ここ一年は、時間があれば大阪の有料老人ホームに入居している現在95歳になる実母に会いに出かけているのだが、昨年の12月中旬の母の誕生日のお祝い会を境に、母の食事の様子が一変し、なかなか自分で食事をとる事が難しくなってしまっていた。
数年前に突然に黄疸症状が出て検査入院してみると、すい臓か胆嚢に腫瘍が出来て、胆管が機能しなくなって胆汁が出なくなったことが原因だったことが判明し、ステントと呼ばれる薄い板を内視鏡で入れて、バイパス的手術をしたことで回復し、その後は何度か自分の部屋で転倒して大腿部の骨折も経験したりして、だんだんと弱ってきた感があったのだが、食べるという生きるための大切な仕事は旺盛だった。
しかし、昨年暮れから今年にかけての年越しはとっても不安な状態になって、年明けに再び検査という形で以前にお世話になった病院に三週間ほど入院して、新たにステントを追加する手術をしたりして、少し食欲も出てきたようで、病院からのゼリー食ではあるが、退院後の施設生活で何とか経口で食することが出来るまでには回復していた。
しかし、ほとんど寝たきりの生活なため、いくら高齢だとしても一日に必要なカロリーと栄養を十分に賄うことが可能かどうかを心配しつつも、自分で口から食することの大切さと、三度三度の食事をきちんと摂取できるかどうかが、今後の命と健康のために大変重要なことと認識して、少しでも食べて飲んでほしいと願いつつ、医者、看護士、介護の職員さんとも相談しながら、一日、一日を大切にと願ってきた。
二月中旬に退院してから、母はベッドでの食事を余儀なくされていたのだったが、三月の声を聞く頃から出きるだけベッドから車椅子に乗り換えて、入所されている方々と同じくロビーの食堂で食事をする様にとサポートして下さり、ゆっくりとではあるが自分で食する楽しさを取り戻しつつあったので、私が思いついたのが長年母が携わっていた「お抹茶」を飲むことの挑戦であった。
母は私がもの心ついた頃から約五年ほど前まで、自宅を中心に「茶道」の先生として多くのお弟子さんにお茶を教えながら、京阪神を中心にお茶席やお茶事に足を運んで楽しんでいた人だったので、何とか自らの大好きな「お抹茶」を再び口にしてほしいものだと思ったのであった。
そこで施設の倉庫に眠っていた母の部屋に置いてあった簡単なお茶の道具の中から、母が自分で造ったお茶碗と茶せんと茶杓を出していただき、私が地元のお茶屋さんで購入した「お抹茶」を持参して、母に「お抹茶」を飲んでもらいたいと準備をしたのであった。
「お抹茶」と言えば和菓子を中心とした「甘いお菓子」がつき物なのだが、現在の母にとって和菓子や餅を食することはやはり困難だと思ったので、食べやすい抹茶プリンを持参してお茶の前に食してもらおうと考えて、こだわりの抹茶の入ったプリン購入して母に差し出すと、嬉しそうに自分でスプーンで掬って食べてくれたのであった。
そして待望のとでも言うべき、「お抹茶」を私が、母の製作した思い出の手づくり抹茶茶碗に「一服のお抹茶」を心をこめて入れて茶せんであわ立てて差し出したところ、母は嬉しそうに両手で茶碗を抱えて「よう割れずにあったな」とつぶやいて、自分が作った茶碗であることをすぐに思いだしてくれたのであった。
それから少しして口に茶碗を持って行き、「熱いな」と言うので、しばらく冷ましてからもう一度飲むことを薦めたところ、ごくごくと抹茶を美味しそうに飲んでくれたのであった。
やはり体が覚えていたのだろうと思うが、ほんとうに久しぶりの「抹茶」を味わいながら嬉しそうに飲んでくれた母の姿を観て、私は安堵の気持ちと共に、母の回復を確信できたのであった。
「抹茶」は本当に素晴らしい力と喜びを母に与えてくれて、母を生き返らしてくれました。
数年前に突然に黄疸症状が出て検査入院してみると、すい臓か胆嚢に腫瘍が出来て、胆管が機能しなくなって胆汁が出なくなったことが原因だったことが判明し、ステントと呼ばれる薄い板を内視鏡で入れて、バイパス的手術をしたことで回復し、その後は何度か自分の部屋で転倒して大腿部の骨折も経験したりして、だんだんと弱ってきた感があったのだが、食べるという生きるための大切な仕事は旺盛だった。
しかし、昨年暮れから今年にかけての年越しはとっても不安な状態になって、年明けに再び検査という形で以前にお世話になった病院に三週間ほど入院して、新たにステントを追加する手術をしたりして、少し食欲も出てきたようで、病院からのゼリー食ではあるが、退院後の施設生活で何とか経口で食することが出来るまでには回復していた。
しかし、ほとんど寝たきりの生活なため、いくら高齢だとしても一日に必要なカロリーと栄養を十分に賄うことが可能かどうかを心配しつつも、自分で口から食することの大切さと、三度三度の食事をきちんと摂取できるかどうかが、今後の命と健康のために大変重要なことと認識して、少しでも食べて飲んでほしいと願いつつ、医者、看護士、介護の職員さんとも相談しながら、一日、一日を大切にと願ってきた。
二月中旬に退院してから、母はベッドでの食事を余儀なくされていたのだったが、三月の声を聞く頃から出きるだけベッドから車椅子に乗り換えて、入所されている方々と同じくロビーの食堂で食事をする様にとサポートして下さり、ゆっくりとではあるが自分で食する楽しさを取り戻しつつあったので、私が思いついたのが長年母が携わっていた「お抹茶」を飲むことの挑戦であった。
母は私がもの心ついた頃から約五年ほど前まで、自宅を中心に「茶道」の先生として多くのお弟子さんにお茶を教えながら、京阪神を中心にお茶席やお茶事に足を運んで楽しんでいた人だったので、何とか自らの大好きな「お抹茶」を再び口にしてほしいものだと思ったのであった。
そこで施設の倉庫に眠っていた母の部屋に置いてあった簡単なお茶の道具の中から、母が自分で造ったお茶碗と茶せんと茶杓を出していただき、私が地元のお茶屋さんで購入した「お抹茶」を持参して、母に「お抹茶」を飲んでもらいたいと準備をしたのであった。
「お抹茶」と言えば和菓子を中心とした「甘いお菓子」がつき物なのだが、現在の母にとって和菓子や餅を食することはやはり困難だと思ったので、食べやすい抹茶プリンを持参してお茶の前に食してもらおうと考えて、こだわりの抹茶の入ったプリン購入して母に差し出すと、嬉しそうに自分でスプーンで掬って食べてくれたのであった。
そして待望のとでも言うべき、「お抹茶」を私が、母の製作した思い出の手づくり抹茶茶碗に「一服のお抹茶」を心をこめて入れて茶せんであわ立てて差し出したところ、母は嬉しそうに両手で茶碗を抱えて「よう割れずにあったな」とつぶやいて、自分が作った茶碗であることをすぐに思いだしてくれたのであった。
それから少しして口に茶碗を持って行き、「熱いな」と言うので、しばらく冷ましてからもう一度飲むことを薦めたところ、ごくごくと抹茶を美味しそうに飲んでくれたのであった。
やはり体が覚えていたのだろうと思うが、ほんとうに久しぶりの「抹茶」を味わいながら嬉しそうに飲んでくれた母の姿を観て、私は安堵の気持ちと共に、母の回復を確信できたのであった。
「抹茶」は本当に素晴らしい力と喜びを母に与えてくれて、母を生き返らしてくれました。