現代版徒然草素描

勝手気ままに感じたままを綴ってみましょう。

「地の糧」を【知の糧】と読み替えてみる。

2009-06-16 10:38:07 | 面白中学の三年間とその後より

 君はすっかり読んでしまったら、この本を捨ててくれたまえ・・・・・そして外へ出たまえ。私はこの本が君に出かけたいと言う望みを起こしてくれることを願っている。どこからでもかまわない、君の街から、君の家庭から、君の書斎から、君の思想から出てゆくことだ。私の本を携えて言ってはいけない。

                      アンドレー・ジッド

 若い頃、妙にひきつけられた【書を捨てて外に出よう】の冒頭の部分である。続きがある。「頭の学問を止めようとする訓練は暇がかかるのみならずなかなか困難であった。しかしこれは人々から強いられたあらゆる学問よりは私にとってははるかに有益でありかつこれが真の教育の始まりでもあった。」

玉を拾う屑篭とその手法に気が付き始めたとほぼ同じ頃、読んだ彼の本である。何回と無く反芻してみた。同じ頃見たヘレンケラーの映画の記憶とダブってきたような気がしていた。彼女もまた感覚から入っていったような気がしてきたのである。もちろん、サリバン女史の手法であるけれど、・・・・。

「大切なことは君のまなざしの中にあるので、見られたものの中には無い。」人間の持つすばらしい能力の開放を歌い上げているのではないかと感じていた。そして次の「浜の真砂は心地よいと読むだけでは私は満足しない。私はそれを感じたいのだ。・・・・・まず、感覚を通して得た知識でなければ私には知識とは無用のものだ。」と言う言葉に魅了された記憶がある。自分の感性で捕らえたものとそこから出発してみようとするジッドの決意のようなものを感じ取っていたのではなかろうか。

「そして、これこそが学びの原点ではないか。」と考え始めた。中学生時代、数々の脱線授業をしてきた自分にとっては最高のアドバイスではないかと思うようになった。そして、先生も好奇心を呼び起こすための方法を随所に取り入れていたような気がしてきた。

注 面白中学の三年間とその後に投稿してある記事とダブりますが、こちらにも意味があるのではないかと解釈して投稿しています。

 


今でも忘れられない奇妙な授業

2009-03-01 13:10:03 | 面白中学の三年間とその後より

(創造的な授業を作った先生の記憶とそこからついで学に思いつく経緯)

中学生時代のことである。私が峰子の顔を殴ってしまったことによる裁判であるが、そもそもの原因は久子と峰子が私のトレーパン【当時、トレーパンは風呂敷包みになっていた。】を投げ合って取られないようにしたことで、私が怒って峰子を殴ったというものである。

そのことが先生に漏れてホームルームの時間が急遽裁判所になったのである。

裁判長忠雄、清子、峰子の弁護人久子、私の弁護人三男。最初は刑事裁判宜しく事実確認,いわいる罪状認否である。殴ってしまったことは事実であるので「平手でした。手加減したつもりでしたが、・・・・。」と認めざるをえない。

他の人達は傍聴または陪審員宜しく、判決を言い渡すサブの役目をしたものと思われる。反対陳述を三男がする【トレーパンを久子と投げ合ったことの確認である。】裁判長は傍聴人に意見を述べさせ、数人が次のようなことを言った。

何十年も前のことであり、玉を拾う屑籠の発想に気が付く前のことであり、わずかな記憶を手繰り寄せているので誰がどう言ったかは記憶にない。「男が女を殴ることはどんな理由があろうと良くない。」「トレーパンを投げるほうも悪い。」「それにしても暴力は良くない。」などの意見を参考にして判決が下されたわけである。

忠雄が判決を言い渡す「どう見ても事件の発端はトレーパンにあるものの、弱いものや女に手を上げることは許されることではない。情状酌量の余地は十分考えられるものの、一週間、昼休みの間に机の間をカラブキで良いから掃除すること。」

仕方がないので一週間雑巾を持って掃除をした。

「まさか山里の中学のホームルームの時間に教室で模擬裁判とはいえ格好の教材を提供したなあ。」と自分ながら感心する次第であり、先生も何かの機会に日本の裁判制度を皆に教えておく必要があると考えていたのかも知れないが、この時はそれぞれの席で行われたため、おおくの人が40年以上も前のことで忘れている。忠雄と清子だけが前にいただけである。

本当は裁判所の形式に原告、被告、弁護人や陪審員を配置してやればもっと臨場感があったと思うが、先生のなかでそこまですると何かの弊害があるのではと解釈していたのかも知れない。

今ではこんな授業をすればすぐ問題にされるかも知れないが、本当は物事のよしあしを確り教え込んでいくのもまた教育の持つ役割であるはずである。権利ばかりが一人歩きを始めてしまっているところに何らかの問題が潜んでいるではないだろうか。

親心の表れと勝手に解釈して、二組のユニークな先生と生徒たちの物語としよう。

   【参考文献、「面白中学の三年間」 私の著書 フロッピーになっている。】

ついで学方法論 2

ずいぶん後になって、実は奇妙な授業と言っても実際、私が峰子を殴ったと言う事実を裁判と言う形式にして、教材に仕立て上げる方法こそ「ついで学の真髄ではなかろうか。」と考えはじめていた。

この方法を取れば理解が進むし、簡単には忘れない授業になると言うことを先生は知っていたものと思われる。解かりやすい授業を作るということが先生の頭の中にあったのかもしれない。確認してあるわけではないので私の思い込みである。【それでも、忘れる人は忘れるがその部分はどうしょうもない。忘れている人はそれよりももっと楽しいことがたくさんあったものと見受けられる、殴られた峰子でも忘れているらしいが、・・・・。】

まして、中学の教室が模擬裁判所になろうとは恐らく他のクラスではこんなことはなかったと考えているし、他の中学校でも、こんな授業は無いと思っている。同じような事をする先生はいるかも知れないが、生活の中で実際起こった事をその中に上手く組み込んだと言うことはないだろう。

また、このことこそ生徒が相互に学習し合える「相互学習の可能性」だと考えられる。そしてこのことこそ日常生活に根ざした、生活しながら考えると言う「学びの原点」ではなかったと考えられる。

当時は、中学を卒業しただけで社会に出る人が半分くらいはいたことになる。彼らが何かのトラブルに巻き込まれたときに、何らかのヒントになればと判断していたのかもしれない。危機を先取りした疑似体験をさせておくことで実際そうなった時、課題を解決する方法と手段を覚えさせようとしたのかも知れない。

教育とは本来そういう性格のものではないのだろうか。このような体験が後に「日常的思考の可能性」「ついで学方法論」という考え方のもとになったような気がしている。

 【ついで学身構え要らずの学び方楽しみつつも成果の実り】

 【苦労なく続けられるやついで学寄り道ばかりのつぎはぎ学問】

 【ついで学続けることが肝要で量が質に転化するまで】【いずれも、ついで学方法論より

 注 関連があるので二つの記事を同時に投稿しています。