現代版徒然草素描

勝手気ままに感じたままを綴ってみましょう。

時には母の無い子のように

2009-04-30 19:44:51 | 台所実験室の発想

 歌の文句ではないけれど、「時には母のない子のように、」台所に立つ、そういう日に限って女房の帰りが遅い。勿論、食事の支度をするのだが、ついでに私の配合実験をしていることになる。機能性食品であろうが、一般食品であろうが、工夫する余地はいっぱいある。単に混ぜただけでも素晴らしいものが出来る【少々の加工と工夫は必要である。人生は何が何でも工夫の連続である。】。こういう方法で年寄達の病気を何回も乗り切ってきた。医者の薬と併用であるが、その副作用を抜く為の配合であったり、その機能を高める為の配合であったりする。そんなかんなで年寄りの多くの病気は解決してきている【癌、高血圧、胃がん、心房細動、喘息、認知症他、何しろこの段階で三人の年寄りがいたことになる。】が、だいぶ遅らせる手だては講じてきたが、認知症だけは加齢とともに進行している。詳しいことは私の著書【認知症家族の事件簿、天使の語録。】の中に書き記しているけれど、このブログはまだ立ち上げていない。

身の回りにある些細なものが、毎日何気なく食べている一般食材が、配合と味のバランスさえ調えばとんでもない機能性食品やどこにもない調味料に変身することに気がついていただきたい。忙しさにつられてそそくさと手抜き料理を作ったとしてもこれ一本あれば高級とはいえないが、健康管理がうまくいくというものになる。

家族の健康を守るのは奥様を置いて他にない。近年は病原菌やウイルスによらない病気が増えてきている。生活習慣病といっている種類のものである。具体的には、しょうゆに何割かの酢(その家の好みがあるので10%~15%くらい)に黒ゴマをいったもの、又はすり鉢で粗くすりつぶしたもの、にんにく生のスライス一片、何番乾燥輪切り(お好みで、入れすぎると辛い。)だけでよい調味料ができる。

杏仁、くるみ、シナモン、は好みで付け加えても良い。杏仁はしみしわ抜きになり美容効果がある。咳き、喘息には特効的に働くがとりすぎると問題もある。フライパンなどでよく炒って使えばまず間違いはないが、茶碗いっぱいは多すぎる。せいぜい5粒くらいにして置こう。

くるみはゴマとあいまってボケ予防になる。シナモンは血の道や冷えに対応できる漢方薬桂皮のことである。速溶ける加工のしてある真珠微粉末やハト麦エキス(美肌、いぼ、利尿効果がある。)があれば溶かしこんでも面白いものになるが、真珠の粉は入れすぎると苦味が出てくる。真珠に限らずどのカルシウムでもその傾向はあるので注意が必要である。

試行錯誤をしてみるのも秋の夜長には面白いのかもしれない。入れすぎたものがあれば他のものを足して配合比率を変えることで調整できる。どれをどれだけ入れなければならないという制約もない。家族の弱点をカバーするものを混ぜればよいではないか。

お父さんはタバコやお酒の害を軽減したり、のどが状態に改善したりするもの、おばあちゃんや年寄りにはボケ予防になるもの、奥様は美容、子供たちに健脳効果のあるもの、年頃の娘さんにはニキビ予防等々である。このくらいの余裕を持っていれば失敗することはない。台所ほど生命科学や健康に直結している場所はないのである。そして、何よりも創造的な場所になる可能性があるといえる。 


宴の後に

2009-04-30 11:18:00 | 傾向を科学する

 連休に入っている。多くの人たちが出かけて景気回復になればよいと思うけれど、5月危機が取りざたされている。企業の3月末の決算報告が5月にされるためである。「業績が悪化していて赤字になるところが多いのではないか。」と言う予測が発表になっている。調査会社の担当者たちが「この状態が長く続けば中堅の会社の何社かが倒産する。」「長く続けば」とは何年間を想定しているかは知らない。

 国としてもそれなりの手は打っているが、その効果はなかなか出てこないのだ。定額給付金もやっと手元に届いたけれど、・・・。何とか連休の出かける人たちには朗報にはなった格好である。高速道路の通行料金を安くしたことはこの動きを加速するだろう。その費用対効果はどうなるのかはっきりしない。やってみなくちゃわからないと言う側面がある。試みることは悪いことじゃないけれど、・・・・。

 いずれにせよ、連休と言う宴の後にさまざまな課題が発生してきそうである。おりしも、豚インフルエンザはフェーズ5に引き上げられた。なんとも早く収束していただきたいものである。

 それらの傾向をウオッチしていく必要がありそうである。


無知と言う罪

2009-04-27 11:28:57 | 学問

 「知らなかった。」ということで何らかの罪を逃れようとしている人たちがいる。本当に知らなかったのだろうか。知りえる立場にいたはずであるが、どうなっているのだろうか。多くの法律、例えば道路交通法においてすら「知らなかった。」は通らないはずである。

若い頃、仕事で車を動かさなければならず何回か違反切符を切られた。以前進入禁止ではない道路だったので何の疑いも無く入ってしまったこともある。「いつから進入禁止になったのですか。」と聞くとつい一週間前にそのようになったらしい。後で確認すると確かにその標識はあった。見落としてしまっていたということであるが、罪は罪である。

また、地元のスーパ―に商品を納品する際、解かっていて反対駐車をしたことがある。そこは非常に狭い道でそのまま駐車をしてしまうと他の車の往来を極端に妨げてしまうので、反対駐車、進路方向の逆に駐車することで往来がスムースに行くことになる。

婦人警官に道路交通法違反で切符を切られそうになった。「本当に交通違反ですか。」と聞いた。「如何しても反対駐車だと言い張る。」「違反切符を切っても違反金は払いませんょ。」というと怪訝な顔をし始めた。「違反は違反だ。」と言い張るので「この状態であなただったらどのように駐車しますか。」ときいてみた。「如何しても、進路方向に止めてください。」というので、車を動かして見せることにした。そしてそのように止めたら「あ、」といっただけで黙ってしまった。都合よく、他の車が来た。道路をふさいでしまって通行できない状態になってしまうということがようやく理解できたらしい。「道路交通法の前文になんと記載されていますか。」と聞いてみた。

条文にだけ囚われていて大切な事を見落としていると言える。(前文にはこの法律の趣旨と目的が記載されているはずである。この法律は、交通が円滑に行く為の云々ということである。)この場合ですら、知らなかったでは通らないのである。たまたま、私がその事を知っていたので、違反切符を切られずに済んだということである。

「か。」といって、人間が生活している全部を知りえる環境にはない。全知全能の神はそこまで人間に知恵を付与してはくれなかったのである。生活の多くの分野で知らなかったでは済まされないことがある。ところが、平然と、「私は知らなかった。」と言ってはばからない人たちがいる。裁判などでは「人に強要されたのでそのように言ってしまいました。」と言って前言を簡単に翻してみせる。なんという世の中になってしまったのだろう。戦前の拷問による自白ならいざ知らず、権利が認められている時代にあって尚、このようなことが簡単に起こってしまう。

捜査する側にも問題があるらしい。長時間の取調べや権力を行使する側の自重を期待するしかなさそうであるが、権利という考え方がそのようにさせているのだろうか。知らなければならないことは聞く事で解決が付く、努力するという対価を払わなければならないが、・・・・。

特許においては知らなくて出願してしまえば出願費用が無駄になる。権利化されていることを知らなくて作って売ってしまえば特許侵害になってしまう。出願する前に先行技術調査を確りしなければならないことになるのと同じではなかろうか。


変化に対応する能力

2009-04-26 11:12:09 | 傾向を科学する

状況は刻々と変化している。変化のない時代はないと考えたほうが合理的である。

日本人的な言葉では諸行無常ということだろう。あるとき学習塾の前を通ると「学

びとは変化に対応する能力を身に付けることである。」という言葉が掲げられてい

た。

「学びの領域だけではないなぁ。」という思いがあった。健康でも(WHOの前文、参照)、経営でも、商品開発でも、何よりも生きているということ全部に要求されることではないかという気がしていた。

このことは同時に、「常に学び続けなければならないということである。」理論的にはピーターの法則や「継続は力なり。」と同じことになるではないか。「人生大学60年、いまだ留年中。」というサブ題にふさわしい雰囲気になってきた。

この大学の良いところは興味、好奇心さえあれば誰でも継続できると言うことと、何年留年しようとも自分から「やめた。」とい言わない限り退学がないことである。

そんなことを思い続けながら今まで生きてきた。1日2時間以上366日40年以上継

続すると言うことである。付き合いや優先しなければならないときはそちらを優先して、時間的に無理なときは休日に積み増しすると言う方法で興味や関心のあることを優先しながら取り組んできた生涯学習の試みである。都合のようことに興味や関心のあることは時間を忘れさせてくれると言う効果がある。集中力が途切れないのだ。


ピァ プレッシャー

2009-04-25 10:47:07 | 意識構造

 上記の法則(偉大な天才たちの時代は終わった。異質な物の出会いが必要、と言う記事この先あるが投稿を省略している。)と同じことを東京大学の茂木先生がテレビの中で講演していた。19-10-15日のNHK教育テレビでのことである。個性は他人との関係の中で形成されていくもので、そのうちの2割くらいは両親の影響である。

日本ではピァプレッシャーが突出した個性を平均的な方向に近づけるように作用する。「あいつは変わり者だ。」というようなことが起こってしまうらしい。反対に諸外国ではそういう人たちの個性を認め合う関係が成立しているというのである。付け加えて、個性を形成する過程でどうしても異質の他者に会うということが大切になってくる。

このプロセスが極端に少なくなっていることに何かしら問題がある。現在の子供たちや若者のことを言っているものと思われるが、その一世代前まで含まれているのではないかと考えられる。おそらく、彼が言おうとしている状況は一世代前から始まっていたと解釈している。アダムスミスの国富論を引用しながら国際分業がしっかりしてきた現代社会においては異質な個性を持っていることが大切になってきたらしい。価値が変化してきたということなのかもしれない。変な常識に縛られない発想豊かな人材が必要になってきたといえる。

インターネットなどで自分の考え方やアイデアを発信できる時代には国際分業が個人のレベルになってきている。状況が変化しているということになる。違った個性と個性がぶつかり合うことで新しい発想が生まれるといいたいのだろう。実業家の言葉を引用しながら、「それらの人が30人くらい集まれば相当な英知が発揮できるということになる。」そして「これからはそういう時代だ。」と結んでいたような気がする。私の解釈ではそれらの人々の得意とするところを寄せ集めてシステム化するということになるらしい。

  【はるかなる中庸の砂漠とぼとぼと 暑くもなく寒くもなしや】【歌創造学より】