先日大阪に行った際に、ご本人からご案内をいただいていた、知人の西村公泉氏の「天邪鬼は無邪気」と題した木彫展を難波高島屋の美術画廊に見に立ち寄った。
彼は東京藝術大学大学院彫刻科を卒業し、研究生も修了した作家なのだが、有名な仏像彫刻家でもあった父、西村公朝氏の息子でもあり、僧職の立場もある仏師のひとりなのだが、彼の作品は従来の仏さんを彫る仏師とはちがうユニークな独特の作品を生み出しているアーチストでもある。
今回の天邪鬼を題材とした木彫の彫刻作品の全てが青空に遊ぶ童子として彫られていて、私が見た感想としては何だか木彫のガンダムかと思う作品から、キントン雲に乗った孫悟空の如き姿かと見間違える様な作品もあって、自由闊達に大空を飛び回る「悪餓鬼」とでも言うべきヤンチャな子供の姿がたくさん作品として展示されていた。
それぞれの作品に表現されている天邪鬼は、一輪車に乗っていたり、サーフボード、バイク、自転車、縄跳びなどの遊びをしている無邪気な顔立ちの子供たちばかりで、それぞれの童子には天を自由に飛べる魔法の羽衣とでもいうべき、布切れのようなスカーフの様なものがついていて、本当に大空を夢見て飛んでいるような作品ばかりだった。
しばらくの間、久しぶりにお会いした作者の西村公泉氏と会場でお話ができたのだが、最近の子供たちはあまり自由闊達には遊んでいない様だし、いじめ問題がクローズアップされているが、多くの友達との人間関係などが少なく、自分勝手とでも言うべき自分の世界に閉じこもっているケースとが多いのではとの思いを感じ、もっと大胆に子供らしく「悪餓鬼」風に遊ぶことが重要ではないかと話したのであった。
幼い時からインターネットや携帯、テレビゲームなど、デジタル機器が回りにあって、自由にそれらを利用したり活用して遊んだり、ゲームしたり、情報集めをしたりと本当に現代の子供は物知りかも知れないが、肝心要の他人の心や気持を察っしたり、おもんぱかったりすることが経験的に少なく、いざと言う時に相手の気持ちや思いをイメージしたり、配慮したりすることが苦手なのではないだろうかと思うのである。
今日も職場で何故か、「やんちゃ」とか「おてんば」という少年、少女時代の話になって、自分自身の幼稚園、小学生の頃を思い起こしては、間違いなく「やんちゃ坊主」と言われていたのだろうと思ったのだが、大切な幼少期にやんちゃやおてんばをしていなかった少年、少女が促成栽培の如く大人になってしまうと、とっても危うい成人になるのではないかという思いがしてならないのである。
西村公泉氏の作品作りには、故人となられた父公朝氏が夢でたびだひ登場するらしいのだが、彼は偉大な仏師であった公朝氏との対話を通じて、童子の姿をした新しい姿の仏像作品として世に送り出す仕事をしていると思うのだが、私自身も常に子供の如く素直になる心を大切に、仏心かキリストの想いかは知らないが、他人にしてほしいと思うことを他人にせよという教えと共に、無邪気に天邪鬼な日々を送りたいと、公泉氏の作品に触れて、再び思ったのである。
彼は東京藝術大学大学院彫刻科を卒業し、研究生も修了した作家なのだが、有名な仏像彫刻家でもあった父、西村公朝氏の息子でもあり、僧職の立場もある仏師のひとりなのだが、彼の作品は従来の仏さんを彫る仏師とはちがうユニークな独特の作品を生み出しているアーチストでもある。
今回の天邪鬼を題材とした木彫の彫刻作品の全てが青空に遊ぶ童子として彫られていて、私が見た感想としては何だか木彫のガンダムかと思う作品から、キントン雲に乗った孫悟空の如き姿かと見間違える様な作品もあって、自由闊達に大空を飛び回る「悪餓鬼」とでも言うべきヤンチャな子供の姿がたくさん作品として展示されていた。
それぞれの作品に表現されている天邪鬼は、一輪車に乗っていたり、サーフボード、バイク、自転車、縄跳びなどの遊びをしている無邪気な顔立ちの子供たちばかりで、それぞれの童子には天を自由に飛べる魔法の羽衣とでもいうべき、布切れのようなスカーフの様なものがついていて、本当に大空を夢見て飛んでいるような作品ばかりだった。
しばらくの間、久しぶりにお会いした作者の西村公泉氏と会場でお話ができたのだが、最近の子供たちはあまり自由闊達には遊んでいない様だし、いじめ問題がクローズアップされているが、多くの友達との人間関係などが少なく、自分勝手とでも言うべき自分の世界に閉じこもっているケースとが多いのではとの思いを感じ、もっと大胆に子供らしく「悪餓鬼」風に遊ぶことが重要ではないかと話したのであった。
幼い時からインターネットや携帯、テレビゲームなど、デジタル機器が回りにあって、自由にそれらを利用したり活用して遊んだり、ゲームしたり、情報集めをしたりと本当に現代の子供は物知りかも知れないが、肝心要の他人の心や気持を察っしたり、おもんぱかったりすることが経験的に少なく、いざと言う時に相手の気持ちや思いをイメージしたり、配慮したりすることが苦手なのではないだろうかと思うのである。
今日も職場で何故か、「やんちゃ」とか「おてんば」という少年、少女時代の話になって、自分自身の幼稚園、小学生の頃を思い起こしては、間違いなく「やんちゃ坊主」と言われていたのだろうと思ったのだが、大切な幼少期にやんちゃやおてんばをしていなかった少年、少女が促成栽培の如く大人になってしまうと、とっても危うい成人になるのではないかという思いがしてならないのである。
西村公泉氏の作品作りには、故人となられた父公朝氏が夢でたびだひ登場するらしいのだが、彼は偉大な仏師であった公朝氏との対話を通じて、童子の姿をした新しい姿の仏像作品として世に送り出す仕事をしていると思うのだが、私自身も常に子供の如く素直になる心を大切に、仏心かキリストの想いかは知らないが、他人にしてほしいと思うことを他人にせよという教えと共に、無邪気に天邪鬼な日々を送りたいと、公泉氏の作品に触れて、再び思ったのである。