古き木に翳りて過ぐる秋の風
昨日、孫の椋一君がバスケの練習が秋津小学校の体育館でしたので、練習が終る時間を見払って、あーちゃんと婆と三人で椋一兄ちゃんを迎えに行った。もう、三十数年も前になるが、この秋津小学校へ給食の材料を配達したことを、懐かしく思い出した。学校は今は近代的になりましたが、そのころは木造の古い校舎だった。今は少子化が進み、この大きい学校の教室はかなり空いているだろう。写真のイロハモミジの木は、飯山市指定天然記念の木で、樹齢110年以上になるらしい。木の幹部分は腐り始めていて修復をほどこしてあった。このカエデ属の落葉高木は県内北部では珍しいらしい。
秋木立尊徳の像凛として
校門の片隅に、写真の二宮金治郎の像が凛として立っていた。有名な二宮金次郎(尊徳)の人物像をよく知らなかったので、ネットで調べると、二宮金次郎は天明七年(1787年)に小田原市の裕福な農家に生まれ安政3年(1856年)に70歳で亡くなりました。生まれた頃は裕福でしたが、川の氾濫で田畑を失い、お父さんは金次郎が14歳で、お母さんは16歳の時になくなりました。
そこで叔父さんに預けられるのですが、ある夜 明かりをともして本を読んでいると叔父さんに怒られたのでした。「お前は誰のおかげで飯を食っているのだ。油がもったいない。」というのです。金次郎は今度は空き地に菜種を植え、出来た菜種と油を交換して本を読むのですが、また叱られるのです。お前の時間は俺の時間だ。お百姓に学問はいらないというのです。それから始まったのが、左の写真にあるように、槙を背負い歩きながら本を読む姿なのです。やがて金次郎は叔父さんの家から独立し、実家の再興に取り掛かりました。そして勤勉と倹約に努め、24歳で以前のような裕福な家に再興しました。それを知った小田原藩士服部家に財政の建て直しを頼まれ、これも成功する事が出来ました。それが広まり今度は小田原藩の分家にあたる桜町領(栃木県二宮町)の再興を頼まれたりして、生涯に615の村々を立て直したといわれています。金次郎は桜町領を再興するときに、武士の位を授けられ二宮尊徳となりました。このことは身分差別の象徴だと言う方もあると聞きましたが、二宮金次郎がそういう時代に生きていたということで、生涯にどういう業績を残したとか、どのようなものの見方考え方をしたかという事とは違うと思います。むしろどのようなことを人々に説いたかということが大事ではないかと思います。とあった。この頃は、学校に「二宮尊徳」の像が見られないが校舎が増えていると聞く、どうしたもんかと思う私である。