ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

土建屋利権に逆戻り

2012年04月08日 | とんでもない!
 2009年秋に誕生した民主党内閣が、先の衆議院総選挙で掲げたマニフェストがことごとくお倉になったり出来なかったりと散々な評価が渦巻く中、またもや「コンクリートから人へ」へと政権交代を目指した鳩山元首相をトップに掲げた民主党マニフェストは、ここで完全に水没と言うべきか、自民党時代に逆戻りしたというべきか、土建屋たちの利権に再度のっとられた格好で復活している。

 現民主党政調会長の前原誠司氏が民主党初代国土交通大臣として颯爽と八ツ場ダム建設予定地を視察して、長年の計画から着工に入った八ツ場ダムの中止を宣言したところまでは、国民の多くはさすが「コンクリートから人へ」と謳った民主党政権は「やるな」と思わせたのだったが、結局は代々の国土交通大臣に受け継がれながら、次の首相にバトンタッチされると共に「トーンダウン」を余儀なくされて、ついに「中止は中止」という、元の木阿弥という結果になって建設は継続されることとなったのであった。

 2009年秋に政権交代して一年も経っていない2010年の参議院選挙で負けたあの「ゃン場民主党は、マニフェストからも「コンクリートから人へ」という表現を削除し、公共事業全般に対する立ち位置ともいうべき考え方を変えてしまった様で、その背景には地元に帰った国会議員たちの多くが、選挙における協力を前提にした地元土建業者たちの猛攻撃に合ったようで、何処もかしこも「やってられない!」との悲鳴が起きた様で、ほぼ全てが逆戻りしているのである。

 あの「八ツ場ダム中止」の宣言の際には、「ダムはムダ」とまで言わせた洒落の様な文語も、今は遠い昔の戯言の如く消え去って、「出きるだけダムに頼らない治水」と表現しつつも、多くの地域でダム建設が復活し出しているのである。

 公共事業としてのダム、道路、大型公共施設になどの建設は、コンクリートを大量に使う土建業業界にとっては死活問題であるとの叫びが、民主党政権への政権交代に伴って起きた模様で、地域経済の活性化には土建業者の生計を潤す大型公共事業が欠かせないとの自民党時代からの日本経済の不況脱出策にほぼ変らない逆戻り現象を巻き起こしている状況である。

 この大型公共事業の国家予算を伴う計画は、整備新幹線と言われる北海道、北陸、九州新幹線を筆頭に、東京外郭環状道路、新名神高速道路未着工2区間、関越自動車道上越線など6区間の4車線化、名古屋環状2号線建設と八ツ場ダムなどであり、相次いで国土交通省が建設続行を発表している。

 我が地元京都では、奈良県出身の現前田武志国土交通大臣が京田辺市に訪れ、地元自治体の第二名神道路の凍結された計画路線の建設促進の要望を受け入れた形で、即座に凍結を解除し建設へという流れを発表したのである。

 それぞれに理由ともいうべき言い訳があるのだが、第二名神や高速道路の建設や増幅については、昨年の東日本大震災の発生などの天災や自然災害の際の緊急車両などの通行を優先した幹線道としての従来のバイパス的効果が望まれるといった言い草であるのだが、東日本大震災級の大地震などの災害時には、たぶん高速道路網も何処かで欠落したり土台だけでなく土砂崩れなどが発生し、通行不能となる場合が強く想定されるのだが、それを理由とするというパターンで復活である。

 ともかく、これらの大型公共事業の凍結が解除されての復活は、昨年末ごろから急速に増えていて、消費税の増税を目論見る民主党政権にとっては、次の総選挙を睨んでの「アメとムチ」とでも言うべき政策の変化であり、地域の活性化や非常時対策を理由としているが、実際は土建業を中心とした選挙への政策転換である。

 鳩山元代表時代に口にした「コンクリートから人へ」の民主党は、たった1年を経たずにお蔵入りしたばかりか、全く自民党政権時代と同様へ逆戻りしたのである。
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枝野幸男経済産業大臣

2012年04月04日 | ちょっと可笑しいよ
 民主党政権になって鳩山、菅、そして三代目の一年交代の首相となった野田佳彦内閣で、震災後はたびだびマスメディアに登場するのが、経済産業大臣の枝野幸男経済産業大臣である。

 前菅内閣では官房長官という役職であったために、たびだび内閣のスポークスマンとして登場していたし、例の民主党内閣への政権交代後のパフォーマンス的には国民の大きな関心を集めた「事業仕分け」においては、鳩山内閣での行政刷新大臣の立場で、元タレントの蓮ほう議員と共に脚光を浴びる機会が多かったので、一見庶民的な誠実観を感じさせる代議士として、それなりの信頼を勝ち得ていたかに思えていた。

 しかし、東日本大震災後の東京電力福島第一原子力発電所の事故以来の政府側の責任者としてのスポークスマンとしての会見を通して、彼の未熟さとでも言うべき言質に、多様なパフォーマンス的文語や無責任なコメントが加わっていることに気づきだした視聴者としての国民のひとりに私自身もいたのであった。

 そしてここ数ヶ月、東京電力の会社の体質とでも言うべき公営企業としての自覚の無さが浮き彫りになった賠償金問題を含む、原発事故に対応すべき被害者や避難を余儀なくされた方々、また風評被害も含めて地元での仕事がほとんど出来なくなった住民に対する思いやりや配慮の無さ、いくら東京電力という法人に対して「国営化」を迫る様な言動をしながら、強気に発言していたつとしても、その中身の曖昧さと確信の無さが浮き彫りにされていた様に感じるのである。

 枝野幸男大臣の経歴は日本新党からの議員当選から紆余曲折の後に、現在の民主党の幹部にまで上ってきたのだが、元々弁護士としての資格を持って政界に出てきただけあって、自分の言葉と論調で、反対意見の人たちや大きな課題にも立ち向かえることができるとの自信を持っているらしく、一応の会見や意見表明の折の態度は、やけに堂々とはしているのである。

 しかしである。今回の福井県おおい町の関西電力大飯原子力発電所のストレステスト後の再稼動問題では、政府の関係閣僚の一人であり、電力行政の責任省の大臣として野田首相らと共に、大きな今後の原子力発電の方向性を決めるキーマンの一人なのだが、一昨日初めて政治決断への四者会談後、「現在の時点では再稼動には反対です」とはっきりと発言していたのにも関わらず、昨日になるとトーンダウンし、「情報が少ない時点で賛成とは言えない」なんて言い回しに変化してしまったのであった。

 また大飯原発の影響を受ける府県として、福井県だけでなく滋賀県、京都府、大阪府も知事たちが、その影響を案じて再稼動には賛成しかねる旨の意見を発信しているのだが、枝野大臣は「京都府及び滋賀県」の知事に対して「理解を得る」ことは必要だが、「同意」は必要とは言っていないなどという詭弁を使う言動を繰り返し出したのである。

 早速、山田京都府知事と嘉田氏が県知事が遺憾の意を表しているが、当の枝野経済産業大臣は「私は同意という言葉は一切使っていない」と逃げの一手でインタビューに対して答える始末であり、もはや信頼に足る人物ではないということが明確に露呈したと言っても過言ではないだろう。

 結局、彼の言動の根拠には「原子力発電の抑制や中止」という理念や考え方はないばかりか、自分の言動に対する責任ある姿勢すらなく、民主党幹部としての職責ではなく、国民の今後の安心、安定の生活を如何に保っていくことが出来るかの価値観や方向性に対する確固たる意思が欠けているのだということが明確になったのである。

 民主党の若き政治家をリードし先輩政治家たちの間で揉まれた経験から、政治家のセンスを評価されて、幹事長、官房長官、行政刷新相や経済産業相への起用だったと思われるが、ここへ来てとうとう化けの皮がはがれてしまったといった感じである。
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イギリスの田舎旅。

2012年04月03日 | 感じたこと
 イギリスの田舎旅と題したが、私がイギリスに旅したわけではないので、とても恐縮ではあるが、八百屋のお客さんでもある知人夫妻が三週間近く留守にされていたので、帰られてから伺うと、何とアメリカ人の旦那さんと二人でイギリスを旅されていたとのことであった。

 私自身はアジアを中心に何度か海外旅行を経験してはいるのだが、ヨーロッパやアメリカといった多くの人が旅する所謂先進国的な近代国家には足が向いたことがなく、唯一の長距離飛行で行った一番遠い国が、あのチェルノブイリ原発事故が起きた四年後のロシア、ベラルーシ、ウクライナの旅であり、それ以外はアジア、特に中国、内蒙古自治区には縁あって二十回ほど毎年の如く行く機会があった。

 そういう経験から、いずれは欧米諸国にも一度は行ってみたいものだと思ってはいるが、なかなか経費も掛かるし機会を得ることが難しいと思っているのだが、知人のご夫妻のイギリスの旅の話は、とても興味深く聞くことができたのである。

 日本人の奥さんはたぶん定年を迎えられたアメリカ人のご主人との思い出の旅行に「イギリス」を選ばれて、しかもロンドン、リバプール、マンチェスターなどの都市部ではなく、イギリスの田舎町を目的に旅されたとのことであった。

 彼女の旅の感想を伺って感じたことなどを列記したいと思うのだが、とにかく日本人と日本社会のテンポの速さや忙しさに慣らされていると、何とものどかでのんびりとした自然と共生するイギリスの田舎町での散策や体験は、とっても心を安らかにさせてくれたそうで、日本は何時の間にこんなにあくせく忙しく移動したり仕事人間になってしまったのかと思い返して見たくになる感じてある。

 イギリスはヨーロッパの文化圏に属する近代国家ではあるが、政治、経済を中心とする「EU」には参加せずに、独自の大英帝国時代からの国の歩みを大切にしていねる国であり、現在の日本の二大政党時代の幕明けと言われる、自民党と民主党の政権交代のきっかけとなった小選挙区制や議会民主主義のお手本的国家でもあるのだが、決して国際的にはGNPやポンドの対外為替評価も高くはない。

 地方都市に足を踏み入れてみると、素朴なイギリス人たちの生活の営みが見受けられるそうで、自然環境豊かな場所に決して大きくはないが、古くからの大切な家が建っていて、代々のその家を守る人たちが徐々に改良は加えてはいるが、派手な模様替えや金持ち丸出しの豪華なビルや建物は、ほとんど見当たらないというのである。

 すなわち、人間の日々の生活や人生の歩み方そのものが、ゆったりとしていて決して贅沢をしたいとかお金の力に物言わせて、これ見よがしの家や車を誇ったり自慢するのではなく、脈々と続くその地方の伝統的な生活パターンを踏襲しつつ、地域社会のコミュニティの調和を大切に重んじて、街づくりがなされているといった感じであったという。

 とても穏やかで心和む自然と調和した、人々の生活環境の中に一歩足を踏み入れてみると、とっても心が落ち着いて懐かしさすら感じるいい感じだったという感想を語られていた。

 私が想像するイギリスの人々の生活は、どうしても都会の情報しかないためもあって、やはり先進国の経済活動の中で忙しく働くイギリス人といった感じしか浮かばなかったのだが、実際にイギリスの田舎町に旅する日本人は増えている様子で、国内の出版社からも「イギリスの田舎町を旅する」という特集の旅の案内本も出版されているらしく、イギリスに限らず、これからの海外旅行の目的やイメージは多様化する中で、日本人もこうしたちょっと違った異国の自然と共生する人々の日常生活を体験したり、感じたり出来る旅行を再発見してみてはどうかと、反面教師ではないが「気づく」ことの大切さを旅がきっかけで教えてくれそうである。
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「お抹茶」

2012年04月02日 | ファミリーイベント
 ここ一年は、時間があれば大阪の有料老人ホームに入居している現在95歳になる実母に会いに出かけているのだが、昨年の12月中旬の母の誕生日のお祝い会を境に、母の食事の様子が一変し、なかなか自分で食事をとる事が難しくなってしまっていた。

 数年前に突然に黄疸症状が出て検査入院してみると、すい臓か胆嚢に腫瘍が出来て、胆管が機能しなくなって胆汁が出なくなったことが原因だったことが判明し、ステントと呼ばれる薄い板を内視鏡で入れて、バイパス的手術をしたことで回復し、その後は何度か自分の部屋で転倒して大腿部の骨折も経験したりして、だんだんと弱ってきた感があったのだが、食べるという生きるための大切な仕事は旺盛だった。

 しかし、昨年暮れから今年にかけての年越しはとっても不安な状態になって、年明けに再び検査という形で以前にお世話になった病院に三週間ほど入院して、新たにステントを追加する手術をしたりして、少し食欲も出てきたようで、病院からのゼリー食ではあるが、退院後の施設生活で何とか経口で食することが出来るまでには回復していた。

 しかし、ほとんど寝たきりの生活なため、いくら高齢だとしても一日に必要なカロリーと栄養を十分に賄うことが可能かどうかを心配しつつも、自分で口から食することの大切さと、三度三度の食事をきちんと摂取できるかどうかが、今後の命と健康のために大変重要なことと認識して、少しでも食べて飲んでほしいと願いつつ、医者、看護士、介護の職員さんとも相談しながら、一日、一日を大切にと願ってきた。

 二月中旬に退院してから、母はベッドでの食事を余儀なくされていたのだったが、三月の声を聞く頃から出きるだけベッドから車椅子に乗り換えて、入所されている方々と同じくロビーの食堂で食事をする様にとサポートして下さり、ゆっくりとではあるが自分で食する楽しさを取り戻しつつあったので、私が思いついたのが長年母が携わっていた「お抹茶」を飲むことの挑戦であった。

 母は私がもの心ついた頃から約五年ほど前まで、自宅を中心に「茶道」の先生として多くのお弟子さんにお茶を教えながら、京阪神を中心にお茶席やお茶事に足を運んで楽しんでいた人だったので、何とか自らの大好きな「お抹茶」を再び口にしてほしいものだと思ったのであった。

 そこで施設の倉庫に眠っていた母の部屋に置いてあった簡単なお茶の道具の中から、母が自分で造ったお茶碗と茶せんと茶杓を出していただき、私が地元のお茶屋さんで購入した「お抹茶」を持参して、母に「お抹茶」を飲んでもらいたいと準備をしたのであった。

 「お抹茶」と言えば和菓子を中心とした「甘いお菓子」がつき物なのだが、現在の母にとって和菓子や餅を食することはやはり困難だと思ったので、食べやすい抹茶プリンを持参してお茶の前に食してもらおうと考えて、こだわりの抹茶の入ったプリン購入して母に差し出すと、嬉しそうに自分でスプーンで掬って食べてくれたのであった。

 そして待望のとでも言うべき、「お抹茶」を私が、母の製作した思い出の手づくり抹茶茶碗に「一服のお抹茶」を心をこめて入れて茶せんであわ立てて差し出したところ、母は嬉しそうに両手で茶碗を抱えて「よう割れずにあったな」とつぶやいて、自分が作った茶碗であることをすぐに思いだしてくれたのであった。

 それから少しして口に茶碗を持って行き、「熱いな」と言うので、しばらく冷ましてからもう一度飲むことを薦めたところ、ごくごくと抹茶を美味しそうに飲んでくれたのであった。

 やはり体が覚えていたのだろうと思うが、ほんとうに久しぶりの「抹茶」を味わいながら嬉しそうに飲んでくれた母の姿を観て、私は安堵の気持ちと共に、母の回復を確信できたのであった。

 「抹茶」は本当に素晴らしい力と喜びを母に与えてくれて、母を生き返らしてくれました。
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