或る「享楽的日記」伝

ごく普通の中年サラリーマンが、起業に向けた資格受験や、音楽、絵画などの趣味の日々を淡々と綴ります。

6区 グランゾーギュスタン通り

2009-08-19 06:48:02 | 830 パリ紀行
6区のボザール通りにあるオスカー・ワイルドゆかりのホテルの後に訪ねたのが、6区のグランゾーギュスタン(Rue des Grands Augustins)通りの7番地にあるピカソのアトリエ跡。3ブロックほどだから、歩いて10分程度。絵葉書や映画のロケで有名なパリ最古のポン・ヌフ橋がすぐ近くにある。周りはパリの代表的な観光地の匂いがプンプンしていて、とても華やかだった。

通りに入るとすぐ左手に大きな建物が。大きな門の正面の上2階がピカソが所有していたアトリエ。ただし”梁出し天井”と呼ばれるロフトのような造りなので、2つの階はつながっていて大きな空間になっている。ここはかの有名な作品「ゲルニカ」(1937年)が創作された場所。絵の大きさが350×780cmもあるので、これぐらいの広さがないと描けなかっただろうけど。

上の写真はその頃の彼を当時の愛人ドラ・マールが撮影したもの。彼女が助手で写真家だったからこその貴重な記録。ピカソは彼女と1936年から1945年までの約10年間つきあい、彼女の紹介でこのアトリエに引越し1955年まで住んでいる。当時はまだ正妻のオルガがいたし、若いマリー・テレーズ・ワルテルとも関係が続いていて、それに彼女が加わるということは”4つ巴”。反戦を訴えた社会的な作品に取り組みながらも”お盛ん”な時代だったようで。やりますね、”下半身は別人”ってことか。

当時はブルジョワ階級の生活を存分に楽しんだ後の不遇な時代。スペイン内乱(1936~1939)や第二次世界大戦(1939~1945)が続く中、ヨーロッパに全体主義が台頭した時代で、彼の作品は退廃芸術と見なされ公式のサロンへの出品が禁止され、ナチスにも相当睨まれていた。このアトリエがある周辺は、そういった地下活動が盛んだったのもうなづける。

でもこの場所でドラとマリーはピカソを奪い合い取っ組み合いの喧嘩を頻繁にしていた。ピカソは「君を愛してはいない」とドラに面と向かって言ったらしくて、それがきっかけで誕生したのが有名な「泣く女」シリーズ。その辺りのギャップが実に面白い。

アトリエ 玄関ポン・ヌフ橋 遠景
ポン・ヌフ橋 近景アトリエ 全景


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