ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

孤独と個人情報

2012年03月22日 | 感じたこと
 最近、やたら孤独死や高齢者の孤独感についてのレポートや報道が多い気がするのだが、やはり東日本大震災や原発事故による放射能汚染の不安からの避難生活を余儀なくされた方々の実態の中にも、多くの実例が潜んでいるからだと思うのである。

 人間は本来誰もが孤独感を抱くことがある動物だと思うのだが、成長の過程で多くの友人や知人との出会いを経験して、家族だけではない、親友や仲間を意識しつつ大人になって行くのが普通だとも思うのだが、如何せん大人になっても世間は冷たくて自分などに関心を寄せてくれる人などいないと自らの孤独感を自嘲しつつ語る様な人もいるのである。

 しかし、本当に高齢まで健康に恵まれて生きて行ける人たちにとっても、誰にも手助けを求めず、独りで今まで自分の力だけで生きて来たと豪語する人も中にはいると思うのだが、やはり多くの人たちのお陰で自分の生命はもとより現在に至る生活が出来ているのであることは明らかな事実だと、年を取ると誰もが感じていることではないだろうか。

 しかしである。1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災の経験から、関西地域に住まう私たちはより一層、人は人との関わりの中で生きさせていただいているという実感を感じたし、関東、東北地方の人たちだけでなく、昨年3月11日に発生した東日本大震災と大津波、そして福島原発事故という大災害を通じて、多くの人たちが自分の命や現在の生活が、多くの人との関わりと支えで成り立っていることを実感したのではないかと思うのである。

 でも、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」と諺の如く言われている様に、人間はまた傲慢にも、誰の世話にならなくても自分は生きて行けるし、現に孤独でも生きているという自問自答を繰り返してしまう生き物の様である。

 最近の多くの孤独死や幼児や自分の年老いた親や兄弟を虐待死させる事件の多発の因果関係の背景に、何とも恐ろしい自分勝手な生き様が見え隠れしていて、何ともニュースを観たり聞いたりして、ちょっとした人間不信にも似た憤りとも言える違和感を感じてしまうのは私だけではあるまいと思う。

 今朝のNHKの連続テレビ小説、「カーネーション」で、主人公の小原糸子(夏木マリ)が病院でのフッションショーを企画しつつ、入院中の幼い頃からの腐り縁の吉田奈津(江波杏子)にも何とかショーに患者の一人として出て貰おうと思っていたが、ある日彼女は退院してしまっていることを知り、病院で彼女の連絡先を尋ねたところ個人情報だからお教え出来ないと断られる場面があった。

 ドラマの今後はどうなるかは知らないが、最近は地域の自治会、すなわち昔風に言えば「町内会」の役員や福祉関係者にとっても、自分たちの住む近所のお年寄りや高齢者の一人住まいの方には気をつけて見守りたいし、またいつ何時自然災害に見舞われるかもしれないので、緊急時に助けられる様にと、ご自宅での休んでおられる部屋やご家族やご親戚の有無などについて事前に登録していただきたいとの熱心な要請に対しても、行政窓口はもとより、個人宅への訪問をしても「個人情報」との返答で教えて貰えない場合があるとの話を聞くと、何ともうら寂しい思いすらするのである。
 
 最近は何でもかんでも「個人情報だから」という返答でそっけなく断ったり、相手の方の好意や心配をも拒絶してしまうという紋切り型の対応が多くなっていて、せっかくの地域でのお年を召した方々への配慮や見守りすら、十分な情報や個人の健康状態をも含む実態が不明で、孤独死されていても長い時間気づかれないという悲惨な例すら出ているのである。

 人間は決して自分が世話になろうとしていなくても、多くの家族や親しい人、時には全く見ず知らずの人の世話や気遣いの中で生きているのだから、もつと気楽に「世話になったらいい」のではないでしょうか。
コメント
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