4月の統一地方選挙で、私が京田辺市長選挙に立候補し落選してから早いもので50日が経った。
死んだわけではないが、亡くなった人のお弔いの場合は仏教では、四十九日経てば、「忌明け」になるという。
選挙が完敗だったこともあってか、支援していただいた方々や知人、友人達も、何故か私と会っても、ずっと「選挙結果には極力触れない」という配慮のパターンが多く、「残念でしたね。お元気ですか?」と気遣って下さるのであった。
当人は、あまりの予想?だにしていなかった完敗のために、返ってさっぱりしていて、至って元気にしているのだが。
しかし、周りの気の遣い様の奥に、いろいろと言いたいことがある様である。
選挙結果が出て一ヶ月半も経って、新市長の初の所信表明演説が、6月の定例市議会で行われ、傍聴した人たちの感想は、ほとんど棒読みの原稿で、目新しくも何もなかったとのことであった。
あの開票が済んで、新市長が決まった時のインタビューを思い出した。
「選挙でお世話になった人たちに恩返しをしなければならない」と新市長は語ったのである。テレビや新聞報道を通じて新市長のコメントを聞いた市民は「呆れてものが言えない」と語っていた。
「しがらみのある選挙」を戦った候補者が、お世話になった「しがらみ」に対して、「お礼」をすると言う正直なコメントだったのである。
結局、三人の候補者が戦った「市長選」だが、私を除くお二人の一騎打ち、すなわち「どっちが得か」の選挙戦になっていた様で、私は全く蚊帳の外だったということが、選挙が終わって気づいたのである。
自民党、民主党、公明党だけではなく、共産党にとっても、どっちを勝たせたら自分達の陣営に「得か損か」という選挙戦に終盤はなっていたようで、私の「市政を変えよう!」言うスローガンや、「未来に責任を持つ大人の選択」などは、全く別な次元の主張だった様である。
今、静かに思い返してみると、「権力を握る」ということ自体が、どちらの「しがらみ」に屈するかの「選択」だった様である。
私の様に、「市長」になりたいのではなく、このままの市役所、行政ではダメだから、誰かが「変えなければいけない」との危機感などは、市民の多くになかったと言っても過言ではない選挙になっていたのである。
そんな中で、しっかりと主張を受け止めて、私に期待して投じていただいた貴重な一票、一票の重さ、大切さを今改めて思う時、日本の民主主義の現状と共に、地方自治に対する市民、有権者の本当の願いは何なんだろうと、考えてしまう。
全く「しがらみ」のない人や会社や組織はないだろうが、「しがらみ」に左右されていては、公平な行政、政治ではない。
私は「唯一しがらみのない」候補者として市長選を戦ったが、皮肉にも「しがらみのなさ」が敗因だったのかも知れないと思わずにはおれないのである。
死んだわけではないが、亡くなった人のお弔いの場合は仏教では、四十九日経てば、「忌明け」になるという。
選挙が完敗だったこともあってか、支援していただいた方々や知人、友人達も、何故か私と会っても、ずっと「選挙結果には極力触れない」という配慮のパターンが多く、「残念でしたね。お元気ですか?」と気遣って下さるのであった。
当人は、あまりの予想?だにしていなかった完敗のために、返ってさっぱりしていて、至って元気にしているのだが。
しかし、周りの気の遣い様の奥に、いろいろと言いたいことがある様である。
選挙結果が出て一ヶ月半も経って、新市長の初の所信表明演説が、6月の定例市議会で行われ、傍聴した人たちの感想は、ほとんど棒読みの原稿で、目新しくも何もなかったとのことであった。
あの開票が済んで、新市長が決まった時のインタビューを思い出した。
「選挙でお世話になった人たちに恩返しをしなければならない」と新市長は語ったのである。テレビや新聞報道を通じて新市長のコメントを聞いた市民は「呆れてものが言えない」と語っていた。
「しがらみのある選挙」を戦った候補者が、お世話になった「しがらみ」に対して、「お礼」をすると言う正直なコメントだったのである。
結局、三人の候補者が戦った「市長選」だが、私を除くお二人の一騎打ち、すなわち「どっちが得か」の選挙戦になっていた様で、私は全く蚊帳の外だったということが、選挙が終わって気づいたのである。
自民党、民主党、公明党だけではなく、共産党にとっても、どっちを勝たせたら自分達の陣営に「得か損か」という選挙戦に終盤はなっていたようで、私の「市政を変えよう!」言うスローガンや、「未来に責任を持つ大人の選択」などは、全く別な次元の主張だった様である。
今、静かに思い返してみると、「権力を握る」ということ自体が、どちらの「しがらみ」に屈するかの「選択」だった様である。
私の様に、「市長」になりたいのではなく、このままの市役所、行政ではダメだから、誰かが「変えなければいけない」との危機感などは、市民の多くになかったと言っても過言ではない選挙になっていたのである。
そんな中で、しっかりと主張を受け止めて、私に期待して投じていただいた貴重な一票、一票の重さ、大切さを今改めて思う時、日本の民主主義の現状と共に、地方自治に対する市民、有権者の本当の願いは何なんだろうと、考えてしまう。
全く「しがらみ」のない人や会社や組織はないだろうが、「しがらみ」に左右されていては、公平な行政、政治ではない。
私は「唯一しがらみのない」候補者として市長選を戦ったが、皮肉にも「しがらみのなさ」が敗因だったのかも知れないと思わずにはおれないのである。
私が知っているガリバーは幼稚園の時の記憶なんですが(笑)
新しい市長さまは当初から土木あたりと関係があったことが囁かれていた気がします。
市の人口が、若者が、増えたとて未だなぁなぁで政治家とつるんでいるジジババは健在です。
どちらも何か「得」することがあるんでしょうよ。
私みたいな若造はさらにさらに蚊帳の外です。
正直なところ「こんなだから政治家ってのは大嫌い」です。
だからガリバーには公的機関という小人に囚われず、強い大男でいてほしいです。
頑張って!
長岡京市の大畑さんの選挙応援に行って(此処には嫁いだ娘もいれば、その親戚など私の知っている方たちが多くいたので、気合いを入れて応援に行ったのです。)その後の反応を、娘が怒りながら言うのを聞いて、驚きました。
「しがらみのない人では、何も出来ないよ。そんな人ではダメだ。」と言うのが、親戚中の答えだったというのです。
娘が言うに「自分たちは、誰ともつながらずに、何も知らないくせに、そんなことを得意げに言う!馬鹿じゃないか?」と怒っていたのですが、選挙に関係ない普通の人の反応が、そういうものだと知って、日本人の感覚を再確認した次第です。
市民派のキャッチフレーズを、もっと分かり易く、考え直さねばならないのかもしれませんね。
私は、いわゆる「裏日本」に引っ越してきて、
また母になったこともあって、
今まで身近でなかった政治が、切実に身近な問題になりました。
まず第一に、病院、医者の不足、作って欲しい道路がたくさん(通学に歩道のない県道しかなかったり)、子供が遊ぶ公園がないこと、、、、
まだまだたくさんあります。
特に、子供が大きな病気や怪我をしたら。
ダンナと別居して、表日本の病院に入るしかないのです。
出産の場もどんどん減っています。
とてもいいところで住むには最高なのに、
命を守る大切な部分で地方は不公平を感じますね。
こっちの人は、政治だけに頼らずに自分達で何とかしようと動いていて、ある程度は実現したりしてますが、
最後は政治の力がないとどうしようもないことが多いです。
そう考えた時、
誰が早くお金を引っ張ってこれるか、実現することができるか、
を考えてしまいます。
そうなると、市であれば県、国と太いパイプのある人が望ましい。
実際には、必要でないものができたり、無駄遣いとしか思えないものがあったり、という負の部分があるようですが。
それでも、少しくらい悪いことがあっても、切実な問題がクリアーになるなら、という思いが正直なところです。
間違ってるかもしれない、という思いもありながら、こちらに来てそう思っているのが事実です。
どう思われますか?