アンジェラ・アキさんの「手紙~拝啓十五の君へ~」という曲が支持されていますが、「拝啓、この手紙を読んでいるあなたは どこで何をしているだろう」という歌詞で歌は始まっていますが、この曲は彼女が十五歳の時に「三十歳の自分に」宛てた手紙をモチーフにしたものだそうです。
私は二十数年前のある時に、沖縄から京都にやって来た青年と車に同乗している時に、突然聞かれました。
「ガリバーは、いつごろが一番良かったと思いますか?」と。
つまり、彼は「自分の人生で、いつが一番楽しかったか充実していたか、ともかく一番良かった時はいつごろで、出来ればいつごろに帰ってみたいですか?」と尋ねたのである。
私は少し間があったが、「うーん、今が一番いいかな」と答えたのでした。
すると、彼は不思議そうに「ほとんどの大人は、小学生時代とか、高校時代とか、中には幼稚園の頃が良かった」などと言うのに、何故「今なのですか?」とも一度問うたのであった。
深い意味などなかったが、私には当然いろいろな思い出や経験があり、おもしろかったり、楽しかったりのいい思い出だけではなくて、辛い思い出や思い出したくもない時期もなくはなかった。
しかし、やっぱり健康で家族、友人、仲間、知人たちの交流を自然にしながら「今に至った」自分の人生に悔いはなく、「今という現在」を生きていることが一番なのだと改めて自問自答する機会となったのであった。
自分自身は、「未来の自分に手紙を書こう」と思ったことは一度もないのだが、よく考えてみれば、小学時代に宿題か親に言われて書いていた「日記」に始まり、特に青春時代から、何かにつけて「書き綴っていたノート」は、今になって思えば、やはり「未来の自分対する手紙」だったのかもしれない。
その当時は、日々の悩み、葛藤、問題などを赤裸々に綴っていたり、詩的な表現で書いてみたりと、多種多様な青春や人生の葛藤と生活の小さな出来事を、克明に記していたりしていて、今当時に書いたノートを読み返す機会があったら、ちょっぴり自分の書いたものだが、恥ずかしかったりなかなか大したものだと思ったり、不思議な心境にされるものもある。
そういえば、自分自身が書く「日記」や「落書きノート」は、その時は自覚していないが、誰か他人に読んでもらう目的ではなく、やはり「自分自身のため」に記していたのだろうと、今になって思うのである。
青春時代に始まった「ノート」が、いつのまにかワープロでの記録になり、今は「ブログ」という形で、「多様な日常に感じた問題や気づき」を、こうして記していることは、他人のためではなく自分自身の心と体を通じて「今を生きている証」として日々の生活の一部と化しているみたいである。
私にも娘と息子がいて、それぞれ結婚をして幸せに暮らしているが、子どもたちの成長期に、父として「娘に」また「息子」にと「手紙」のような形で、素直で短い願いと祈りを記したことがあった。
今、その娘も息子も、私が彼女や彼に父として記そうとした年齢を越えているみことを思えば、娘や息子も同じように「子どもたちや両親」に手紙を書きたいと思う年齢になっているのかも知れない。
私は二十数年前のある時に、沖縄から京都にやって来た青年と車に同乗している時に、突然聞かれました。
「ガリバーは、いつごろが一番良かったと思いますか?」と。
つまり、彼は「自分の人生で、いつが一番楽しかったか充実していたか、ともかく一番良かった時はいつごろで、出来ればいつごろに帰ってみたいですか?」と尋ねたのである。
私は少し間があったが、「うーん、今が一番いいかな」と答えたのでした。
すると、彼は不思議そうに「ほとんどの大人は、小学生時代とか、高校時代とか、中には幼稚園の頃が良かった」などと言うのに、何故「今なのですか?」とも一度問うたのであった。
深い意味などなかったが、私には当然いろいろな思い出や経験があり、おもしろかったり、楽しかったりのいい思い出だけではなくて、辛い思い出や思い出したくもない時期もなくはなかった。
しかし、やっぱり健康で家族、友人、仲間、知人たちの交流を自然にしながら「今に至った」自分の人生に悔いはなく、「今という現在」を生きていることが一番なのだと改めて自問自答する機会となったのであった。
自分自身は、「未来の自分に手紙を書こう」と思ったことは一度もないのだが、よく考えてみれば、小学時代に宿題か親に言われて書いていた「日記」に始まり、特に青春時代から、何かにつけて「書き綴っていたノート」は、今になって思えば、やはり「未来の自分対する手紙」だったのかもしれない。
その当時は、日々の悩み、葛藤、問題などを赤裸々に綴っていたり、詩的な表現で書いてみたりと、多種多様な青春や人生の葛藤と生活の小さな出来事を、克明に記していたりしていて、今当時に書いたノートを読み返す機会があったら、ちょっぴり自分の書いたものだが、恥ずかしかったりなかなか大したものだと思ったり、不思議な心境にされるものもある。
そういえば、自分自身が書く「日記」や「落書きノート」は、その時は自覚していないが、誰か他人に読んでもらう目的ではなく、やはり「自分自身のため」に記していたのだろうと、今になって思うのである。
青春時代に始まった「ノート」が、いつのまにかワープロでの記録になり、今は「ブログ」という形で、「多様な日常に感じた問題や気づき」を、こうして記していることは、他人のためではなく自分自身の心と体を通じて「今を生きている証」として日々の生活の一部と化しているみたいである。
私にも娘と息子がいて、それぞれ結婚をして幸せに暮らしているが、子どもたちの成長期に、父として「娘に」また「息子」にと「手紙」のような形で、素直で短い願いと祈りを記したことがあった。
今、その娘も息子も、私が彼女や彼に父として記そうとした年齢を越えているみことを思えば、娘や息子も同じように「子どもたちや両親」に手紙を書きたいと思う年齢になっているのかも知れない。