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ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

「日本人のルーツ」

2009年07月18日 | ガリバー旅行記
 高校時代の「地理」の先生が「バイカル湖は地球のヘソ」と言われていたのを今も覚えています。

 ロシアのイルクーツクという都市の近くに「ヘソのように」存在する「バイカル湖」は、地球上で一番深度がある湖だそうで、一度は行ってみたい場所のひとつでした。

 縁って私自身は1988年以来、中国の内モンゴル自治区へ行く機会が毎年のように出来て、ここ21年間にたぶん23回は内モンゴルへと足を運んでいることになります。

 そのきっかけになった「内蒙古地球学校」と称するプロジェクトの準備段階から、なにやら「モンゴル族」が私たち日本人のルーツではないかと思うようになっていました。

 例の「蒙古班」と呼ばれる、赤ちゃんのお尻にある「青いしるし」が、いかにも日本人がモンゴル族に近い存在だということがわかります。

 ある人から借りた「日本人の源流」と称する松本先生という医学博士の著書を読んでいると、何と「バイカル湖」のほとりに住む「ブリヤートモンゴル族」の人たちの血液型分布が、日本人の血液型分布に一番近いことが分かりました。

 それ以来、私自身の内モンゴル行きは、まるで「お盆の里帰り」のようになっていて、毎年夏に「この指たかれ」方式で友人、知人だけでなく、新聞やインターネット告知なども含めて、毎回数人から十数人と行く「モンゴルツアー」が続いたのでした。

 今年は、ついに内モンゴルからの留学生で、現在名古屋大学大学院で研究生として頑張っている古くからの友人のB君と、あの憧れでもあった「バイカル湖」周辺のブリヤートモンゴル族に出会うための旅にでることになったのです。

 NHKスペシャル「日本人はるかな旅」では、2001年のDNA鑑定の結果、「日本人はバイカル湖畔のブリヤート人との共通点が非常に多い」とされ、朝鮮人、南中国人、台湾人などと共通する特徴を持ったのが各一体だったのに対して、ブリヤート人は30人近くが共通していたという。

 あるワークショップ、「縄文人はシベリアからやってきた」でも、縄文人の20数体のミトコンドリアDNAの内、17体がシベリアのバイカル湖周辺に住むブリヤート人と同じだということがわかったとされている。

 現在のブリヤート人は、ロシア、モンゴル、中国に住み、ロシア連邦内の人口は43万6千人と少ないが、ブリヤート共和国の全人口の約1/4を占め、特にバイカル湖の東側に住む者が、固有の文化と伝統を重んじた生活を続けているが、西側の住民はロシア人との混血化が進んでいるらしい。

 ブリヤート族の住居はモンゴル族の住居「ゲル」にあたる木造のユルト(ロシア語の円形移動式テント)で、ブリヤート共和国の国旗は、モンゴル国旗にも歴代採用されているソヨンボからとった天体を表すシンボルがあり、自治州の旗にも天体や太陽が描かれていて共通している。

 「日本人のルーツ」を探る旅が近づいている。
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『モンゴル』に拘って。

2009年07月09日 | ガリバー旅行記
 夏が近づくにつれて、私も「今年の夏休み」は、どこへ行こうかと思う季節となった。

 毎年の様に「モンゴルツアー」と称して、中国・内モンゴルへの旅を縁あって続けてきたけれど、昨年は中国北京オリンピックの騒動を避けて、久しぶりの一人旅で、念願のネパール、インドへと旅立った。

 今年はといえば、内モンゴルからの留学生B君と共に、日本人のルーツでもあると思っている「モンゴル族」が世界で一番多く住んでいる「中国・南モンゴル」から、あの朝青龍たちモンゴル人力士たちの出身地として名高き「モンゴル共和国」、そして、地球の臍と教わった、旧ソビエト連邦、現ロシア連邦のバイカル湖の周辺に住む「ブリヤート」と称されるモンゴル族を訪ねる旅を計画中である。

 ここ一週間の世界的なニュースは、先進国首脳会議というサミットがイタリアで開催されていることよりも、中国の北西部に位置する「親共ウイグル自治区」で起きた漢族とウイグル族との騒乱ではないだろうか。

 中国政府はウイグル族の暴動と称して、警察、軍を総動員して「鎮圧」にあっているというが、報道規制や事実認識の相違から、なかなかその真相が伝わってはこない。

 しかし、前にも述べたが、昨年春の中国チベット自治区周辺で起きた「チベット族の反乱」と同じく、歴史的にも長く、中国に併合統治されてきた「異民族の反乱」と言って過言ではないと思われるのである。

 チベット、ウイグルについで、この種の民族自決の火種がくすぶっているのが、モンゴル族ではないだろうか。

 日本人にはあまり知られてはいないのだが、ジンギスハーンの時代からユーラシア大陸を騎馬民族として縦横無尽に行き来していた「遊牧の民」である、蒙古族なのだが、近世になって、各地域の政治権力によって分断され、現在は主に先ほど記した「中国北部の南モンゴル」と、その北部に位置し長年ソビエト連邦の政治的、経済的支配下にあった「北モンゴル」、すなわちモンゴル共和国と、いまだロシア連邦のはずれに位置する「ブリヤート」モンゴル族に分断されているのである。

 ひとつの民族が全世界に自由に散らばっている例としては、中国人、韓国、朝鮮人、ユダヤ人など多種多様だが、自分たちの民族的自決が叶えられていない民族としては、モンゴル族も人口の多い民族である。

 ソビエトけ連邦の崩壊で、北モンゴル、すなわち「モンゴル共和国」は、独立を達成できたわけだが、いまだ「南モンゴル地域」である、中国・モンゴル自治区などは他民族支配の下で、民族自決権を剥奪されているのである。

 言うまでもないが、チベット族、ウイグル族をはじめ、中国の54を数える小数民族は、全て民族的自決を願っていると言っても過言ではないと思われる。

 中国の「漢族」による長年の政治的、経済的支配が、多くの差別や人権侵害とも言える問題を生じていて、言われなき「政治犯」として中国当局から「拘束」されている人が多くいるという。

 中国も故錦濤首席の指導の下、経済的開放だけでなく、民族的解放を果たさねば、国際的大国としてのリーダーシップは取れないのではないだろうか。
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「夢のレストラン」

2009年06月02日 | ガリバー旅行記
 今から一週間ほど前、日本にやって来て、すでに8年が経つ留学生の友人B君から電話があった。

 携帯電話へインターネットからの電話ということで、少し途切れ途切れの会話となったが、約30分ほど久しぶりにゆっくりと話した。

 彼曰く、今住んでいる町の繁華街のビルの一室を借りて、レストランを出したいとの「夢の計画」を告げられた。

 彼の出身地は中国・内モンゴル自治区で、確かに「羊肉を中心とするモンゴル料理」は旨いし、日本では珍しい面もあり結構ウケルことは間違いない。

 しかし、その地には既に大きな規模の「モンゴルレストラン」が開店しているし、後発の「夢のレストラン」には、十分な計画とオリジナリティあふれる計画が必要だと力説した。

 「お店をする」という夢を持つこと自体はなんら問題もないし、自分の国、民族特有の食文化を伝えつつ、日本とモンゴルの文化交流の橋渡し的な役割を果たせるなら、とってもいい考えでもある。

 でも、「飲食店の経営」、そのものはそうたやすいことではない。

 現在の日本経済、とりわけ一般庶民の経済的余裕や財布の中身は、そう余裕があるとは思えないし、店のテナントを借りて、従業員を雇って、日々のお客様に満足していただけるサービスと味と価格をキープしながら、経営的に継続していく展望は、はなはだ難しいと思う。

 彼は、家賃と人件費しか考えていないみたいだが、店舗として魅力のあるインテリアや内装のデザイン、改装費用など初期費用だけでも相当額の投資が必要だと検討事項をいくつも提案した。

 「夢のレストラン」の計画は、ただの思い付きではなかなかうまくいかないのは必至なのだが、彼は結構楽観的に考えているみたいなのである。

 ともかく、私にアドバイスを求め、「夢のレストラン」のオーナー的存在として関わってほしいとの要望でもあった。

 まだまだ若い青年が、異国の地で始めようとしている「夢のレストラン」の計画については、私に出来る範囲のアドバイスや協力は惜しまないが、出資や継続的なサポートについては、彼の住む地に私は住んでいないので物理的にも難しいと返答しておいた。

 彼が、その後どのような計画を記し、具体的な資金繰りやレストランの内容、メニュー、スタッフ、インテリア、宣伝、経営プランを持っているのか、詳しく問いただした上で、この計画への協力が出来るかどうか見定めたいと思っている。

 とにかく、B君と家族が全力を挙げてやろうとするのなら、私も日本の友人の一人としてサポートしたいと考えるのだが、まだ「夢のプラン」の範疇を出ない計画には、はっきりと「イエス、ノー」の返事が出来ないのである。

 さて、今週中に具体的な計画プランが提示されるのかどうか、私は「夢のレストラン」計画に、少しだけドキドキしながら待っているのである。
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バリダンス。

2009年03月31日 | ガリバー旅行記
 大音響のガムランにのって、きらびやかな衣装で舞い踊る「バリダンス」は、ウブドでは欠かせないイベントであり、観光客にとっては、とってもエキゾチックな民族芸能として魅了されるものである。

 私もバリ・ウブドに着いた翌日の夜に、バリ舞踊の中では「レゴンダンス」と言われる宮廷舞踊として発展した舞踏を観に行った。

 観客は日本人カップルやグループと西洋人たちのグループが中心で、そう多くの観客ではなかったために、ゆっくりと鑑賞できた。

 華麗で繊細な踊りなのだけれど、まず目を見張ったのが踊り子たちの顔の化粧と目の大きさ、そして決して瞼を閉じない訓練された演技力であった。

 ほんとうに目の玉が飛び出んばかりに大きいだけでなく、彼女たちは眼を左右に機用に動かせては、いろんな表情でそれぞれの感情表現をしている様子であった。

 彼女たちの訓練された踊りの世界は、目だけでなく両手の指先まで細かく表現していて、決して真似の出来ないくらいに両手の指を開いたり閉じたり、自由自在に奇妙に動かせるのであった。

 それに、足腰のひねりや首の動きなども加えての多様な表現は、それぞれのストーリーを物語るのに不可欠な動きであるらしく、その不思議な世界に魅了されずにはいられなかった。

 衣装はバリ独特のもので、これもスカワティ王の宮廷で始まった頃からの伝統美だそうだが、現代的にアレンジされたものもあるという。

 レゴン・クラトンと呼ばれる舞踏は現在は15種類もあるといわれていて、基本的なテーマは、「神と王の繁栄を祈り、称えること」なのだそうだ。

 バリダンスには、このレゴン・クラトンのほかに、「ケチャ」と呼ばれる宗教舞踏のサンヒャンから派生したものを、ドイツ人芸術家が、新しい芸能として確立したものだそうで、100人もの男たちが、複雑な構成の掛け声と共に、ダンサーとしての動きを演出し、ラーマーヤナの物語にマツチした熱気あふれる芸能イベントとしても親しまれているようだ。

 また「バロン・ダンス」と呼ばれるものもあり、魔女ランダと聖獣バロンの終わりのない戦いを描いたダンスで、バリの善と悪をつかさどる神様、つまり二元論の世界を表すものだそうだ。

 いずれにせよ、全ての舞踏の原点に、バリの島を包み込んでいるヒンドゥー教の精神的な風土があり、善悪の霊が戦ったりはするのだが、決して一方的には勝敗がつかず、殺されたり滅ぼされたりはしないところが、バリの人々の精神性にも及んでいる様子であった。

 つまり、どの踊りも伝統的な衣装、形、顔、音楽を背景に宮廷にささげられたものだろうが、戦士の力強さ、老人のひ弱さ、極楽鳥の求愛、恋愛に夢中の若者の様子など、インドネシアの混乱期にも静かな芸術表現として続けられてきた、とっても楽しく見入ってしまう迫力ある舞台であった。

 ダンサーの女性たちは、さぞ小さい頃からの鍛錬を経て、専門的な指導を受けたプロであり、ガムランを演奏する男たちも楽しそうであった。

 
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バリの旅(3)宿泊地。

2009年03月30日 | ガリバー旅行記
 ところで、今回のバリ一人旅は、旅行社の友人のちょっとした紹介で、バリ島中央部のウブドにある、「ビラ・ビンタン」という名の小さなコテージに4泊したのだ。

 この「ビラ・ビンタン・ウブド」は、10年ほど前から日本人の方々がスポンサーとになって建設された、田園の中に建つバリ風の茅葺屋根の清楚なコテージが民家風に5棟並んだ小さな宿泊施設でした。

 しかし、隣接し行き来が自由にできる環境に姉妹コテージとして、ビンタン・パリとビンタン・プソナがあり、併せて14室を使うこともできて、大勢で泊まる事も可能とのことでした。

 3月23日の夕刻にバリ・デンバサール空港に着いた私は、早速空港から電話をして、迎えの車と運転手さんを確認し、約一時間半でウブドの街中から少し離れたところに佇んでいる「ビラ・ビンタン」に到着した頃が、ちょうど日が沈む時間だったために、とっても美しい夕陽に迎えられたようでした。

 コテージのオーナー的な日本人ホストの光森さんとの出会いと紹介で4号室に旅の荷物を下ろしてくつろいだあと、一緒にコテージの横のレストランでバリでの初めての食事をとりました。

 すっかりと陽が落ちたコテージ周辺一帯を散策するのは翌朝にお預けして、ゆったりとした気分でツイン使用のダブルベッドに一人眠りました。

 早朝に目覚めた翌日の朝は、とっても気持ちよく、久しぶりに鶏の目覚めの鳴き声に続いて小鳥たちのさえずり、そしてしばらくして村人たちが仕事に向かうバイクの音と続く朝を体験しました。

 空港に到着した夕刻でも30度を越す暑さを感じたバリ島でしたが、自然豊かなウブドの田園地帯の夕刻から朝方にかけては、少し涼しいくらいに気温も下がり、起きぬけの頃には一枚の毛布では少し寒い感じがしました。

 翌朝にしっかりとコテージの部屋の前を見ると、すばらしい稲が実っている田んぼが続いていて、その向こうに背の高い椰子の木が林立していました。

 夜になると、この田んぼに多くの蛍が飛来し、真夜中の夜空には南十字星を中心とした満天の星が輝くすばらしい天体ショーとも言うべき見ごたえある大空が広がっていました。

 あのヒンドゥー教のお正月にあたる「ニュピの日」は、一切外に出てはいけない日で、灯をともしたり大きな音も立ててはいけない日なので、部屋の前のテラスにあるソファとカウチに寝そべっての読書三昧を楽しみました。

 田んぼの緑の稲に、椰子の木の緑がマッチして、青空がとても雄大に広がっているロケーションは、全く見飽きないどころか、少し散策したり角度を変えて観れば、庭に咲き乱れる色とりどりの南国の花も楽しめる素敵な空間でした。

 自然の素晴らしさは極上の上に、ビラ・ビンタンのスタッフのもてなしの心が、それ以上に素敵で、現地のマネージャーであるボンさんをはじめ、ドライバーのカデさん、ストーさん、スェッチさんにも大変お世話になりました。

 
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心に響くジェゴク!!!

2009年03月29日 | ガリバー旅行記
バリ島から昨日帰国して着替えるまもなく移動八百屋の積み込み準備をして急いで愛用のディアス軽四輪で金曜、土曜といつもの様に訪問するお客様たちの家を回った。

 いつも来られる時間に来られないので、「春休みかと思った」とか、「どうしはったんかな?」と心配された方もおられて、ともかく恐縮しつつ、実は金曜日に帰る予定で出たのだが、ヒンドゥーのお正月にあたる「ニュピ」にあたって、飛行機が飛ばず一日遅れたと説明した。

 しかし、実は私の確認ミスそのもので、はじめから金曜朝に関空にバリから直行で帰国する便は空港の閉鎖もあってなかったのであった。

 今、この文を入力している夕方、バックにはバリから持ち帰った「JEGOG」という、現地の竹で作った楽器を中心とする心に響く重低音の演奏CDが流れていて、一昨日の夕刻にウブドで聞いた気分の延長となっている。

 一グループ16人というバリ島のウブドの男たちのグループが2つあって、私たちが聴衆として聞かせていただいたグループには、顔見知りの宿泊先のドライバーも二人混じっていた。

 巨大な竹、日本だと孟宗竹と呼ばれる太い竹を木琴のように並べて演奏する打楽器を中心とするリズム音楽と踊り子たちの優美かつ土着の芸能の踊りが、週に何回か村はずれの演奏場で開かれているのだ。

 この「ジェゴグ」と呼ばれる「竹のガムラン」による演奏は、バリ島西部のヌグラ地方で演じられはじめたものだそうで、直径20センチ以上、高さ3メートル50センチもある竹を8本組み合わせた楽器によって奏でられるのである。

 その重低音は海鳴りのように音の洪水が体に迫ってくるような迫力があり、高音と中低音の音色がそれぞれに混ざり合って、不思議かつ力強い意思と物語を語りかけてくれて、空気を響かせ聴衆を踊りと共に異空間に連れて行ってくれます。

 バリ島には各種、多様な民族芸能が息づいていて、単に観光客に見せるためだけでなく、地元の人たちのコミュニティ独特のツールとして、村や集団の絆のひとつの表れでもあり、楽しみでもあるようです。

 非常に単純な竹が醸し出す素朴な音の連続なのに、強弱や音の重なり具合によって「誰かが語りかけている」様な響きになったり、喜び、怒り、静寂をいり混ぜての精神的な世界をも表現できる芸能となっているようです。

 心揺さぶられるジェゴグの音の余韻を胸に、私のバリ島一人旅の短い6日間は幕を閉じたのですが、未だに脳裏には自然豊かな緑の島バリと人々の笑顔、美味しい料理、そして音楽と踊りが焼きついているのです。

 民俗芸能の中心地、バリ・ウブドの王宮から北に2.5キロのブントゥユン村で行われていた「ジュゴグ」の演奏は、ヒンドゥ寺院の祭礼の奉納演奏としてはじめられたものだそうで、ちょうど「盆と正月が一緒に来た」ようなバリの人々の喜びと祈りが重複していた盛り上がりを感じました。
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ウブドの休日。

2009年03月28日 | ガリバー旅行記
 ひょんなことから、神々が宿る島と言われている、インドネシアのバリ島に4泊6日の旅をすることとなった。

 それは、昨年夏の私自身の久しぶりの一人旅、「ネパール・インドの旅」の往復航空券の手配をしてくれた西宮の小さな旅行会社のプレゼントが当たっての「幸運」からだった。

 昨秋に知らせを貰ったのだが、「バリ島往復航空券」が当たったそうなのだが、一人分のガルーダ航空の関空-デンバサールのチケットだけであり、昨年中は日程面と共に燃油サーチャージャーとやらもチケット代を凌ぐほどかかるというので、適用される三月末までを待って、出来るだけ安く行けたらと考えた。

 せっかくのチャンスなので家人を誘ってはみたが、今回は行かないとのことで、やむを得ず、昨年夏以来の海外一人旅となってしまった。

 「バリ島」といえば、南太平洋に浮かぶリゾート地のイメージしかなく、かつて私の友人夫妻が新婚旅行に行って、ふくろうの木彫りのお土産を貰ったことくらいを記憶している程度で、女性たちが好きな「癒しとビューティーの島」と言った情報しか持ち合わせていなかった。

 しかし、いざ行くとなると、旅行者の友人がガリバーさんなら、ウブドがお似合いかもしれないと、ビーチ中心のマリンスポーツやダイビング中心の旅ではなく、緑の棚田の美しい「ライステラス」を眺望できる自然豊かなところとのことで、心動かされて出かけたのであった。

 先週末の忙しいスケジュールを終えて、月曜日の早朝に空港へのリムジンバスに乗って関西空港へ。

 いつもの海外脱出時と同じように、なぜか「そじ坊」の「日本蕎麦」を食してから、予定より少し早めにインドネシア・ガルーダ航空のデンパサールへの直行便が飛び立った。

 四月以降はさらに原油の値下げの影響で、燃油サーチャージャー代が格安になるとのことで、三月中の海外旅行は少し抑え気味の様子で、機内の乗客は定員の3割程度だった。

 早朝に自宅を出たせいもあって、もひとつの機内食を食べた後は、ウトウトしたり、機内モニターで放映されていた、あの「ホームレス中学生」の映画を観たりしながら、約6時間半のフライトで、海辺の海岸線が美しい空港に着陸した。

 私がウブドで連泊する予定の「ビラ・ビンタン」のドライバーであるストーさんが出迎えてくれて、約一時間半で夕陽がちょうど沈みかかった美しいバリ風の木造葺き屋根の宿舎に漸く着いた。

 ここのスポンサーの一人で、オーナーとでも言うべきMさんが笑顔で迎えて下さって、バリ・ウブドでの生活が始まった。

 目前に広がる稲田は青々として既に米を八分ほど実らせていて、夜になると蛍が飛び交う光景が見られ、バックシャーンには、ほんと絵になる椰子の高い木が独特の影を醸し出す様にと林立していた。

 日本の喧騒と仕事の毎日をいったん中断し、思い切って出かけた「バリ・ウブドの旅」がいよいよ始まる。

 明日より数回、私自身が始めて訪れて、とても気に入った「バリの風景と風」を報告したいと思う。
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「大学教授」

2009年03月18日 | ガリバー旅行記
 私の小学生時代の友人から「源氏物語」カルチャー講座という一冊の本が贈られてきた。

 私にとって、「源氏物語」とは、ただ単に今から千年ほど前の平安時代に書かれた紫式部の作品であり、その内容とは<
好色男の光源氏を中心とする宮廷のスキャンダラスな話、現代でいうと芸能界の男女の相関バトルのようなものだとの認識であった。

 しかし、今回送られてきた本は友人の努力と研鑽の成果でもあるので、そんな私の一方的思い込みではなく、ちゃんと理解するチャンスだと手にとって読むことにした。

 「源氏物語」とは何なのか。また源氏物語に登場している人たちの人間観や人生観を紐解いた、著者の思いを少しでも理解できればと、彼が大学教授であることも大きなきっかけとして読む気が起こったのであった。

 幼稚園から高校までの教育現場で教えることは、ちゃんとした免許が必要なのだが、なぜか大学教授には免許は必要ではない。

 昨今の現状は各大学が少子化も手伝ってか、大学入学対象学生が減少している中で、少しでも多くの学生を確保すべく、タレント的人物やニュースや話題性を持つ人たちを客員とか臨時とかで「大学教授」にしていることもある。

 多くの大学の先生たちが何を研究されているのか、または何をご専門に教えておられるのか、わからないような御仁も少なくないが、私の小学一年、二年生時代のクラスメイトに何と4人もの大学教授がいたのだ。

 この「源氏物語」カルチャー講座の著者は、某私立女子大学の国文学のF教授で、専門が「源氏物語」と「枕草子」を中心とした平安時代文学で、全国各地のカルチャーセンターでも「源氏物語講座」を担当している。

 また東京の某私立大学の教授を務めるI氏は、NHK教育テレビのビジネス英語の講師で出演したことがきっかけで、私たちの小学校時代の旧友であることが判明し、昨年のミニ同窓会には東京から駆けつけてくれた。

 またT君は長年大手電気会社のデザイン部門に勤務した後、東京の私立大学で、それまでの経験を生かした「商業デザイン」を専門とする講座を持っているという。

 もう一人は公立大学で「化学」のある専門を教えているというのだが、本当のところの専門分野や研究については私自身が理解できていない。

 いずれにせよ、私たちが学んだ大阪阿倍野の小学校で、一、二年生という幼い時同じクラスにいた仲間の中から、4人もの「大学教授」が誕生している現実を思うと、誰でもとはいわないが、ちょっとしたはきっかけで「大学の先生」は誕生しているようである。

 「大学の先生」たちが、如何に社会に役立ち社会に貢献しているかは、我々凡人には分りにくい面もあるが、どうか立派な研究と共に、今後の日本、世界を担う優れた非凡な人間を生み出すためにも、「先生」してほしいと期待したい。

 
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行こうか行くまいか。

2009年02月23日 | ガリバー旅行記
 実は、昨年の夏に旅した時に利用した小さな旅行社のプレゼントで、インドネシア、バリ島往復航空券が当たっていたのだ。

 昨年の秋に知らせの電話が入ったのだが、原油の高騰の折で、燃油サーチャージャーとやらも航空券代と同じくらいかかるというので、ともかく行くにしても2009年になってからと思っていた。

 漸く原油価格は低落して燃油サーチャージャーとやらもだいぶ安くなったとはゆえ、まだ一人2万7千円強かかるというのだが、当選航空券の有効期限が3月末だとのことなので、どうしようかと迷っている。

 せっかくのラッキーな当選なのだが、当たったのはバリ島往復航空券一枚だけなので、家人と共に二人で行くとなると相当額の旅行代金が別に必要となるし、燃油サーチャージャー代も当然二人分の5万5千円ほど必要である。

 そこで旅程を家人のスケジュールと私の行けそうな日程で調整して、旅行社にプランニングしていだだいたのだが、そんなに費用がかかるのだったら、私は行かない。

 行くお金があるのなら、行きたいとこや買いたいモノがあるので、そのお金を頂戴とまで家人に言われてしまい、二人で行く「バリ島観光」旅行は断念せざるを得なくなってしまった。

 しかしである。なぜかせっかくの当選と言うチャンスを見す見す無駄にするのはもったいないという感じなので、何人かの友人に「一人分の航空券が当たった」ので、行かないかと誘ってみた。

 異口同音に、一人で行くのはどうもとの返事で、友達や家族を誘って行くとなると、また出費が嵩むし、そこまでして行きたいとは思わないとのことである。

 昨日も友人に、この話をしたら、「行きたい」とのことだったのだが、家族と相談し3月末までの日程ではやっぱり無理だとの返答がメールで返ってきた。

 そこで、も一度原点に立ち返って、自分ひとりで行くことも検討しようと現在思っているのだが、なかなか決断がつかないでいる。

 「バリ島」の魅力は何と言ってもアジア有数のリゾート地であり、青い海と緑の木々、バリダンス、伝統工芸などの文化の数々、また地域ごとに特色あるインドネシア料理、宮殿、寺院、遺跡などもたくさんあるし、段々畑やキンタマーニという名の壮大な山や湖もあって、大変旅心をそそるのである。

 昔、私の友人夫婦が新婚旅行にバリ島に行ったことを思い出したし、今回の旅のお奨めのウブドの宿も魅力的なので、インターネット上での情報と併せて、ただ今検討中なのである。

 調べれば調べるほど、バリ島の魅力、旅したいと思う気持ちが高まってきて、どうやら今月中には結論を出して、「行こうバリ島へ」ということになるのかもしれない。

 一番のネックは、やはり家人の思いであり、せっかくのチャンスを無駄にしたくない私の気持ちとの葛藤は当分続くことになりそうである。
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「草原の五蓄」と精神。

2009年02月22日 | ガリバー旅行記
 今日の夕刻、京都駅のあるレストランで、現在は名古屋で生活している中国、内モンゴルからの留学生B君と京都で生活しているモンゴル共和国からの留学生Tさんに久しぶりに会って、三人で会食し歓談した。

 同じモンゴル人ではあるが、B君は内モンゴル、Tさんは日本では以前は外モンゴルと称していた地域の出身なので、お互いが出会ったのは偶然2001年の春が初めてで、京都の同志社大学留学生別科という、外国人のための日本語習得コースであった。

 出会いとは本当に面白いもので、私とB君は1990年の夏に初めて、中国内蒙古自治区の克旗ダライの町で逢ったのが縁で、今に至る約20年近い友人となったのだが、Tさんとはたぶん2002年頃に同志社大学京田辺キャンパスで、彼と彼女が主宰して行った「二人のモンゴル展」が最初の出会いだったと記憶している。

 それ以来、彼も彼女も八年間に及んで日本の大学で、いろんな文化と伝統の違いを感じながらもお互い研究者としての生活をアルバイトもしながら頑張ってきた同志でもあるのだ。

 その日本に留学してきた時期がたまたま同じだったこともあって、モンゴル族としてのアイデンティティを見失うことなく、続いている友情が強くなっていることは間違いないので、今回久しぶりに京都で私も含めて再会の機会が突然やってきたわけであった。

 実は外モンゴルからやってきたTさんは今年度で日本を離れて母国であるモンゴル共和国に帰国することとなったそうで、一方のB君は今後も日本に滞在し、名古屋大学で面白い研究課題を見つけて研究生活を続けるということとなった。

 私が大変興味を覚えたのは、彼が研究テーマとして考えていることで、宗教と人間に役立つ家畜で経済的恩恵をもたらしてくれている「草原の五蓄」との関連性なのである。

 モンゴル草原にいる「五蓄」とは、牛、馬、羊、山羊、駱駝の五種の動物なのだが、騎馬民族としてジンギス・ハーンのユーラシア全域での活躍の時代と現代のモンゴル族の一番大切な動物は牛と羊に変化しているのだが、精神構造の変化でもある宗教的背景と生活の中心にある家畜に変化が顕著なことが面白いのである。

 騎馬民族としてのモンゴル族の時代は当然「馬」が一番大切な移動手段でもあり、遊牧の民としての筆頭の動物だったのだが、近代以降の定住化に伴って宗教的にはシャーマニズムから仏教的考え方に変化してきたというのである。

 つまり、簡単に言うとすれば、地、水、火、風、空などの五大を信じて移動していた時代の騎馬民族の精神は自然崇拝であり、住まいは移動式ゲル、テントだったのだが、牛、羊を中心とする経済が生活を支えだすと、固定式住居に住み、仏様をはじめとする偶像もしくは人間が創造したモノを拝む精神性へと変化しているとの、非常に興味ある考察、研究テーマなのである。

 
さて、彼が今後、名古屋大学の大学院で、このテーマをどう論文に仕上げて、博士号を取得するのかが大変面白いし期待したいと思うものである。
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