今晩、日本サッカー対UAEの試合をテレビ観戦していたのだが、なんとまたや後半香川の先制ゴールの数分後に相手にゴールを決められて、その後も一方的にゴールチャンスが何度もあつたのに、的確性を欠いて1対1の引き分けに終わって、六日後の2010年南アフリカワールドカップへのアジア予選、ウズベキスタン戦が大丈夫かと不安を覚えた。
なんとも忸怩たる思いで、テレビのチャンネルを回していると、なんと懐かしい「ロッグハウス」作りの師匠である「平林定男」さんが紹介されていたので、目を留めた。
彼は私が子供たちの遊び場のリーダーとして仕事をしていた当時に、信州は穂高の見える山里で、ロッグハウス作りの手ほどきを受けたことのある懐かしい師匠だつたのである。
彼も私もたぶんまだ30代だった頃だったと思うが、憧れのロッグハウス作りのためのチェーンソーワークを一から教わったのである。
夏から秋にかけての約一ヶ月近くを信州の人里離れた現場でテントを張って自炊、寝泊りをしながら、毎日、毎日、平林さんが発注されていたロッグハウス作りの現場で指導を受けながら、慣れないチェーンソーを持って練習を重ねて、大きな杉丸太を組み込むためのチェーンソーワークを続けたのである。
その約一ヶ月間の生活が、今晩のテレビで紹介された「チェーンソーの達人」、平林さんとの再会とでも言おうか、テレビを通しての再会で蘇えって来たのである。
小さなテントを持ち込んでの約一ヶ月間の研修で得た知識と技術は、その後京都に帰ってから取り組んだ「小さな丸太小屋」作りで少しは生かせたのだが、その丸太小屋は、野外活動を行うための子供たちの備品や道具の倉庫として、その後約30年間は使用されたのだが、生活することのできるロッグハウスではなかった。
あれ以来、私は「夢のログハウス」をいずれ建てたいと思っていた時期もあったのに、それからの仕事や生活のためにほとんど忘れていたと言っても過言ではない。
その経験と思い出が今晩の平林定男さんの元気なチェーンソーワークぶりでよみがえってきて、大変うれしくもあり、楽しい記念すべき思い出として再び強く思い出させていただいたのである。
チェーンソーの使い方、技術を学ぶと共に、信州の秋を楽しみ、コンサートや皆で囲んだバーベキューパーティなども克明に思い出された。
あの頃抱いていた「夢のログハウス」は、不登校や引きこもりなども含む、現代の学校に馴染めない児童、生徒たちのためのフリースクール的学びの場を、京都郊外の田舎に土地を借用してでもログハウスとして建てて、週末を中心に運営したいと思っていたのである。
そのために中型二輪の免許も取得し、あるおじいさんにも土地の提供を約束していただいていたのだが、おじいさんが亡くなられ、私の夢も途切れてしまったのであった。
違った形でも、子供たちとの関わりを大切にした居場所づくりの大切さを再び思い出させていただいたログハウス作りの達人、平林定男さんであった。
なんとも忸怩たる思いで、テレビのチャンネルを回していると、なんと懐かしい「ロッグハウス」作りの師匠である「平林定男」さんが紹介されていたので、目を留めた。
彼は私が子供たちの遊び場のリーダーとして仕事をしていた当時に、信州は穂高の見える山里で、ロッグハウス作りの手ほどきを受けたことのある懐かしい師匠だつたのである。
彼も私もたぶんまだ30代だった頃だったと思うが、憧れのロッグハウス作りのためのチェーンソーワークを一から教わったのである。
夏から秋にかけての約一ヶ月近くを信州の人里離れた現場でテントを張って自炊、寝泊りをしながら、毎日、毎日、平林さんが発注されていたロッグハウス作りの現場で指導を受けながら、慣れないチェーンソーを持って練習を重ねて、大きな杉丸太を組み込むためのチェーンソーワークを続けたのである。
その約一ヶ月間の生活が、今晩のテレビで紹介された「チェーンソーの達人」、平林さんとの再会とでも言おうか、テレビを通しての再会で蘇えって来たのである。
小さなテントを持ち込んでの約一ヶ月間の研修で得た知識と技術は、その後京都に帰ってから取り組んだ「小さな丸太小屋」作りで少しは生かせたのだが、その丸太小屋は、野外活動を行うための子供たちの備品や道具の倉庫として、その後約30年間は使用されたのだが、生活することのできるロッグハウスではなかった。
あれ以来、私は「夢のログハウス」をいずれ建てたいと思っていた時期もあったのに、それからの仕事や生活のためにほとんど忘れていたと言っても過言ではない。
その経験と思い出が今晩の平林定男さんの元気なチェーンソーワークぶりでよみがえってきて、大変うれしくもあり、楽しい記念すべき思い出として再び強く思い出させていただいたのである。
チェーンソーの使い方、技術を学ぶと共に、信州の秋を楽しみ、コンサートや皆で囲んだバーベキューパーティなども克明に思い出された。
あの頃抱いていた「夢のログハウス」は、不登校や引きこもりなども含む、現代の学校に馴染めない児童、生徒たちのためのフリースクール的学びの場を、京都郊外の田舎に土地を借用してでもログハウスとして建てて、週末を中心に運営したいと思っていたのである。
そのために中型二輪の免許も取得し、あるおじいさんにも土地の提供を約束していただいていたのだが、おじいさんが亡くなられ、私の夢も途切れてしまったのであった。
違った形でも、子供たちとの関わりを大切にした居場所づくりの大切さを再び思い出させていただいたログハウス作りの達人、平林定男さんであった。
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