秋晴れの土曜日、私の住む京田辺のある小学校で授業参観が実施され、土曜日ということで日頃の子どもたちの学校生活を垣間見る機会ということもあって、仕事がお休みのお父さんたちも多く参観には参加された様子であった。
午前中の移動八百屋の訪問時には、いそいそとご両親で小学四年生の男の子の授業参観に出かけられる間際だったために、夕方改めてお客さんをほうもんすることにして、営業用の車を半日走らせて、再びあるお客さんの玄関先に車を停車させると、少し暗くなりかけた薄暮の中、まだ二歳の女の子を抱っこしてお父さんとおかぁさんが顔を出してお買い物をしていただいた。
「参観はどうでしたか?」と、まずお父さんにお聞きしたところ、不満いっぱいに「あんな授業ならわざわざ観に行く必要はなかった」と仰るのであった。
ちょっと遅れて財布を持って登場されたママも、異口同音に「あれなら塾にやらしておいた方が良かった」と仰るのであった。
わけは聞くまでもなく、教師の授業は用意されたマニュアルっぽい進め方が一方的で、わが子だけではなく授業全体がつまらなかった上、子どもの元気さ、明るささえ伝わってくるどころか、みんな静まり返ったような「教室の雰囲気」は以上だとさえ言われたのであった。
そうしたお話を聞いていて、私もわが子の授業参観に行って、一番印象的だった授業を思い出してしまったのである。
その授業とは、息子が小学二年生の時で、あまりにも妻や同じクラスの子どもたちの母親たちが先生のことで騒いでいて、とある時は「教育委員会」まで直訴したというケースがあったので、その実態を見てみようと出かけた初めての「授業参観」のとんでもない印象深い思い出であった。
とある年配のベテランと称された女の先生の社会科の授業だったのだが、保護者たちが「先生を替えてほしい」と直訴していることもあって、学校では前夜に教頭先生が、そのベテラン教師に授業参観のシュミレーションをして、間違いや批判を少なくしようとしていたらしいのだが、授業はとんでもなくちぐはぐで私もこれは問題だと感じざるを得なかった記憶が強い。
詳細は以前にガリバー通信のブログでも書いたので省略するが、とどのつまり先生が子どもたちの気持ちや感性、率直な素直な反応などに対処できず、自分自身の手順だけで授業を進めるために、子どもたちの方が白けてしまうという最悪のパターンになったのであった。
つまり、子どもたちの前に立つ大人の教師が、自分の都合やマニュアルに従うだけの授業展開で、ちっとも「子どもの心」をつかめてなく、授業が面白くないばかりか「一体感がない」ので、保護者たちにとっても「観るべきところ」や「子どもの個性や対応ぶり」が見えないという状況しかないのである。
なぜにそうなるのかと言えば、教師が先生である前に「人間的感性と多様な子どもの個性」を受け止める度量というべきか裁量がないのである。
つまり、社会人としてだけではなく、人間性豊かな成長がされていない半人前の「こども大人」いや、プロにはなれていないからなのである。
教師は資格があれば出来るが、本当の意味での先生にはなれていないのではないだろうか。
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