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ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

大きな半円弧の虹。

2009年02月20日 | ガリバー旅行記
 今日、仕事の現場から事務所に帰る途中だったが、東の空に久しぶりに「大きな半円弧の虹」を見た。

 朝から空の雲行きは怪しい感じで、降ったり止んだり、また日差しが温かく感じる時間もあったが、3時頃からまた雨模様になって、車のワイパーを動かしながら東に向かって走っていたら、前方にとんでもなくデカイ半円弧を描いた「虹」が出ていた。

 何だが、とっても得した気分、幸せな気持ちになれた。

 昨年の秋から、テレビも新聞も麻生首相も、未曾有の大不況だとか100年に一度の不景気だとか言っていて、あまり明るいニュースが乏しい2009年のスタートであった。

 一ヶ月と20日経った今日、なんだか気象現象としての自然の形なのだろうが、「虹」が見事な半円弧を描いて、地平線から地平線へと見事に輝いていて、その色合いも七色とは形容しがたいが、きれいなグラテーションの色合いで約5分間ほど楽しませてくれたのである。

 特別に暗かったわけではないが、平凡に一日の仕事を終えて帰路につく時間だったので、なんだかんだの理屈抜きに「幸せの虹」といった感じてフロントガラス越しにしばらく眺めながら走った。

 一瞬、携帯のカメラで撮影しようかとも思ったが、自分の目に焼きついた映像を心にとどめておけばいいやという気持ちになったので、あえてシャッターは切らなかった。

 夕刻以降、金曜日の定番である「八百屋ガリバー」としてお客さんのお宅を訪問販売しながら、何人かの人に「虹を見ましたか?」と尋ねてみた。

 三、四人の女性が「見た」と言われたが、室内におられたり仕事中だったために全く気づかなかったという方の方が多かった。

 中には先週にも「大きな虹を見た」という若いおかぁさんもおられたので、「虹」そのものは結構出ているのだろうと思うのだが、とっても偶然だとは思うが、その時間にその方角の空を見上げるチャンスにめぐり合えなければ、見ることができない幸運は間違いなくあるのだ。

 私が一番感動した「虹」は、十数年前に中国内蒙古の草原で見た「でっかい虹」なのだが、翌日の私たちのメイン料理のための「羊」を遊牧民から一頭買い付けてトラックの荷台にロープで結わいて、その羊を何人かの仲間と運んでいた時だった。

 その大切な私たちのご馳走になるはずの「羊」が草原の窪みにトラックがつんのめった時に、突然ロープが解けて、その羊が草原へとジャンプし着地して逃げたのであった。

 その後、我々は事の大事に気がついて、十人ほどが知恵を絞って逃げた羊を追って二時間ほど捕り物帳を繰り返した挙句、漸く群れの羊の中に、その逃亡犯を追い込んで漸く捕まえて観念して四つ足を縛られた羊を再度肩に担いで帰ろうとした時に見たのが、美しく壮大な「大きな虹」だったのである。

 自然現象のひとつではあるが、見る人や仲間たちの気持ちで、同じ虹でも全く違った印象や景色として見えることもあるのだろうが、今日の四時前の大きな半円弧の虹との出会いには、久しぶりに幸せな感動を覚えたものである。

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「トイレまんだら」

2009年02月12日 | ガリバー旅行記
 今日は友人から借りた単行本で、舞台芸術家の妹尾河童さんの著作、「河童が覗いたトイレまんだら」を読み終えたので、ここに紹介する。

 昨年夏に私がネパール、インドに一人旅すると言ったら、内モンゴルに一昨年一緒に行った友人が、この本を何故か私に面白い本があると言って貸してくれたのであった。

 たぶん、私自身は毎年夏に、内モンゴルへの「草原ゲルに牧民と宿泊し、乗馬を楽しむ旅」を企画しているので、大草原の中のゲルには当然トイレなんてものはなく、みんな思い思いの時に、大草原の窪みや木の陰を探して用を足しているので、世界には多種多様なトイレ、すなわち便所があり、また日本人の家庭のトイレにも様々のものがあることを面白く覗いて描いた、この著作を貸してくれたのであろう。

 昨年の夏は中国、北京で大々的なオリンピックが開催されたため、私の夏の恒例の「内モンゴルツアー」を中止し、一人約半月のネパール、インドの旅を楽しんだのだが、安宿に泊まり歩いたのだが、なんとか゜トイレ」だけは付いていて、用足しには困らなかった。

 アジアの各地を好んで機会ある毎に旅したい私だが、今までタイ、フィリッピン、シンガポール、ネパール、インドと旅しても、内モンゴル草原での生活と用を足す、自然の姿を経験しているので、どんなトイレや用足しにも驚かないし、大丈夫なのであった。

 昔のヨーロッパ地方では、小も大も立派な建物から突き出した「便所」からジカニ下の路地や草地に直接落としていた時代が長かったらしく、ヨーロッパの路上はとても不衛生な状態で臭かったらしい。

 中世の時代まで、人間の下の始末は今のような衛生的な水洗便所などほとんどなく、汚い話だが「垂れ流し」状態で、豚や家畜の餌にするか、田畑の肥やしに一部使っていたことはあるが、ほとんどが野ざらしで乾燥したり蒸発する、自然な状態、つまり「ほったらかし」だった様である。

 この「妹尾河童さん」の「トイレまんだら」は、椎名誠、野坂昭如、岸田今日子、モレシャン、加藤芳郎、永六輔、タモリ、和田アキ子などの著名人の自宅の愛用されているトイレを拝見して、彼が精密なデッサンをつけて解説しているものなのである。

 食文化と言って、人間は口から食べることはよく話し研究もしているが、下から出す、つまり脱糞、放尿をすることについては、なかなか語ったり研究することは表ざたにはされていなかった。

 しかし、動物は必ず食べて出すわけで、口から入れる方の食文化やグルメが取りざたされるのであれば、お尻から出す方も大切であり、大っぴらには語ったりしにくいかも知れないが大切な生理現象であり、それを行う部屋や場所は一生の内で多くの時間お世話になる貴重な空間なのだから、大切にしなければならないものなのである。

 余談だが、最後に書かれていたトイレットペーパーについては驚いた。

 日本人の使用量は平均一日、男性が3.5m、女性はなんと12mにもなり、世界中の人間の中でトイレットペーパーを使っているのは約三分の一の人だけなのです。

 森林資源の無駄は割り箸だけではなく多くのトイレでも流されているのです。
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縁は異なもの、味なもの。

2009年01月12日 | ガリバー旅行記
 もうずいぶん正月気分も抜けた週末だったと思うが、日中でも肌寒さを感じる中、私の営む有機八百屋「やおやガリバー」が始動し、金曜日の夕刻から夜と土曜日は一日中、お客さんの家庭を移動販売形式で、今年最初の「初やおや」として回った。

 行く先々で、「おめでとうございます。今年もどうぞよろしく」と挨拶しながら、初荷よろしく初販売を繰り返していると、「ガリバーさん、ちょっと今年初めてやから、お茶でも・・・」とお客さんが誘っていただいた。

 いつも人参や蓮根が好評で買って下さるAさんは、私より少しご年配の品のいい奥様だが、誘われるままに玄関先に入ると、彼女がレイアウトしたと思える正月飾りに目が奪われた。

 小さな枯れ木の枝に余り布でこしらえた小さな丸い玉がいくつも吊るしてあり、その中になぜか金魚のような作り物がぶらぶらと遊んでいた。

 また何処かの施設の方の作品だという、手を合わせた小さな土製のお地蔵さんや童子が古い縦長の木製箪笥の上に飾ってあったり、廊下には竹で編んだランプシェードから淡い光が廊下と壁を照らしていたり、台所らしき入り口には古い着物の帯のごとき布がさりげなく暖簾のごとく垂らされていたりして、何とも趣のある空間を醸し出していた。

 そんな玄関先で、少し大きめの湯呑み茶碗に注がれた「ほうじ茶」を戴き美味しい和菓子を口にしながら、彼女の故郷である岩手の話やお正月らしさについてお喋りをした。

 その後、急いで車を走らせて別のお客さん宅でも「寒いからお茶でも飲んで行き」と、いつもの元気な奥さんが声をかけて下さり、お祝いの印の「昆布茶」を美味しく戴いた。

 いろんなお客様と「お正月をどう過ごされたか」など、お喋り好きな八百屋ガリバーは、どんどんと時間が遅れ、いつもの時間に顔を見せないので携帯電話に「来られますよね。まだですか」と催促のお電話をいただいた。

 次に訪ねたSさん宅では、いつもパンやチーズや美味しい食材についての話が盛り上がるのだが、今回も「ちょっとコーヒーでも」とお邪魔して約一時間、油を売ったのではなく、ユニークなパンピザと「獅子ゆず」の甘煮ステーキを食した。

 実はさっきもお茶を戴いてお喋りをしていたと話していると、「ひょっとして○○さん?」と、何と先ほど「お茶とお菓子」をご馳走になったAさんをご存知だったので、びっくりしたご縁を感じたのであった。

 また電話が鳴って、「こちらには何時頃来られますか?」とまたもや「待ってますよ」との連絡に慌てて席を後にして、お土産に戴いた「獅子ゆず甘露煮」の珍しい美味しいステーキを持って走った。

 これぞ、まさしく「縁は異なもの、味なもの」ではないだろうか。

 とっても美味しい食材や異なる料理を通じてのお喋りと食する楽しみは、何にも換えがたい幸せな「縁」である。

 「縁は異なもの、味なもの」って、こんな具合のことなのかなぁ。
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「翼をください」

2009年01月04日 | ガリバー旅行記
 正月三が日が「あっと言う間に過ぎた」と感じている人が多いのではないだろうか。

 忙しい日常生活とはうって変わった非日常的な「お正月三が日」は、実家や郷里に帰ってゆっくりされた方もいたことだろう。

 私たちにとっては実家に帰るというよりも「実家の母」を見舞うといった感じの「お正月」だったが、毎朝三が日だけに食する「お雑煮」、「お節」そして「お餅」という定番の「正月」を送れたことがとっても幸いと感じた。

 それにしても新しい年になると、「初○○」がつき物なんだろうが、今年の「初夢」は、皆さん如何だったでしょうか。

 毎年、正月の元旦の夜か二日の夜か、ひょっとして「大晦日の夜」、すなわち「元旦の朝」に見る「夢」が初夢なのか定かではないままに、楽しいお正月三が日が過ぎてしまうのだが、毎年「夢」に関しての話には、「空を飛ぶ」という、多くの人が願う願望のようなテーマが付きまとっている。

 何やら「空を飛ぶ夢」を見ると縁起が良く感じることが多いのだが、人間が素で飛べるわけはないので、歌や小説、ドラマと「鳥のごとき翼」を願うタイトルがつく創作が多くなるのだろう。

 今年に入ってからでも、名作の「翼をください」「翼の折れたエンジェル」をはじめとした昔のヒットソングを何度も耳にしたし、同名のドラマやコラボレーションの作品も過去に多く作られているようである。

 昨年暮れに久々に友人と行った「カラオケ」でも、私が歌える曲は少ないのだが、なぜか「風」や「翼」「旅」などをテーマにした歌詞がメインの曲ばかりだったように記憶している。

 人は何故に、ここまで「空を自由に飛ぶ」ことに魅力を感じ、「夢」にまで見るのだろうか。

 「夢占い」や「夢判断」による心理学的な推察はいろいろいされてはいるが、私は単純に「人類の進化」がそうさせると思っている。

 人類誕生に至る生物学的進化論によれば、人類の過去は「鳥」や「魚」と同類に達するのである。

 空や海を自由に飛び、泳げる、鳥たちや魚たちに人は今も憧れを抱きつつ、地球人として日々を、多くの苦しみや煩わしさの中で生きているので、せめて「夢の中」だけでも、生物学的進化の過程にあった「鳥」や「魚」になって、自由に飛び、泳ぎ回りたいのではないだろうか。

 そういう私自身も、今年の初夢は記憶していないが、「空を飛ぶ夢」が大好きであり、はっきりと確認したことはないのだが、一生懸命に両手をバタバタさせながら飛んでいる夢を見ることが楽しいのである。

 決して「大空を飛ぶ」には及ばなくても、地上から少し離れて眼下に人やき車を見下ろして飛ぶという技術は、夢の中では身につけて「飛んでいる」のである。

 ぜひ、夢の中だけでも飛べる、しっかりとした「翼」をください。

 この世の中を鳥瞰図を見るが如く、鳥のように飛び回ってゆっくりと眺めてみたいと思うのである。
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岡林信康

2009年01月02日 | ガリバー旅行記
 年賀状は正月、元旦の楽しみだが、今日二日も年賀状が届いていて、学生時代に同窓生だった、あの「フォークの神様」岡林信康氏からの賀状も混じっていた。

 彼とは同志社大学神学部に同時入学した縁で、しばらく行動を共にしたことがあり、彼がボクシング部に入部し姿を見せなくなった後、一回生の夏休みの終わった秋に、私にとっては衝撃的な彼の体験話が、大げさに言えば、今までの自分の人生の半分に影響を与えたと言っても過言ではないきっかけであった。

 あの学生時代に右も左もわからないまま、若さの勢いで取得した運転免許証を活かして友達から車を借りて、岡林信康の実家である近江八幡のキリスト教会に夜道、しかも雨降る国道八号線を四人で飛ばしたことがあった。

 当時、同志社大学の創立時に「熊本バンド」と呼ばれた若きキリスト教徒たちが強い情熱で行動していたことを知り、我々は「京都バンド」だと粋がって、彼の親父が牧師を勤める教会の礼拝堂で、四人で祈ったことを思い出した。

 彼の年賀状は、自筆の独特のユーモラスなイラストで、どっしりとした乳牛が描かれていて、岡林信康自身と思われる麦わら帽子のおっさんが牛の尻を押していて、牛は草を食みながら「アセラナイ、アセラナイ・・・」と笑っている。

 そんな青春時代の友でもある岡林信康が、今晩のNHK衛星放送のフォーク特集番組で、「山谷ブルース」、「チューリップのアップリケ」、「君に捧げるラブソング」と和太鼓、尺八、三味線をフューチャーしたのりのいい曲を演奏していた。

 さすが還暦を過ぎた岡林信康なので、声や動きに迫力は感じなかったが、独特の照れ隠しの様な喋りと観衆とのやり取りは健在で、次はこのNHKホールで、「紅白でお会いしましょう」と滑っていた。

 とにかく、この岡林信康君が大学一年生の夏休みに、東京の底辺労働者の町、山谷に行って経験してきたことを、後期の始まる前の京都御所の芝生の上で一時間ほど聞かされたことが、大きな私の人生での「ガリバー旅行記」の始まりとなったのであった。

 真面目な学生だった私は、この話に触発されて後期試験が終わった二月のある日の夜行列車で東京の山谷を目指したのだった。

 革靴に学生服姿のままの背の高いひょろひょろの青年が、翌日の早朝、山谷の涙橋の電停前の路上に「立ちんぼ」として仕事を求めて以来、一ヶ月半近い「山谷のドヤ暮らし」を経験したのであった。

 岡林信康氏との縁はここに始まり、その後私が音楽業界で働くようになったのも、実は彼の所属したフォーク系の音楽事務所に友人の誘いで声をかけられて採用されたのがきっかけだったのである。

 あれから四十年近くが経って、今彼の歌声をテレビで改めて聞いて感慨と共に、大きな出会いが僕を今まで生かしてくれていたことをも改めて感じた正月二日の夜だった。

 岡林信康が歌う、「友よ」をその当時は真剣に歌っていた自分を思い出した。

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「モンゴルの里」

2008年12月04日 | ガリバー旅行記
 皆さん、日本国内にある「モンゴル」に行ってみませんか。

 私の20年近い友人でもある、中国内モンゴル自治区赤峰市出身のスーチンドロンさんがオーナーを務める、兵庫県篠山市草山温泉にある「モンゴルの里」が、関西圏にある素敵な「モンゴル」なのです。

 私自身が1988年に初めて、中国北部に竜のごとく横たわった形の「内モンゴル自治区」に初めて旅して以来の縁で、毎年のように「内モンゴルへの旅」を繰り返しているうちに、当時京都精華大学に留学していた「スーチンドロンさん」と知り合ったのでした。

 彼は、東大阪出身のちずかさんと知り合って結婚し、日本に住むようになって、大阪京橋に近いところで、モンゴルレストラン「モンゴル・オルゴ」という名の素敵なレストランを経営したのですが、10年ほど前から丹波・笹山の奥座敷、草山温泉で。オータニ・「モンゴルの里」を経営しているのです。

 ちょっと山陰線、篠山口からは遠いのですが、自家用車で行けば、京都、大阪、神戸からも二時間足らずで行ける、素敵な「モンゴル」を体験されてはいかがでしょうか。

 この「モンゴルの里」には、宿泊体験ゲル、生活体験展示ゲル、モンゴル広場があるのですが、メインはなんといっても、手軽に楽しめる「大型モンゴルゲルレストラン」と「草山温泉・観音湯」ではないでしようか。

 ゆったりとした休日の半日を、ちよっと遠出する気分でドライブされたら、とってもいい「モンゴル体験」ができると思います。

 それに加えて、最近、スーチンドロンさんの日本で生まれた息子さん、ハンフ君が親父の故郷デアル、中国内モンゴルの赤峰市に一年数ヶ月滞在して、モンゴルの伝統的音楽である「馬頭琴」をマスターシ、弱冠11歳の小学生ながら、モンゴル名、ス・ボイントクスで「モンゴル・オルゴ」というタイトルの馬頭琴演奏のデビューCDを製作し、発売されたので、運良ければ、お店で彼の演奏を生で聞くこともできるのです。

 素朴な山間の緑豊かな温泉郷「草山温泉・観音湯」と共に、日本人のルーツとも言われている「モンゴル民族」の伝統と文化を大切にした、スーチン・ドロンさんの「モンゴルの里」がただずんでいます。

 モンゴル人が作った「小さなモンゴル」が、兵庫県、篠山市にあるのです。

 ちなみに、おなじみの「ゲル」は、羊の毛からとったフェルトと柳の枝を骨組みにしたモンゴル式移動テントですが、中国語では「包」、パオといい、食べ物にも多くの「包」があるように、私たち人間を温かく包んでくれる優れものです。

 どうぞ、寒い冬の季節、ユーラシア大陸に歴史的騎馬民族、遊牧民族として伝統的に生きてきた「モンゴル民族」の伝統と文化の味わいを、ぜひ一度味わってくださいませ。
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懐かしき「室蘭」

2008年11月09日 | ガリバー旅行記
 昨日のことだったが。朝からの八百屋の営業で走り出した愛車「デイァス・クラシック」の前を走る車を何気なく見て驚いたのである。

 ここは京都なのに、北海道の「室蘭」ナンバーの自動車が偶然にも走っているではないか。

 日頃、やはり京都府の南部に住まう私にとっては、ほとんどが「京都」「大阪」「なにわ」「和泉」「滋賀」「奈良」といった近県や近くの見慣れた自動車ナンバーの自動車に囲まれているので、めったに「那覇」や「旭川」ナンバーには遭遇しないのが当たり前である。

 先日は、陸運局ごとのナンバープレートとしては、県境を初めて越えた「富士山」ナンバーがスタートして、富士山にちなんだ「3776}や「2255」の番号を取得するドライバーもいて話題となっていたが。

 実は、「室蘭」ナンバーに出会って、なぜに私が強く感動したのかと言うと、もうずいぶん昔となってしまったが、大学時代の今で言えばインターンシップ制度の様な「研修」として、北海道の室蘭市に一ヶ月余、夏休みを過ごした経験があったからである。

 歳は二十歳になったばかりの青二才の青年にとって、憧れの北海道で研修体験とは言え、仕事としての責任とともに初めての一人暮らしをすることとなった「思い出の町」が「室蘭市」だったわけである。

 その当時は「室蘭市知利別町」という場所に研修先があって、近くの室蘭工業大学のキャンパス近くに下宿生活をしながらの一ヶ月半であった。

 今でも瞼に焼き付いているのは、地球岬となづけられた自然豊かな太平洋に突き出た海岸や小高い山と田舎町のちっぽけな繁華街、そして当時は新日鉄室蘭の企業城下町としての鉄鋼町らしい職員住宅街である。

 夏の最中ではあったが、少し寒い日もあると聞いて、初めての買った「背広」と共に「セーター類」も荷物に入れて、国鉄の東室蘭駅に降り立った時のことは鮮明に覚えている。

 また下宿近くに小さな定食屋とでも言うべき店があって、時折の夕食と喫茶に立ち寄っていたのだが、大学近くにあり、店内には可愛い姉妹がカウンターの中にいて、心時めかせて通ったものだった。

 一ヶ月余の研修期間中に小さなエピソードではあるが、思い出深い青春の一ページといっていい出来事や若き日の少し恥ずかしくさえ思える出会いもあった。

 しかし、何ゆえ若き実直な青年であったがゆえに、初恋ではないが実ることもなく「きれいな思い出」として思い出すことができる光景があるのである。

 それから二十数年後、その室蘭を子供たちの北海道を舞台に企画した「北海道冒険旅行」の準備で訪れたことがあり、淡い思い出との再会も果たした町、室蘭なのであった。

 偶然出会った「室蘭ナンバー」の自動車から、私の青春の一ページが、こんなにもリアルに、また懐かしく思い出せるなんて幸せなことであった。
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夢のログハウス。

2008年10月09日 | ガリバー旅行記
 今晩、日本サッカー対UAEの試合をテレビ観戦していたのだが、なんとまたや後半香川の先制ゴールの数分後に相手にゴールを決められて、その後も一方的にゴールチャンスが何度もあつたのに、的確性を欠いて1対1の引き分けに終わって、六日後の2010年南アフリカワールドカップへのアジア予選、ウズベキスタン戦が大丈夫かと不安を覚えた。

 なんとも忸怩たる思いで、テレビのチャンネルを回していると、なんと懐かしい「ロッグハウス」作りの師匠である「平林定男」さんが紹介されていたので、目を留めた。

 彼は私が子供たちの遊び場のリーダーとして仕事をしていた当時に、信州は穂高の見える山里で、ロッグハウス作りの手ほどきを受けたことのある懐かしい師匠だつたのである。

 彼も私もたぶんまだ30代だった頃だったと思うが、憧れのロッグハウス作りのためのチェーンソーワークを一から教わったのである。

 夏から秋にかけての約一ヶ月近くを信州の人里離れた現場でテントを張って自炊、寝泊りをしながら、毎日、毎日、平林さんが発注されていたロッグハウス作りの現場で指導を受けながら、慣れないチェーンソーを持って練習を重ねて、大きな杉丸太を組み込むためのチェーンソーワークを続けたのである。

 その約一ヶ月間の生活が、今晩のテレビで紹介された「チェーンソーの達人」、平林さんとの再会とでも言おうか、テレビを通しての再会で蘇えって来たのである。

 小さなテントを持ち込んでの約一ヶ月間の研修で得た知識と技術は、その後京都に帰ってから取り組んだ「小さな丸太小屋」作りで少しは生かせたのだが、その丸太小屋は、野外活動を行うための子供たちの備品や道具の倉庫として、その後約30年間は使用されたのだが、生活することのできるロッグハウスではなかった。

 あれ以来、私は「夢のログハウス」をいずれ建てたいと思っていた時期もあったのに、それからの仕事や生活のためにほとんど忘れていたと言っても過言ではない。

 その経験と思い出が今晩の平林定男さんの元気なチェーンソーワークぶりでよみがえってきて、大変うれしくもあり、楽しい記念すべき思い出として再び強く思い出させていただいたのである。

 チェーンソーの使い方、技術を学ぶと共に、信州の秋を楽しみ、コンサートや皆で囲んだバーベキューパーティなども克明に思い出された。

 あの頃抱いていた「夢のログハウス」は、不登校や引きこもりなども含む、現代の学校に馴染めない児童、生徒たちのためのフリースクール的学びの場を、京都郊外の田舎に土地を借用してでもログハウスとして建てて、週末を中心に運営したいと思っていたのである。

 そのために中型二輪の免許も取得し、あるおじいさんにも土地の提供を約束していただいていたのだが、おじいさんが亡くなられ、私の夢も途切れてしまったのであった。

 違った形でも、子供たちとの関わりを大切にした居場所づくりの大切さを再び思い出させていただいたログハウス作りの達人、平林定男さんであった。
 
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背が高い。

2008年10月02日 | ガリバー旅行記
 今朝、通勤途中の車のFMラジオの話題が「世界各国の平均身長」についてであった。

 私自身、戦後の団塊の世代のおっさんとしては背が高い方で、約182センチあるのだが、年齢を重ねると「縮む」というから、ぼちぼち背が低くなりつつあるかもしれないが、「ガリバー」というニックネームは、子供たちの遊び場活動のリーダーをしていた頃からの「大きな存在」しかも「背が高い」イメージからだったので、背が低くなるとガリバーではなくなるかもしれない。

 ともかく、世界で一番背が高い人物は、現在ではモンゴル出身の男性で236センチでギネスブックにも載っているそうですが、彼の昨年七月の結婚式に招かれたのが、身長73センチの同じくモンゴル人の何平平さんという大人としては世界一背が低い男の人だったので、世界的なニュースとして伝わった。

 かつて世界一背が高かった人は、アメリカ人のロバート・ワドローさんで身長272センチだったそうである。

 私も背が高い方なのだが、実際に会った?というか、見た一番背が高かった人としては、昔バスケットボールの松下電器に所属していた「岡山選手」で、新大阪駅のプラットホームで偶然すれ違ったのだが、たぶん公称235センチと言われていたドデカイ人であった。

 日本人の現在の男女の平均身長は、男子171センチ、女子160センチだそうで、戦後間もない頃と比べれば5.6センチも伸びているそうです。

 中国は日本の平均より各1㎝低く男子170,女子159、韓国は逆に男子173、女子161で日本より少し高いようです。

 北京オリンピックなどで活躍したスポーツ選手の中には、際立って背が高い選手がいますが、中国の女子バレーのチョウヌイヌイ選手が196cm、韓国のK1選手チェ・ホンマンさんは218cmあるそうです。

 一方、北朝鮮の平均身長が男子165、女子154となっており、食糧不足による栄養不足が原因だろうと推察されますが、何故かアメリカ大統領選挙を前にした共和党のマケイン候補が、この事実を公開討論会で持ち出したらしく、全く前後関係がわかりませんが、必要な議論なのかどうか意図が不明です。

 世界一の平均高身長の国は、現在はヨーロッパ諸国だそうで、ドイツが男子180、女子168で、トップは意外にもオランダで、男子182.5、女子170.5となっているそうです。

 アメリカ合衆国が一番だと思っていたのですが、平均身長は現在男子175cm、女子162cmと日本との差は、約4センチしかないのです。

 いつのまにか、でかいアメリカ人のイメージしかなかったのですが、日本の食生活の欧米化も手伝って、そんなに差のない平均身長に近づいているのですね。

 背が高くても、ちっとも偉くはありませんが、背の低い人にとっては、「も少し背がほしい!!!」は、切実な悩みでもあり、願いだろうと思います。
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小さいことはいいことだ。

2008年10月01日 | ガリバー旅行記
 先週の日曜日、久しぶりに時間ができたので、近鉄奈良線の八戸ノ里駅南徒歩2分にある「宮本順三記念館・豆玩舎ZUNZO(おまけやズンゾ)」に出かけた。

 皆さんは宮本順三さんをご存知だろうか。

 ご存知ない方も、あの「グリコのおまけ」に触れたことりのない方は少ないと思うが、故人となられた「宮本順三さん」は、そのグリコのおまけ係をグリコに就職し終戦後までされていた画家でもあるのである。

 私は「グリコのおまけ」の創始者でもある宮本順三さんの生前に、「おもちゃ館」が最初に誕生した大阪今里でお会いしたことがあり、わが町京田辺にお住まいのご長女のご家族とも親しくさせていただいた関係で、身近な「小さな博物館」として応援していたのである。

 現在は東大阪市の八戸ノ里に移転した「豆玩舎・ZUNZO」の開館10周年記念の講座と「草原コンサート」と題した内モンゴルの馬頭琴と歌の共演を聴きに出かけたのである。

 小さなおもちゃと世界の祭りをテーマにした数多くのコレクションと作品がところ狭しと並ぶ、小さな博物館は、おまけデザイナー、おまけ博士として知られた「宮本順三さん」の足跡とメッセージにあふれていて、とっても楽しい空間である。

 彼のひとつのテーマが「小さいことはいいことだ」で、グリコの広告課おまけ係時代に、「小さなねずみが大きくなると子どもは喜びますが、大きな象が豆粒になるともっと喜びます。上等のおもちゃなら、百貨店やオモチャ屋にいくらでも売っています。金では買えない小さなおもちゃをつくろうと思うたんです。」と語っている。

 ご本人も大正生まれの小柄な方だったが、大阪に生まれて現在の天王寺高校を出て、彦根高商(現滋賀大学)に進学した後、好きな絵画を学ぶために中之島洋画研究所講習生となり、その後はじめての海外旅行で中国を旅されて以来、世界各地の祭りに魅せられて、各地を歩き、多数のコレクションと共に、祭りをテーマに絵画を描かれたのである。

 その絵画は祭りの様を描いたものが主で、多数の人たちが描かれ、動きがあり、個性的な人物と共に素朴な暖かさが伝わってくるものばかりである。

 彼の作品は1集から4集の画集に収められている作品だけでも280枚もあり、内161枚が祭りで、69枚が踊りである。

 外国の絵がその内、144枚あり、画集に描かれた作品の国を探ってみると、なんとアジア、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリア、アフリカと47カ国に及んでいて、大変な旅好きの人であったことがわかる。

 とにかく「グリコのおまけ」の担当者だっただけあって、「小さいことはいいことだ」と集められた「小さなオモチャ」や「小さな民族的産物や遺跡の欠片などが、まだまだ展示しきれないほどあるらしいので、展示される日を待っていると思われる。

 ところで、私が記憶している「おまけ付グリコ」は10円で20粒だったと思うのだが、現在は何と68円で5粒となっているらしい。
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