺搾りと爪切りのためキャドックにゆく。喜び勇んでいったのだが、いつもの先生が不在のためか爪切りが不調。やたら嫌がって切ることかなわず、肛門腺も溜まっておらず、なんとも締まりの無い事だった。
P1010395P1010400



 綾部に帰って竹松うどんさんにゆく。ちさとちゃんにご挨拶、お互いにびびっているようで面白い。
 銀行、買い物いつものようにして、例の土砂崩れを見たいというので連れて行く。
  結構連れ回したせいかお疲れモードになっていた。

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日置のこと(35) 天文館パオ-1 10/3

2013-10-03 | 上林地名考

2013.10.3(木) 日置のこと(34)は2013.9.30

 日置氏が太陽観測をしただろうと思われる場所を探すのに活躍したのが、アクリル板に東西南北、斜めに30度の線を入れたユニオンジャックのような、自称「日の出日の入り方位板」だ。これは「大和の原像」の記事を参考に工夫してこしらえたもので、パソコンの地図画面や地形図上に置いて、観測点から春秋分、夏至、冬至の日の出日の入りの位置を探し出すものである。
 逆にライン上に目標地点を置いて観測地点を割り出す事も可能だ。すこぶる単純なものだが、果たしてこれが理屈に合ったものなのか不安であった。なにしろ以前には「太陽軌跡板」と称しており、このラインが太陽の軌跡だと思っていたのだ。
 わたしは地学は大の得意だったが、どういうわけか天文分野だけは苦手であった。宇宙などの授業の時、自分自身が生きていることがとてもちっぽけに思えて妙な気分にかられたことを憶えている。
 とまれ太陽の軌跡については誤った認識をしていた。それがわかったのは今年の秋分、9月23日のことである。この日は太陽は真東から昇って真西に沈む、とまあこれは一応合っている。ところが真昼には太陽は頭上を通ると思っていたのだ。影が無くなる瞬間を写真に収めようとカメラを用意して待っていたのだ。影はだんだん短くはなるが無くなることはない。影が真北に向いたときもしっかり残っている。

P1010352




9月30日06:59、地平線からかなり登っているため、東より南に寄っている。

P1010298

 


9月23日12:13、影はほぼ真北を指しているが、影が無くなるということはない。赤道上でなら太陽は頭上に来るはずだ。
P1010317




9月24日16:15、沈む太陽は真西より少し南。これは地平線ではなく、標高があるためだ。3枚の写真は位置は同一。

 この時初めて南中高度なんて言葉を思い出した。「太陽軌跡板」が太陽の軌跡を表すものと思っていたのが大間違いで、日の出日の入りの方位を表すものということがわかった。
 本当にそうなんだろうか、なんで30度なのかなどと不可解なことがあるのだけれど、どうも参考になる書籍も見つからないし、インターネットの情報でもこれといったものがない。そんなとき思い出したのが綾部市の天文館パオである。天体観測用の機器もそろっており、太陽観測のコーナーもあるようだ。学芸員さんもいるだろうし、何かとわからないことも聞けるだろう。これを利用しない手はない、10月1日、休みを利用して綾部に住まいして5年、初めてパオを訪れる。つづく

 

【作業日誌 10/3】
ドッグランど入口部分芝張り

【今日のじょん】夕べは二度の吠えで超寝不足、朝起きてみると雨が降っている。雨の日の前の晩は必ず動物がやってくる。勘定はあっているが辛いのよね。
P1010393

久々のレインコート。

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広域農道土砂崩れ続編 10/2

2013-10-02 | 日記・エッセイ・コラム

2013.10.2(水)曇り
 その方は土砂崩れの上手の家の方で、当日の様子を語ってくれた。当日、16日はは朝の内猛烈な雨が降っていたが、お昼頃にはあがり陽もさしていた。午後になって雨も上がったので畑の草引きでもしようかなと思った矢先に停電し、雷のような音がしたという。そういえば我が家でも午後に停電し、雨風も治まっているのにどうしてかなと思っていた。
 外の様子が気になって表に出てびっくり、家の前まで土砂が崩れれて流れ、身内のトラックは押し流されて埋没、畑もすっかり埋まってしまったということだ。家の前を水路が流れており、水量もかなりのものがあったので、みるみる溜まっていき、その水による被害も心配したということだ。ポンプによる排水で水の被害は避けられたようだが、排水は現在も行われている。
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水路があって、水はポンプで汲み出されている。個人的な財産としてはこのトラックが最大の被害か。

 警察や消防が到着すると、大規模な土砂崩れなので土砂の中に人や車が埋もれていないか相当気にしておられたようだ。土砂が崩れる直前で車を止めた方にお話を聞いたが、危機一髪とはこのことである。幸い土砂の中には誰も埋まっていないそうだが、民家の方もはじめ人的な危害が無かったことが幸いである。
 目の前にトラックが埋まっている、農作業に使っていたという。畑や作物などの直接被害もあるが、復旧が長引けば経済的な被害も拡大するだろう。
 聞けば斜面上部に亀裂が残っているという。道路の脇に地盤の変化を測定する機器が設置されている。


 路上の土砂を撤去するだけなら数日で終わるだろうけど、山側からの土砂を安定させるとか、擁壁を造って安全を図ってからの開通となると相当の期間がかかりそうだ。
P1010381P1010384



写真の左手にセンサーが設置されていた。
路上の土砂を撤去するだけなら数日で可能だろうけど。

さて帰ろうかと思ったとき、土砂崩れ現場からすぐ上手に、地区の災害避難所なる建物があるのに気づく。川からは随分高いこの地域で水害はまず考えられないのだが、一体どのような災害を想定されているのだろう。もし村中の人が避難していて、土砂崩れでも起きたら全滅の可能性だってあり得る。この避難所が土砂崩れにやられるということは想定されていないのだろうが、今となっては現実的な事となっている。おわり
P1010383




【作業日誌 10/2】
ドッグランど芝張り

【今日のじょん】モモねーさんが来じょん、怒られながら遊んでおりやした。
P1010390

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広域農道土砂崩れ 10/1

2013-10-02 | 日記・エッセイ・コラム

2013.10.1(火)曇り

 
じょんのびへは府道1号線(小浜綾部線)山家経由をご利用ください。

 
18号台風(9月16日)の福知山市戸田の爪痕を紹介したが、上林では山家の広域農道の土砂崩れに困っている。
 台風直後には広域農道(旭町)、綾部小浜線(おおい町)、菅坂峠西舞鶴方面などが通行止めになっていたがおおい町川上の部分はその後開通した。菅坂峠西舞鶴方面は利用頻度がそれほどでもないのだが、広域農道は上林にとって最も利用頻度の高い道路なので影響が大きい。綾部、福知山方面への通勤、買い物などほとんどがこの道路を使用している。
 すぐに開通するだろうと高をくくっていたのだが、相当長くかかりそうと言う噂なので現地を見に行く。天文館パオにも行ってみたかったので、MTBで出かける。これなら脇道など通れそうと思ったからだ。
 旭町の広域農道入り口から通行止めとなっているが住まいの方もあるので車は入れるようになっている。P1010385



 何も車の来ない峠道をふらふらと登ってゆくと重機の音がする。二日ほど前から道路上の土砂を撤去しているそうだ。
 峠を少し下ったところが現場で、左の山の斜面から赤土の大量の土砂が道路、畑を越えて民家のすぐ手前まで押し寄せている。道路の上は随分片付けられているが、まだ路面は土砂の下だ。
 右手の旧道なら自転車で通れるかと思ったが、そこも土砂で埋まっており、村は完全に分断された状況だ。やむなく本道上の土砂の上を自転車を押してゆく。
 土砂の部分を通り過ぎ、広域農道のアスファルトに出ると土砂崩れの全容が見える。赤土の表土が押し流されているようで、中途で段になっているところは少し固い岩盤のようだ。どうも大きな被害を出している全層崩壊では無いようだ。傾斜はさほどのことは無いが、長い斜面を崩れているので多量の土砂が堆積したもののようだ。
P1010382P1010371



 天文館パオを訪ね、夕方5時前に現場に帰ってくる。同じように土砂の上を歩いて越えると、近所の方がいらしたので当日のお話などを聞く。つづく

【作業日誌 10/1】
水回り掃除、ゴーヤカーテン片付け

【今日のじょん】久々のシャンプー日、洗い終わったら毛がむくむくしている。秋が来たんだなー。P1010367

 

 

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