ガリバー通信

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阿倍野区の謂れ

2011年05月24日 | 地域の話題
 今日は大阪の母親が現在住んでいる阿倍野区晴明通に行ってきたのだが、私が生まれ育った「大阪市阿倍野区」の謂れはと考える機会となったのである。

 母親が現在住んでいる晴明通という地名は、実は今から約1000年前に亡くなったといわれる、希代の陰陽師で現在まで続く土御門家の祖ともいえる「安倍晴明」にちんなんでつけられた地名であり、「安倍晴明神社」が御祭神として安倍晴明公を祀っているのである。

 そこで、大阪市阿倍野区の「あべの」は、この「安倍晴明」の「あべ」から地名がつけられたのかと思いきや、「阿倍野」の歴史はなんと弥生時代に始まったといわれ、「阿倍野」の地名の由来には諸説があるらしい。

 古代にこの地を領有していたのが豪族の阿部氏であり、その姓からという説が一番有力だそうだが、「万葉集」の山部赤人の歌からと言う説や古地名の「東生郡餘戸郷」(ひがしなり郡あまべ郷)の「あまべ」からとったという説もあるたいです。

 「あべの」の文字についても古来より「阿倍野」「安倍野」「阿部野」などが使われていたのだが、昭和18年に元の住吉区から分区して「あべの区」が誕生したときに、区役所の土地台帳が「阿倍野」の文字を採用したので「阿倍野区」となったということです。

 大阪出身の方々はお分かりだと思いますが、この阿倍野区の中心的ターミナルはJR天王寺駅、地下鉄天王寺駅なのですが、何故か近鉄電車のターミナル駅は「阿部野橋」となっていて、大阪キタのターミナルもJR大阪駅なのですが、阪神、阪急の私鉄駅は「梅田駅」となっていて、地方から来られた方々には「ややこしい」限りですね。

 話は戻りますが、「阿倍野区」に生まれた「安倍晴明」の安倍家は家伝によれば、孝元天皇(AD300年頃)の第一子の大彦命を先祖とし、その11代目に当たる倉橋麻呂が初めて安倍姓を名乗り、大化の改新後の新政府の左大臣を務め、安倍倉橋麻呂の子供の安倍御主人は文武天皇の右大臣を務めたそうです。

 この安倍御主人(みうし)の名は竹取物語にも出ていて、彼はかぐや姫の求婚者のひとりで「火鼠の皮を持ってきてくれ」と頼まれて、手を尽くしてやっと火鼠の皮を見つけてかぐや姫の前に持って行き、実際に火をつけてみると、あっけなく燃えてしまったそうですが、かぐや姫への求婚者の中で唯一実在の人物だといわれているのが、安倍御主人だそうです。

 そして安倍御主人の8代目にあたる大膳大夫(天皇の料理番の責任者、宮内省所属)の「安倍益材」(ますき)が「安倍晴明」の父とされていて、御主人の曾孫の安倍大家、吉人の兄弟は陰陽頭を務めていて、益材や晴明はその子孫となっています。

 この家系に生まれた「安倍晴明」は、最初は父と同じく大膳大夫となりますが、その後左京権大夫、穀倉院別当などを歴任し、最後には播磨守となっていまが、天文博士にも任じられていて、そうした官位の仕事のほかに、小さい頃から陰陽道(おんみょうどう)を伝える賀茂家の賀茂忠行に師事し、その才能を高く評価されていたそうです。

 その結果、後に安倍晴明は賀茂家から天文道を譲り受けて、暦道を自分の息子に伝え、賀茂・安倍(後に土御門を名乗る)両家が日本の陰陽道の宗家となっていったそうです。


 安倍晴明が陰陽師としてデビューしたのは天徳4年、960年頃だそうですが、菅原道真の怨霊におびえる醍醐天皇が亡くなり朱雀天皇、村上天皇と引き継がれましたが、京都ではこの頃時々怪異の噂があり、宮のあちこちで火事が起き、とうとう内裏が炎上しました。

 そのような時代に晴明ら陰陽師たちは貴族たちの個人的依頼を受けて、種々の相談、祈祷、霊的防御などの仕事に携わったそうです。

 そんなことから、現在の「安倍晴明神社」は、天文を観て個人の人生を占う、「占いの神さま」となっているようです。

 



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