ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

「おむすびの祈り」

2009年11月18日 | 感じたこと
 私の八百屋のお客様の中に、いつも何かを料理しては来客者や近所の子どもたちに「食べて行きや」と声をかけているご年配のご婦人がいる。

 私が彼女と出会ってから、まだ一年少ししか経っていないのだが、もう十数年来の友人の如く、毎週夕刻に訪問すると「時間があったらお茶でも・・・」と私を誘ってくださるのである。

 遠慮のない私は、それでは「お言葉ですから」と、そそくさとお台所兼ダイニングの部屋に入って椅子に座ると、彼女は「あなご寿司」や「鯖寿司」または獅子柚子のステーキなど、季節のものやちょうど料理したところだったということで、「小腹が空いたでしょう」と机の上に何やら「おいしいもの」を載せて下さるのだ。

 遠慮なく、彼女の手作りのお惣菜やご飯やお汁ものをいただくと、とっても「ほっこり」する感じで、心からの安らぎと美味しさに幸せな気分になるのである。

 先日、大きな海苔に包まれた「おにぎり」を「どうぞお食べ!」とテーブルに具たくさんの味噌汁と共に載せて下さった。

 しっかりと握られた、大きな「おにぎり」に、暫し感動を覚えながら、彼女に「佐藤初女さん」のお話をさせていただいた。

 佐藤初女さんは、ご存知の方も多いと思いますが、1921年青森市生まれの、現在88歳になられるおばぁちゃんだが、私が知ったのは今から10数年前に、映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)第二番」をはじめて鑑賞したときであった。

 1992年に「自然の中に憩いと安らぎの場を」と弘前市の岩木山麓に「森のイスキア」設立し、心尽くしの手料理と自然な対話で、生きることに疲れた人の心に喜びと勇気を与える活動をされている女性なのである。

 私が映画を観て魅せられた記憶と共に、彼女の講演を聴いていっそう、「食べ物の持つ力と生き物を食して生きる人間のあり方」を考えさせられるきっかけとなった「出会いのそ人」だったのである。

 彼女の著書に、PHP研究所発刊の「おむすびの祈り・いのちと癒しの歳時記」という本があるのだが、私の聴いた講演でのお話のひとつが「おむすびの話」だったのである。

 ある三十代の青年が「自殺を願望して」旅に出た途中に、彼女の主宰する「森のイスキア」に立ち寄って、三日ほど滞在したが、ほとんど何も語らずままに過ごした後に、「やっぱり死のう!」と佐藤さんたちに別れを告げて出かける時に、彼女は大きな海苔に包まれたお握りを三つ、竹の皮に包んで持たせたという。

 彼は「死に場所」を求めて列車に乗ったが、途中で空腹を覚えて、貰った「お握り」をひとつ食べたところ、「何と美味しいのか!」と感動し、こんな美味しさを喜ぶ感動を感じながら、何故死にたいなんて思ったんだろうと自問自答し、自殺をあきらめ「生きよう!」と思い直したというのである。

 たった一つのお握りが、一人の若者の「いのち」を救ったと言っても過言ではない、こんなエピソードが、佐藤初女さんの日常にはたくさんあるみたいなのである。
 
 あなたの身辺にも「素朴で美味しい心を癒してくれるご馳走」があるはずです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米中会談の真価。

2009年11月17日 | 世界の問題
 アメリカのバラク・オバマ大統領が11月13日に初来日したと思ったら、鳩山首相と短時間の会談と晩餐会をして、翌日は天皇、皇后両陛下を表敬訪問して滞在は一日足らずで14日には「中華人民共和国」へと飛んでいた。
 
 当初の12日来日予定が銃乱射事件が発生し犠牲者追悼式に出席するため、一日遅れて日本に大統領専用機で来日したのだが、まるで中国へ行く途中に上を飛んでいくので、ちょっと降りてあげたという感じの儀礼的訪日となった。

 鳩山由紀夫首相は就任後すぐさま国連総会出席のためもあったが、アメリカを訪問し「日米同盟」の堅持と新たな日米関係とやらを大統領との会談で強調し帰国したが、オバマ大統領の初来日は夫人も同行せず、アジアの21世紀をリードすること間違いなしの中国との大きな信頼関係を構築するための外遊だと推察できる。

 つまり、今回はオバマ外交の上で最重要課題である中国訪問のついでに日本に立ち寄ったと言っても過言ではないほどの「ちょい来日」に過ぎなかったのである。

 民主党新政権における各閣僚たちの考え方や主張のブレとして代表的に報道されている「普天間基地の移転」問題など日米間の最重要課題は全く話されないまま、「先送り」され、アメリカではオバマ大統領が天皇陛下に対して深く「おじぎ」をしたことが大問題として報道されただけという。

 当のオバマ大統領は14日にクリントン国務大臣と共に中国到着し、ゆったりとした日程で上海から北京へと移動し、昨日から今日にかけて北京で胡錦涛国家主席とじっくりと会談した模様である。

 問題はその内容だが、オバマ大統領の会談後の記者会見などによると、「少数民族の人権」と「インターネット情報の自由化」などを指摘したらしいのだが、中国側のメディア報道は、ほとんど詳細を伝えていない様子であった。

 つまり、胡錦涛共産党総書記兼国家主席の記者会見では、米国大統領とアジアと世界の将来につて、多くの課題をじっくり話し合ったが、「内政干渉」はするべきではないとの趣旨の発言がされていて、やはり人権問題とネット自由化問題への指摘に遺憾の意を表したと言えよう。

 チベット、ウイグルなどの中国の少数民族問題に対する世界各国からの多くの批判や指摘に対して、いまだ明確な対応が出来ない大国である中国が、アジアのリーダーとして、日本、韓国、そしてインドや東南アジア各国と連携して、民主的な世界平和と経済、環境問題へリーダーシップがとれるのかが大きな課題として残る。

 アメリカ大統領オバマの指摘を、中国国有テレビである中国中央電子台をはじめ、人民日報などの新聞メディアもほとんど報じていないという現状は、世界をリードする大国としてはふさわしくなく、内政干渉などという言い草では避けられない非民主的国家であることを改めて露呈したとしか言えない現状である。

 世界のトップニュースとなった米中首脳のトップ会談の真相は闇の部分もあるが、ほんとうに世界平和と経済、環境だけでなく、民主的人民の平等かつ自由な人権が保障される国へと脱皮する中国になりうるかどうかの真価が問われている。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「事業仕分け」大鉈を振るえ。

2009年11月16日 | 日本の課題
 民主党政権に政権交代して、来年度予算の編成期になったが、自民党、公明党連立内閣の時代の恒例の陳情や予算折衝とは打って変わった「事業仕分け」なる手法の検討会が連立集中的に続いていて、多くのマスコミだけでなく一般傍聴も可能な形の公開の場、すなわち「体育館」のような場所で行われていることは画期的な出来事であると言えよう。

 そもそも、この「事業仕分け」という手法は、すでに地方自治体の中では先進的に行っている市町村があるのだが、今回の民主党を中心とする新政権が大々的に取り上げた形で、特に「構想日本」という名の政策プロジェクト集団によれば、2002年から行政の「事業仕分け」を行っていて、すでに30以上の地方自治体が実施し予算の大枠1割程度の削減に繋がった実績がある団体が多いとされている。

 今回の国の事業仕分けのきっかけは、2006年5月に制定された「行政改革推進法」や7月の骨太の方針など自民党政権下でも事業仕分けの実施が明記されていて、自民党政権時代には2007年11月の「経済財政諮問会議」で国の事業仕分けについて本格的議論が開始され、2008年8月に自民党「無駄遣い撲滅プロジェクトチームの河野太郎チームが文部科学省の事業について「政策棚卸し」(事業仕分け)を実施する際に、構想日本が協力し一般公開の形で実施がはじめて実現したのである。

 民主党が政権を取ったことで、俄かに注目を浴びる形となった「事業仕分け」は、その構想日本の代表である加藤秀樹氏を招聘しての国会議員ならびに民間有識者などによるプロジェクトチームとして、漸く行政刷新担当の仙石大臣の管轄化でスタートしたわけである。

 「予算削減」、「埋蔵金を戻す」、「天下りをなくす」という三大目標を掲げて厳しく国の来年度予算の各省の概算要求予算の中の400余の事業に絞って、当事者、担当者を同席させて、疑問点、不要意見、必要性の根拠などを喧々諤々で議論しながら、一刀両断で「いらない!」「要る」を判断していくというもので、時には一般傍聴者や関係者から怒号や拍手があるという。

 私が市議会議員をしていた時期に、埼玉県志木市への研修を行って、この様な地方自治体の「事業仕分け」を全事業に関して行った当時の市長の講演を聴き、担当者の真摯な説明を学んだことがあり、数ヵ月後に一般質問などで提案を数回行ったのだが、当時のわが町の市長も現市長も、そういった手法に関心もなく、いまだ予算にある全事業の「事業仕分け」などを行うこととはなっていないのが現状である。

 まず、地方自治体においても、全政策の見直し、特に予算が必要な事業に関して、そもそも何故必要なのか、また毎年の恒例的予算や必要経費と思われている経費をも徹底的に根本的に検討し、前例主義や誰かの言いなりの予算は見直すべきなのである。

 国の予算に関しては、たとえば米軍への「思いやり予算?」や皇室費などにも「聖域なき改革」を目指すならば切り込んだ議論を経て削減すべきだと考える。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「野菜の生の美味しさ」

2009年11月15日 | ガリバー旅行記
 東京への弾丸ツアーを終えて京都に帰ってきて、すぐにいつもの週末の有機移動八百屋で一日半走った距離は、約150キロであった。

 一応、八百屋ガリバーと称しての無農薬、有機農産物と無添加食品の移動販売を始めて今年の秋で15周年を迎えたのだが、お客さんの要望や感想は千差万別であり、牛乳、豆腐、卵だけのお客さんもいるが、野菜を買っていただくお客さんは少ない。

 そんな中、やはり「日本の農業」を考えると、少なくとも無農薬、有機栽培か減農薬の野菜づくりをしている農業者や農家がもう少し増えなければ、安全、安心な農業とは言えないのではないかと思っていたのだが、今回の大江戸訪問の旅で偶然見つけた「生の無農薬野菜を食べさせる店」に感激と共に将来の日本農業の少しは光を見た感じであった。

 たまたま久しぶりの東京に興奮気味に、あっちこっちとお上りさん感覚で出かけようと早朝から乗った地下鉄の駅で無料配布されていた「東京メトロニュース」と題する小冊子に、東京でいただく、新鮮・安全な野菜たち。「畑のあじわい」特集があったのだ。

 「おいしい野菜をぜひ!」と薦める表紙のお姉さんの誘いで中を覗くと、野菜のおいしさ新発見!とした見出しで、数店の自然食品店や園芸センターと共に八百屋カフェとレストランが紹介されていたのである。

 これもひとつの出会いだと感じた私は、どうせ昼食を食べるなら、ここで紹介された店を訪ねてみようと思って、都心のど真ん中の新宿三丁目にあるという「農家の台所」という屋号の店を訪ねたのである。   

 東京の地代では一等地の新宿三丁目の地下鉄駅を降りてすぐのビルの四階に目指すレストランはあった。

 狭いエレベーターを降りると若いお姉さんが店に案内してくれて、珍しい野菜やブランド野菜の個性わ豊かな生のままのサラダを自由に取って食べる「サラダバーつきの野菜四倍日替わりランチを注文して、ゆっくりと楽しんで食した。

 地域の風土や野菜の特性、生産者のこだわりなど、無農薬、減農薬、有機栽培の野菜たちが盛りだくさんに並んでいて、その生産者である若い青年たちが写真入りの選挙ポスターの様な形で紹介されていて、全国200ほとせの契約農家からの朝取り出荷で仕入られているそうなのであった。

 店のコンセプトからレイアウト、そして古い木調の佇まいを感じる落ち着いた店の雰囲気の中、平日のランチ時なのに、若い女性たちを中心に満員の盛況であった。

 シンプルで生の野菜たちをステック状や切っただけのいでたちで並んでいる「サラダバー」には、珍しい野菜や、生で食べるの?と思ってしまう野菜もあるのだが、塩、ゴマダレ、醤油などのタレや味をつけて食べると、何とも素朴な野菜の味がして新鮮かつ嬉しくなる美味しさであった。

 こんなコンセプトの店が、イマドキの若者たちや健康、ダイエット、美指向の女性たちには支持されるのだと驚きつつ、これらをコーディネイトしプロデュースしている人たちのセンスとネットワークに拍手を送りたい心境であった。

 日本の農業の未来も決して悲観することはない、新しい光の一部が見えた気がした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「白いウンチ」、胃透視検査。

2009年11月14日 | ガリバー旅行記
写真の「黄色いウンチ」は、ご存知の方も多いだろうが、あの「アサヒビール」の東京都墨田区の本社ビルの上に座している巨大モニュメントと言うべき広告塔でもある。

 巷ではたぶん「黄色い巨大なウンチ」と言われているであろうが、本当のところは何をイメージして製作された物か不確かだが、間違いなく近くを通った者にとってはインパクトのある造形物である。

 今回のテーマは、決して「黄色いウンチ」ではなく、皆さんもご経験のある方も多いと思われる、胃透視検査での手法のひとつ、「バリウムを飲む」ことで胃透視カメラで撮影する「胃がん」などの検査をしたからであり、当日の夜から翌日にかけて「白いウンチ」が出るということである。

 昨年は、検査技師の薦めもあって、初めて胃カメラを口からではなく、鼻から入れる手法を初体験したのだが、決して「楽に入りますから」と言われたのにも関わらず、ずいぶん痛さがあり、もう二度と「鼻からのファイバースコープ」は入れまいと思っていたので、今回は通常の「バリウムを飲んでの」胃カメラ撮影を受診したのであった。

 しかし、今回「胃透視検査」の前に看護婦さんか検査技師か分からないが、白衣の女性から「筋肉注射をします」と言われて説明を受けたのだが、これも結構痛そうだったので、受診者が選択できるというので、痛い注射はお断りして「バリウム胃透視」をしていただいた。

 一年に一度の「健康のための定期健診」だったのだが、実は個人的健康条件は最悪と言っていい状態のままでの受診となった。

 というのは、東京への弾丸ツアーよろしく昨晩は疲れたまま新宿からの深夜高速バスで早朝に帰洛したばかりであり、しかも昨晩からの飲食制限をすっかり忘れていて、昨晩はコンサートを観たあと夜9時頃に台湾ラーメンと餃子を食し、深夜バスでのトイレ休憩ごとにのどを潤すコーヒーなどを飲んでしまっていたのである。

 朝方気づいたのだが、時既に遅しで止む無く検査に赴き、尿検査に始まり、血液検査、血圧、聴力、視力、身長、体重、胴囲なども計った上で、問診があった。

 特に既往症や現在飲んでいる薬などはなかったので、医者には健康そのものに見えたと思うのだが、本人は深夜バスゆえの寝不足や体の節々の軽い痛さなどもあり、ナントも癒えぬ「健康診断」となったのであった。

 体調は万全ではなかったのだが、東京へ行く前日と東京滞在中の検便用の少量の便とは全く違った、胃透視バリウム検査後の「白いウンチ」が何故か楽しみとなった。

 昨日の昼過ぎには「大きな黄色いウンチ」としか見えない巨大モニュメントを観て、デジタルカメラに収めていたのだが、昨晩から今朝にかけては自分の「白いウンチ」を見ることとなったのであった。

 すみません、アサヒビールさんの私には巨大な「黄色いウンチ」にしか見えないモニュメントの本当のイメージは何なんでしょうか、ご存知の方は正しいモティーフをお教えいただけないでしょうか。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久々のお江戸にお上りさん!

2009年11月12日 | 感じたこと
 昔話になりそうだが、1970年代前半に東京は表参道のちょっと裏道に面した木造二階建てアバートで始まった小さな音楽事務所が、私の東京暮らしの拠点であった。

それから30数年が経ったが、2004年に新宿に降り立って以来の5年ぶりの大江戸訪問となった。

下町墨田区押上に建設中の地上634メートルの高さになる予定のスカイツリーに早朝に行ってみた。

 現在205メートルまで建設中の姿を現した巨大な建造物は2012年には完成し、地デジ時代の新テレビ送信塔となるため、従来の東京タワーの役目は終わるという。

 いずれにせよ、巨大かつ高さは東洋一になるであろう「新東京タワー」こと、通称スカイツリーの建設現場を観ることは、まるで東京タワーが建設中の、あの「三丁目の夕日」に出てくる光景とダブって、新しい時代を迎える何かワクワクする期待感を感じるものであった。

 その後、地元の墨田区役所を訪ね、昔の仕事との関連で「墨田わんぱく天国」という名の20数年前からある「子どもたちが自然とふれあいながら冒険的遊びが出来る」公共の遊び場に立ち寄った。

 わんぱく砦、わんぱく広場、ロープスライダー、野外ステージ、畑などがあり、年に約三万人もの子供たちが区内外から訪れているという。

 実は20数年前にも訪れたのだが、現在は年配のおばさんのボランティアがお二人現場におられるだけで、まだ朝早かったために子どもたちの姿は誰もいなかった。

 隅田川沿いを歩いて、都バスにのって地下鉄を乗り継いで、大都会東京の新宿三丁目へと行った。

 目的は、最近出来たという「有機、無農薬野菜を中心に」食べさせてくれるという若者たちや女性に人気のレストランであった。

 ほんとうに生の野菜をステック状にしたものや「エノキ」「しいたけ」「人参」「かぶら」「サラダ菜」「大根」などを、塩、ゴマドレ、ポン酢などを薬味的につけて食べる「サラダバー」が人気であった。

 その後、六本木ヒルズに寄って「喫茶」を楽しんで、昔懐かしい私の音楽事務所があった渋谷へと足を向けた。

 電源が切れた充電を兼ねて渋谷道玄坂や駅前を行き来した後、渋谷警察署裏へ行ってると、外装のペンキなどは塗り変わってはいたが、昔のままの「渋谷ロイヤルマンション」が現存していて、ビックリやら懐かしい思いであった。

 夕方から開催される、私の音楽事務所の所属アーチストであった、中村ブンの「母さんの下駄」絵本発売記念コンサートを鑑賞して、私の久々の大江戸巡りは無事終了した。

 少し風邪気味で声は本調子ではなかったと思われる「中村ブン」は、ご年配のお客様を中心とした温かい観客に声援と拍手を貰って、約二時間熱唱し、「母さんの下駄」は朗読した上で歌った。

 僕がはじめて『母さんの涙を見たのは、小学六年生の春』だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「中山」、「今岡」引退の危機。

2009年11月11日 | プロスポーツ
 昨日、日本バレーボールリーグのエースである「荻野選手」が今シーズン途中の40歳の誕生日までのプレイで引退すると記者会見して発表した。

 どうも今シーズンを体の手入れを丹念に行ってシーズン終了まで現役選手として戦うには、どうも体力的にも技術的にも厳しいと判断するに至ったというのである。

 プロスポーツの厳しさは、どんなスポーツでもあり、往年のプロ選手で「プロレスリング」でリングに上がっていた「ジャイアント馬場」などは、なんと60歳近くまで現役選手として戦っていたというが、実際のところ真剣な戦いのアスリートとしては、まさか60歳まで現役というのは夢のまた夢物語であろう。

 現在アメリカメジャーリーグで活躍する「イチロー」も30代半ばで9年連続年間200本安打を記録する超人的活躍で、今年もゴールデングラブ賞を受賞したが、果たして本人が望む50歳までの現役はいくらなんでも無理だろうと思う。

 一方、ワールドシリーズを制覇した「ニューヨーク・ヤンキース」の松井秀喜選手は35歳だが、ヤンキースでの現役選手としての契約延長を願っているらしいが、球団側は松井の守備力は評価していないと見えて、DHでの起用なら検討するという姿勢であり、松井自身のメジャー現役続行は、本人の希望を叶えるためには移籍するしかないと言われている。

 日本の国内でのプロスポーツ選手の中では、サッカーのJ1、ジュビロ磐田の中山征史選手が支配選手としての契約続行をしないとの会社側の意向で、現役続行を願うゴンとしては、藤枝東高校出身のよしみでむ、現在J2の藤枝MYFCからのオファーに応えるのかもしれないが、元日本代表の日本のJリーグ創世記から活躍し、ワールドカップ出場にも貢献した三浦カズと共に、戦力外通告にめげず、42歳のJリーガーとしての活躍を続けていただきたいと節に望む。

 プロ野球界でも、我が阪神タイガースの2003年、2005年の優勝に多大な貢献をした背番号7の我らが「今岡誠選手」が引退の危機にさらされている。

 今シーズンのほとんどを2軍生活で過ごしたかつての打点王、今岡誠選手は2006年のシーズンの試合で受けたデットボールをきっかけに負傷し、低迷したのだが、あの勇士、あの先頭打者ホームランや意外性アル好打者としての人気と実力は今も鮮明に記憶にある名選手である。

 いずれにせよ、本人の現役続行の意思があっても、球団や会社からのオファーがなければ、プロとしての選手生命は終わってしまうという、過酷かつ冷淡なプロスポーツ界の中にあって、ぜひとも中山ゴン、こと中山雅史選手と今岡誠選手には、もう一度活躍のチャンスを与えていただきたいものである。

 中日ドラゴンズの立浪選手をはじめとする引退を表明したベテラン選手の活躍の思い出と共に、今後も引退と現役続行に揺れる多くのプロスポーツ選手に暖かい声援を送りたいものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「木の魂」に魅せられる。

2009年11月10日 | 地域の話題
 秋も深まり、通勤途中の田畑も既に稲刈りが終わって、田んぼは刈り取った稲の後が再び青く伸びだしていて、畑はサツマイモ、大根、小松菜、サトイモ、人参と多様な野菜たちが収穫を待っている『実りの秋』である。

 いつもの道を車で走れば、ほとんど気づかない「季節の移ろい」を少し違った道を行くことで、新たな発見、気づきがあるものである。

 今朝は、職場に提出の住民票を取得するために、近くの住民センターへと少し早めに通勤前に行ったために、懐かしささえ感じる地元の小学校、鎮守の森のごとき神社の前を通って、田畑がいっぱいの田舎道を通ったために、秋の深まりを角度を変えて観ることができた。

 先週の土曜日の昼下がりだったが、八百屋のお客さんの玄関先に植わって数十年経ったと言われる「ケヤキの大木」を今年70歳になるというおじさんが大胆に剪定されていた。

 いつもは生い茂ったケヤキの葉で覆われて、ほとんど見えなかった家の輪郭やお庭が露になった感じで、風通しのいい秋を家も庭も感じているのではないかと思えるほどの、すっきりとした剪定を久しぶりにされたという。

 玄関先から、この「ケヤキの大木」を暫く眺めていると、なにやら『幹から木の魂」の声が聞こえて来る感じがしたのであった。

 剪定をされた家の主に、その様に感じたと話すと、彼は大木になった『ケヤキ』の謂れを語ってくれた。

 40数年前に結婚して、この地に新居を構えた時に、今は亡きご婦人が何処からか成育して10年程のケヤキの若木を貰ってきて、車庫や玄関先の日陰になり得ると植えられたそうなのであった。

 それから、お子さんが三人生まれて各々成長されて社会人として育ち、結婚して新たな世帯を持たれた兄と姉、そして末弟は音楽家として現在はドイツに滞在されている彼の一家を、長年見守ってくれていた「ケヤキ」だったのであるが、十年程前に奥さんが癌で亡くなられて以降は、年取った彼の一人住まいとなっているようであった。

 この一本のケヤキの幹が、なにやら語っていると私が感じたのは、全く幻覚でも幻聴でもなく、植物としてこの世に生を受けた「ケヤキ」の一生はまだまだ続くだろうが、50年近く経つ「ケヤキの大木」となってはいるが、このご一家の半世紀近くを中心に、小さな庭の玄関先から、多くの出来事と光景を観てきただろうし、多くの語らいを聴き、多くの季節を繰り返し生きてきたのだから、幹に宿る魂が、何かを語っていても可笑しくないのである。

 庭の主との会話を通じて、このケヤキの大木の幹が語る「木の魂」からの叫び、独り言を密かに聞いているのは、張本人の彼が一番なのだろうが、私にも確かにささやきが聞こえたのであった。

 人間の一生、ご家族の変化や成長を見守ってきた「ケヤキ」は、これからも人間の一生以上に行き続けて、未来のこの地の状況を具に見ることができるのだろうと思うと、密かに「木の魂」に今聴いておきたいと思う感じであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「沈まぬ太陽」は現実。

2009年11月09日 | 感じたこと
 昨夜、久しぶりに日本映画を観た。

 山崎豊子原作の「沈まぬ太陽」である。

 全編で3時間を超す長編映画で、途中に10分間の休憩、インターミッションがあり、1985年に墜落し520名もの犠牲者を出した日航機事故後に誕生した遺児が奏でるバイオリン演奏が流れるというおまけもついていた。

 山崎豊子さんの小説「沈まぬ太陽」は、五作で通算600万部も売り上げたというベストセラーで、前述の御巣鷹山墜落事故を背景に、ナショナルフラッグと称される某、日本航空をモデルに「国民航空」というフィクションで、物語は進められているが、全ての現実がダブって見えるリアリティを感じる作品として仕上がっていた。

 宣伝チラシやパンフレットなどには、映画「沈まぬ太陽」は、山崎豊子の作品をもとに映画化したフィクションです。登場人物、団体は全て架空のものであり、実在の人物、団体等とは関係ありませんと。と断ってあった。

 しかし、現代の政治課題ともなっている「日本航空の再建問題」や「民営化した日航に3千億円もの公費救済」というリアルな課題が論じられている折でもあり、またあの日航墜落事故から25年が経とうとしているが、いまだ癒えぬ多くの犠牲者の遺族やその影に見え隠れする日航社員と会社側の労使紛争や金銭問題などが今にも繋がっている「親方日の丸国有会社」のような実態を返ってあらわにしている様に思えてならない。

 主演の渡辺謙演ずる、元労組委員長の「恩地元」は、副委員長・行天四郎(三浦友和)と共に職場環境の改善と空の安全を社に(国民航空)に訴えるが、巨大企業の懲罰人事と思われる左遷で、パキスタン・カラチ、イラン、そしてアフリカ、ケニアのナイロビと海外勤務を命じられる。

 一方の「行天四郎」は、本社での重要ポストと引き換えに、組合の弱体化へ会社側の立場で加担してエリートコースを歩んでいく。

 信念を決して変えない男、渡辺謙と日和見的会社人間、三浦友和の二人を軸に、巨大航空会社、国民航空は、520名もの犠牲者を出した御巣鷹山墜落事故の犠牲者の補償交渉や安全第一への大きな改革を迫られる中、裏金や政界を巻き込む大スキャンダルも秘密裏に進んでいた。

 そんな中、正義感でじっと耐え抜く恩地元の心境は複雑で、家族や労組で共に闘った仲間の現状を憂いつつ、新会長に抜擢された「会長室」のスタッフとして一時は日の目をみるが、再び更迭された改革派の会長が去ったあと、再びアフリカ・ケニアへと飛ばされるのであった。

 「沈まぬ太陽」は、あの広大なアフリカの大地に沈む夕日を見ながら、彼の心の葛藤と共に、巨大企業の組織的課題は「延命策」や「自己保身策」に終始している、現代の大手企業の実態、すなわち現在の「日本航空」そのものへの批判とダブっている。

 今日の夕刊に、日航役員の12月分報酬のカットと全社員の冬のボーナス
ゼロ回答が報じられているが、多額の企業年金をはじめ、いまだに「親方・日の丸」の企業体質から抜け出せない、福知山列車脱線転覆事故の「JR西日本」と同様の体質が露になっている現実を観たような気がした。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嬉しい出会い。

2009年11月08日 | 地域の話題
 今朝、日曜日だが開店営業中の近くの手作り天然酵母パンのお店「マテア」に、いつもの様に私が自営する八百屋のダンボールの空箱を届けに出かけた。

 そこには、いつもの如く仲良くパン作りの手作業をするH夫妻が仕事をされていたのだが、お店のお客さんとして若い夫婦と赤ちゃんの姿があった。

 「あっ!」とすぐに気づいたのが若い男の人、そうだU,K君だ。

 向こうもすぐに分かったらしく、ニコニコとこちらに笑顔で話しかけてくれた。

 突然出会ったのだが、そうかれこれ20年以上は会ったことのない青年の一人だったのである。

 彼が小学生時代に私が近くの遊び場活動のリーダーとして「ガリバー」と呼ばれていた頃に一緒に森を駆け回ったり、キャンプをしたり、遊んでいた少年たちの中の一人だったのであった。

 彼は小学生時代、特に低学年の頃は少しはにかみ屋の少年で、しかも決して活発、むちゃくちゃ元気というタイプの少年ではなかった記憶が鮮明だった。

 すぐに名前が出てきて、「U,K君!」と呼びながら、すぐに昔話と共に、奥様と三ヶ月という男の子の赤ちゃんを紹介された。

 たまたま近くの実家に戻ってきて、このパン屋さんを訪れた時だったのだが、暫しパン屋の店先で、いろいろと話が広がった。

 中学校では陸上部゛に所属して、何回か町の駅伝にも出て、いつかはあの「箱根駅伝」に出場したいと思って東京の大学に進学したというのであった。

 以前に「ガリバー通信」でも紹介したことのある、もう一人の青年も、私たちが毎年二月に催していた「ミニ木津川マラソン」で、小学五年生の時に優勝し、私たちが祝福の胴上げをしたことがきっかけで、走ることが好きになって、別の大学だが箱根駅伝を目指して進学し、待望の駅伝部で頑張ったが、本番では補欠で、先輩の選手の毛布運びと裏方に終わったという。

 U、K君も本チャンの選手としては出場できなかったそうだが、昔一緒に遊んだ「森やキャンプ」のことを克明に覚えていて、懐かしい話をしてくれた。

 その中に、近くの池の「池ざらえ」の時に捕まえた「アメリカザリガニ」をボイル度して食べた時のことを、「コリコリして美味しかった」と証言したのであった。

 実は、私はリーダーとして小さなコップで川の水でボイルドしたため、十分熱が入っていなかったためか、コクサッキーとか言われる菌に毒されて、医者にかかる症状が出て、皮膚がめくれてビックリした経験があったので、子どもたちには症状が出なくてよかったと強く記憶していた。

 現在は、ある安全食品を扱う団体に勤務しているらしく、頭は五分刈りで鼻ひげと顎鬚を蓄えた、少しワイルドな青年となっていた彼との再会に、とっても暖かさと喜びを感じたのであった。

 「ほんとうにいい出会い」が朝から出来て、若いご夫婦と赤ちゃんの幸せと成長を心から祈る気持ちで一杯で、嬉しくパン屋を後にしたのであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする