晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

遊里のこと(11) 8/4

2010-08-05 | 歴史・民俗

2010.8.4(水)晴

 4月12日に遊里のこと(1)を書いてから、もう11回目となった。遊里のこと(4)2010.4.19で”ユリ”は淘汰の”ユリ”だろうと最初に答を出しているのだが、その後調査を進めるうちに”ユリ”地名というのが実は学者の間でも難解地名とされているようで、またその地域が限定されているので余計解明されにくい条件となっているようだ。Img_4651

鍛治屋町岼ヶ上


 これは軽々しく結論を出すべきではないぞと思ったが、もう出してしまったものは致し方ない。間違い、判断の誤りと思ったら素直に訂正しよう。しかし、それが正当であるかないかはなかなか判断がつかない。地名の語源については、特に難解地名については各説有り、その内正当なものがどれかということは自然科学の証明のようにはっきりすることはあり得ないのだ。仮にタイムマシンなどという機械が発明されて、過去の世界に行けるようになっても、それは判明できないだろうと思う。地名というのはそこに生活する人が、必要性があって呼んだものが普遍的なものとなって残ったわけだから、例えば法律が制定されるように何年何月何日に何とか法といって出来上がるものではないということだ。だから誰かが地名として呼んだ時点に行っても他の人は知らないだろうし、その地名が固定した時点に行っても、もうその語源は解らなかったり、変なものに附会されていたりするのではないか。
 結局現在地名の語源について正当と目されるのは、著名な先生の論文、書物に記されたものとなっているのではないか。確かにそういう先生と呼ばれる方は、私たちの想像を絶するほどの資料を集め、現地に赴いて現場を見、古老の話を聞くなどいわゆるフィールドワークに多大の時間を割いて考察されている。従って粗方は正当なのだろうと考えられるのだが、中にはどうも納得いかないものもいくつか存在する。
 綾部市史に日置(へき)について
 
国学者伴信友が「日は戸(へ)なり 戸数を記しておく地方政治に関係ある品部か」といっている。恐らく租税徴収のための戸数調査を任務とする部であろう。(太田亮)
とある。結構一般的となっている説だが、どうも納得いかないものがある。
 同じように”ユリ”については柳田国男先生の説が一般的になっている。つづく
(遊里のこと(10)は2010.5.30参照)


【作業日誌 8/4】
草刈り7回目の2

今日のじょん:犬には無駄吠えは無い。犬が吠えるのは何らかの理由があるわけで、それが有効な吠え、無駄な吠えと言っているのは人間の勝手である。先日サチママが、「サチは猿が来たら凄く吠えていたんだけれど、花火をしたら驚いて、猿が来ても吠えんようになった」というようなことを言っておられた。有効な吠えをしなくなった例だ。う~む、犬もデリケートなもんだなあ。ぐぐっといって訴えに来る、目があったら途端に爆発したように吠え出す。これは家の周りに何か来ている時のようだ。Img_1144

 

コメント
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