晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 日本の鉱物と地名(その1) 8/15

2011-08-16 | 雨読

2011.8.15(月)晴

 「日本の鉱物と地名」塩・鉄・朱 小田治他 揺籃社、1997年発行 定価1,000円 購入価440円Img_3523
 ネット販売が主流となって古本の値段が全国的に統一的になってきた。これはファンにとってはあまり嬉しくない事象だが、どんな地方にいても購入できるという利点は見逃せない。そしてその値段は一般的につまらない本は安く、内容のある本は高い。もちろん文庫本や新書本は別である。じつは本書はかつて法外な値段で取引されていた。読みたいけれど買えないなあと思っていたら随分安い値段となっていた。こういった発行部数の少ないであろう、自費出版風の(本書がどうなのかは不明なのだが)本は妙に高い値が着くことがある。それがネット販売などで出ると我も我もと相場が上がってしまうのだろうか。とにかく安く購入できたのだが、やはりそれだけの内容だった。
 購入の動機は値段だけの問題でなく、小田治氏の他の著書を読んでみたいので試しに本書を読みたかったわけである。読みたい本は「海人族と鉱物」という本で、実はこの本こそやたら高価で売買されており、京都の図書館を探しても一冊しかないというしろものである。現在貸し出し予約をとっている最中なので、読了後にその内容や読みたい理由などお知らせしたいが、予備的に読んだ本書の内容は残念ながら芳しいものではなかった。
 というわけで内容について批判的な文章を連ねるのがこれまでの常であったが、「黄金と百足」や「真言密教と古代金属文化」のように当初批判的な見方をしていても後日その価値が解ってくると言う経験を繰り返したので、批判する前にもう一度読み直してみることとした。それともう一点、実はこの本の続版が発行されており同一の著者で同一内容の発展したもののようなので購入手続きをした。従ってもう一度読み直し、続編を読んでから本書についても論評したい。つづく

今日のじょん:朝のじょんはリード無しでおしっこ、うんPをしてるんだが、なぜか最近微妙なところまで出かけていって、くんくん臭いだり、道に降りたりしている。ここで叱ると逃げ出して隣のチコのところに行くので、奴の手にはまってしまう。うまく外に出ないように、こちらに戻すのがテクニックなんだが神経戦みたいで気を使う。
Img_3488


もうすぐそこは府道なので危険がいっぱい。

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’11 里山サイクリング 8/14

2011-08-16 | 日記・エッセイ・コラム

2011.8.14(日)晴

 お盆が来ると自転車旅行の最も苦しかった日々を思い出す。13日に飛騨古川を出て、高山を経て美女峠、長峰峠など名だたる峠を越え開田高原まで行ったが宿が無く、木曽福島まで足を伸ばしそれでもお盆で宿が無く野宿をする。14日は権兵衛峠を越え杖突峠に登り始めると昨日からの疲労がピークとなり、遂に自転車を降りて歩くこととなった。この二日間が旅行中最も苦しいところだった。肉体的にも精神的にも極限状態であった。だからこの時期にはいつも思い出すのだ。Img_0249 Img_0258
 
2006.8.14 権兵衛峠と杖突峠、足が悲鳴を上げ、旅行中唯一歩いた杖突峠。


 さてその自転車も倉庫に眠ってしまい、年に一度里山サイクリングに出場するだけ、空身で60Km走るのがとてもプレッシャーに思われる。怖ろしい荷物を積んで中部山岳地帯を100Kmも走っていたのが夢のようだ。体力にも体型にも自信がなくなり、これではいかんなと思いつつ、三年もの月日がたってしまった。この辺でなんとかしようと2011里山サイクリング水源の里・周遊コース60Kmに申し込む。期日は9月23日(金・祝)、参加料1,000円、締め切り8月31日、申込用紙はじょんのびに置いてあるので、参加したい方は是非どうぞ。26Kmの老富コースもあり。Img_3522
 しっかりトレーニングしとかなあかんなあと思っている矢先、10月9日(日)に自転車競技連盟の主催するグランフォンド京都というロングのサイクリングイベントがあることを聞いた。網野から西京極まで165Kmで綾部からスタートするハーフ82Kmもあるそうだ。距離もともかく、そのコースが素晴らしく、なるべく国道を通らないで隠れた峠道を走るものである。よくぞコースを繋いだなあという感じだが、先日お知らせした長宮峠も加用に向かう峠も入っており、食指を動かされる。現役時代なら二つ返事で参加するものを今では走る自信がない。8月末が締めきりなのでそれまで練習して、その出来具合で決めようと思っている。

 【作業日誌 8/14】
薪割り
納涼祭出店Img_3476

ロックバンド無限が今年で最後の演奏となり残念。



今日のじょん:じょんは花火も平気。今日は一区の納涼祭、上林初のプロによる花火が上げられた。昨年までの市販の花火と違い、迫力のあるもので皆感激である。もちろん我が家からもみることができ、しっかり音もしたようだ。帰って、「じょんはどうやった」と聞いたら、「最初なんじゃとゆうてたけど、あとは知らん顔しとったで」だって。箱や紐などしょーもないもんは怖いけど、花火や雷は平気みたい。Img_3480
Img_3482 
たま屋~、かぎ屋~

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雨読 日本古代文化と朝鮮 8/13

2011-08-13 | 雨読

2011.8.13(土)晴

 じょんのび流重箱読みの最終となった本なので、読了に2ヶ月近くかかった。従って内容も記憶が薄くなって、辛い思いで書いている。そうでなくても加齢と共に記憶力が低くなって、どこに何が書いてあったか解らなくて苦労する。先日書いたような読書ノートを用意しなくてはならなくなってきた。少なくとも読書方法を変更しないと、時間とお金を使って無駄なこととなりそうだ。
「日本古代史と朝鮮」金達寿著 講談社学術文庫 定価860円 購入価400円
 私たちの歴史観では、縄文時代には日本古来の人種が居て、弥生時代になり南方、大陸、半島から様々な文化技術を持った民族が到来し、混血して弥生文化が栄え、更に古墳時代には難民や捕虜として帰化人が半島の優れた文化をもたらしたというのが通常である。本書はこういった従来の歴史観を根底から覆すもので、大方の人には驚愕の思いなのかも知れないが、私自身はこの従来の歴史観に疑問を感じていたので、実に素直に受け入れられることとなった。Img_2912
 
文庫本だが、中身の濃い本だった。


 疑問の中心はやはり半島の文化は数百年、大陸に至っては数千年も開きがあるのに、その国に攻め入って捕虜を捕るとか、帰化人として日本に来るとかは考えられないことだ。半島から大挙して渡来した人々が縄文人といわれる日本のいわゆる原住民を征服する、あるいは侵略するという構図にならないのは、その人数的なもの、文化的なものがあまりに格差があったからだろう。
 日本民族、日本国家が朝鮮半島に由来するものとしたとき、古代のみならず今日に至るまでの歴史的現象、歴史的事件の原因、あるいは意味が判然とするのである。それは国家的な大きな現象も勿論であるが、地方の、郷土の歴史のひとこままでが明確に見えてくるのである。
 私は金氏の言う皇国史観が第二次世界大戦に由来するものと思っていた。ところがそれは古代のある時期に始まったものなのだ。その辺りの経緯について本書で語ってはいるが、その理由に関してははっきり述べられていない。日本というアジアの東端の島国の地理的条件、その中で最も遅れて建国ををしたという時間的条件が、皇国史観を生み出したものと私は考える。それは必然的なもので必要なものだったのかも知れないが、歴史を大きく歪め、歴史を観る私たちの目に濃い煙霧をかける結果となった。
 鑑真や行基などの人物、土器・陶磁器や古代朝鮮式山城などの物についても言及しており、歴史を学ぶ人には是非読んで貰いたい書である。

【作業日誌 8/13】
薪割り

今日のじょん:ぽんぽこぽんの恐怖はボールに着くおが屑のようである。最近ボールを取ってくるまで待つようにしたら、いつまでたっても持ってこない。根比べをすべきか補助したり励ましたりして持ってこさせるか、難しいところである。写真は7月のもの。Img_3341

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マンガンぱらだいす(補遺) 8/12

2011-08-12 | 歴史・民俗

2011.8.12(金)晴

 本稿考察編で浅原(あずら)にマンガン坑があったという記事を書いた。上林風土記写真集を見ていると、珪石採掘跡という写真が出ている。私のマンガン坑というのは訂正いたしたい。そもそも浅原の天狗岩で戦時中に何かを採掘していたという情報は当ブログのコメントで頂き、今確認すると珪石鉱山であったようだ。
 マンガンも珪石も丹波の地で多く掘られていたが、その性質はまるで違ったもので、珪石が出たから鉄鉱石、あるいは砂鉄が存在するとは言えない。そういう意味で、「浅原という地名からマンガン鉱を探索しただろう」という私の推理は撤回することにする。ただ浅原の地が古代金工の地であろうという説はその他の多くの状況証拠からも捨てないでいたい。例えば浅原から和知町西河内にぬける峠はタラ坂というそうである。決してだらっとした坂ではなく、ひょっとするとタタラ坂かななんて想像もしている。武吉(たけよし)から同じく西河内に降りる峠は犬越峠といい、これも金工に関係する地名ではある。Img_3225

浅原の谷は上林川左岸では古和木川、草壁川に次いで大きな谷である。和知に越える山並みが遠望され、タラ坂は手前の尾根の陰か。

 いずれにしても浅原天狗岩についてはもう少し調べてみたいのだが、現地の協力者を捜しているところである。実は上林風土記の写真はもちろん白黒なんだが、岩の様子が妙に黒っぽいのが気に掛かる。私の郷里の珪石鉱山は薄い茶色でどちらかというと白っぽい感じであった。鉱物岩石の本にも珪石は概して白っぽいと書いてある。
 以前のコメントによる情報だと武吉の「でんぞうの」というところにも珪石鉱山があったそうである。小字名にこのようなところはなく、これも現地に行かないと解らない。

そうこうしている間にタイトルにもなっている「マンガンぱらだいす」の本が市立図書館に届いたという報せがあった。読んだら雨読でお知らせするのでお楽しみに。

【作業日誌 8/12】
木小屋第三号作製、基礎作り

今日のじょん:毎日よくこれだけ寝られるなあというくらい寝ている。三年寝太郎って感じか。こちとらあれもせんなんこれもせんなんと気ばかり焦っているが、じょんと一緒に昼寝している。まっいいか。ここは隣地なんだけど、放っておくととんでもないことになりそー、、、熊が来るとか、、、。Img_3470

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新聞報道の真偽 8/11

2011-08-11 | 日記・エッセイ・コラム

2011.8.11(木)晴

 「いつもはくだらんこと書いとるのに、今日はまともなことを書いとるなあ。」あやべ市民新聞を読みながらかみさんがつぶやいていた。記者の雑記帳という、朝日なら天声人語、讀賣なら編集手帳という感じの欄なんだが、もっとも超地方紙のこととて比ぶべくもないのだが、どれどれと読んでみる。大体年末のゴミ収集日の間違い報道以来この新聞は信用していない。(2009.12.29参照)Img_3474
 
たまにはいいこと書くじゃない。


 さてこのまともな記事とはなんだろう。それはデジアナ変換に関するものである。記者はデジタル化に伴いチューナーを購入したようである。そうして見ている間にチューナー無しでも見られることに気づいたようだ。デジアナ変換の情報をどうして事前に知らせてくれなかったかと言うことがこの記事の趣旨である。これはケーブルテレビの利用者にとっては大方の疑問であり、意見だろう。我が家は貧乏のため新型テレビもチューナーも買えなかった。アナログ放送が終わったら諦めようと思っていたところ、テレビが映って大騒ぎとなったところである。ほとんどの家庭では新しくテレビを買ったりチューナーを買ったりして対応したことだろう。今になってもデジアナ変換のことに気づいてない家庭も多々あろうと思う。
 デジタル化の前にデジアナ変換のことをどこかでこっそり報道していたことは間違いないと思うが、少なくとも堂々とおおっぴらに報道しているとは思えない。むしろ産業界とつるんで報道操作をしていただろうと勘ぐるのは当然である。それが証拠にデジタル化が済んだ翌日にはテレビも新聞もデジアナ変換について大々的に報道しているのである。買う必要が無いのにチューナーなどを買ってしまった人、アナログテレビは用なしとして捨ててしまった人、もっと怒れよ。そんな意味で、あやべ市民新聞の記事には共感を示すのだが、記事の中でケーブルテレビの加入者は2450万世帯で、日本の世帯数の半数近くという風に書いていた。この数字は驚くべきものだが、デジアナ変換が行われているのはケーブルテレビ全てではないのだ。実際にデジアナ変換の行われている所帯は1420万所帯である。同じ総務省のデータなのだが、記事を書いた記者はこのことを知っていて書かなかったのか、知らなくて書けなかったのかここのところは大切である。
 新聞記事になぜここまでこだわるかと言えば、つい最近の出来事がある。それは讀賣新聞の「京丹後丹波」版のイベント開催の記事の中に、「温泉・宿泊施設三和荘」という内容が載っていた。いつ三和荘に温泉が湧いたのか、舞鶴支局に問い合わせると、記事を書いた記者が対応に出て、「準天然人工温泉と言われるもので、間違いではない」旨を伝えてきた。要するに湯船に鉱石を入れて温泉とうたっているわけである。これが温泉施設と言えようか。記者の意図なのか施設側の意図なのか分からないのだが、「天下の讀賣新聞が紛らわしい内容の記事を書くな」と叱責しておいた。「貴重な意見をありがとうございます」と丁寧な回答だったが、訂正や詫びの記事が出るわけでなく、要は新聞と雖も真実の報道がなされることはないという結論である。社会の意図、マスコミの意図、編集者記者の意図の元に記事は作られ、読者はそれをお金を払って読んでいるわけである。

【作業日誌 8/11】
薪割り
茗荷収穫

今日のじょん:Img_3473Img_3472




  写真を見ていただきたい、何か違うでしょ。そうそう、首輪が変わっておるでしょう。この首輪、以前のものと一緒なんだが色が赤から黄色に変わったわけ。この首輪ゴールデンリトリーバ専用とかでやったら高いらしいが、グリーンホームセンターで150円で売っていたというしろもの。売れ残るはずで、やったら大きくてじょんの胴に出来るぐらい。焼け火箸で穴を開けて、先っぽちょん切ってやっとつかえるというありさまである。「黄色の方が似合うなあ」というかみさん、親バカちゃんりん丸出しである。

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AKB 長宮峠(2) 8/10

2011-08-10 | 上林界隈(AKB)

2011.8.10(水)

 やがて道は右に稲葉(いなば)を分ける。稲葉は上川合の範疇になり、地図を見ると長宮と同様に奥が深く、質山峠の道に降りるのと綾部、田野町に降りる峠道が見える。Img_3463

右に行くと稲葉、この谷も相当深いぞ。


  その後も道は広く、なんだ簡単なーんて気楽に走っていると、集落の手前で右の斜面に取り付く。鋪装はされているが植林の間の細い道で、すこぶる急登だ。倒木や土砂崩れでもあったひにゃあとことんバックするしかない。植林のため陰気で見通しも悪く、心細いことこの上ない。今回軽トラだが、乗用車だとちとつらい道だ。軽トラでもチエンソーとスコップぐらいは必要かも。
 嫌というほど登って、切通しの峠に着く。ここも陰気で憂鬱な峠だ。峠につきもののあのほっこりする感じがない。お地蔵さんや道標など無いか覗いてみるがそれらしいものはない。実はこの峠道、小学校の遠足で通った思い出があるのだ。多分綾部まで歩いて菊人形かなんかに行ったのだろうと思うのだが、記憶に残ってるのは明るい日差しの指す民家の庭先だけである。本当にそんな遠足があったのか、不思議に思っているのだが、いずれ同窓会かなんかで確認してみたい。Img_3464 Img_3466
 
峠の切通しと綾部市街の遠望。


 峠を少し下ったところに綾部の市街が見下ろせるところがある。たいした風景ではないのだが、それまで展望がきかなかったのでほっとする。その後もぐれぐれと曲がった道を下っていくと、左手に草に埋もれた鳥居が出てくる。長宮不動公園という石柱があり、奥にお堂らしき建物も見えるのだが、こう草に埋もれていると行ってみる気もしない。どんどん下ると田野町に出て、左手に松寿苑の大きな建物があって、見覚えのあるところに出てきた。Img_3467
 
一時は力入れて整備された公園なんだろうけど、今は草の中。


 車なので簡単に越えてしまったが、どう考えても古くからの峠道とは思えない。第一あの斜面の登り方は車用の道であって、歩いて登る道ではない。峠だってあんな大きな切通しは必要ない。帰ってから二万五千分の一地形図「綾部」で確認する。
 やはり峠道は長宮の集落を通って谷筋を詰め、車道の峠に合流している。多分あの切通しの脇にでも本来の峠が在るのでは無かろうか。もう少し探索すれば良かった。峠道は尾根筋を安場に下っている。歩いて楽しむのならこのルートが良かろうと思うのだが、田野に下る車道ルートと安場に下る尾根ルートのどちらが本来の綾部街道なのか解らない。いつか歩いて本来の峠道を越えてみたい。Img_3468

田野町松寿苑のところから長宮峠を振り返る。左の尾根の向こう。 


【作業日誌 8/9】
薪割り

今日のじょん:よしずが怖くて外に出られないのは先日話したが、散歩もぽんぽこぽんもけーとくちんも終わって、さあ家に入ろうというとき、ちっとも表からやってこないのだ。迎えに行くとお座りしてかいかいしている。変だナーと思っていたのだが、そーなんだ、出るとき怖いものは入るときも怖いんだ。ナルホド。Img_3442 Img_3446

出るとき~、入るとき~

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AKB 長宮峠(1) 8/9

2011-08-09 | 上林界隈(AKB)

2011.8.9(火)晴

 お盆前の定休日には川合(かわい)へ墓掃除に行っている。株内で揃ってされるのだが、日曜日にされるのでこれには参加できない。やむなく定休日に行ってるが、現地に行くと先日済んだばかりということできれいになっていた。なす事もないので、墓石の年号を見たり、懐かしい珪石鉱山跡の写真を撮ったりする。先日のマンガン坑の記事に書いた川合の珪石鉱山は、生家の丁度真向かいにあり、頂上直下を大きく切り開き、坑道を堀り、鉱石はケーブルで真下の府道まで降ろしていた。稼働していた記憶は無いのだが、山肌は大きくえぐられ、ズリは府道まで続いていた。小学校の5,6年頃か、坑道まで登り、懐中電灯の灯りを頼りに中を探検した。トロッコ道が残る大きな坑道だったが、外の灯りが届くか否かのところで落盤が起きており、子供の力ではそれ以上進むことも出来なかった。Img_3459 Img_3460
 
我が家の正面の山の頂上直下に坑道があった。
その山のみぎ斜面にもあり、右写真の丸い山の麓辺りに降りしていた。

 その東側、深山にも大がかりなケーブルがあって、子供の遊び場になっていたが、その坑道はどこにあったのか知らない。小学校の1,2年生ぐらいまでだろうか、珪石鉱山で働いていた朝鮮の一家が府道沿いに住まいしていたのを憶えている。
 その廃屋の下が夏休み中の水泳場所だった。毎日飽きもせず泳いだり、魚捕りや砂遊びをしていた。懐かしく見ていると、赤色チャートが眼に入る。上林独特のものと思っていたのだが、この地にもあったのだ。先日大原の神社下の河原を探索したとき、らしいのが一個あっただけで、割合は上林に劣るが、存在することは間違いない。それにしても子供時分の記憶は当てにならない、上林に来て初めて見たような思いがしていたのだ。 Img_3462_2Img_3461
 
かつての水泳場、川底に赤色チャートが見える。


  帰りに買い物を頼まれていたので、岼から綾部に抜ける長宮峠を越えることにする。岼の渋谷神社で府道59号から709号に入る。その右手に当たる山の中腹にも過去の珪石鉱山があり、長い間土砂が見えていた。ここも小学校の4年生当時か何人かで探検し、コウモリを捕獲して学校に持っていったことがある。
 長宮峠は参勤交代の道で、綾部街道であると聞いたことがあるが、とりあえず京都に向かうとして、この道はどう考えても遠回りだと思われるのだが、、。藩の見回り役の道というのは肯ける。綾部藩にとって河合村というのはドル箱だったと読んだことがある。山村にて石高は上がらないが、綿だの煙草だのなんか特産物があったようだ。ましてや加用(かよ)だの大身(おおみ)だのと言われれば、世の中米だけじゃないんだなと考えさせられる。しかし中世、近世のことには疎いので、本当のことは解らない。
 つづく

【作業日誌 8/9】
草刈り(7-2)
薪割り

今日のじょん:じょん Vs 玉虫
虫には過剰反応を示すじょん君だが、うつくしい玉虫にはどうだろう。初めて見るらしく、遠巻きに観察しているが、ちょっと動くとびっくりしてどうも苦手みたいだ。唸ることも吠えることもないが、腰が引きっぱなしだ。Img_3454 Img_3456
 

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マンガンぱらだいす 考察編(3) 8/8

2011-08-09 | 歴史・民俗

2011.8.8(月)晴

 さてこのマンガン坑、内部はきれいなものだったが予想したよりも浅かった。これはどう考えたらよいのだろう。もちろんそこまで掘り進んだが、鉱脈が切れてしまったということだろうが、マンガン坑とはこういうものなのか、それとも試掘で掘ったものなのか、同行した四人で話し合っていた。Img_3429
 
坑の内部から外を見た写真、天井、壁ともきれいな状態だ。


 試掘ならあんなに大きな穴を掘らないだろうというのが大方の意見であった。確かに坑道は人が立って充分な高さのあるものだし、入口は全て土砂を除いていないが、それ以上の広さがあるものと思われる。日吉のマンガン坑では大きいところで月産100トン~200トン、小さいところでは一人親方の坑で月1~2トンということであった。残されたズリ(鉱屑)は意外と少なく、これだけの坑でそれなりに生産があり、採算もとれたのかと想像するが、素人目にはなんとも判断できない。
  採掘した鉱石だが、ズリの中から黒い金属光沢のあるもの一個、坑道内壁面から数個採取してきたが、果たしてどのようなものか、図鑑とにらめっこしても解らない。Img_3441

右の二つがズリの中から採取したもの。小さいのはかけらである。


 ズリの中から拾ったものは、現地でハンマーで叩くと簡単に割れてしまった。黒光りする金属らしい部分は強い磁性がある。マンガン鉱は磁性があるそうだが、図鑑にあるような色などではなく、他の鉱物かもしれない。磁性といっても金属光沢のある部分のみで、その他の部分ではかなり弱い。村上さんに見せたところ、以前に河原で採取した強磁性の鉱物と同じではないかという意見が出た。なるほど以前に採取したものは風化して角が無くなっているが、似ている感もある。丸くて硬い感じがするが、以前に落としたとき簡単に角が割れたことがあった。同様の鉱物が水流に流れてきたのかもしれない。Img_3053 Img_3469
 
左上のNo.1が上林川で採取したもの。右は今回採取した鉱物。


 坑道の壁から採取したものは磁性もなく、単なる岩石だろう。あれだけの坑道だから鉱石であればたとえ少量でも採っていくはずだ。そろそろ採取した鉱物、岩石の正体を調べる必要が出てきた。
 今回のマンガン坑探索の結論は、鳥垣の奥でかつて鉄の採鉱がなされていたのではないかということである。それはアシ谷という鉄を示す地名によって、マンガン鉱の探索がなされただろうという予測からである。日吉のマンガンを調べていると、最初のマンガン鉱が発見されたのは、佐々江明日ヶ谷岩見鉱山であったと言うことだ。ササも鉄を表す言葉、明日ヶ谷はアシ、アソ、アサの転訛であろうと思われる。浅原(あずら)の天狗岩にマンガン坑があったことも同様である。
 もうひとつの産鉄の要素は、
坂尾呂神社の主祭神が須佐之男尊(すさのおのみこと)であるということだ。スサは鉄のこと、つまり鉄の男ということだ。鳥垣は広大で豊かな耕作地が拡がる地域ではない。鳥垣の数多くの古墳にねむる主は産鉄で勢力を持った渡来人であろうと想像するのである。Img_4171 Img_4172
おわり

坂尾呂神社と小野田橋方面を望む。(2010.4)


 今日のじょん:本日舞鶴が日本一暑くなった。どうやら甲子園だけではないようだ。じょんも暑いぜ。Img_3452  
 

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マンガンぱらだいす 考察編(2) 8/7

2011-08-07 | 歴史・民俗

2011.8.7(日)晴

 マンガンという鉱物についてはなんとも理解が少ない。丹波マンガン記念館に行ったときにもっと勉強していたらと思うが、実はその頃はあまり興味がなかったのだ。同様にマンガン鉱を掘っていた時代の山の持ち主も村の人も、さして興味を持たなかったのだろう。郷土史などにも出てこないし、写真なども残っていない。マンガンがどのように流通し、何に使われたのかなどあまり関係のないことだったのだろう。私の故郷川合ではマンガン坑は聞かなかったが、珪石は大々的に掘られていた。子供時分にも稼働していて、廃鉱は子供時代の探検の場所となっていた。生家も過去に珪石山の採掘権を売り、破格の金銭が入ったとのことであるが、果たして珪石がどのようなもので何に使われたか家人は知らなかったようだ。鉱業というものはそういうものなのかもしれない。
 マンガンについては詳しい知識は持ち合わせていないが、丹波が国内では有数の産地であること、特に日吉、京北あたりは良質のマンガンを産出し、殿田がその集積地であったこと、鉱山は中小資本のものがほとんどで、20人も居れば大きい方で大概は2,3人で掘っていたことぐらいのことは知っていた。
 さてマンガンの使い道だが、だれもが乾電池と思うところだろう。量も多くて値も安い炭酸マンガンは鉄鉱石に混ぜて製鉄に使われ、量も少なく値も高い二酸化マンガンは電池や釉薬、染料、マッチなどに使われるそうだ。
 アシ谷のマンガン坑からどのような種類のマンガンが出たかは解らないが、規模から言って2,3人で掘ったものだろう。坑道の入口は自然に横に走っている裂け目を天井として掘ってあり、3m程入って左に少し曲がっている。奥行きは6,7mで行き止まっている。高さは人が立っても余裕があるので2mぐらいか。広さも両手を拡げて充分だから手堀の坑道としては広い。右手中間の壁に鏨の跡が数個残っている。Img_3428 Img_3430
 
マンガン坑最奥部と壁に残された鏨の跡。


 マンガン鉱そのものは脆いものだそうだが、坑道の壁面も手で削り取れるような脆いものである。その割に坑道そのものはしっかりしており、落盤の跡などもない。従って底面は岩などが堆積していることもなく、細かい土が畑のように積もっている。よほど岩盤がしっかりしたものなのだろう。
 さて6,70年ぶりに人が入った坑道からは遺物というものはワインの瓶のみであった。DAINIPPON WINERYと銘があったように思うのだが、大日本山梨葡萄酒会社のものであれば、これは日本で初めての葡萄酒会社のものである。但し当社は明治10年に操業し、10年もたたずに解散している。瓶がリサイクルされて昭和の時代まで残っていたのかも知れない。Img_3427 Img_3434
 
泥んこで出てきたが、高橋さんがきれいに洗ってくれた。


 坑道の中にこの瓶だけが残されていたのは、坑道を去る日に乾杯をして去っていったのではあるまいか。瓶の上部が割られているのは、コルク抜きまで用意していなかったのではと想像してしまう。つづく

【作業日誌 8/7】
玉切り、太いクヌギを切り終える。

今日のじょん:かみさんが髪のカットに出かけていった。するとじょんが階段の下に頭突っ込んで妙な格好している。窓にたてずを掛け、その隙間からしか出かける車が見えないのだ。尻尾振り振り見送っている姿を見ると、思わずカメラを向けてしまった。Img_3449 Img_3450
 

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マンガンぱらだいす・考察編(1) 8/6 

2011-08-06 | 歴史・民俗

2011.8.6(土)曇

 鉱脈を探し出す鉱山師はまず第一に地名によって探し出す。古代に金属を採鉱していた地には鉱脈のある可能性が高いということである。若尾五雄氏の著書の中で読んだ憶えがある。古代の技術では鉱物を掘り尽くすことは出来ない。彼らは掘ることの出来なかった鉱物と地名をそこに残したのだ。技術が進めば自分たちが掘り出すことのできなかった鉱物を、自分たちの子孫がいつか掘り出すだろうと地名を残したのではないだろうか。放棄する坑道に地名を残すという行為はそれしか他に考えられない。千年以上の月日がたってその地名を頼りに、ハンマーを手にした鉱山師が谷に山に活躍したとしたら、人間のあるいは歴史の必然性というようなものをひしと感ぜられるのである。
 私がマンガン坑の探索に行こうという桜井さんの案内に二つ返事で参加を決めたのは、その谷が「アシ谷」という谷だったからである。アソ、アシ、アサというのが朝鮮語の鉄を表し、浅原(あずら)が鉄の金工の地ではなかったかということを過去に書いた。(2010.2.4、8、9参照)その後浅原にマンガン坑の跡があると聞いて益々その念を強くしたところだが、鳥垣の「アシ谷」にマンガン坑跡があるとなるともう驚きである。Img_3432
 
同じような風景の岩壁にどうやって鉱脈を見つけるのだろう。


 昨年老富の方々に聞き取りをした際に鉱山師のことを少し書いた。(2010.12.27参照)渡辺さんが山で見かけたのも、酒井さんが列車で居合わせたのもマンガン鉱を探す鉱山師だろう。そういう人たちが上林の山や谷を闊歩していたという歴史の一ページでもある。
 では古代に鉄が産出したとして、現代のマンガンとどう関係があるのだろうか。
たたら製鉄で刀など作る際に、マンガンを投入することによってより硬く、より鋭い刀が出来るということを読んだことがある。現実に大戦中採掘のマンガンは製鉄に使われていたそうである。ただ、鉄は古来から様々な呼び方があるのだが、マンガンはそれらしいものがない。マンガンはもちろん日本の言葉ではないし、満俺もそのあて字でしかない。もし鉄にとって必要な鉱物として古来から使われていたのなら、日本古来の呼び方があってしかるべきである。これは私の勉強不足で、知らないだけのことかもしれない。
 若尾五雄氏の著書の中には「マンガン鉄」という書き方がしてあったが、鉱物図鑑を見てもこのような鉱物は見あたらない。同じ岩石の中に鉄、マンガンを含む場合はあるようで、マンガンの出るところ鉄や銅なども産出すると言うことだ。つまり古代に鉄を産出していた所にはマンガンの出る確率が高いということでは無かろうか。つづくImg_3440
 
ズリの中、坑道最奥部、中間鏨の跡のあるところから採取。



【作業日誌8/6】
玉切り

今日のじょん:何でも怖がりがだんだんエスカレートしているようでつらいものがある。どうもゆらゆらと動く物が一番怖いようだ。省エネに貢献しているたてずも苦手なようで、尻尾下げてびびっている。Img_3412

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マンガンぱらだいす 8/5

2011-08-05 | 上林界隈(AKB)

2011.8.5(金)曇

 鳥垣にマンガン坑跡があると桜井さんに聞いていた。浅原、大唐内、古和木にもあるように聞いているが、もっと他にもあるに違いない。丹波のマンガンは京北町や日吉町が有名で集積地の殿田は随分賑わったそうだ。殿田マンガンというブランド名があったそうだ。現在は閉鎖中だが京北に丹波マンガン記念館があって見に行ったことがある。当時あまり興味が無かったので簡単に坑内や展示物を眺めて帰ってきた。かなり詳細な記録なども展示してあったのでしっかり見てくれば良かったと反省している。再開の運動もされているというので期待している。
もう少しマンガンについて調べるべく、午前中図書館に行き「マンガンぱらだいす」という本をリクエストしてくる。

 参加者 桜井、高橋、田中、小原
 小野田橋    13:00
 アシ谷出合い 13:20  おりと奥の広場を過ぎ、二つ目のえん堤上。アシ谷は
 右に分岐しており、ここに軽トラを置く。Img_3421
 
二つ目のえん堤の上にアシ谷出合いがある。 


 マンガン坑着   13:40 最初左岸、やがて右岸に移り、高巻くようになる。数
 カ所岩が出てくるが、最も大きい岩壁の右端に坑道が口を開けている。Img_3423

30cmぐらいの穴がよくぞ残っていた。


 一服してまた掘り始める、入口上部から剥離した50cm程の岩が埋まっていたがなんとか取り出し、1m程度の穴が開いた。Img_3424Img_3425

小一時間ほどで這って入れるぐらいになった。


 桜井さんがヘッドランプを点けて入坑する。坑道は6,7mで終わっていた。ライトに当たって銀色に光っていたのは岩盤に着いた水らしい。やがて、「空き瓶があるで」といって口の割れた空き瓶が出てきた。ダイニッポンブルワリーとあるから葡萄酒が入っていたのだろうか、廃鉱の日に飲んだのかも知れない、この穴に人が残した物はこの瓶と坑内の鏨(たがね)の跡のみである。Img_3427 Img_3428
 交替して私が入坑する。むっとした湿気がある。岩盤がしっかりしているのだろう、ほとんど崩れ落ちた岩はない。一番奥の岩盤から岩の破片を取り、道中の壁にある鏨の跡を確認する。入口近くに動物が巣くっていたのか枯れ葉などが集まっているところがある。四つんばいで出てくると、桜井さんと同じように「黄泉の国からよみがえったなあ」と口から出る。
 坑内と入口付近から数個のらしい石を拾って帰る。Img_3431
 
坑道はこんな感じに開けた。大きさを見るために立ってもらったが、まだまだ土砂は溜まっている。


 私の生まれた川合にはマンガン坑は無かったが珪石の坑道はいくつもあった。懐中電灯、ローソク、ロープを持って探検に行った、坑内は真っ暗で、あちこちが崩れ落ちており、子供心に恐怖を感じたものである。そんな40年以上前の感覚が、今日よみがえってきた。つづく

今日のじょん:いくみちゃんが来てええかっこしなきゃいかんのに、ボールはなんとも皮肉な場所に落ちる。「こんなん取れへんのかいな、あかんわ」なーんて言われて、すっかりしょげ込むこととなる。「涼しくなったら鍛え直しますから、、」とかみさんの弁。Img_3419 Img_3420


 
 

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雨読 鬼伝説の研究 8/4

2011-08-04 | 雨読

2011.8.4(木)快晴

 雨は降らないが暑すぎるので晴読ができる。今回は図書館で借りた本なので余計プレーッシャーがかかる。明日が返却日なのだ。借りた本は読み直すことが出来ないので、読書ノートを作ってメモを取りながら読み進む。最近とみに記憶力が減退しているのでこの方法は普段でも有効だ。
 ではなぜ購入しないかというと、それは値段の問題だ。貧乏生活になると本の購入費は大変負担となる。特に新刊書の値段は高騰しているし、古書でも掘り出しものは少なくなっている。ちなみに本書は7,8千円が相場で、オークションに6,000円が出ているのが最安値と言うところである。Img_3417
 
若尾氏の名著「鬼伝説の研究」と「黄金と百足」


 「鬼伝説の研究」金工史の視点から 若尾五雄著 山和書房
若尾氏の本は以前にも「黄金と百足」で紹介している。(2010.1.31参照)その際かなり批判的に論評しているのだが、後日若尾氏の卓見性に気づき、逆に評価している。
 鬼伝説と金工(採鉱、冶金、鍛冶)というのが関連があるというのは今では当たり前のように思っているのだが、過去にはそのような視点は存在せず本書あたりがそのパイオニアなのである。そういう意味では大変価値のある本で高価な値が付いても致し方ないと思っている。氏は鍛冶神が片目であるということもたたら製鉄の過程でのいわば職業病と解き明かした。民俗学の諸先生が納得のいかない諸説を振り回しているときに、なんと爽快な結論であろうか。そして氏の卓見性というのは超人的なものを感じる。かつて「淘汰=藤太」や「大江山の江は鉱山に関係がある」などといった氏の発言に疑問を感じていたのであるが、今ではなるほどと信じている。江の川はともかく、江ノ島がかつて鉱山であったとは驚きである。もちろん大江山は鉱山だし、ありえるなあという感じだ。
 鳥取県の山奥に楽々福神社から話が始まる。ササフクと読むそうだ。ササは銅や砂鉄を表すとか、三岳の佐々木は本文にあるが、丹波には佐々江、佐々里など気になる地名も数あって興味深いところである。
 鬼伝説のあるところと金工の関係、修験道と金工の関係など満載で一気に読んでしまう内容である。
 若尾氏は気づかれてはいないと思うが、鬼伝説のある箇所に引地地名が出てくるのが気になる。実は引地地名考は挫折中で、新しい情報が得られなくて困っていたところである。豊田市の引地地名の真っ只中に酒呑(しゃちのみ)地名があったり、熊野の銅山地帯にヒキジヤシキがあったり、その辺の地図を見ていると引土があったり、私としてはどきどきはらはらの読書であった。Img_4765

古城山から引地方面、文献の中に引地のヒントが出てきたのは嬉しい。但し、氏は引地について書いているわけではない。


 今日のじょん:夜中1時のことである、じょんが吠えるので階下に降りてみると北側の窓に連れて行く。闇の中を耳を澄まし目を凝らしても何も確認できない。二階の窓からじっと聞いていると時々物音がする。きっと小動物だろうと思うのだが、じょんのび谷の上に昨日見つけた熊の糞らしきものと、春に見つけた爪痕が気になるのだが、、、、。Img_3413 Img_3414

 

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その後シリーズ(後編) 8/3

2011-08-03 | 日記・エッセイ・コラム

2011.8.3(水)晴

 オリーブその後
 オリーブがアナーキー(アナアキゾウムシ)にやられて、スミチオンで消毒し再生を祈っていたばかりであるが、先日又してもやられた。毎日観察を続けていたのだが、7月31日に大きな穴を開けられているのを発見、夜中にやられるのでどうしようもない。それにしてもスミチオンの効果は1ヶ月ぐらい続くという風に聞いたが、早速やられているようではスミにも置けない。この大穴でおそらく枯れてしまうだろう。白樺にしてもオリーブにしても値の高い苗木、元気に育っている苗木がやられて余計にガックリくる。Img_3397 Img_3345
 その白樺だが、さすがに枯れてしまったのを諦めて回収することにした。枯れた木を回収していると、土や草に覆われた根元にテッポウムシの穴を発見、やはりこいつにやられたか。白樺についてはこういうときに出るおが屑が見られなかったので、発見できなかったのだ。やはり土や草に隠れている部分も点検の要がある。

 剪定その後
 庭中の木を剪定した押して悦に入っている。剪定というのはちょっとやり過ぎかなあと思うくらいが良いようである。芝生広場の白樫だけは上部が届かないので下半分だけ丸く刈ったのだが、上部は夏の終わりによじ登って切り払おう。ところが一部分に妙な切れ込みが出来、どこかで見たような形やなあと思いつつ、イソジン君と呼んでいる。Img_3408




 Kメリの胡瓜
 ヤーダさんとこで妙な実が成って噂のKメリの胡瓜だが、じょんのびファームではいつまでたっても実が成らない。先日畑内の草を刈ったら中から瓜状の実が出てきた。こいつが栄養皆とってたんかなあ。Img_3403

 いつまでたっても玉切り、薪割り。
 5月までには終えよう、6月中には終えよう、7月中にはなんとしても、、、と遅れ遅れになっている薪割りが、8月まで残ってきた。一年かかっても割れなかった昨年度よりはましだけど、こう暑くなってくるとめげてしまう。日に日に乾燥が進み、玉切りが困難になる。とりあえずお盆までに玉切りを終え、8月中にはけりをつけようと思うのだが、、、、。昨年は割った薪に大発生した玉虫が、今年は玉切り前の櫟に発生している。Img_3329 Img_3331 Img_3332

【作業日誌 8/3】
じょんのび簡易水道修理
玉切り

今日のじょん:どことなく元気がないなあと思っていたら夕方吐いていた。どうもフロントラインかフェラリアの薬が影響しているみたいだ。先月もそんな感じだったので、フロントラインかなあと思うが、あれって結構劇薬みたいだし、、、。かといってこの環境じゃあしないわけにいかないし、、、、。Img_3406  

寝てばっかしちごて調子が悪かったんだ。 

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その後シリーズ(前編) 8/2

2011-08-02 | 日記・エッセイ・コラム

2011.8.2(火)晴

 歴史・民俗シリーズや山・峠シリーズを続けていると、ブログのアクセス数が落ちてくる。書いている方は夢中になって書いているのだが、興味の無い人にとってはこれほど面白くもない記事もないのだろう。てなわけでかやく御飯のように取り混ぜて書かなければならないのだが、ついつい連続して大栗峠のことを書いてしまった。
じょんのび村の様子を知りたい方が多いと思うので、まとめてその後シリーズを書いてみたい。TVや新聞のニュースもそうなんだけど、事件の報道があってもさてその後どうなっかたはなかなかやらないものである。

 これで終わりかよ、キヌガサダケ
 今年こそカビが来ないよう完璧の保存をして秋の試食会に備えていたのだが、第6号(7月3日参照)を最後に出ることはなかった。昨年まで順調に20本前後出ていたが、今年は最少である。思うに年々数が減っているように思われるし、出現する場所も限られてきているようだ。キヌガサダケの生態について調べたわけではないが、じょんのび村での生態は以下のとおりである。
 出現する場所は木小屋の周辺100㎡ぐらいの範囲で、特別湿気った場所でもないし、乾燥した場所でもない。元々畑で、以前は雑木が茂っており、切り払って整地した所である。出現する場所は特に決まりが無く、辺り構わず出るようだ。
 出現する時期は6月から7月の暑い時分で、雨の多い年には多く出たような気がするが、出るのは晴れた日である。昨年11月に弥仙山に行った際に帰りの尾根道で見つけたことがあるので(2010.11.24参照)条件さえ揃えばいつでも出るものらしい。
 グラバを撒いたところからは出ていない。グラバを水に溶いて撒くのが増殖の方法と聞いて実行しているが、撒いた箇所からの出現は無い。
 保存は即刻天日乾燥して冷凍保存してある。数は少ないがいずれ試食会をしてみたい。Img_3240

今年最後の一発、サビシイネエ。



 脱ダニ宣言、その後
 相変わらずダニは猛威をふるっている。見つける度に報告をしていないのは日常茶飯事になっているからだ。特に最近になると図体が大きくなってすぐに発見出来るようになった。風呂場でお腹にくっついているのやら、もぞもぞと腕を這っているのやら、洗濯場の床を這っているのもいた。これ等は家ダニではなくマダニである。確実に獲っていると思っているのだが、足や腹の咬み痕は増えるばかりである。噂では腫れて高熱が出て医者通いという方もあるようだ。何年も上林にいるけどはじめて咬まれたという人もある。やはり異常な発生が認められる。Img_3411

茶色いところが咬み痕、10箇所ぐらいか、身体全体で30箇所ぐらい。 


ショック、梅肉エキス
 構想3年、やっと本格的に梅肉エキスをつくりあげ、鍋にくっついたカスを服用していたのだが、それも少なくなり本ちゃんの瓶を開けることになった。これで高いエキスを買わなくてもいいと悦に入っていたら、開けてびっくり瓶の蓋から中身まで茶色いクレーターのような花が咲いているのだ。しまったカビが来たか、そういえば容器を消毒してなかったかななどと沈んでいたが、よく考えれば変なことだ。梅肉エキスといえば強烈な酸で鉄やアルミの鍋など溶かしてしまう程なんだ。そこにカビが生えるだろうか。世の中にはピロリ菌みたいなのもいるぐらいだからあり得るかもしれないが、にわかに信じられない。
 冷蔵庫からだし、表面をすくって培養することにした。増えればカビだし、捨てるしかないと思ったが、掘っても掘っても茶色いのが混じっている。これは梅の実の繊維か種の一部が入っているんじゃないかと考えられる。しかし一昨年作ったときは黒一色でこのようなものは無かった。どちらにしても気味悪くて食用には向かない。手間暇かけて作っただけにショックが大きすぎる。Img_3410

コレクウキシネエゼ。


【作業日誌 8/2】
水回り掃除

今日のじょん:夏場は3週間でシャンプーをする。ファーミネーター、体重測定、シャンプー、フロントライン、大掃除と家族中で大わらわの一日である。体重は先月と同じ18,2Kg、夏場としては上々だ。

Img_3407
寝てばっかりやから肥えるんじゃ。むにゃむにゃ。
  

 

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大栗峠考(6) 8/1

2011-08-01 | 上林地名考

2011.8.1(月)晴

 大栗峠の考察をはじめて気づいたことがある。大栗峠の峠名の由来は志古田にある大栗で、その地名は崩壊地形による、というのが今のところの到達点なのだがなぜどこにあるか誰も知らないような小さな小字名を峠名にするのは不思議ではないか。大栗峠の前に考察した坪坂峠にしたって胡麻峠にしたってそうである。坪に下るから坪坂峠、胡麻に下るから胡麻峠という風に考えたが、峠名が行き先を表すのなら関屋峠、黒部峠と命名すべきでは無かろうか。大栗峠ならさしずめ志古田峠とした方が通行人には解りやすいと思うのである。
 峠名についての考察はまだ始めたばかりで数が少ないのでなんとも言えないのだが、察するに峠名は行き先を表すこともあろうが、その峠道の状態を表す場合もよくあるのではないだろうか。Img_3366
 
ニスで塗られた可愛らしい看板が架かっていた。
峠を愛する人がいることがとても嬉しい。


 大栗峠にしても、「この峠道は崩落箇所があって危ないよ」という意味で大栗峠と名付けられ、その崩落箇所はひょっとしたらあとから大栗と呼ばれたのかもしれない。
 香川、愛媛県境の猪ノ鼻峠にしても峠道の脇に猪ノ鼻というところはあるが、旅人が目標にするような箇所ではない。ただそこには豊かな水が湧き出ていたに違いない。つまり猪ノ鼻峠の意味は「この峠には良い水場があるよ」ということなのではなかろうか。
 胡麻峠については少し悩んでいる、「大唐内のこと」で書いているように「川の転回点」「川の曲流蛇行する氾濫源」という意味で鏡味完二氏の説と「胡麻高原探訪」に書いている。確かめるべく鏡味完二氏の「地名の語源」「日本の地名」の二冊を取り寄せて読んでいるところだが、どうもそのような内容のことが見つからないのだ。多門院の胡麻がそのような地形らしいというのは想像できるのだが、それだと胡麻峠が峠道の特徴を表した地名だとするのは不自然だし、胡麻に向かう峠だから胡麻峠だというのも、胡麻が誰にも知られないほどの地名だからこれも不自然なのである。おそらく「北山の峠」の著者金久氏も胡麻、大栗は気づかなかったのではないかと想像している。
 胡麻、大栗、坪、これからはじめて目にしようという土地に凄い期待感を感じる。時期尚早ではあるが、大いなる仮説として「峠地名先行説」を提唱したい。
一旦大栗峠考を締めくくり、現地を訪れ、峠道を踏んでから改めて再開したいと思う。

【作業日誌 8/1】
草刈り(6-7)終了
じょんのび谷一部葦刈り

昨日のじょん:じょんカレンダー7月分を紹介しないまま8月になってしまった。従って”昨日のじょん”とタイトルする。昨夏はメーが貰われて、よく遊びに来たが今年はユキちゃんが増えたのでちっとも来なくなった。というより肥えて車に乗れなくなったという話も聞こえているが、、、、。Img_3404

 

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